日  録 なつかしきかな、愛しきかな     

 2007年8月1日(水)

 早朝からの勤務に変わって一週間以上経つが、出かける直前に、けっして小さくはない段ボール箱を抱えてとなりのTさんが庭に現れた。「生徒さんにあげてくれる?」中を見ると、カブトムシが5匹入っている。角のある雄が3匹、他の2匹は、背中に艶とてないメスである。ひときわ大きなオス以外は、スイカの切れ端に、折り重なるようにしがみついている。あいつならば、とすぐに小学6年生の男の子の顔が浮かんだ。

 どこにいたのですか? と聞けば、無花果の木の根元に集まってくるのだという。その木は畑の中にぽつねんと立っている。そんなところに、と意外な気がした。

 着くと早々に「カブトムシ、やろうか」と言うと、その子は「いや、いい。お母さんが……」と口ごもるのである。一年前には、クワガタコレクションを自慢していた子だったのに、当てが外れる。しかし、勉強第一とけしかけている手前、ここは引き下がらざるを得ない。
  次は、同じクラスの女の子である。「弟に持っていってやれよ」 2年生の弟がいることを知っている。
「うち、いっぱいいるよ。おばあちゃんが飼っている」
「そうか。珍しくないのか」

 最後の標的は4年生の二人組、凸凹コンビである。こいつらが要らないと言えば、職場で飼おうと覚悟していた。凹は「お母さんがいいと言うかな」と首を傾げるが、興味津々の顔付きである。もうひとり凸は、「大きな虫かごにいっぱいいるんだよ。お母さんがとってくるし、お父さんが大好きなんだよ」
「じゃあ、仲間が増えて喜ぶだろう。持って行け」
 
 休み時間、先の6年生を案内役にしてダイエーに走り込んだ。虫かごをふたつ買って戻ると、ちょうど二人組が帰る支度をしている。2匹と3匹に分けて入れ、それぞれ真新しいカゴを持たせた。勉強に来て、このみやげかよぉ、とわれながら苦笑ものだった。
「お母さんに怒られないか?」凹を気遣えば「いいんだ、いいんだ」と大人びた口調で言い返す。
 大きくて、元気いっぱいの方を持って帰ることになった凸は、「これ、写真に撮って、お父さんに、送ってやらなくっちゃ」と携帯電話を構えるのであった。
 一仕事終えて、おなかが猛烈に空いていた。もちろん、自分のことである。

 8月6日(月)

 広島の「平和祈念式」の模様を、ことしは出勤途上の車の中で訊くことができた(ラジオ中継)。子供代表の「ことば」がよかった。「私たちは被爆した人たちを助けることはできませんでしたが、未来の人たちを救うことはできます」というくだりで、思わず涙が出ていた。
 数学者でもあるという秋葉市長の平和宣言は「平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきりと『ノー』というべきです」といつも通り、歯切れがよく、格調も高い。

 涙がこぼれていた頃、「ツバメ、どう?」というメールが小学生の生徒から飛び込んできた。土曜日に巣から落ちて路上でウロウロしていた雛を一緒に「保護」した子供だった。指を差し出せば大きな口を開けて銜えようとするから、餌さえ食べてくれれば育てることができると踏んで持ち帰ってきた。
 次の日曜日は、そのために走り回るつもりでいたが、朝になってみると、かなり弱っている。いそいで昆虫を探し回っている間に、掌の中で首がかくっと折れて、そのまま動かなくなってしまった。
「死なせるために、持って帰ったの!」と配偶者には叱られ、「もう、口をきかないからね」とまで言われた。非はすべてわれにあった。せめて一時間でも早く起きて、畑にいっぱいいる昆虫を集めていれば、死なすことはなかったのである。
「また見せてよ」と楽しみにしていた生徒へ、意を決して返信した。
「返事が遅いし、写メも来ないので、駄目だったのか、とうすうす感じてました。」
 ほどなくそんな返事がやってきた。
 未来は、まちがいなく子供たちのものである。

 8月13日(月)

 11日には、嫂の三回忌法要のために越谷へ。この日、同市の最高気温は37.2度だったという。二年前もこんな暑い日に病院に見舞って、その五日後に、嫂は死んでしまった。それはときに、いまだに信じられない事実であって、ひょっこりどこからか現れて、ちゃん付けで呼び掛けられるような気がする。行くたびに、それを待ち望んでもいる自分を発見する。

 昨日は、予告通り栄人が職場に来てくれた。駆けつける人数がみるみる増えて、総勢五人となった。最後に、下駄ばきでやってきたのが、直人である。しばらく逢う機会を逸していた男で、根が真面目なだけに仕事(SE)に押しつぶされているのではないかとやや老婆心ながら心配していたが、いつにもまして元気だったので、安心した。
 みなが引き上げたあとに、「直人参上」とメールで知らせておいたYが、来た。こちらも、過酷そうな仕事が、気に掛かっているのである。Yを先に行かせると、早々にお仕舞いにして、みながいる居酒屋に合流した。
 いずれも、なつかしきかな、愛しきかな、の若い友人たちで、今宵は、いい夜となった。
 未明、配偶者を迎えに行くために外に出ると、ペルセウス座の流星が三つ、夜空を走り抜けた。

 8月21日(火)

 畏友、若い友人、また教え子などから酷暑に対する悲鳴にも似た声が届くなか、標高2000メートルの志賀高原で4日間を過ごしてきた。いまや涼しさと温泉が楽しみな、恒例の“仕事”となっている。いち早く、ススキの穂や赤トンボを見てきたというわけである。
 三日目の深夜、ひとり硫黄泉につかっていると背中越しに大きな声が飛んできた。「いやぁー、どうも、こんばんわ」と聞こえたので、振り向きもせず、負けないくらいの大きさで返事をした。横に並んでみると、 見知らぬ人である。いくつか年長の人、とみた。このつっこみだと、お互いの身の上を、話さざるを得ないなぁ、と覚悟すると、案の定、
「どこから来られました?」
「埼玉です」
「ほぉう。十何人かの団体さん?」
「団体は団体ですが、生徒を30名ばかり連れてきたんです。勉強合宿です」
 人数は四捨五入した、つまりサバを読んだが、ほぼ事実通りの報告をした。
「わたしはね、大阪の池田、から来たんですよ。あの教育大附属の事件があったところ。この先の須坂が父親の出身地でして、須坂警察署に勤めているときに大阪府警に配置替えになって、以来わたしの生まれたのも大阪ですが、ここはいわば父祖の地なので、もう、何百回、いや何千回と通ってますね」
 ちとオーバーかな、と思ったが、言葉尻を捉えるのも詮ないので、やり過ごした。それに、最初の大声のあいさつ通り、人なつっこい人柄と見受けられた。聞いていて、イヤな感じはひとつもしない。
 配置替え? 戦前の話だろうな、と思った。ここでなぜか、須坂=憲兵という突飛な連想が湧いたのである。根拠を確かめることもできないので、これも遣り過ごした。
「ちょうど、書き物をしているときに、ぐらっときましてね。慌てて、飛び出しましたよ」
 時は飛んで、阪神淡路大震災になった。もっぱら聞き役にまわりながら、これは1995年だった、するともう12年も前のこと、同じ年の3月には地下鉄サリン事件もあったんだ、と思いも飛んだ。  
 長くつかりすぎて、頭がボーとしてきたので、お先に、と外に出た。また来年、この人と逢うことができるだろうか。そのとき、お互い、この日の束の間の交わりを覚えているだろうか。

 8月27日(月)

「死んでしまった」と凸が言えば、
「元気だよ。よく食べるわ」と凹は、どこか誇らしげである。
 こういうときは対応に困るのだが、
「暑いからな。カブトムシも熱中症かもしれん」
 いったん陽射しを避けておいたのに、墓参りから帰ると、カゴの中でみんなひっくり返っていた、十数日前の甥の家での出来事が脳裏にはあった。たった1時間ちょっとの間にカゴの中のカブトムシはダウンしてしまったのである。あわてて、霧を吹きかけてやっても、もう生き返らなかった。
「玄関においたり、家の中に入れてやったりしているよ」
「それは、いい」
 固い甲羅を背負ったカブトムシですら、こうである。裸虫と言われるヒトにおいては、なおさらと言うべきであろうか。8月の仕事もあとわずかになって、いささか夏バテの気味がある。
 とはいえ、暑さもそろそろ弛む、という。大雨でも、雷でも、何でも来い、と思う。夏も、もう終わりか。  
 
 


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