日  録  豪雨と雷鳴と      

 2008年8月2日(土)

 激動の八月、という言葉がふと浮かんできた。8月には、いろいろな冠詞がつき、どれもそれなりに似合っていると思える。幻想の八月、スピリチュアルな八月、などというのも、どうだろうか。八月の濡れた砂、八月の光り、などというタイトルもまた、まことに様になっている。
 依然猛暑にはちがいないが、前夜にくらべて吹く風が幾分涼しく感じられると、かえって、“激動”の中身が日常深く沈潜して、過ぎゆく日々をねらっているような気もしないではない。いずれ、正念場であろうか。

 8月8日(金)

 宮内さんからもらった龍眼の木は、中央あたりの細い枝の分かれ目から新しい芽が吹き出し、緑とてまだうすい小さな葉が7枚対生に並ぶようになった。ほかにも、葉になる前の新芽があちこちから出てきた。
 同じくゴムの木は、真新しい葉がニョキニョキと飛び出し、旺盛な生命力を感じさせる。「栄養剤が、いるんでないかしら」と配偶者が言うから、怪訝な気持ちで見ると、「こんなに伸びていけば、やがて養分が足りなくなるのでは」と心配しているのである。じっとしているだけでも汗が吹き出す暑さだが、これらの樹を眺めていると(事実一日に何回もそばに寄って見つめるのだが)清新な気持ちにもなれるし、また、元気も湧いてくる。

 8月12日(火)

 前の道路の電線上でくっつきあって羽づくろいをするキジ鳩を見てしまった。今風の言葉で言えばラブラブというところだろう。
 とっさにこの二羽は、庭の百日紅,ネズミモチ、柿の、三本の木が互いに錯綜する上方の枝に巣掛けをしている夫婦鳩だと確信して、お熱いことではあるが、立ち止まってしばらく観察させてもらった。

 車のわだちに溜まった雨水で揃って水浴びする姿を見かけたのが最初であった。いますぐにそこを車が通ろうとしているのにも気付かず、小春日和の中を悠然と羽をはためかせていた。こちらがかえって遠慮するほどだった。
 春先には、枯れ枝を運び上げるのを目撃した。百日紅の木の股に放り出されている十センチほどのそれをみて、こんなに大きなものを、と驚いたものだった。
 しばらくあとには、カラスにでも襲われたのか、卵が一個地面に落ちていた。昨日などは、ホーホーとしきりに鳴くので、その方向を見上げていると、鳴き声がやんで、激しい羽音を立てて飛び立っていった。あれは、相手を呼んでいたのかも知れない、と気付くのは今日になってからであった。
 
 巣があることは確かだが、どの木のどこにあるのか、確認できない。春先よりもさらに鬱蒼と繁った木々の下に入って枝を見上げた。近所よりも遅く、やっと咲き始めた百日紅の花が目に飛び込んでくるばかりで、巣らしき存在は、やはり見つからなかった。割れた卵の光景も甦って、ここを森の一角と思って巣を作ってくれたのは嬉しいが、世間知らずの夫婦鳩の錯誤は悲しい。いやそれよりも、のそのそと巣の下を覗き歩くわれは、電線上から野暮の骨頂と思われてしまうことの方がもっと悲しい、のかも知れない。

 8月17日(日)

 6年前に歳の離れた実姉がなくなったとき、葬儀にも行けず不義理をしたと思いつつ過ごしていたが、15日、圏央道、中央道、名神を経由して思いがけず早く着いたので、せめてお参りをと、位牌のおかれている姪の嫁ぎ先に立ち寄った。
  はじめて訪れたのだが、そこは、建部大社の門前に店を構える石材店であった。二,三度逢ったことがある姪の夫にいろいろな話を聞くことができた。
 それによれば、店の土地ももとは「たてべさん」の土地で、神社の石材職人だった先祖がゆずり受けたもので、故に現在の町名を「神領」(じんりょう)という。
  千年ほど前に瀬田の唐橋に流れ着いた御幣が縁で、別の場所からこの地に遷座したのがいまの建部大社(祭神・ヤマトタケル)で、土着の氏神と最初は同居していたとも教えてくれた。流れ着いた8月17日に毎年行われるのが、瀬田川を船に乗った御輿が下る「船幸祭」である。

「ところで、たけべ、じゃなくて、たてべ、なんですか?」
「この辺では、たてべさん、と呼んでいますね」
 公式にはもちろん「たけべ」だろうが、地元の、ことに何代にもわたって社とともに生きてきた人々には、他とはちがう思い入れを込めた呼び名があるのだろう、と思った。

 建部大社は、当然のことながら、川村二郎氏も訪れている。『日本廻国記 一宮巡歴』では、
「『一宮記』には、祭神大巳貴神とあり、元来はやはり土地の精霊かもしれないが、(中略)漂泊の精霊とも名づくべき古代英雄ヤマトタケルが、彼方と此方と、べつべつの世界をへだてつつつなぐ、境界の象徴としての橋のかたえに鎮まるのは、むしろその場により似つかわしい奉祀の形だったろう」
 とこの章を締めくくっている。
 往復1000キロ、車のひとり旅から戻って読み直し、書き写したが、いまだ躯がふわついている身には、ずしんとくる。

 8月19日(火)

 昨日、今日あたりは明らかに「運転窶れ」である。
 15日朝に出て、16日夕方には、丸24時間滞在した実家を出立、17日の午前3時に家に戻った。往復1000キロ、体力もまだまだ捨てたものではない、などと強がってみても、時間が経つに連れてじわじわと「後遺症」が出てくる、ということだろうか。
  いや、それを言えば、四年ぶりに逢った母や恩師のことが、前はこうだった、その前はもっと元気だった、と際限なくその時々の光景が甦ってきて、寂しさや悲しみを煽り立てるのである。
 そんなわけで、パソコンとベッドの間を行き来している間に、一日が暮れていくのであった。

 それでも、今日は、収穫の終わったスイカ畑の雑草を刈り取りにかかった。夕立が来る前にと思ったから、ちょうど暑い最中の作業となった。手ぬぐいで頬被りして、7、80センチに伸びた雑草を鍬でなぎ倒し、根を抜いていく。汗はだらだらと垂れ、のどは渇く、で途中二度の水分補給を行って、一時間足らずで切り上げることになった。雑草の中から、獲り忘れた小さな(可愛い!)スイカがみつかったのは、まったく余禄、というものであった。

 8月24日(日)

 アウトレットものだったが、近くの家具屋さんで食器棚を買った。幸い二段に分かれたので車に無理矢理詰め込んで、雨の中を運んできた。食器棚などを買うのは、所帯を持った34年前以来、二度目のことである。はじめての食器棚は、いまや玄関先に移って別の用途に供されている。キッチンでは、かつて愛用したライティングディスクに付属した本棚が代用している。それでも収まりがつかず、大半は、食卓の上に山積みされている。これらの食器類を収納するものがほしい、というのは配偶者の切なる思いだったのである。二週間ほど前、奥行きがあって、値段も手頃、これならば、と自分で見つけていたのだった。
 置き場所をこしらえるために、それらの移動を手伝った。引っ越しの時のように、キッチンはさらに雑然としてきた。それもあって、うーん、確かにこれは、あふれかえっているとしか言いようがない、などと感想を漏らすと、
「本棚や机は、どんどん増えていったのにぃ」
 と少しいやみっぽく、同調する。
 それでも新しい食器棚が、キッチンの一角に落ち着くと、これからまだ片づける仕事が残っているものの、ほっとした表情になった。喜んでもらえ、感謝されるのは実に久しぶりのような気がして、こちらもまた嬉しかった。

 8月31日(日)

 何日も続いた豪雨と雷も昨夜で一段落した模様である。車を走らせていると、たった一時間ほどの道のりでも、これらが局地的であることがわかる。雨と非雨のゾーンを交互にすり抜けていくのは、さながら人生の暗喩のようにも思えて、気持ちはブルブルと打ち震えるのだった。

 数日前の、そんな日の夜には、縁台に出て、新芽があちこちから吹き出してきた龍眼の木に寄り添って、豪雨を眺め、塩化ビニールの庇や庭の草木に当たる激しい音に聞き入っていた。また、北東の空に時を措かずに発生する閃光を、鉢植えの木とともに、全身に浴びる。稲の生育には欠かせない閃光、故に稲光りという、などと陳腐な知識を思い出していた。至福の時と言えば言えるが、縁台にいるかぎり、安全は保証されている。
 と、昼に、職場の近くで教え子の自転車を見つけ、その前カゴに走り書きのメモを入れておいたのを思い出した。いまやずぶ濡れだろう。もちあわせの紙の裏に2、3行、近況を呼び込んだだけのものだったが、判読不能、というのもまた、面白いか、と思う。入れたときにも、気付くかどうか、に賭けるような遊び心があったはずだから、いよいよ詮なし。こんなことも、異常気象のなせるワザだろうか。              
 


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