日 録 「本当の言葉」へ 

 2001年10月1日(月)

 昨夜からの雨。明け方近くまで、窓を開け放して、雨音に耳を傾けていた。この雨は、昼、夕方、夜にときおり激しくなって、終日続いた。新しい月のはじまりとしては、上々か、と思う。
 いつもより一時間ほど早く出て、紀伊國屋書店で田久保英夫氏の『生魄』を買う。先回この本屋に来た時も雨が降っていた。今度は、傘の先でエスカレーターを叩いたりはしなかった。注意を呼び掛けるアナウンスもなかった。不思議なものである。どこかで見られているのか、と勘ぐりたくなる(もちろん冗談であるが)。
 小林一茶の句に「秋風や むしりたがりし 赤い花」というのを見つけた。咄嗟に、いつもの通り道、土手に群生するヒガンバナを思い浮かべたが、これはむしりとりたい花とはお世辞にもいえない。すると、山道や、森の中で息を潜めるように咲く小さな花か。谷底のような村にいた小さな頃は、この時期になると山に入り、木の実や松茸を探し歩いたものだった。清水のわき出る岩の割れ目から、そういえば可憐な花が顔を覗かせていたような気がする。その頃はじっと見つめるという心境ではなかったのにちがいない。
 秩父の山を、一日かけて歩いてみたくなった。

 10月2日(火)

 きのうの朝、古今亭志ん朝が亡くなった、という。テレビでしか聞いたことはなかったが、これは凄いと、ぐいぐいと引き込まれていった記憶がある。1974年から75年にかけて、角川文庫から『古典落語全10巻 別巻1』が逐次刊行された。発売を待ちかねて、一字一句疎かにはせずに読んだ。これはこれで(活字なりに)想像力を刺激されて面白かったが、その古典落語が生身の人間によって演じられるときの圧倒感は、志ん朝に教えられたと思う。そこには芸の独創性が際立っていた。機会は何度かあったのに、一度も高座の姿を見ていないのが悔やまれる。

 10月3日(水)

 昼前、ドアを開けると、ちょうど階段を降りてきた上の階の住人と鉢合わせた。ノースリーブ姿だった。コールテンのズボンに長袖の自分の恰好を思わず見回した。案の定、風は爽やかだが、陽射しは強い。煙草を買うための外出、往復600メートルの歩行なのに、着ているもののせいで、うっすらと汗をかいた。空気への感度が、後退していた、と反省。
 感度といえば『生魄』の描写は凄い。風格のある日本語!
 政治の世界にも、オリジナリティと、せめてこの半分の風格とがあれば、自衛隊員を戦争に駆り出すような発想は露ほども出ないはずだ。我も含めて、日本、情けなし。考え始めると、鋼鉄が入ったように両肩が凝りはじめ、躯の動きもぎこちなくなる。

 10月4日(木)

 テロ事件と報復戦争についての、サイードやチョムスキーの発言を引用して大江健三郎が書いている(朝日夕刊)。「邪悪な知恵と破壊力の構造」に対する「英知と創造力」こそがいま必要なのだと解読した。おおむね共感を覚える。国会論議などを聞いていて、絶望感のみが募っていたからだ。小泉首相をはじめとする日本の政治屋は「ブッシュ」の言ったことをそのまま繰り返している。「ブッシュ」自体が、英知のかけらもないガキ大将みたいなものだから、その猿まねたるや、なにをかいわん、である。「改革」と言う代わりに「戦争」と言っているにすぎない。要するに中身がないのだ。言い換えれば、創造力も想像力も皆無と言わざるを得ない。もっとも怖いのは、そういう連中が「悲劇」を増殖させることである。湾岸戦争の時もそうだったが、いまこそ「言葉の力」が、求められている、と思う。
 テレビの前のテーブルの上に、10センチほどの竹の苗が5本、薄緑色の、犀利な葉を伸ばしている。水栽培で育つのだという。一種の「幸福の木」であって、これは誰、これは誰、……と配偶者は数え上げていった。

 10月5日(金)

 曇り空からときおり太陽が覗く。何かが欠けていると思わざるを得ない。思考の幅、思惟の深さ、さらには感覚の鮮度。いずれもが、生活の場からくみだすべきものであるのならば、生活がまちがっている。シュリンクの『逃げていく愛』を読んでいると、なぜこんなに「深い」のだろうと感嘆する。言葉の奥に世界が広がる。「君と世界との闘いでは世界に与せよ」というカフカのことばを思い出させる。仕切り直しだ。

 10月6日(土)

 キイロを庭に出し、水を取り替えたついでに、下草を点検する。赤タデ白タデがあちこちに群生している。 その合間に、リンドウを小振りにしたような、上が鮮やかなピンク色で下が白色の包状花を一茎見つける。毎年咲くじゃないの、というが、こちらにははじめて目にするような感動。名前を調べることもせず、いつまで咲いているのかなぁ、そちらの方を気にしていた。雑然とした、40平方メートル足らずの庭もほったらかしにしておけば、野山のような景色を現出する。それもまた、一つの風情かと思う。
 夢の中にいろんな人が現れる。ある人などは、宙を漂いながら、窓辺に近付いてきた。額に掌を水平に当てて「どなたでしたっけ」などと言う。ひどく酔っぱらっている証拠であった。

 10月8日(月)

 雨の一日。未明の「アフガン攻撃」で戦争が勃発した。渦中のビンラディンも、テレビカメラに向かって話していた。言明してはいないが、NYのテロ関与を認めるということだろう。彼の発する「ジハード」という言葉も、10年前の湾岸戦争の時には新鮮な驚きを覚えたが、いまは垢にまみれ、血塗られたものに思える。今日は何かの記念日? 憂鬱な日々は続く。

 10月9日(火)

 世界史の参考書を広げ、「イスラム帝国の展開」の章にサマルカンドの地名を見つけ、「その朝サマルカンドでは」という詩もある石原吉郎へと、思いは逸れていった。黄ばんだ詩集から、熱中した20歳代の記憶を反芻しながら、一編。

 きみは花のような霧が
 容赦なくかさなりおちて
 ついに一枚の重量となるところから
 あるき出すことができる
 きみは数しれぬ麦が
 いっせいにしごかれて
 やがてひとすじの声となるところから
 あるき出すことができる
 きみの右側を出て
 ひだりへ移るしずかな影よ
 生き死にに似た食卓を前に
 日をめぐり
 愛称をつたえ
 すこやかな諧謔を
 銀のようにうちならすとき
 あるきつつとおく
 きみは伝説である(「伝説」)

 何年か前、映画のナレーションに使われていた詩に聞き覚えがあった。調べると、はたして石原吉郎の「さびしいと いま」だった。詩集を取り出すのはそのとき以来である。思えば、論理的な詩風に惹かれていたのだった。(石原吉郎は1977年、暴走族とときおり遭遇する、あの上福岡の公団住宅の風呂場で死んでいるのを、一週間後に発見された)

 10月10日(水)

 朝から激しい雨、終日止まず。今日が「目の日」であると、小学2年生の女の子が教えてくれた。90度回転させれば、「1」が眉毛で「0」が目になるというのだ。そうだね、そうだね、と感心して聞く。耳は3月3日、鼻は8月7日、口は……、と続けて話す。歯ならば、6月4日の虫歯予防デー、だよ、と。
 脹ら脛の筋肉が攣ったばかりに、早くに目が覚め、二度目の眠りからも拒絶されて寝不足気味です、という学生に同情を覚えた。「腓(こむら)返り」とは、自身久しぶりに口を衝いて出た言葉である。不如意または転身の暗喩として、30年前に使っていたような気がする。アフガンから遠く離れて、そんなことを考えてしまう、目の日であった。

 10月11日(木)

 午後7時から8時までNHKニュースを見ていて、気分が滅入った。戦争、炭疽菌、国会、狂牛病、はては遺跡の捏造、である。唯一明るいのはノーベル化学賞を受賞した野依教授とそれを支える人たちの笑顔。「如何にして(研究のための)時間をつくるか、が大事」という発言も、身に沁みるようではないか。ニュースを選ぶ、この場合は創り出すに近いはずだが、そんなことができたらいいなぁと無力な一個人は思ってしまう。夕方寝転びながら観ていた「チャップリンの独裁者」も、途中で少し居眠りをしたものの、最後の「演説=メッセージ」はちゃんと聞いた。言葉は記憶として残っていないが、失意の恋人に呼び掛ける様には、感動した。こんな「ニュース」をもっと聞きたい、見たい。

 10月12日(金)

 頭の中にスピッツを飼っているような気分が長く続き、思いあまって机の上にあるビタミン剤に手を伸ばした。2錠放り込むとほどなくしてスピッツはいなくなり、平常な心に戻って仕事ができた。そのうち、直人が、例によっておどけた声で「肩の上に何か乗っていません?」と言う。「重くて、重くて」。まんざらの冗談にも思えず、「アリナミンだよ、そういうときは」と瓶を差し出すと素直に飲んでいた。多少重さは消えたようだったが、ふたりして同病に陥るとは、奇妙な因縁であると思った。二時間にわたって同じ部屋にいて、同じ空気を吸っていたのだった。元はと言えば、天候のせいだろうか。目にする人は、ほとんど半袖姿だった。

 10月13日(土)

 タイミングとしては最悪、だった。深夜のこと、道路際の民家の塀から白いネズミが飛び出してきて、車の下にもぐ込んだ。咄嗟に叫び声を挙げ、なんてことだ、と舌打ちした。同乗の配偶者は「衝撃を感じなかった」と言うがそれは相手が小さいからで、はじめてホ乳類を轢いた、とぼくは思った。送り届けて、迷った末に、また同じ道を通った。「現場」でスピードを緩め、仔細に観察したが、それらしきものは見あたらなかった。数時間後にも、迎えの行きと帰りの2回その道を通った。影も形もなかった。やっと、胸をなで下ろすことができた。すると、あの白いネズミは生死の分岐点を、絶妙のタイミングで擦り抜けたことになる。そんな意識はなかっただろうが。

 10月14日(日)

 通勤の途次、川越市郊外にて、白いガードレールに鶴が一羽立っているのを目撃した。近くの伊佐沼から飛来したのかも知れない。小さな鶴であった。白い磁器のように、身じろぎひとつせず、あらぬ方を眺めていた。親からはぐれた子鶴か、と推測した。
 立ち姿は道標べのようにも見えるのであったが、掃き溜めに鶴とはよくいったもので、ガードレールの向こうは生活排水が流れるどぶ川だった。しかも、車の喧噪にも心乱れる風はない。崇高な感じすら覚えた。Uターンして、もう一度見直すべきだったと、すぐに悔やんだ。この場合は、単に見るではなく、拝ませてもらうに等しいか。せめてスケッチをと、メモ用紙に描き留めたのだった。
 が、本編の方は、五月雨的に人がやって来て、せわしない一日となった。

 10月16日(火)

 先だって「昔は右から左へ横に書いていたのはなぜ?」と中3の生徒から聞かれた。うーん、と唸ったままもちろん答えられなかったが、『図書』で屋名池誠氏が「縦書き・横書きの日本語史」という標題で連載しているのを思い出した。8,9月号を読むと、さすが学者だと感心させられる。「素朴な疑問」から研究の幅を広げていくのは、文理共通なのだろう。この論述、全部理解できたわけではないが、日本語が縦横自在の稀有の文字であること、縦書き・右から左へ、さらには額縁などの「一行一字の縦書き」(額縁の文字が「縦書き」だとははじめて知った!)を見慣れた目には、横書き・右から左へは「当然の選択だった」と書かれている。ここから現在の横書き・左から右へ、は明らかに西欧の影響なのだろう。もし、右から左へを守っていれば、ここ7,80年の日本はちがったものになったのだろうか。

 10月17日(水)

 トンネルを抜けて、海が見えたと思ったら、またトンネル、何回乗っただろうか、山陽本線。岡山近辺で見たポプラ並木もなつかしい記憶だ。時にふっと湧いて出る、原風景みたいなものである。その山陽本線、いまやトンネルばかりの新幹線にとってかわられたのだろう。同じトンネルでも、かつてのそれはまだまだ牧歌的で、長く記憶にとどまる。
 昨夜は、ガソリンスタンドから出てくるパトカーを見た。GSにいるパトカーなどは、とんとお目にかかったことはない。たしかに、およそ不似合いである。パトロール中にガス欠になったか、と思いながら、完成すれば32階にもなるという建設中のマンションを見上げていた。周囲に畑も田圃もある町には、これも不似合いである。

 10月18日(木)

 台風の影響か、朝から雨が降っていた。気温もかなり低く、なんでも最高気温が13度くらいだったという。一気に冬へという感じである。昨夜来頭と肩が鈍い痛みを発信していたと思ったら、明け方には歯までもが「反乱」を起こして、目を醒まされた。塩水でうがいをし、バファリンを嚥んでふたたび布団の中にはいった。痛みを怺えながら、薬の効いてくるのを待っていた。息を潜めるとは、こんなときの形容だろうと、思った。十数分すると、わずかずつ消えていくのが分かったが、それを境にまた眠ってしまったようだった。
 夕焼けを見た。西北の空一面が、薄いピンクから、刻々と濃さを増して、ついには鮮やかなオレンジ色に変わった。いつまで見ていても、飽きない空であった。

 10月19日(金)

「LOVE&PEACE」と白い紙に赤字で書かれたステッカーを車の後部ガラスに貼った。さる平和団体が戦争反対の広告費用と引き換えに配布しているものだそうで、今日配偶者宛に二枚届いた。そのうちの一枚をもらったのである。ときおりバックミラー越しに確かめつつ走ると、マナーも俄然よくなったが、ささやかすぎるメッセージ、どこまで届くかが、実は問題だ。もう一枚は、玄関の扉に貼り付けられていた。
 昨夜依頼した電子ブック『IRUMA』が神山睦美氏から送られてきた。見るためには、パソコンに新しいソフトを導入するなどいくつかの関門がある。予想しないことだった。一度チャレンジしたが、開けずに終わった。きっと開けてみせると、負けん気が起こるから不思議である。
 佐伯一麦氏の『読むクラシック』読了。まわりの若い者らにも勧めたい、いや贈り物にしてもいい本だと思った。すくっと立った文章が、たしかに「人生の音」を奏でている。

 10月20日(土)

 部屋の中にいると、あるときは冷房、またあるときは暖房が欲しくなった。刻々と体感温度が変わっていった、ということだろう。まわりには、ゴホンゴホンと咳に苦しむ妙齢の女性もいれば、半袖半ズボン姿で平然としている猛者もいる。季節の変わり目には、こんな雑多さが生々しくて、格別の味わいさえ覚えた。が、深更、帰りの車の中では(さすがに暖房をつけたが)大きなくしゃみが続けざまに出て、風流も何も吹き飛んでいった。自身のこととなるとまた別なのだ。
 明日富良野あたりは、ついに氷点下まで冷え込むと予報は言う。旭川で降りて道央を南下するバスに乗ったが、やんどころない事情で途中下車し、雪の中を十数分歩き回った。呼んだタクシーが来るまで、コンビニの前で横殴りの雪を全身に浴びていた。寒くはなかった。情けなくて、口惜しくて、きっと虚無の中に佇んでいたにちがいない。その冬が、また巡ってくるのか。

 10月21日(日)

 9時過ぎから夜11時前まで14時間近くも仕事先にいた。時間に区切られた何種類かの仕事をこなした。足腰がよれよれになり、空腹もまさり、思考が麻痺していった。帰る間際には、滞在時間が夏至の日の昼の時間に等しいんだな、と嘆息して、朝自宅から持ってきた林檎を皮ごと囓った。やけに酸っぱく感じた。格別おいしいとは思わなかった。配偶者にそのことを告げると、林檎酒を作るためにとっておいたものだ、という。もちろん、持っていったことを咎めているわけではなかった。「紅玉なんて、滅多に手に入らないのよ」と教えてくれる。道理で、と思った。風邪を引いて寝込むと必ず林檎を食べさせてくれた。中学生の頃である。近所の幼なじみがそれをうらやましがって、自分の母親にねだったと聞いて、誇らしかったのを覚えている。当時は「高価」だったのかも知れない。そして、きっと紅玉だったはずだ。身体的にも、精神的にも、残念ながらこの林檎の時代は終わったということなのか。

 10月22日(月)

 朝からどんよりと雲が立ちこめていた。日中はずっと雨だった。時に激しく降った。夕方、「○○センター」(はじめはよく聞き取れなかった)と名乗る女性から電話があった。以前一緒に仕事をしていた、つまりかつての同僚であり、いまも付き合いのある男についての「照会」だった。ごくごく年少の男だが、彼はお気に入りのひとりでもあり、役に立つのなら正直に答えようと思った。二点聞きたいことがあるという。履歴書らしきものを読みながら、「何年から何年までお勤めでしたね、なぜやめられたのですか」これが一番目の質問だった。年号も勤務地もでたらめだった。その後の彼を知っているだけに「正直さ」がためらわれた。探りを入れながら訂正していくと、「あぁあぁ、そうでしたね」と向こうも調子を合わせてくる。二番目の質問は「勤務態度」に関することだった。これは、褒めておいた。事実そうだったのだから、正直に答えたまでであった。ここでぼくは、どちら様でしたっけ、と相手の所属を聞きただした。聞き取りにくい声で「人材センター」と名乗った。自宅に戻ったら、メールを書こう、などと考えていると「このことは、本人にはなにとぞご内密に」というのであった。一瞬しらけた。突然、しかも堂々と電話をしてきて、内密はないだろうと思った。そういえば、こちらの名前や肩書きを聞こうともしなかった。なぜ? 「人材センター」自体が、眉唾に思えてきた。
  ここには書いたが、本人に教えるかどうかは、ちょっと迷っているのである。

 10月23日(火)

 職場近くのGSにてタイヤとオイルの交換をしてもらう間向かい側にあるお寺を散策した。なかなかの名刹らしく、ケヤキ、イチョウ、ヒマラヤスギなどの、まわりが二尋も三尋もある大木が聳えていた。どれもみな市の保存樹木に指定されている。おりしも銀杏(ぎんなん)が落ちる頃にて、あたりには特有の匂いが漂っていた。老婦人が二人、急ぐ風もなく、時を愉しむかのように拾い集めていた。遠くから、天を突くほどの二本のイチョウの木を眺めると、実を付けているのは右側の一本だけだが、まだまだ枝にたくさんある。近所の人への恵みは続くわけである。
  境内を離れて、お堂の裏手に広がる広い墓地を歩き回った。どれも立派な墓石を据えている。立ち止まっては、戒名・俗名・行年を読んだ。気持ちがぐっと安まり、誰かがかつて「墓地は大好き」と言ったことなどを思い出した。それぞれの墓の下に眠っている人もまた同じ気持ちなのだろうと素直に納得された。門を出ると、お供えの花を携えた年配の夫婦に出逢った。父や母の命日でもあるのだろうか。塀の外では、銀杏を拾う人もひとり増えていた。なんとその人は、顔見知りの画家で、仕事の上で関わりのあった人でもある。至近距離でしばらく佇み、その躍動的な動きに見入っていた。目が合えば声をかけようと思ったのだが、先の二人よりははるかに若いその人は、一度も顔を上げず、地面の銀杏を無心に拾い続けていた。職人技の仕草に思えた。つまりぼくは、単なるストーカーに終わったということである。
 このお寺「宝どう寺」(どうは、巾に童と書く。バソコンで検索できなかった)というのだが、地蔵の傍らの説明文に「柳田國男も関心を示し、著作の中に記述がある」と書かれていた。すぐにメモをしなかったばかりに、記憶だけではその部分を確かめられず、宿題が残った感じである。「暇つぶし」の感受性は、所詮、こんなものか。

 10月24日(水)

 28日に投票がおこなわれる市長選は、現職71歳と新人49歳の一騎打ちである。新人の方は、市役所勤務が長い人で、十数年前から知る人ぞ知る存在だった。そのせいか、公報によれば推薦人には、島田雅彦氏、ねじめ正一氏など4人の有名人が名を連ねている。いくつか小説を読んだことがある娘などは「島田雅彦が出るのなら、入れるけど」と真顔で言う。それも一理ある。
  同窓に当たるらしい盛田隆二氏も別のPR紙に推薦の言葉を寄せていた。みんな市民ではないが、人物を押すということなのだろう。名を挙げた三氏は、個人的にも近しい感じがあって、嬉しいだけに、候補者には「虎の威を借る何とか」あるいは「他人の何とかで相撲」にはなって欲しくないし、それで逃げていく有権者をくい止めねばならないだろう。ひとりで屹立して、生の声を発する場を、早く見てみたい。もちろんぼくは新人に一票を投じるつもりだが。

 10月25日(木)

 昼過ぎに起きて、バソコンの前で持ち帰った「仕事」にとりかかる。夕方には終わって、精神的に随分楽になった。こういう“日記”というのは、もちろん嘘ではないが、まるっきり本当のことでもない。不思議な言葉のはたらきを、愉しみながら、向き合っている。山本かずこさんがHPを開設した。MPのなかの「日録」を独立させたいという発想から生まれたもののようだが、ここ数日精読しているかぎり、こちらよりはずっとメッセージ性があって、感心する。
 33歳になる姪が近々結婚するという知らせが母から届いた。早速電話をすると姉は、インド洋に浮かぶモルジブで二人だけの式を予定していたが、こういう情勢だからキャンセルしたのだ、と言う。この姪は、身内が言うのも何だが、性格が穏やかで、美人である。さぞやもてるだろう、すぐにも結婚するのでは、と下世話なことを思っていたものだった。いままでの話を総合すれば、10年越しの恋を実らせたということらしく、最近にない明るい話題、極私的なことながら、ここに書き留めておくこととはなった。

 10月26日(金)

 物干し台の下、枯れた地面の中から芽吹いた、リンドウに似た包状花。今月はじめに見つけて以来毎日のように観察しているが、蕾がまだまだたくさんあって、順に花開くとすれば、あと1ヵ月は楽しめそうである。名も知らぬ野草である。いちばん輝いているときをねらって写真に納めておこうと思った。
 朝日夕刊の文芸時評で津島佑子さんが「本当の言葉」ということを書いている。戦争という現実の前でこそ言葉を失ってはいけない、との意味に解した。人間のむごいサガに拮抗しうる、言葉の力。それは、夢想ではないと確信する。言葉を生み出すものは人間の心であり、人間の心を掴まえるものもまた言葉である。この平凡な言葉(「本当の言葉」)の中にはなんとも大切なことが含まれていた。彼女が信じるに足る文学者である所以だ。

 10月27日(土)

 うしろを走っていたワゴン車の中で、男女ふたりが何やらそわそわしている。バックミラー越しに見ていると、何か言いたそうであるのだ。そのうち、助手席の男性が、両手でビラらしきものを広げた。ピンときて、Vサインを送った。リアウインドウに貼ってあるステッカー「LOVE&PEACE」に目を留めたのである。「賛同」の意を示したのだろうと、ちょっと胸が熱くなった。ところが、数百メートル先で信号待ちのために停まると、ワゴン車が真横に付いた。身を乗り出すようにして、「実は、これの、呼び掛け人なんですよ」と言う。ウインドウを下げて、さっき広げていたビラを数枚受け取った。ビラには「愛と平和のために自分でできる範囲の行動を」と書いてあった。
 稀有なこともあるものだと思った。同じものを貼っている車は一度も見かけないが、何らかの反応を期待しないわけではなかったから、それにしてもこんなに早く、と驚いている。

 10月28日(日)

 朝から、冷たくて、細かい雨が降っていた。出勤途上、前方がやけに暗い。はじめは気付かなかったが、嵐のような雨足で煙っていたのだった。十数分間その下を走ることとなった。深夜、テレビやラジオのニュースで流れない市長選の結果を、インターネットで確かめる。328票差で新人候補は破れた。「若さ」は絶対に有利だと思ったのに、どうしたことか。

 10月29日(月)

 新宿歌舞伎町でまた雑居ビルの火事があったようだ。この夜は、松山から仕事のために上京してきた朝日新聞の安村俊文氏とその新宿で会った。末広亭の前の「薩摩おごじょ」にはいった。そこは映画『ホタル』のモデルになった「トメさん」の二女夫妻が経営している店で、こちらは未見だったが、この降旗作品に感動したという友人は「奇遇」に話を弾ませていた。鹿児島出身の、やはり学生時代の二人の友人をこんどは誘ってみようと、思った。そのあと三番街まで歩いて「ドンキホーテ」に飛び込む。カウンターに止まって酒を飲んでいると自分までもが旅人に思えてきた。三十数年来の友とは、得難いものである。
 最寄り駅までの電車はすでになく、タクシーの列に並ぶよりは、歩いて帰ろうと思いついた。約10キロと踏んでいたが、いつもは車で走る道だったせいか、何の苦も感じなかった。むしろ、ときおり通り過ぎる車の排気ガスの匂いが我慢ならない。それに、運転も粗暴すぎる。日頃は自身が「元凶」なのである。晴れた空はきれいだった。西空の満月に近い月に向かって歩き続けた。畑の中の一本道で立ち止まって、南中しているオリオン座を見上げた。時間の感覚は失せていた。足も、がくがくにはなってきた。自宅近くのコンビニに寄って時計を見る(腕時計を持っていなかった)と午前3時。やはり、2時間かかったのであった。気取って言えば、深夜の旅人であった。いやいや、半年分の運動をしただけかも知れない。

 10月30日(火)

 宮崎の友人から久々にメールをもらった。先回はウグイスの鳴き声をまねると必ず返答してくると書いていたが、今回は「渋い山柿、熟柿、カラスのエサ」であった。この三つをつなげると一つの話ができあがる。それは割愛するが、自然との交感がおおらかでいつもほっとさせられる。田舎にいた十代の前半を思い起こす。いまいちばん行ってみたい場所は、彼の住む山里である、と思えてきた。    
 


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