日  録 われらの味方      

 2008年1月7日(月)

 七日、といえば「七草粥」だが、子供の頃は「七日正月」といって何かしら他の行事があったように思う。委細は忘れたが、三が日が過ぎたあとに、もう一度「お正月」がやってくるというのではしゃいでいた記憶は残っている。一方で、これが過ぎればいよいよお正月気分ともおさらばとなるわけだった。
 年末から年始にかけて、例年になくハードなスケジュールをこなしてきて、今日が、束の間の休日、となった。待ってましたとばかりに、熊谷の手前、森林公園の先の、江南町「野原の文殊寺」へ、初詣でに出かけた。曹洞宗の古刹らしく、どの建物にも品が宿り、境内やその奥の林は、寂々とした雰囲気に満ちていた。自分のことでは、新たな智恵が授かるように、と祈ってきた。
 夜になって、年賀状を書いた。株式会社になった郵便局は年が明けてから(も)書こう…というキャンペーンをやっているらしいが、今年はそれに乗る仕儀とはなった。

 1月13日(日)

 寒い一日。起きては本を読み、ベッドに入りうつらうつら、をくりかえしていた。合間にメールを2通送ったが、ともに返事は来なかった。鶴見俊輔『アメノウズメ伝』からの孫引きながら、
「湯浴の快感とは、自分の肌にじわじわと湯が染みて、肌と湯、つまり内と外とのけじめがなくなってくる、それゆえにうっとりとしてくる皮膚感覚のことである。(中略)自分の内と外とが「馴染む」のをよしとする心理上の快感でもある。」(橋本峰雄「風呂の思想」)
 まだ日のあるうちに風呂に入ったあとに、この引用文に出合ったのである。法然院貫主だったこの学者はさらに続けて「(湯浴こそは)仏教の思想の感覚化のひとつの典型である」とも言っている。湯船にて、ため息をひとつ吐いて「ごくらくごくらく」と呟くのも、理に叶っているということだろうか。温泉が恋しくなった。

 1月19日(土)

 昨日、職場に着いて、いつものようにパソコンのスイッチを入れたが、うんともすんとも言わず、ハードディスクの赤い灯が点きっぱなしである。こんな時、頼れるのは Eight だけなので、早速メールにて「緊急事態」を告げた。すぐの電話で、いくつかの指示を出してくれ、何度か試みたがPCは沈黙したままだった。そのあと何回かのメールでも、「原因がつかめず、困りましたね」との返事。進退きわまった感じであった。

 今日夕刻になって、「仕事が早く片づいたので」と Eight は現れ、4、5時間格闘の末、原因は「マザーボード」か「CPU」か、というところまで突き止めた。「ほこり」や昨夕の「突然の停電」、またこのところの「異常な寒さ」のせいでもなく、これらはいずれも致命的なので、本格修理は後日となり、応急処置として古いパソコンを取り付けてくれた。来週以降、PCを使うたくさんの仕事が控えているので、とりあえず最悪の事態を免れることができた。

「エイトマンは、きっと来てくれる!」などと、うわさ仕合った甲斐があった。

 1月20日(日)

 畑の中のたき火の煙が、東から西に向かってほぼ水平に流れている。急に思い立って、詰まり気味だった下水溝のドロを浚っていたときは、陽はまだ暖かかったが、その数時間後に、勢いのある煙を眺めていると、「空にわかにかきくもりて、風、強し」ということばが湧いてくる。お膳立てとしては申し分がない。未明にはこの地にも雪が降るのでは、と予報は言う。それが待ち遠しい一日であるのだった。

 一番近くのコンビニから次の信号までの、ほぼ一直線の道路が、何メートルほどのものか、測ってみた。右側は冬枯れの雑木林、左側は、畑と畑の合間に民家が点在する。いつもの通り道である。
 まだ雪の気配とてない、それどころか暈がとれた「13日の月」がくっきりと見える、11時過ぎである。木曜日の夜、ほぼ同じ時刻に、ここでぷつりと意識が吹っ飛ぶ瞬間を経験したのである。道路のはてしなさに、うとうととして(おそらく)、夢心地となった。単なる居眠りともちがう至福を感じた。いま向かっている場所は、未知の土地で、そこに誰かなつかしい人たちが待っていてくれる。そんな気がした。
 測ってみれば約800メートル、走り抜けるのに1分とかからない。そのうちの10分の1ほどの時間に、永遠とも感じるほどの夢を見たのである。時間でもない、長さでもないとなれば、人生は儚い、なんて、誰が言えるのだろうか。

 1月25日(金)

 ほとほと機械類には見放されているのか、今度はもうひとつの教室でインターネット接続ができなくなっていた。頼れる男は Eight である。早速仕事帰りに立ち寄ってくれた。その前に、サポートセンターに問い合わせて、モデム、PC、電話の接続に不具合がある、というところまでは突き止めておいたが、それから先が実はとても厄介なものになった。知識というよりも“想像力とのたたかい”であった。

 ファックス専用のアナログ回線からADSLを引いているのだが、この配線がぐちゃぐちゃである。途中、カバン大、お弁当箱大のふたつの機器を経由する。これらがなんのためにあるのかわからないうえに、電話線をむき出しにして、中の線と線をつないで奥へと消えている。こちらは見ているだけで頭がクラクラしてきたが、さすがはEight である。あれこれ差しこみ口を変えたり、ノートパソコンで試したりしながら、こんなことを言った。
「ファックスの線がここでUターンしています。その証拠に、ここを切り離すと、ファックスが使えなくなります。この意味のないかに見えた接続が、大いに意味があるわけです」

 ファックスとここは長方形の部屋の対角線ほどの距離である。なぜこんなに複雑なの? と思う前に、この電話線にぼくは哲学を感じ、Eight への尊敬の念がいっそう増したのだった。
「ケーブルが、切れているか、モデムがいかれているか、どっちかです。ひとつひとつ試していきましょう。確証がない分、リスクは伴いますが」
 いまだ、インターネットは不通のままである。 



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