日 録 まぼろしの、初雪 


 2001年11月1日(木)

 明け方近く、満月の下を走りながら、予報では最低気温が6度にもなると言っていたがそれほどでもない、などと考えていた。もし予報通りならば、猛暑の7月とは30度もちがうことになる。一気に冬へとの思いも深くなったであろう。さりとて、もうあの頃の記憶はないに等しい。はるか昔のことのように思える。その後起こったことが、あまりにも強烈すぎたのである。数日前のやはり夜明け、駅の上空に白っぽく輝くものを見つけた。じっと動かずに中空にとどまっていた。何百回と通った道であるが、そんなものはついぞ見かけたことがない。鉄塔の警告灯ならば赤色で点滅をしている。今朝も同じ道を通ったが、満月に見とれて、確認し忘れた。もし白く光る物体が同じところになければ、あれは“UFO”だったと思いたいのである。これと前後して、次々と墜落してくる飛行機の夢を見た。最後の一機は墜落しても炎上せず、どこからともなく現れた数人の人間が、素早く乗り込んで再び空に向かおうとした。翼が取れているのに、本当に離陸できるのだろうかと思ううちに目が覚めた。

 11月2日(金)

 近頃新装オープンしたスーパーで、「きれいな水」だったか「安心の水」だったか、とにかく水道水の不純物をミクロの透過膜で濾しとった水が無料で配布されていた。厳密には、はじめに、3.8リットルの容器代680円がいるのだが、以降は買い物のついでに、その都度その専用容器に補給していくことができる。昨日、二度目のサービスを受けるために出かけた。夕方7時頃だったが、機械の前にはすでに二人が並んでいた。給水時間は約4分ぐらいだろうか。自分の番が回ってきて、ふとうしろを振り向くと5,6人が列をなして待っている。これは、さらに人気を呼ぶだろうと思った。わき水などの自然水には劣るが、そのままの水道水に比べればはるかに純であると説明書には書かれている。ただ、飲んでみても、その水でご飯を炊いても、さほどのちがいはぼくには感じられなかった。
  それにしても、自然の水とは何とも貴重なものだと思われ、井戸水をつるべで汲み上げたことや、手動ポンプをギッタンギッタン漕いでバケツに水を入れたことが、やけになつかしくなった。やがて電動ポンプが普及して、蛇口をひねると水が出るようになった。それでも、出てくるのはまだ井戸水だったのだ。一軒に一つ、井戸があった。西瓜を冷やしたり、鯉や鮒を飼ったり、重宝なものであった。60年前後の、山村の風景である。

 11月3日(土)

 朝からどんよりとした雲が空をおおっていた。昼過ぎから雨が本格的に降り出し、夕方から夜にかけては激しく降り募った。気温も相当低かった。「晴れの特異日」なのに、こんな天候は何年ぶりなんだろうか。これも天変地異の類なのだろうか。
「midnight press」の岡田幸文さんが、HPのトップに手紙形式のメッセージを近況を交えて連載している。一週間に一度程度の更新と思われるが、真情あふれる文章を毎回たのしみにしていたところ、29日更新分が「Fさんへ」となっていてびっくりした。メールの返事も滅多にくれない(もちろん多忙のせい)人だが、「公」にされてはいても、いくつかの言葉は一個の腑の底にすとんと落ちてきた。嬉しくもあった。

 11月4日(日)

 まえもって葉書で依頼されていた「(社)中央情報社」の調査員がアンケート用紙を留守中に置いていった。たったいま(午後11時過ぎ)60項目にもわたる「暮らしぶり」についての設問に、一応真面目に答えたところである。名前は隠して数字としてのみ統計・公表される(あたりまえか)ということだが、微に入り細を穿つもの、なかには答えようのないものもあって、多少うんざりした。インターネットと、金融資産や金融機関に関するものに重点が置かれていたような気がするが、後者はいまやいちばん不得手なジャンルである。「分からない」「特にない」を集中して選んだ。ある意味やけくそだった。無作為抽出とはいえ、明らかにミスキャストだったろう。何に活用されるのかは知らないが、「暮らし」というのはまったく漠然としている、と改めて感じた。探そうと思うとかえって見えなくなってしまうのではないか。だからこそ、例えば預貯金が「何円」とか、いくらぐらいの人が「何パーセント」とか、数字に置き換えることでリアリティを持たせようとするのかも知れない。こんな「思考」をさせてくれたことが、こちら側の収穫であろう。

 11月5日(月)

  記録がない日があると、何かあったんだろうかと心配してしまう、とHP開設以来の読者からメールをもらった。正確には、大事な用件のあとに付け足されていた文章であったが、それこそ「暮らし」のなかから何とか言葉を捻り出そうとするのは、自分のためのほかに、そういう奇特な人を想定してのことである。いつからかそんな風になっていた。実は、10月などは1日も欠かさずに書けるか挑戦したのだったが、それでも2,3日分が抜け落ちた。「独りよがりなことを」というのも、「想像力や感度も含めて修業が足りない」というのも、ともに等価の世界だと思っている。メールをもらう数日前に食卓で「ごく少数の読者のために」などと口走ったところ、家の者らにあきれた顔をされてしまった。

 11月6日(火)

 帰宅の途につくや、前方から強い風が吹きつけてきた。昼間とは一転して寒い夜であった。紛れもなく北風であった。数十メートル行って右に90度折れると、今度もまた前方から同じ冷たい風が吹き募る。どうなっているの? ヘンだな、と同行者と首を傾げあった。車の中ではラジオのニュースが去年よりも19日遅く東京地方に「木枯らし一号」が吹いたと報じていた。するとあの東風も、北風がまわりの建物を縫って走り回っていた結果だろうと思えた。それほど強い風だったのだ。夜半、南東の空に下弦の月が雲間隠れに輝いていた。皓々とした様は寒々しさよりは、心洗われる思いの方が強く、なぜかほっとした。明日は立冬だという。なんという早さだ。

 11月8日(木)

 夕べは夜遅く食事をしたあといったんパソコンのスイッチを入れ、晴れた秋空を軍用ヘリが旋回するのを二日続けて見たことなどを記そうと思ったが、ほどなく躯がふわふわしてきて、すぐに眠りに就いた。そのせいか、昼前に起きたときから頭が重かった。それでも1時過ぎには倒産したマイカルグループの「サティ」まで配偶者を運んでいった。併設している映画館へは一度『雨あがる』を見に行ったことがある大きなお店で、平日の昼下がりなのにかなりのお客さんが入っていた。入り口には「従業員一同がんばっています」とのポスターがあって目を引いた。買い物の合間に益子焼や信楽焼の花瓶、コーヒーカップなどを眺め歩いた。時に手に触れてみた。すると、何年か前、陶芸を生業としている信楽の友人の紹介で買った抹茶茶碗のことがふいに思い出された。くすんだ赤紫の、掌にざらつく感触が、よかった。1、2回使ったきりになっている。お茶を点てる習慣が久しく途絶えているせいだった。「あの茶碗どうしたかな」と配偶者に訊くと「大事にしまってありますよ」と心を見透かしたように言う。父の13回忌か何かでひとりで帰省して、信楽に立ち寄り、大枚をはたいて買ったものだった。それを互いに覚えているのである。いまなら買えないという意味では、バブルの恩恵であったろう。娘のための布団一式をトランクに積み込んで、「サティも元気に再生してくれよ」と心の内で呟いて店をあとにした。

 肖る、と書いて「あやかる」と読むらしい。作品社HPのなかの「社名の由来」を読んでいて見つけた。21年前のちょうどいまごろ創立間もない同社を訪れたことを思い出した。当時は都営線の沿線に住んでいたから、九段下で降りて、不安と興奮を鎮めながら“てくてく”と歩いた記憶がある。教えられたとおり行くと、オフィス街の小さなビルの二階にみつかった。いまも同じ場所にあるようだが、当時、文芸雑誌「作品」が3号まで出たあとだった。編集長の寺田さんから「行逢坂」のゲラを渡された。「浦和でお好み焼きを食べたよね」と言われてもさっぱり甦ってこないが、こういうことは細部まで実によく覚えている。いまあの頃に肖るためには、気力、体力、そして錐揉みするほどの思考力が必要なのだ、きっと。
 
 11月9日(金)

 女子学生が「ついていない一日」について話してくれた。多少脚色しながら再現してみることにする。
 所属するサークルが大学祭にたこ焼きソバ屋を出店することになって、俎板が入り用になった。二枚あるうちの新品、重い方を大学まで持っていった。ところが、屋台組み立て中に鉄パイプが指の関節に当たって怪我をした。学内の保健センターで手当をしてもらったところ、病院に行った方がよいと言われる。もし骨折でもしていた日には、あすあさってが土日のために、治療が遅れる、というのがその理由だった。病院では、名前を呼ばれたので急いで窓口に行くと、もう一人同姓の人がいたらしく、あなたではありません、とケンもホロロに追い返される。待つこと数時間、大過なしと診断されてようやく学内に戻ってみると、もう誰もいない。俎板を保管する場所も閉まっている。仕方なく持ち帰り、また明日、俎板を届けるために早起きしなければならなくなった、というのだ。
  うんうん、なるほど、と聞いていた。他人事ではないのだ。そういう、まん(間)の悪い日が、誰にでも何回かはあるし、かつてあったはずだ。運命のいたずらといっては大げさかも知れないが、厄日にはちがいない。その女子学生は「骨折しなかったのがせめてもの救いでした」と包帯でぐるぐる巻きにされた指をもう一度かざして見せた。話の発端は、痛々しげなその指だったのだ。それにしても、バックの中に俎板を入れたまま丸二日間を過ごす彼女も「絵」になる存在かも知れない、と思った。

 11月10日(土)

 朝から、遅ればせながらひとり暮らしを始める娘の引っ越し。着替えの背広ばかりを気にかけていたために、いつもの鞄を忘れる。なくても今日一日の勤務に支障はなしと判断してそのまま大型バンを駆って職場に向かった。走るにつれて車の大きさが気になりはじめ、運ぶものは自分の躯のみという、何とも大仰で贅沢な走行に思えてきたのだった。運ばれる自分にも、(鞄も持たずに)どこへ何しに行くの? と問い糾したい気分であった。さすがに帰りは、自転車で帰る準備をしていた新人に「送らせろよ」と半ば強要。もろとも自宅まで運ぶ。自転車1台だけでは、まだまだスカスカの荷台であったが、空で走るよりはよかった。そんなこんなで、肩を腫らして帰宅すると、明日の渋谷ピースウォークに出かける予定の配偶者が手作りのプラカードを完成させていた。こんな文句でいいか、と聞いてきたので、いいじゃないか、と答えた。戦争は人と人の殺し合い。正当化してはいけない。

 11月11日(日)

 慌ただしく一日が終わってしまった。今日一日の記憶は、はるか彼方に追いやられて、いくつかの課題のみは持ち越される。処方箋ではなく哲学が欲しい、と唐突に思う。
 深夜灯油を買いに走り、この冬はじめてストーブを焚く。きな臭い匂いがして、大気中のほこりが燃えていく、と錯覚した。ほこりまみれの記憶ならば、燃えてしまっても、やむなしか。

 11月13日(火)

 キンモクセイの手前で、白い椿が一輪咲いた。去年は背丈が10センチくらいだったと思う。それがことしは、四方八方に葉を繁らせ、もう一人前の木として蹲っている。五〇センチぐらいの高さで、上にというよりは横に伸びているのである。開花したのはひとつだが、随所にたくさんの蕾をつけている。苗木を七、八年前に生協で買ったのだというが、数年前に現在の場所に移しかえた記憶は当方にもあって、そのときはまだまだ小さい木だった。寒風をものともせずに立つ白い花の気丈さもさることながら、成長した姿を見て野育ち(?)の逞しさを改めて感じた。
 寒い夜となった。旭川は吹雪の一日だったという。

 11月14日(水)

 ふと気が付くと“食器洗い”を始めていた。習慣というのでもない。流しに立つまでの意識がうすれていたのである。 ごく近所の関越をまたぐ陸橋の上から、コンクリートの破片を落とした不届き者がいた、とその少し前に聞いていた。走行中の車に当たって運転手が怪我をしたという。「未必の故意」というやつで、一歩まちがえば大惨事である。どういう了見で事に及んだのか、よほど、身も心も荒んでいたのか、ちょっと気になる事件であった。風呂に入る前の食器洗いは、気が鎮まって、いつもいい気分がする。水の冷たさも苦にならない。こんな感じも、荒みの一変化なのかも知れない。

 11月15日(木)

 所用を済ませたあと川越の駅前あたりをぶらぶらと歩いてみた。渋滞する車を擦り抜け、あっちへ渡り、こっちへ戻りを繰り返した。雑踏とも言えないゆるりとした人の流れ、とりわけすれ違うOLや女学生にも、ケヤキの大木にも好感を覚えた。たばこ屋を探すことがひとつの理由だったが、そのうちどうでもよくなった。『一冊の本』には短いながらなかなか鋭い批評性を持つコメントを添えた「PORTRAIT ポルトレ」という連載物がある。11月号は、本川越に最近住み始めたらしい辺見庸氏を訪ねている。標題の通り「作家の顔」がメインではあるが、その短文に「小江戸を気取った街並み」で、「筆舌に尽し難い年増のホステスに迫られホウホウの体で逃げ出した」とまで書かれてしまった。喜多院あたりで撮られたらしい写真がよかっただけに、川越びいきとしては、ちょっと口惜しかった。そんなことを思い出しながら、さっき話してきた男性は朴訥で誠実さがにじみ出て、どこかで一度会ったことがあるようななつかしさを感じさせてくれた、きっと東北の出身にちがいない、などとひとり合点していた。

 11月16日(金)

 窓から見えるモミジが真紅に燃えさかっている。樹齢20数年である。箱庭にはまったく不似合いの大木だが、居ながらにして季節を感じさせてくれるので重宝している。子どもの入学記念としてもらい受け、ともにここまで越してきた木である。こういう集合住宅では近隣の迷惑かも知れないと思いつつも、とても伐れない。もし山懐にあれば……深山の錦繍が恋しくなった。

 11月18日(日)

 携帯電話不携帯派を自称している。有ればいいなぁとたまに思うことがあるがそれも極めてドメスティックな用件であって、なければないで済ませられる。一事が万事、要はこの生活には「必要」が認められないというだけである。夜更けのこと、信号機のない横断歩道を渡ろうとする黒い影に思わずブレーキを踏んだ。歩道にまたがって停止した。あわやという状況に思えた。直前まで気付かなかったのである。線路をくぐり抜けたすぐの何もない原っぱのような場所である。いままで人を見かけたことは一度もなかった。それが、停まってみればすぐ右側に、電話を耳に当てた若者が立っている。こちらの存在に気付いているのかどうかも分からないほど話に夢中の様子である。跳ね飛ばしていれば、もちろん非は当方にあるが、こんな時間に歩きながら話すなよ、と一言言ってやりたくなった。しかしそれも大人げないことで、やっぱり影は影だと観念して車を動かしはじめると、その男は電話機を耳に当てたままうしろに回り込んでバンパーを蹴り上げていったのである。大きな音が寒風の吹き荒ぶ空に響いた。お互い様か、と思った。

 11月19日(月)

 小春日和の一日で、ほっとした気分がある。午前3時頃、配偶者を待ちながら、車の中から空を見ているといくつか星が流れた。家を出たとき、観察していたらしい同じ棟の婦人が「あっちへ、こっちへ、飛んでいくんです。凄いものですよ」と興奮気味に話しかけてきたことが思い出された。今日の夕刊には、数時間に5000個の流れ星と書かれ、写真とともにそのすごさが忍ばれた。200年ぶりというから、宇宙の時間は滔々としている。日々の雑事に追われ、日溜まりを喜んだりしているが、地上の時間は、哀しいほどに荒蕪だと思う。

 11月20日(火)

 成城に住むK女史がほぼ二ヵ月ぶりに返信メールを寄越してくれた。前に、長嶋茂雄邸の前を通りかかったと書かれてあって、あれ、佐倉に住んでいたんじゃないのか、と本気で時代錯誤な感慨にとらわれたことがあった。少年時代に読んだ「物語」の記憶が強く残っているせいである。今回は、大岡昇平の『成城だより』という晩年の「作品」のことを思い出した。T〜Vぐらいまであっただろうか。本棚の奥に揃っているはずだが、タイトルが記憶として甦ってきただけだから、探すほどのことはなかった。いま探し出して読みたい本は、島尾敏雄の『日……』、題名が思い出せない。やはり日記体の格調の高い作品だった。拙い記憶を引き絞って自力で思い出せたら、再読にかかろう。

 11月21日(水)

「ああ、これが柳瀬川ね」 と呟いて、高速道路をまたぐ道路を走り抜けた人の話を聞いた。同乗の者らには、随分からかわれたにちがいないが、これはまっとうな想像力だと思った。高速道路は周辺がまるで堤防のように整備され、街中でも広い空間を確保し、一見たおやかな風情を醸し出している。川と言って何の不都合もないほどである。その“現代の川”には、自然の水の代わりに、鋼鉄の車が流れている。先日陸橋の上からコンクリートの破片を落とした人間も、そこに水の流れを幻視した瞬間があったのかも知れない。
 昨日「題名が思い出せない」と書いたところ、未知の読者からメールが届いて、判明した。『日の移ろい』であった。胸の閊えが下りて、大いに助かる。

 11月22日(木)

 午後、喪中葉書を探すために和紙の里・小川町に行く。40キロほどの道のりを約一時間かけてドライブした。黄葉に変わった木々を眺めながら山間いを走り抜けた。峠道もいくつかあって、上りつめておりゆくとき、なぜかなつかしい感じを覚え、頭から血の気が引いていった。二,三年前に一度来たことがある、街道沿いの「窪田紙業」製品陳列室に入って物色。すると、手漉き和紙に草木染めを施した葉書がみつかり、即座に買い求めた。「オレも土に還るのか。花は咲くよな」と呟いて逝った義弟には、これ以上ふさわしいものはないと思った。帰りに伝統工芸会館に立ち寄った。「手漉き実演コーナー」には中学生が五,六人、和紙のおみやげ店にも十数人の先客がいた。すずやかな風のわたる広場のベンチに坐って間近に迫った山を見上げる。心洗われる思いがした。

 11月23日(金)

 もう一度眠ってやろうと布団に入った矢先に電話が鳴った。午前8時である。この時間に鳴ることは(わが家では)滅多にないから何ごとかと慌ててとると、「家の光」の三衞であった。中学時代からの友人であるこの男は自身が行けなくなった「忘年会を兼ねた同窓会」の案内のために電話を掛けてきたのだった。数日前に、休みが取れなくて欠席の葉書を出したMP忘年会と同じ日であった。15分間ほど近況を話した。「昼は元気だよ」と言った。仕事は順調だ、という意味だった。2年前に奥さんを亡くして以来大学生の息子と二人暮らしのはずである。まだまだ「こども」の彼に教えることが多くて、と嘆く。「小路はおれ、よく知っているから」というので、神楽坂で近く会うことを約して、受話器を置いた。
 職場では、7時間以上パソコンを相手にしていた。いつもの自分の席にはついに坐らなかったことを深夜になってから気付いた。こういう日もあるものだと、驚いている。

 11月25日(日)

 慌ただしく二日が過ぎた。依然「土日の男」ではあるようだ。
  家に戻ると『冒険者たち』(1967年、ロベール・エンリコ監督作品)が、誰もいない居間のテレビから流れていた。残り1時間足らずだったが、食い入るように観た。制作年をこうやって書くとずいぶん経つんだなと思う。広島の映画館で初めて観たのは70年前後だった。『ボルサリーノ』『サムライ』や『さらば友よ(アデュ アミー)』などの「(男の)友情」をテーマにしたものを好んで見歩いた記憶がある。そのうちのひとつがこの映画だった。いまなお、新鮮な感動を覚えるのは、人と人を繋ぐものの本質を語り尽くしているからだろう。
「君の方を好きに決まっている」
「いや、お前の方が好きだと言っていたよ」
「うそつきめ!」
 オリジナリティはないとはいえ、映画の主人公に擬えて、つるんで歩いていた友人と言い合ったこともなつかしい思い出だ。話題にのぼった女性は足繁く通った酒場で、ときおりカウンターに顔を出したママの娘である。酒の肴にされて、いい迷惑だったといまは思う。
  酒場といえば、飲み代が足りなくなって、時計置いていきますからと言うと「いいわよそんなことしなくたって。わたしが立て替えとく」と笑って平然としているホステスがいた。こちらは、大きなパブで、その少し年長の女性とははじめて会ったようなものだった。こっちも怖い者知らずだったが、向こうも鷹揚なもので、なによりも優しかった。翌日に日が沈むのを待って飛んで行った。ただただその人の顔を見たかったのである。当時から、思い入れの強い、つまり惚れやすい体質を持っていたのにちがいない。
 出勤途上で聴いたNHKFM「日曜喫茶室」はよかった。92歳のボードビリアン「坊屋三郎」と作家の吉川潮氏がゲストだった。「芸」についての談義も愉しかったが、「ライブ」が圧巻だった。演じたあと「疲れたよ。もうオレは帰りたいよ」というのを聞いて、いよいよ凄い人だと思った。全身すべて、芸なのであった。

 11月26日(月)

 朝方、宮内勝典さんから『非戦』(幻冬舎、12月20日発売予定)についての案内メールが届いた。この本を作るきっかけと戦争という事態にどう対処していくかを吐露した「エッセー」が添えられていた。「テロ、そして戦争」を考える材料として、またこの時代に向き合う人間の指針として、こういう本は貴重なものに思われる。早速、20数人にBCCにて送った。(唐突で、驚かれた方、すみません。そういうわけです。)
 夕方、用事を済ませて職場に戻る途中、空から白いものが落ちてきた。空気も、どことなくなま暖かく、雪の降る日はいつもこんな感じだと思った。状況証拠は揃っていたわけである。ちょうどそのとき、一階の眼鏡屋の(近くのスーパーから転職した)女性とバッタリ出喰わした。「初雪ですかね」というと、剽軽な表情をして「あら、まぁ」と掌を前に差し出し「早く戻らなくっちゃ」と言葉を継いで店の中に入っていった。せっかくの証人なのに、否定も肯定もしなかった。それからしばらく外に注意を向けていた。小雨はたしかに降ったようだが、ついに雪の痕跡は認められなかった。まぼろしの、ひと粒の淡雪、だったか。        

 11月27日(火)

 北の町や日本アルプスの麓から初雪の便りが届けられた。ここ関東南部も、夜になってひどく冷え込んだが、雪になる気配はもちろんない。昨日の“まぼろし”が、思い出すだに、悔やまれてならない。
  と書いて、なんかヘンだと気付いた。こんな言い方は天に唾するようなものである。
 天に唾する? これも元の意味から外れている。言葉というのは難しい。出直しだ、また、あした。

 11月28日(水)

 あと3日で11月が終わり、いよいよ師走に入る。去年に続いて「ビジネス手帖」を同じ人からもらった。新しい紙の香りを愉しみながら、ぱらぱらとめくっていると、日付と並んだ空白が眩しい。眩しすぎる。去年もらった手帖も実は、はじめの誓いほどには埋まっていない。記憶だけで事足りる生活を送り、メモは、ポストイットや用済みの紙切れに書いては捨てを繰り返してきたせいである。来年はいっぱい文字を埋めていこう、と思った。それが、去年よりもひとサイズ大き目のものを贈ってくれた人の意志だろうとも感じた。
 思えば手帖というものには、記されざる未来が宿っているのである。眩しさの内実は、陽炎がごとき日々の喩、なのかもしれない、ぼくの場合は。これもまた、反省のひとつである。

 11月29日(木)

 このところ目覚めが早くなったような気がする。今朝も9時半頃に目が覚め(多くの人からは失笑を買いそうだが)ずっと起きていた。眠りに就いたのはいつもと同じ午前4時なのに、である。これまでは12時近くまで熟睡していた。それでもまだ眠かった。それが今日あたりも、いったん起きると、そのままでいても平気なのであった。体力が増したとか、楽しいことがいっぱいあるなどとはとても考えられない。また、年を取ると朝が早くなるというが、その朝とは、4時か5時のことで、この場合は当てはまるまい。やがて、眠い朝が戻ってくるのかも知れないがちょっとした“異変”にはちがいない。
 昼過ぎ、義父の頼みにより、車内で寝転ぶとき下に敷くものを探し回った。何軒目かの店のレジャー用品のコーナーにお誂え向きのものがあった。エアーベッドというのである。空気を入れて膨らますのだとは思ったが、浮き袋のように口から空気を入れるのだという先入観があった。大変だな、と思いつつ家に戻り、説明書を読むと「専用のポンプを」と書いてあった。再び同じ店に行って、ポンプを買う。ふいごのように足で踏むのもあったが、電動式のにした。本体とほぼ同額であった。それにしても、とんだ早とちりであった。 紅葉の写真をUPした。(メインページ「行逢坂ギャラリー」)

 11月30日(金)

 ステテコは今もあるのだろうか。若い頃は、特に夏などは汗よけに穿いていた記憶がある。「寅さん」の装束であるような気もするが、映画同様過去のものになりつつあるのか。こちらも20数年穿いていない。浴衣を着るときなどには重宝なはずだが、若い人が穿くとも思えない。名前すらもはや知らないかも知れない。片仮名で書いたが、語源は外来かどうか怪しい。広辞苑によれば、「すててこ踊り」というのがあるそうで「初代三遊亭円遊が寄席で踊ってから流行した宴席の騒ぎ踊」とある。踊りの説明を読むと、明言してはいないがそこからの命名である可能性が高い。流行したのは明治13年(1880年)頃だという。今から120年も前である。すててこも100年ではやりの寿命が尽きたか。それとも根強いファンがいて、脈々と愛好されているのだろうか。些末な事かも知れないが、知りたいと真剣に思った。明日から師走、忙中閑あり、といきたい。    


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