『焼身』再々読  

百年に一度”などと騒がれ、ズックの運動靴に滲みた水がやがて足裏へと浸入するように、無力な一個の躯にもなにやらきな臭い匂いがまとわりつくようになって、あぁ、読み直さなければ…と思った。
 
 四年前に発表された『焼身』のなかには、人が生きるということの、文学本来の持つラジカルな問いあるいは回答が潜んでいる。肉を削ぐように紡ぎ出される言葉とその力に肖って、まずは内面から「不況」の風を追い払うことが求められていた。

 この小説は、一九六三年六月一一日、仏教徒弾圧に突き進む政権に抗議してサイゴンで焼身自殺した一人の僧侶(X師)の実像(生の残り香)に迫ろうとする私とその妻のベトナム・カンボジア行の一部始終を語るという体裁をとっている。知の所産とも言える良質の推理小説(たとえば『薔薇の名前』)で味わうような興趣が湧き起こるのも事実で、「永遠の心臓」や「火の十字路」に脳髄をかき回されながら一気に読み進むことになる。しかし、再々読の眼目はそこにはなかった。

 今回、僧侶X師を焼身供養へと導いた「苛烈だが、蓮の花のような思想」または「信じるに足るもの」の探索に向けた「私=作家」の存在自体が、ひとつの思想ではないか、そして「観念の眼を閉じる」ような地点に読者ととも分け入ることこそがこの小説のモチーフではないのか、と思えたのだった。四百枚の長編はこんな言葉で締めくくられる。

「上路平安! 手には二枚のお札がある。信号が変わった。火の十字路が空っぽになる。ここに蓮の花は咲くのか。」  
 これを、現世の希望の届く、ぎりぎりの言葉、と読んだ。再読は楽しい、再々読はもっと愉しい。

                                     (『新刊展望』(日販)2009年5月号、投稿)