哀愁、そして希望。

黒井千次『高く手を振る日』(新潮文庫)は「今は身のまわりに自然に在るものが、少し先でみな行き止まりになってしまう」と感じるようになった70歳を過ぎた主人公が50年前のゼミ仲間であり、亡き妻の友人でもある女性と「恋に落ちて行く日々」が語られる。

はじまりはトランクの中にあった一枚の肖像写真である。あきらかに学生時代の彼女ではないその写真は「遙か昔に消え去ったものの残影」ではなく「むしろ現在から少し前を振り返ったようにさえ感じ」られ、さらに数年前の友人の葬儀の日に会った彼女に「また会いなおした、という妙な気分が生まれていた」と描出される。

ふたりの恋の往き来に何を感じるかは読者にゆだねられているが、ぼくは、すべての人が持つにちがいない人への哀愁、そして希望を感じとった。たとえばこの小説を底流で支えているものはぶどうの幼木である。道ばたに落ちていた枝から芽が出、何年間も鉢植えのまま出窓においてきた。この恋の日々のなかで、主人公は鉢のなかの幼木を庭の楓の傍に植え替えることを思い立つ。何年かあとにはきっと実をつけろよ、との願いがこめられる。近所の子どもらとまた「恋人」とこんな風に言い交わす。

「てっぽううって パンパンパン」
ふたりの高い声が絡み合って金網の向こうにはじけた。
「もひとつおまけに パンパンパン」

幼木が根付くかどうか、成否を占うための呪文である。ここでぼくは背筋が震えた。この作者には、アパートの部屋の中にリンゴをぶら下げて朝夕それを観察していく会社員を主人公にした短編がある。70年前後の作品だったと記憶しているが、日々しおれていくリンゴと大きくなってやがて実をつけるぶどうの苗木、40年の歳月を隔てたこのふたつのモノの対峙は、ほとんど感動的であった。

「ことばは老いるのか?」誰かを真似て、こんな反語を呟きたくなる。(了)