『照柿』から見えてきたもの

2011年の終わりに高村薫『照柿』(新潮文庫)を読み終えて、ホッとした。
長い間(初版は1994年)気にかかっていた本であることと、予想した通りうねるように物語が展開し大いに興奮したからである。

刑事(おなじみの合田雄一郎)ではないもうひとりの主人公をめぐる物語とみればこれは“芸術家小説”ではないか。人間存在を根底から抉り、その不可思議さ・不条理性を問うという意味でそう呼びたい誘惑に駆られた。

幼馴染みの刑事にむけて電話口でもうひとりの主人公は次のように叫ぶ。

「俺の目、さっきからずっとおかしなっとるんや。臙脂色の雨が降っとる。雨も空も全部臙脂色や、浸炭炉みたいな色や、雨が燃えとる--。照柿の雨や--」

そのあとに置かれた4通の手紙と、たった2行の「後日譚」には、張り詰めた気持ちで読んできた心がふっと軽くなるのを感じた。人と人をつなぐものは、垢にまみれていない心底からの言葉であることを改めて知った。

ところで、坪内稔典は連載「柿への旅」でこの小説の題名に触れたあと《「たわわに柿が熟れた秋日和を過ぎて、真っ赤な熟柿が枝に残っている、それが照柿だ。この照柿がほとんどなくなり、枝先に一個か二個残っていると季語「木守柿」となる。天地の恵みに感謝し、鳥たちのために残す柿と言われる》(『図書』2011年10月号)と書いている。


いい小説は明日への希望であり、期待であるのか、とも思った。