神秘に憑く心

 夫馬基彦氏の三年ぶりの作品集『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社)は、旅人である「私」が「深い森の中の、厚い音の帳(とばり)に包まれた、ひとりっきりの我が身」(「ヤンバルクイナ、自殺す」)を感じながらも、一方で、行く先々の島で多くの人と出逢い、その人となりを生き生きと描写していく。この十篇の連作に登場する、印象的な人物を数えてみると、二十二人に及んだ。光り輝く島人(しまんちゅ)列伝と形容したいくらいだった。

 たとえば、四十代後半の、機織り女で神女(しんにょ)でもあるおテルさんを「皮膚がつるつる金色に光って神々しく、しかも同時に神経の鋭敏さと質朴さの奥底の最も透明な本質の露出を感じさせる」(「ひかりの海」)と書けるのは、「私」=作者に、いまや神秘に憑く心があるからではないかと思った。

 事実、琉球弧(トカラ列島)を南下していく、この連作を読んでいると、一篇ごとに神秘性が深まっていく。あるときは、海の上に「光りの玉」が見えたり、またあるときは、森の奥から太鼓の音と「エーヘーホーイ」と叫ぶ祭りの男たちの声が聞こえて来たりするのである。
 それを、幻視であり、幻聴である、つまり虚構だと切り捨ててしまうことができないのは、底流に「イビ(生命を産む場所)のような懐かしさ」が漂っているからであろうか。
 日々の記憶に刻み込まれていく哀しみや悦びが、インド放浪から出発した「私」の人生に反照しながら、新たな時間を迎えるかのようでもあった。それが旅の余禄である以上に、人生の実相として浮かび上がってくるのであった。

 十編がひとつの「弧」をなして、人生の深遠をうがっていくと言ってもよいかも知れない。仮に「夢物語は継続したり再来しては、夢にならない。そんなことになれば現実の方が壊れる。現実とは案外危ういものだ」としても、この一節を含む「旅路の果て」と「大神の声」の二篇には、二十三人目の「私」と、さらには読者をも引きずり込むような現世への希望が託されている。
 遠く、鐘の音を聞くように、余情が漂う小説集である。