日  録 一番の贈り物      

 2008年6月1日(日)

 この時期、梅の葉と梅の実は同系色で見つけるのに一苦労だった。木によじ登って、手を伸ばして取るのだが、いったん降りて見上げると、まだあんなところに…とみつかってしまうのである。また登る。そんなことを4,5回も繰り返した。むき出しの腕に擦り傷がいっぱいでき、小さな毛虫も落ちてきたが、実にたのしかった。今年は、4キロほどの収穫となった。去年が46個、1キロ程度だったことを思えば、大躍進である。いちばん最後の仕事にとっておいて正解だった。

 晴れの日曜日、となれば、普段できないことを仰せつかる。昼前にノコギリを買いに走り、チャドクガの幼虫が巣くうようになった椿の葉を枝ごと伐り落としていった。ほとんど丸坊主になってしまったが、白モクレンの大木の下でひっそりと立つ木なれば、やむなし。それにしても新しいノコギリはよく切れる。トーテムポールみたいで自身も気に入って、3メートルばかり残しておいた立ち枯れたモミジの幹を真ん中から切り落とした。切れ味を試すつもりもあり、たしかに視界はよくなったが、ちょっと惜しい気がした。

 おりしも外に出てきた配偶者に「伐ったよ」と言うと、「なんで! 椿だけをと頼んだのにぃ」と嘆くではないか。鳥が来て巣を作るのにちょうどいい高さだね、とこの前話していたばかりでしょ? うん? そうだったかな。惜しいと思ったのは、かすかに覚えていたせいか。

 この高さだと、切り株の上に乗って、ほら梅の実にも手が届く、などと慰めにもならないことを言えば、どうぞ、と素っ気ない。そのあとの、大収穫であったから、なんとか面目を施した。

 6月8日(日)

 午後になって畑の草むしり。今日のところはそれだけに留めてあとは自分の時間に使おうと決めていたが、庭のトマトとキュウリのために大がかりな添え木を、というので、興を催して、挑戦。かなり大きくなった8本の苗木を取り囲むように、縦80センチ、横150センチ、高さ180センチの直方体の空間を作るのである。まず四隅に支柱を立て、次に支柱同士をつなぐ4本の棒を縦横に張った。これだけでは、ぐらぐらと揺れて危ういので、さらに縦の棒を4本わたす。まだ揺れるので、こんどは、中央付近、対角線状に長い棒をつけた。この時点で長い棒は使い果たしていた。まだ、ダメだった。そこで四隅の根元を固定すべく、アーチの柵を2つかけた。ここで、妥協した。大風には、保証のかぎりではないが、キュウリやトマトの重みには耐えると思ったからだ。なかなか難しいものである。

 数年来、流し台の上の窓を定位置にしているヤモリがわが家にはいる。ガラス戸と網戸のすき間に入り込んで、一夜を過ごす。網戸の上を歩き回るときは、中からは背中が見え、ガラス戸の時は腹が見える。見るたびに変わってるから、何か考えがあるのだろうかと思ってしまう。
 夕方見つけた奴は、まだ赤ちゃんだった。代がかわっても、その習性を受け継いでいるのか、と可笑しかった。
  ところで配偶者の悩みは、ヤモリがいるかぎり、窓を開けて風を入れられないことであった。開けるとヤモリにとっても境がなくなり、家の中に闖入せざるを得なくなる。家守とはいえ、入ってこられるのはどうか、とこちらも思うわけである。
 外に出て、追い出そうと半開きにした網戸をとんとん叩いた。ヤモリは腹を見せて動き回るが、出るつもりはないらしい。しばらく叩いて追い回しながら、動き回る姿が、まことに赤ちゃんぽくてつい笑ってしまった。同時に、あきらめた。ここが、いちばん居心地がいいらしい、と思えたからである。

 6月15日(日)

 明るいうちにハエが一匹部屋の中に紛れ込んでいて、ときおりどこからともなく出てきて暴れ回る。この時期のハエは、よほど気分が爽快なのか、とにかく速いのである。傍らにビニール袋をおいて、捕まえる機会を狙っているのだが、いずこからともなく現れたと思うとすごいスピードで目の前を掠め、あっという間に隠れてしまう。追い回すことも、できない。というよりも、追い込んで袋の中に封じ込めてやろうという気力が瞬時にそがれてしまう。それほどに、敏捷である。
 そんなこちらの気持ちが知られてしまったのか、ハエはパソコンの画面の上を、大胆に行き交うようになった。そのとき、画面に向かって文の仕上げに苦労している身に、衝撃が走るのである。夢が破れ、現に還り、ふたたび夢に戻るまでの数十秒。のろまだった冬のハエには期待できないものであった。生かしておくことの功徳、転じて、生かされてあることの歓喜、とでも言うべきか。出来上がった文章が良いか悪いかは、自ずと別問題であるが。

 6月17日(火)

 こんなご時世だから、煙草はベランダで、ということになってしまったが、ダイエー通りを行き交う人の姿を見るともなく(上から!)見る楽しみに、ひなが五羽孵ったばかりのツバメの巣を眺める愉しみが加わった。親鳥からエサをもらう姿は、見ていて飽きないのである。もっとも、まだ頭のてっぺんやくちばししかあらわれず、鳴き声もか細くて聞こえない。そのうち、われがちにと、身を乗り出して親のくちばしに飛びつくだろう。その日が来るのも、待ち遠しい。

 卵を抱いている頃から一日十数回、一本の煙草を吸い終わるまで、観察し続けてきたのである。夜になると、親鳥は二羽とも巣に戻り、一緒に卵を暖めているという、当たり前のことにも気付かされた。父、母の区別は付かないが、ときおり目があったりした。
 昨日はじめて、ベランダから外に出るとき、こちらの鼻の先を掠めていった。戻ってくるときも、目の前を滑空して巣に舞い上がった。少々けむいがこいつは安全だと思われただけでも嬉しいが、それ以上のメッセージでもあるのかと思ってしまった。近く職場は、二階から撤収することになっているから、間近に見るのもおそらく今年かぎりである。数年前、外壁の改修のときに、危うく取り壊されそうになったが、すんでの所で免れ得たことなども思い出される。20数年間、季節になるときまってやってきて、子育てを終えて帰る。まったく律儀なものであった。こちらが肖るとすれば、その律儀さだろう。

 6月22日(日)

 晴れならば、ジャガイモ掘りとなるところだったが、雨降り止まず、ときおり驟雨。そんななか、近くの郵便局に出向いて、休日窓口から、仕上げたばかりの原稿を送付。早く手元を離れさせたいという潜在意識もあったのかも知れない。戻るとすぐに、次に改稿を予定しているモノを二時間ほどかけて通読する。こちらは七年前に書いたもので、まだまだ記憶に残っている。が、90枚あたりから、どうも尻切れトンボで、テーマが生煮えの状態である。小説的感興も、ここらあたりから削がれていくのではないか、と自己批評。大幅に書き加えなければならない。ということは、考えて考えて、考え続けなければならない。ただ、よくぞこんな表現が出てきたなぁ、と思えるほど、つまり自分が書いたものとは、ちょっと信じられないほど、文章は、悪くない(?)。それを恃みに、長い闘いに挑もう、と云々。

 七年前(2001年)と言えばこの日録をはじめた年であった。ファイルを開いてみると、当時はほとんど連日のように何かしらを書き留めているのだった。「地名」を思い付いたとか、空飛ぶ鳥が車のフロントガラスにぶつかってきた「描写」など、書き物のことにもときおり触れているが、そのうち、話題から消えていく。読まれることを想定して、できるだけ普遍価値のある身辺雑記を心がけていると、発表の当てもない書き物のことなどは、それこそ「ニュース」にならないという判断だったろう。そんな姿勢は今も変わらないが、今回ばかりは、記録の意味も込めて書いてみた次第である。

 6月29日(日)

 28日は、志木まで来てくれるというので仕事を早々に切り上げ、ミッドナイトプレスの岡田さん、山本さんと駅前の長屋門へ。昨年の花見以来だったが、一年以上経ったとは思えないのが、不思議だねぇ、と言い合いながらの再会だった。お互いの近況はインターネット上で手に取るようにわかるという環境のせいもあるが、ここ数ヵ月は原稿を読んでもらったり読ませてもらったりの行き来がある。しかし一番肝要なのは、俗に言うウマが合うとでもいうべきか、一緒にいるだけで心が和むことであった。

「いつかお渡ししようと思いながら、つい遅くなって」と山本さんが取り出したのは、真新しい感じの三葉の写真だった。仕事帰りにご自宅を訪れたときのものと知れたが、自分の姿形が異様に若々しいのだった。日付を見ると「1995年10月」となっている。「日付が入ってなければ、いつのものともわからなかったんですよ」
 うーん、こういう感じが、和みの正体か、と思ったのである。知り合って、30年近くなるが、お二人への愛しさは変わらない。この日一番の贈り物だった。 
     


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