日  録 痛いくらい…?      

 2008年4月4日(金)

 桜吹雪が舞うなかで、思った。春休み特別授業の8日間は、いつの年にもまして、長く感じられた。なぜなんだろうと、一瞬考え込んだが、それ以上深まることはなく、時の長短は感覚的なものではあるまい、と言い聞かせて日常に戻る。
 夕方、ついこの前まで小学生だった生徒が真新しいセーラー服姿で駆け込んできた。この日が入学式だったという。しばらくして、母親も現れた。もう、そういう季節、つまり新しいめぐりになるんだ、と思う。長いと感じながら、一方で、早い時の流れもある。 

 4月5日(土)

 職場のシャッターを開けると同時に、入学式を数日後に控えたふたりの卒業生がやってきた。クラス仲間と早朝ボーリングを楽しんできたという。ボケとつっこみ、上品に言えば静と動といった、対照的な新女子高生である。実際漫才のようなよもやま話に、ときどき口を挟みながら、いくつかの仕事を片づけていった。
 仕事の邪魔にはならないふたりだったが、よほどヒマなのか、3時間近く経っても帰らない。ちょうど差し入れの弁当(カツ丼)がひとつあったので、3人で分けて食べるか、と提案すると、「食べたい」と口を揃える。遠慮ではなく「他の理由」から断るに決まっていると思ったから、これは意外な答えというべきであった。
 常備してある箸をそれぞれに渡して、ひとつのお椀に代わる代わる箸を突き出して、カツもご飯も平らげたのであった。その間の話題は食べ物のことであった。「好き嫌いある?」とつっこみが言えば、ボケは「いっぱいある」と申し訳なさそうに答える。「トマトが食べられない」
「わたしは、トマト大好きだよ」
 ここでも、口を差し挟む。
「そりゃ、えらいな。トマトは、いいよな。畑で、作ってるんだよ」
 こんなのは、経験としては稀有の類になるのだろう。それにしても、彼女らとの距離が、またひとつ近くなったような気がするのである。

 4月6日(日)   

 表面に幾筋かの割れ目ができて、いよいよジャガイモの芽が地上に顔を出しはじめた。(このまま出させて)大丈夫でしょうか、と聞けばTさんは「いいでしょう。まだまだ寒い日もありますが、自然のことですからね」という返事であった。なかなか味のあることばに感心した。3月中は、土をかぶせて霜に備えたが、ここからは自ずからの成長にまかせよう、ということである。
 場所を移動した紫陽花、毎年のことながら枝をばさばさと切り落とした裸同然の合歓の木、新芽が出るかどうか気にかかるところだが、あたふたしても詮ないことであるのだろう。

 4月12日(土)

 フリオ・コルタサル『愛しのグレンダ』の読書効果か、腰痛に唸っている夢を見た。起きても、まだかすかな痛みが残っていた。顔を見るなり「里芋を植えるので。ひとつ畝を作って欲しい」と配偶者から頼まれる。昨日、土を耕してくれたTさんが「ご主人上手だから、作ってもらいなさい」と言っていたという。早速畑におりて「畝を切り」にかかった。豚もおだてりゃ木に登る、ではなけれど、なかなか上手くでき、かつ、楽しかった。腰の痛みもいつの間にか已んでいた。やはり、夢だったのか。よかった。

 4月20日(日)

 昨夜から痛み出した右上腕部が今日になっても已まず、このところ最悪の日曜日となった。つまりほとんどをベッドを友に過ごしたのである。腕を動かすたびに鋭い痛みが走る。どうせ関節に膿胞ができて神経を刺激するのだろうと憎らしく思いながらも、やり過ごすしかないわけである。昼過ぎに一回外に出て、満開のチューリップや、咲き始めた山吹などを見て憂さを晴らした。それとてほんの数分間で、また家に籠もり、やがてベッドへとなった。幸い箸は持ち上げることができる。
 東京を引き払って来月には福岡に帰る畏友といつ会うかも決めなければならない。できれば、他の友も呼びたいところだが、など考えているのに、行動に移せない。
 夜中になって(ついさっき)、配偶者を送るために外に出ると、満月に近い月明かり。経験的に、明日になれば、痛みはなくなるはずで、すべてはそのあとだ。

 4月22日(火)

 引き続き上腕部の痛みに耐えながら過ごした。チョークを握る指に力が入らないうえに、黒板の上半分が使えないというお粗末さであった。昨夕は、職場で、少し頭痛もしたので「ノーシン」を飲んだ。すると四、五時間は、腕の痛みもなくなっていた。ところが、クスリが切れだしたと思しき頃には、こちらの方はまたぶり返してきて、今日に至った。そんな話を同僚にすると、クスリに頼っては駄目ですよ、これは荒療治が一番ではないですか、と“忠告”してくれた。ノーシンなどを飲んだせいで痛みが長引くのかなぁと自分でも推測していたから、その言に妙に納得してしまった。詰まるところ「耐えなさい」というのであった。
 夜、車に乗り込むと、フロントガラスの右端に蜘蛛が一匹張り付いていた。はじめの橋を渡っても、まだいる。月明かりを受けて、ダッシュボードにかすかに動く蜘蛛の影が映し出される。そのうち、ずっとしがみついていてくれ、と祈りたい気持ちになった。40キロ先の自宅まで一緒に行けたらいいだろう、と思ったのである。蜘蛛=縁起物という連想がはたらいたのであろうか。ところが、水道道路の直線区間を走っている間に消えてしまった。 高島平を出て、約6キロほどのところであった。無念。

 4月26日(土)

 車の中で気象情報を聞いていると、農作物の管理にはくれぐれもご注意下さい、という最後のことばについ耳をそばだてるようになった。明け方の霜に注意を喚起しているのである。今朝も、肌寒い。畑に出てみると、植えて25日も経つのにいままでいっこうに芽が出なかった琉球ジャガイモがひと茎やっと地上に現れている。あとの並びにも大きな割れ目がある。早速、北海道にいる配偶者にメールを送った。二日前に行って、今日帰ってくるのだが、知らせずにはいられなかった。満を持して(霜にも負けず)現れたのが、それほどに嬉しかった。

 4月27日(日)

 気分はほとんど病人、である。病気というくらいだから、気の程度がかなり大きいのだろう、と20数年にわたって気を張ってきたが、「痛み」が一週間も続くと、つい負けそうになる。

 昼前に所用を済ませ、午後JAなどに野菜や花の苗を買いに行く。帰りがけに、すぐ近くの食料品店の前を通りかかると、喪服姿の男性が三人道路を調べている。屈強そうな体格から刑事だろうと推察できた。あるいは保険の調査員かも知れない。お店の向かいの道ばたには、花束が供えられている。ああ、こんな近くで、と二人して驚く。昨日高校生がダンプにはねられて亡くなったという記事を読んでいたからだった。ここは、駅に続く、歩道のない狭い道路である。ダンプカーは対向車に気を取られていたと書かれている。高校生は、部活帰りだったという。庭から、チューリップの花を二本切り取って、歩いてそこに戻り、花束の横に供えた。なんという痛ましい事故か、思う。

 気持ちのいい風を受けながらキュウリ、トマト、茄子、カボチャなどの野菜とルビナスの苗を植え付けたあと、「痛み」の起こる少し前から書き始めた小説に向かう。カタチを成しはじめたのは、僥倖である。


 4月29日(火)

 40年にもなろうという年月を架橋するものは何か。実際そんなものがあるのか、どうか。 「痛み」に伴奏されながら考えあぐねていると、それ自体が痛覚をともなって甦るから、この小説はきっと成功するだろうと過剰な自信も湧いてくる。なによりも、想像力との苦闘は、愉しい。
 昨日夕刻には、気温が一気に下がる瞬間を経験した。おや、この寒さは? と思ったものだ。夜は、暖房がないと、寂しいくらいだったのである。
 と、書いて、『痛いくらい』という、同窓の若い友人が作った曲を思い出した。CD化されていて、授業の後に生徒らに聞かせたところ、他の何曲かの中からこれが一番印象に残る、との評価を受けたのだった。せつない恋の歌、だったと思うが、絶叫調で表題「痛いくらい」を何度も繰り返すところに、哀愁があると思った。
 『自分の感受性くらい』という詩集もある。


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