日  録  春まだ遠し?     

 2008年3月2日(日)

 事務的な仕事が、次から次へと出てきて、いささか閉口気味である。後手後手で、追いかけれるような感じが年々強くなってくるのにも、また、うんざりである。これは、自身への嫌悪に近い。
 
 昨日今日と、風邪でダウンした配偶者に代わって食器洗いをやった。3年ぶりくらいのことである。洗った食器を片づけながら、その棚に「はっ」とした。20代の後半から30代にかけて「愛用」した白いライティングデスクの本棚の部分である。机になる部分が折り畳めるタイプで、いまもあるのかどうか知らないが、当時は流行っていたのではないか。事実、二畳ばかりの狭い部屋には、お誂え向きだった。引っ越して、新しい机を買ったとき、居間に置かれ、やがて台所へと転用されていった。机の部分は、いつしか蝶番が壊れ、切り離されてしまった。本棚がいまや食器棚に変わっている。四半世紀の変遷とはいえ、なんと象徴的なことだろうか、と感じ入った。

 こんな埒もないことを考えている間も地球の自転は已まず、ゴビ砂漠などから舞い上がった砂ぼこり、いわゆる黄砂が夕方にも降ってくると予想されていたが、それもなく、静かな夜となってしまった。

 3月9日(日)

「菱」の字に草冠が付くか付かぬかで迷ったのが事の始まりだった。書けない。思い出せない。せめて手が覚えてはいまいかとあれこれ試してみたが、どれもみな“落書き模様”となるのみだった。ミッドナイトプレスの岡田さんに教えてもらった「my ruin」ということばがこのところ気に掛かっていた。『荒地』の詩の中で使われていることばだというから、こんな時に持ち出せば卑近の誹りを受けそうだが、実感となって迫ってきたのである。
 そのあと昼寝をして、暗くなる前に起き出すと、まっすぐに歩けない。頭がおもりの逆振り子のようになって、規則的に揺れるのである。〈私の崩壊〉はついに躯にまで及んだか。夢ならよかったが、そうではなかった。

 3月16日(日)

 道路ひとつ隔てた畑には、朝早くから近所の人たちの姿があった。土の耕しや、種の植え付けに精を出している。誘われるようにわれらも、開店間際のホームセンターまで、土、肥料などの買い出しに出かけた。午後からは、懸案だった土嚢袋の新調を行った。
 借りている畑が道路に一番近いところにあるため、側溝をはみ出した雨水が畑に浸入するのを防ぐために、道路に沿って土嚢袋を並べている。いわば、大雨、洪水の被害から農作物を守るためのものである。毎年何回か、効力を発揮してきたが、そのいくつかは袋が破れ、中の土がはみ出しているのであった。
  半分近くの20袋を、その破れた袋のまま新しい袋に入れていった。破れ目からヨモギの新芽が出ていると、匂いを嗅いで納得するが、すぐに「ヨモギ餅」にはならないんだなぁ、と田舎の母がやっていたいくつかの作業を思い出した。土嚢の下にはダンゴムシがひしめきあっていて、ひっくり返すと途端に丸くなるのが、いまさらのように面白かった。すべて終え、土嚢の列を眺めわたしていると、「キャベツが収穫できたから、今夜は野菜炒めにする」と配偶者が叫ぶ。畑は、菜の花を取るためにチンゲンサイ(青梗菜と書くらしい)の何本かだけを残して、あとはきれいさっぱりととり払われていた。また次の収穫に向けて、「自然」と共に歩む日々を送るのか、と感慨を新たにする。いや、これは、願望の類である。

 3月21日(金)

 自転車のことをいまは「a bike」と言って、発音にもスペリングにも苦労した覚えがある、あの「bicycle」は滅多に使われないらしい。ひょんなことから中学生に英語を教える羽目になって、はじめにぶつかったのがこの問題だった。日本では、バイクはまだオートバイのことで、自転車は、そのまま日本語が使われるか、まれにサイクル、と呼ばれているのではないだろうか。口語が変わりゆくのは、どの言語でも同じだろうが、とってかわられた事情はおおいに知りたいところである。

 フランス語が専門の同僚とそんな話をした日、いつも駅前の狭い道路に置いて電車に乗る娘の自転車がなくなった。
 これらの不法な放置自転車は、二週間に一度くらいのペースで、行政当局によって回収され、近くの旧公民館の広場に集められる。この3年間で10回以上引き取りに行っている。どちらも懲りずに「いたちごっこ」を繰り返しているわけだった。

  しかし今回は、そこにはなく、放置した場所の傍を流れる、コンクリート護岸のどぶ川に投げ捨てられていた。狭い通路に何台も並んでいれば通行の邪魔になって、腹立ち紛れに蹴飛ばす程度のことはするかも知れないが、誰が、どんな心理状態でこんな荒行を、などとあれこれ考えつついったん家に戻った。特定の一台なのか、それとも、偶然の一台なのかも気にかかるところであった。放置したこちらも悪いのだから、後者なら、仕方あるまい、と思うのだった。

「そのままにしておくことはできないでしょ」と言う配偶者を連れて、二人がかりで引き上げた。すっかりどぶ臭くなったそれは、ハンドルの部分がほぼ垂直にねじ曲がっていて、もはや使い物にならない。

 そのあと新しい自転車を買いに走り、後部座席に積み込んだまま、駅から少し離れたところにある駐輪場と契約した。
 因縁が日をまたいで、貴重な半日を、「自転車」とともに過ごしたことになるが、もう、懲り懲り、という感じだった。

 3月23日(日)

 畑にジャガイモを植えるというので、畝作りを買って出た。出だしから、ああでもない、こうでもないとふたりで揉めて、50メートルほど離れたところで農作業をしているTさんのもとへ、教えを乞いに行こうとすると、こっちに来てくれた。鍬の持ち方から両足の位置、土の掘り出し方まで、実地に手ほどきを受けて、うーんと納得する。すなわち、植えるところに一本の線を張り、それに沿って幅10センチほどの溝を作る。 今度は反対方向に同じ作業を行う。すると幅20センチの平らな溝ができるのである。両脇は、こんもりとした土の山で、これは、芽が幼い頃は霜除けとなり、イモが育つ頃には取り崩して茎の根元にかぶせていく。この作業は、去年体験済みであった。
 連作を嫌うというので、去年植えていた場所のぎりぎりまで、合計6畝ができた。ひとつの畝に、約10個の種イモをおき、土をかぶせて、土を均して、終了となった。いろんな品種があるようで、それぞれの場所に配偶者は名前の札を立てていた。インカ原産の紫イモも、何個か植えた。
 ずっと(といっても2時間ほどだが)暖かい陽射しが降り注いで、汗をかいた。最後は、上を脱いで、下着一枚の姿になった。他の人たちを見回すと、Tさんをはじめみんなは、きちんとした野良着姿である。よほどこっちは下品だな、と呆れつつも、もう上着を着る気になんかなれなかった。

 3月25日(火)

 9時過ぎに起きて外を見れば、畑の表面から白い湯気が立って、北東から南西へ、畑を縦断するように、ゆっくりと流れている。やっぱり霜が降りたんだ、と訳知り顔に言えば、知っていますよ、ずっと前からそうだった、と配偶者は答える。
  ゆうべ、わが畑にも霜除けのシートをかぶせるかどうか、と話していたのである。深夜の作業も、乙なモノだと、一瞬思ったが、 結局しなかった。芽が出てからの霜が大敵、とはさっき聞いてきた知識で、まだ土の中だから大丈夫だろうとの素人判断は正しかったことになる。
 昨日は、春休み前の休日だったが、昼間は、ベッドに横たわって、うつらうつらしていた。浅い眠りのせいか、現実に近い夢をいくつも見た。深夜の作業をするだけの体力や気力は十分残っていたのである。
 湯気は、昼前まで流れ続けた。

 3月26日(水)

 雨が降っているのにも気付かず、夕方から深夜近くまで眠り続けた。気温も、ずいぶんと低い。開花しはじめた桜花がまたしぼんでしまう、とあらぬ心配までしたくなる。
 通り魔事件が各地で起こっている。潜在的な若者の鬱屈が、まるで関係のない他人に向かうのは、普遍的な価値観が歪んでいると思わざるをえない。家族間の軋轢、たとえば「親に叱られること」が、「ニュース価値」を持たないということ、いわば私憤と公憤のちがいともいうべきものを、この社会は指し示せなくなっているのではないだろうか。
 自分の内側で起こるこまごまとした日常の問題が、他の人たちにも通用するという錯覚。そんな普遍ロマンチシズムの罠に満ちた社会は、やはり歪(いびつ)なのだろう。

 3月30日(日)

 せわしなくも、まごまごと、日々を送っている間に、気が付けばことしは桜がはや満開になっている。数日をおいて柳瀬川にかかる橋を渡ったときに、あまりの華やぎに驚かされた。この場合も、三日見ぬまのさくらかな、であろうか。
 畝にひび割れが見えているから土をかぶせた方がいいとTさんが教えてくれた。ジャガイモが芽を出し始めたが、まだ早い、寒さにやられると困るから、という理由である。畑に飛んでいくと、かたくなった土の表面に、一定の間隔をおいて×印のような割れ目ができている。思わず、気付かなかった、と叫ぶと、「私らにわかるはずがないでしょ。ましてや、あなたには」と配偶者にさとされた。その通りである。土の中でも、着々と生き物は育ち、人の目の前に小さな徴をみせてくれる。気付くか、気付かないかが、つまりは感性の差、であるのか。われの中で、春まだ遠し。
 


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