日  録 ママの手は、あたたかい!     

 2008年2月2日(土)

 昨日は、午前五時前に家を出て、吉祥寺に。近くの中学を受験する生徒を、正門前で是非とも激励したかったからである。予想以上に早く、一時間半後には駅前に着いた。息子に届けるための野菜やお米を積んでいたので、そのマンションのすぐ近くに車を停めたが、9時前に出勤のために出かけるという息子の「寝込みを襲う」のは憚られ、夜明けの町をぶらぶらと歩き回った。
 人の波が刻一刻と増えていくのは、飽きない眺めである。24時間営業のファストフード店にも行列ができていた。2、30分そこで時間をつぶした。母親に連れられた受験生が、ノートや参考書を広げて、最終チェック(おそらく)をしている姿が目に留まる。見渡せば、あちこちの席に何組もいる。小さな受験生、けなげなり。

 2月3日(日)
 
 雪の朝となった。一面真っ白で、重い雪が降り続いていた。

『病院などにはもう何年も行ったことがないが、中年の女医さんの診察を受けている。最後に女医さんが寝転がった私の口に口を付けて、前歯を咬んだ。正面からそんな芸当ができるのかどうか怪しいものだが、確かに咬んだ。そして言った。
「歯が湿っています」
 私は、少し前の出来事を思い出して「小鳥、インコですが、顔にへばりついてしきりに前歯を咬んだのですが、関係ありますか」と聞いた。「もちろん関係あります。ビタミンBが不足しているのです」
 枕元の電話が鳴っているのに気付いて、そこで夢は途切れた。電話は二階にいる娘からで駅まで送れという。車の中でその夢の話をすると「きもいー」と言われた。「いやー、真面目で、深刻な話だよ。それに実際に見たわけだから、きもくなんかあるものか」
 と抗弁しつつ、なんの啓示か、と分析癖が疼いた。』

 暗くなる前に、白い庭に向けて豆を撒いた。少し控えめの声で「福は内、福は内」と連呼した。夫婦スズメが物置の屋根から珍しそうに眺めていた。豆を食べてみると、意外と柔らかい。これならば彼らもつついて食べられるだろうと、さらに何回にもわたって、撒いた。逃げもせずに、スズメたちは、小首を傾げて見守ってくれた。

 2月10日(日)

 朝のうちに、職場から持ち帰った仕事を済ませて、外を見れば、昨日とは打って変わったような晴天である。まわりの畑や道路の端に残っていた雪も、みるみるうちに融けていった。
「電車にしたら」という娘からの忠告に背いて、昨夜、ぼたん雪が降りしきるなか、滑り止めのない車をおそるおそる動かせて帰宅したことが、遠い昔の夢の記憶のごとく思える。いつもの半分以下の速度で、できるだけブレーキを踏まないようにして、シャーベットの道路の轍を選んで進んできた。もし何かあるとすれば、対向車がぶつかってくることかな、と自分の運転(慎重さ)には自信があった。さすがに他の車も同じように慎重で、危ない目には一度も合わなかった。

 夕刊にて、川村二郎さんが亡くなったことを知った。『語り物の宇宙』は、何度も読み返してきた本であり、ここでも引用させてもらったことがある。『一宮巡歴 日本廻国記』も、印象深い。20年前に一度お逢いしたとき、甲賀の生まれです、と話すと、「こうが、ですか、それとも、こうか、ですか」と聞かれた。「おそらく濁らないと思います。かふか、という古称がいまも残っているくらいですから」などと出任せに答えて冷や汗をかいた思い出がある。
 そのとき椿大神社への行き方を聞かれ、こちらはわからずに面目を失した。当時、まさに全国の一宮を巡歴なさっていたのである。日本の古層への切り込みは鋭く、共感することが多かっただけに、残念である。

 2月11日(月)

 きのうに続いて、陽気な晴天、となった。昼過ぎに文庫本を読みながら寝そべっているといつの間にか眠りにおちていた。ゆうべ見た少しヘンな夢を必死に思い出そうとしたが叶わず、また新しい夢を見た。これは取り立てて記すほどのことはない。凡庸なものであった。
 
 2キロほど先にある「東京国際大総合グラウンド」を見に出かけたのは、同大野球部の監督に元広島カープの古葉監督が就任したという記事を読んだからだった。目下造成中と思われるが、総合というだけあって、照明設備も整った、りっぱな野球場あり、陸上トラックあり、でとても広大だった。古葉監督の指導を受けるために今春、「津田投手」の子供が九州の大学から編入して来るという。「津田投手」というのはカープの名ストッパーだったが、脳腫瘍のために若くして亡くなっている。当時1,2歳の子供がもう20歳、しかも野球をやっているというのが、ミーハー心に火をつけたのである。練習風景を見物できる楽しみが増えた。

 2月12日(火)

 中学受験を終えた母娘がやってきた。全勝を目論んだのに、結果は1勝のあと4連敗、これはお互い大きな誤算であった。娘は、悪い結果が出るたびに、胸の中に飛び込んでおいおいと泣いた。「できたのにー」と悔しさを滲ませて言うこともあった。
  なぜだ? なにが悪いのか? とこちらも自問の日々を過ごした。生徒の前でそんな素振りは見せられなかったが、こたびほど、この仕事が因業なものに思えることはなかった。
  こちらの指導不足を指弾されて然るべきところを、母娘は、終始にこやかな表情で対してくれた。二年近く一心同体で勉強してきて、受験の始まりからも約一ヵ月が経って、長い戦いが終わったところである。ともども、新しい進学先での抱負を、明るく語ってくれるのだった。
 別れ際に、手をさしのべて、娘と握手した。已むに已まれず、母親にも握手を求めた。26年間の中ではじめてのことだった。長く握り締めながら、 「ママの手は、あたたかい!」

 2月15日(金)

 夜遅くになって、一ヵ月以上前に頼んでおいたことを覚えていてくれたTが、『新刊展望』のバックナンバーを職場に届けてくれた。同時にチョコやクッキーの入った袋を差し出して「ことしは、手作りしてみました」と言う。食べてみると、甘みがセーブされて、どれも口にとろりとなじむ。
「作るのは、てまひま掛かって大変だったな」と労れば、
「教科書通り、です。母に叱られながら、作りました。」
 ことし唯一のバレンタインチョコが、こんな風だと、また格別。残りは、家に持ち帰って、自慢の種にした。

 2月24日(日)

 ちょうど運転中に土ぼこりにまみれた、朱黄色の空に遭遇した。その何分か前、配偶者からのメールに「すごい風」とひと言あった。あぁそちらは大変なのか、と気遣う間もなく、十数キロ離れた地にも暴風が襲ってきた。枯れ枝が幹から離れ、ゴミ箱や看板が道の端に吹き寄せられていく。天地の異変は興奮を誘うとはいえ、風の音のみ喧しい世界は無気味すぎる。重い物がぶつかってきたらひとたまりもないなぁ、とひと吹き毎に揺れる車に少し怯えながら、早く職場に、と気持ちだけは急いでいた。

 あとになってこの時ならぬ嵐が「春一番」だったと知った。瞬間風速30メートルの南風なんて……それが昨日のことで、今日もまた、ほぼ終日強い風が吹きわたった。ほとんど外出はせず、本日発売の格安航空券をインターネットで無事予約し終え、窓を開けもせず外を眺めていた。前の畑から、黄色い土が板のように盛り上がって、水平に流れていく。あぁ、関東ローム層。

 2月29日(金)

 うるう日の今日は、年度切り替えのために、休日となった。
 朝から暖かい陽射しに恵まれ、昼前には生後一ヵ月の赤ちゃんを抱いた近所の人に会った。はじめての外出なの、と言っていた。顔も、手も小さく、まだ赤みを帯びている。
 奥さんにはまだお会いしていないの、とも言うので、家に入って風邪のために寝込んでいる配偶者に話すと、「覗き込んだんじゃないでしょうね。風邪が移るよ」とたしなめられる。当方も、鼻水が少し出る程度の症状を呈している。そういえば顔を覗き込んだかも知れない、手を握ることは、すんでのところで自制した、などといまさっきの記憶を反芻していた。寝込んでいても、当方の行動や心理が手に取るようにわかるのか。寝込んでいるからこそ、余計に冴えるのか。
      
 


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