忘れがたい人たち

 
 
 毛呂山の出雲伊波比神社は山の上にある。幹線道路沿いに箱形の大きな看板が立っていて回り込むように左折すると鳥居までゆるやかな砂利敷きの坂道が続いている。
 おととしの冬、神殿や流鏑馬の行われる馬場を見物し終わって帰るとき、坂道を下りてゆく三人連れの婦人と遭遇した。車を停めると近くの駅までの道順を教えて欲しいと言う。土地勘はないが、道路標識のひとつに最寄り駅の表示があったことを思い出して、三人を乗せていくことにした。
 坂道で呼び止められたことに霊験を感じたのかも知れない。杉の木立に囲まれた、薄暗い参道までの登り道、おまけに砂利敷きとくれば興を誘われないはずはない。
 近くの病院に知人を見舞った帰りだ、とそのうちの一人が問わず語りに話してくれた。
「ああ、知っています」
 その病院で鼻茸(ポリープ)を切除してもらった。紹介状を持って耳鼻咽喉科の滋賀教授を訪ねたのだった。優しくて、信の置ける医師だった。十二,三年前のことである。
「経過がよいらしく、安心したんですのよ」と助手席の婦人が言った。
「すると快癒祈願の、お詣りを」
「まあぁ、そんなとこかしら」うしろから声が返ってきた。
 三人とも五十代後半の年格好だった。着ているものは地味だったが、上品な雰囲気が漂っていた。
 十分も経たないうちに駅に着いた。
「庭に咲いていたのを朝方とってきたの。病室には多すぎて。お礼の代わりに、奥さんに差し上げて下さい」
 降りるとき助手席にいた婦人がグラジオラスを数茎新聞紙にくるんだまま車の中に残していった。
 あの病院、とぼくは思った。数年後に「掌蹠膿胞症」という免疫系の病気にかかり、前とは別のかかりつけの医者がまた滋賀教授宛の紹介状を書いてくれた。奇妙な巡り合わせだった。
「掌蹠膿胞症」というのは原因を突き止めてそこを治せばいい。
「ただし、特定は難しい。なにしろ厚生省指定の難病ですからね」
 まず疑われたのは「扁桃腺」だったのである。「犯人」ならば切り取ってしまう。それを調べるのだった。喉奥に手を入れて扁桃腺を50回マッサージしてそのあとの躯の反応を見る。半日かけてこれを何回か繰り返した。恨めしげに「治療じゃないんですよね」と,念を押したものだった。「そうですね、検査ですからね」と滋賀教授も苦笑いしていた。過酷でも治すためなら我慢できる。実際はそうではない。そのあと、虫歯にも嫌疑がかかり、その病院で治療してもらった。これも原因ではなかったようだ。いまだに治っていない。
 具体的な症状は肩に走る激痛であり、てのひらや足の裏に出来る膿胞である。肩の骨、鎖骨のあたりにおなじ膿胞ができていて痛みを誘う、と言われていた。抗生物質を飲み続けて早くても五年はかかるとも。四,五年前に根負けした。通院もやめ、薬も飲まず、そのまま放置している。日数をおいて襲ってくる痛みさえやり過ごせば日常生活に支障はない。花粉症みたいなものだと考えている。こっちは季節を問わずやってくるとしても、生きている証だと思えば、一つぐらいの瑕疵は愛嬌だ。
 四六才で死んだ異母兄がこれと似た症状に苦しめられていた。帰省のたびに、たくさんの薬袋を見せて嘆いた。直接の死因は盲腸炎が手遅れとなって腹膜に水がたまったせいだった。病院で嫂だけに看取られて死んだのだが、臨終の時嫂をちゃん付けで呼んだという。若い頃荒くれだった兄からは想像もつかない。
 いまもなお、肩に痛みが走ると、二十以上も歳の離れたこの兄を思い出す。生きていれば七十何歳かである。じいさんになった兄の姿は想像するしかない。記憶の中にはない。
 滋賀教授も3人のゆきずりの婦人も、そして兄までもが、日とともに彼方に押しやられる。
 あのときのことで言えば、グラジオラスだけが、毎年どこかで目にすることができる存在ということになる。
 言いつけ通り、妻の手に渡した。今となれば糟糠の妻の手に、誇らしげに。 (2001年3月25日)