「現在」という時間

 

佐伯一麦さんの『還れぬ家』は認知症が進行する父の介護の日々を次男の「私」を通して描いている。

「風呂でたまには背中を流してやろうか」と声をかける「私」に、《いい、と父は邪険に断った。》

《私や妻の手を借りるのを、いまだに父は潔癖に避けているようなところがあり、身内ではあるが、お客さんだ、という構えを断固として手放さない。(中略)どこかでその心に巡らされている籬(まがき)を取り払ってもらわなければならない。》


18歳のときに離れ30歳過ぎて故郷・仙台に戻ってきた「私」も、生家と身内に対していくばくかのわだかまりを抱えている。

《その風景とはどうにか和解できるようになったが、人との和解はまだ難しい、と私は思っていた。》

読みながら過ぎゆく時間のことを考えさせられた。過去は二度と戻って来ないが、心の歴史として甦らせることはできる。その場所は、憎しみ、哀しみ、はかなさをともなって和解や離別や再会など、なんでも起こりうる「現在」である。


「新潮」連載中に3.11に遭遇したこの小説は、図らずも父の介護の日々(2008年)と東日本大震災(2011年)というふたつの「現在」を生き抜いていく。そんな小説の魅力は、作者と等身大の「私」が偶然とも必然とも判別できない人の生を全身に受け留め、まっすぐに表現していくところだった。「還れぬ家」とは誰しもが抱く時間への郷愁であり、同時にそこまでやってきている未知の時間への跳躍台ということであるのかも知れない。言葉がひとつまたひとつと腑に落ちていくことが希望となり得る、と思った。(了)