日  録  春は、寂しさ…       

 2009年3月2日(月)

 まだ冬のノリで、陽射しがなんてあたたかいのだろうと思い、人にも語りかけながら、はっとする。もう3月になっているのである。春と言えば春ではないか。明日は、桃の節句・雛祭りである。
  夜になって、近所のパン屋さんまで煙草を買うために自転車を走らせていると、部屋着のまま出てきたせいか、肌とシャツのすき間に風が入り込んで、とても寒い。ここでは、依然冬の風が吹いている。
 北よりの西の空には、赤々とした三日月が見えた。10年を隔てた「二つの話」、それをつなぐものが、「地蔵」だとしたら? そんな着想と成否を考えながらしばらく眺めていた。それにしても、皓々とした満月ほどの幽玄さがないのは、なぜだろうか。

 3月3日(火)

 夕刻から未明にかけて積雪あり。春の雪はべちょべちょですぐに融けてしまう。水のような雪である。車の屋根からかたまりを取って軒下の植木鉢に入れる。融ければ、水。

 3月8日(日)

『焼身』の初出誌が出てきたので、鉛筆片手に,半日かけて読んでいった。一、二読では感じなかったものが身に突き刺さってくる。俗に言えば、ひとつひとつの言葉がぐっとくるのである。読後「再々読」との題にて、一文仕上げた。書かずにはおられなかった。今日一日の仕事としては、上出来だと思っている。途中、野菜づくりの師匠が、エンドウ豆の棚を作ってくれるというので外に出た。こちらは、見学のみ、であった。秋口に植えた種が芽を出し、寒い冬を越して、土の上にもっこりとした葉なみを作っている。これから蔓をのばして、花を咲かせ、実をならせる。これも、希望のひとつである。

 3月11日(水)

 3年前の卒業生3人が、大学合格の報告にやってきた。2人については、メールですでに進学先などの近況を教えてくれていた。水曜日はいるので立ち寄ってください、と最後に添えておいたので、もうひとりを誘って来てくれたのだった。

  遡る2時間ほど前、車で移動中に携帯の電話が鳴って「閉まっています。いつ開くんですか」という問い合わせがあった。出勤は3時過ぎだ、と言うと、それまで時間を潰してまた出直します、との返事。かくて、仕事場に着くと、女子3人はすでに到着していたのだった。それから2時間近く、いろいろなことを話した。3人とも、しっかりと将来のことを見据えて、大学で何をやりたいかがはっきりとしている。大いに感心した。それにしても3年というのは、矢の如し、である。3人の姿も、中学生当時とほとんど変わっていなかった。これから20歳を境にして、どんどん変貌を遂げていくのだろう、と思うと、愛おしくもあり、切なくもある。

 この日は帰る間際にも、なつかしい人からメールが入って、欣喜雀躍した。ほんの短い間だったが、顔を見て、立ち話もして、ほぼ満足の体にて家路に付いた。

 3月15日(日)

 昨夜は、若い友人たちと一緒にひとときを過ごした。三々五々駆けつけるどの顔も、一年ぶり、半年ぶりに目にするもので、近況などを聞くことができた。こういう場は、一服の清涼剤になるから有り難いのである。朝から、ワクワク、ドキドキして夕刻を待ちかねたものだった。

 3月21日(土)

 明日は雨、という予報だったので、予定を一日繰り上げてジャガイモを植えた。まずタネイモを置く溝を作ることからはじめた。いわゆる畝切りというやつで、すでに作業を済ませていた、五区画ほど奥のTさんのものを真似ながら、掘り起こした土を両脇に寄せて、盛り土にしていく。全部で七畝、腰と腕にくる、けっこうな労働であった。出来具合は、Tさんのものと比べて、くねくねとうねっている、盛り土の表面が平らでなくとんがっている、など随分見栄えの悪いものになった。

 そのあと、一畝に、30センチほどの間隔で14個のタネイモを植えた。配偶者は、植えるたびに、わせしろ、北あかり、琉球イモ、などと品種名を書いた札を立てていった。こちらは、14×7、で98か、一株から10個ずつのイモができれば……、と頭の中で計算した。これはすごいことだ、と思う。めざせ、1000! である。

 明日の日曜日は、日本海を低気圧が北上して、南から吹き込む湿った風が、春の嵐を呼ぶ、と言う。タネイモが土の中から飛び出したり、盛り土が崩れてしまったりしないことを祈るばかりだ。

 3月27日(金)

 所用で上京中の福岡の友人と、お昼に待ち合わせて、新宿御苑へ行った。約束したのが開花宣言のあった21日で、今日あたりはおそらく満開となるだろうと踏んでいた。ところがこのところの“寒の戻り”で失速したのか、何百本とある木のうち、ヤマザクラ、ヒガンザクラを含めても満開なのは十数本というところだった。断言できるのは、苑内をくまなく歩いたからだ。

 つぼみばかりの一角で芝生に坐り込んで弁当を食べ、近況や世相などよしなし事を話したあと、花を求めて歩き始めた。しばらくして、友人が万歩計を取り出し、「まだ、3800だ。こりゃ、いかんね」と呟いた。ちょうど陽射しが消え、急に寒くなってきたこともあって、案内図を片手に、本気で歩き始めたのである。
 おかげで、いずれも満開の、枝垂れ桜や、鮮やかなピンク色のヨウコウ(陽光)などに出逢えた。日本庭園では、木の橋の下で悠々と泳ぐ鯉の群れをも眺めることができた。

 出る段になって「何歩になった?」と訊くと「9600」と言う。健康のためには一日一万歩、とどこかで聞いた記憶があって、「あと少しだな」とふたりでほくそ笑んだ。これからの十年は「健康と体力勝負」だという結論に至った。
 ただ、そのあと入った喫茶店で二階への階段を登るときには、ふくらはぎから太腿にかけてかすかな痛みがあった。体力? 大丈夫だろうか。

 3月29日(日)

 日本画家・三浦幸子さんの「絵本『注文の多い料理店』の原画と猫展」をやっているというので、『ギャラリー&カフェ 山猫軒』(金・土・日・祝日のみ開店)に行ってきた。この店は、越生梅林を過ぎたあたりから、左に逸れて、対向車とすれ違うこともできないほどの道を2キロ近く登ったところにあった。渓谷と山の斜面の間の、文字通りの山道だった。少し先には飯盛峠や正丸峠がある。秩父の山ふところになるのだった。
 都会から離れたアーティスト夫婦が20年ほど前にはじめたお店で、外見は農家風、中は二階までの吹き抜け、太く頑丈そうな梁と何本もの棟木がむき出しになっている。入り口付近では槇ストーブが赤々と燃えていた。
「移築したんですか?」と訊くと、
「そうしたかったのですが、その方が高くつくというので、一から造っていきました」
「すごいですね。何年もかかったでしょ?」
「3年かかりました」
 宥和な顔つきのオーナーは答えてくれた。
 ところで、絵本原画と猫展は2月はじめから開催されていて今日が最終日だった。絵本も手元にあるが、原画からしか伝わらないもの(オーラのごときもの)が感じられてよかった。自家製ケーキと「ふけばふくほど福がくる“ふく猫”てぬぐい」(三浦幸子オリジナル)をおみやげに買ってきた。
「飾る、それとも使うか。どうする?」
 と糾すと、
「畑仕事のあとに、汗を拭くわ」
 と配偶者は言った。

 3月30日(月)

 昼過ぎに、庭で花の種を植えている配偶者のすぐうしろにジョウビタキがいた。花の木の枝に止まって、しきりに尾を揺らせている。橙色の胸と背中の白い斑紋、しかも一羽でやってきて、人を怖がる風もない。ここ数日よく見かけるようになった。いまだ鳴き声を聞けないのはいささか残念だが、孤高な感じがあるものの、一方で仕草に愛らしさが感じられて、いまやお気に入りの鳥である。
 まだ気付いていないようだった配偶者に「うしろ、うしろ」と教えると、振り向いた拍子に、ジョウビタキは地を這うようにして、少し高い梅の枝に移った。「わたしが、土をいじりはじめると、必ずやってくる。虫が目当てなのかなぁ」とは配偶者の弁である。
 その数時間後、用事を済ませて戻ると同時に、彼(♂らしい)も庭にやってきた。車の中から、しばらく観察していると、配偶者が種を植えた場所をつつきはじめる。まさかタネをほじくり出してついばむなんてつもりはないだろうが、想像はややそれに近く、おかしさがこみ上げてきた。冬鳥、というから、やがて来なくなるのだろう。春は、寂しさをもともなうものだなぁ。