ふたつの「燕」

 

 日足がずいぶんと延びた日の夕刻、駅前の中国料理店に行った。開店以来十数年、中華といえばここを利用してきた。値段は安いが味は上等、のお店である。
 その店の入り口、庇のコンクリートの内壁に燕の巣を発見した。巣作りの途中なのか、時を措いて燕が戻ってくる。
「よかったですね」とおかみさんに言った。
 この店で燕を見るのははじめてだった。
「来ない年もあったけど、このところ毎年来るんです」
 すると、気付かなかっただけか。ちょっと悔しい気がした。
 食べ終わったあと、主人が煙草を吸うために厨房から出てきた。当時は近くに林があったが、ほとんど伐採されて、いまやけばけばしいカラオケ店とその駐車場に化けている。燕にとってもいい環境ではなくなった。それでも、律義に、ここで巣作り・子育てをしていく。職人肌の主人は淡々と話した。
「どっちが先だったの?」ぼくは聞いた。
 はじめは質問の意味が伝わらず、主人も困ったような顔で、おかみさんに救いを求める。ぼくの聞き方も悪かった。が、やがて合点したように、
「燕が飛び交うように、出入りが多いことを願って、一度来てくれたお客さんもまた、舞い戻ってきてくれるようにと思って、付けたんだ」
 と言った。
 店の名は「飛燕」というのである。修業先から独立、店を新築して開業したはずだから、もちろん命名が先だったのだ。ほどなくして名が体を表した、ということである。
 ごく単純な連想から、家に戻ると南方熊楠の「燕石考」を繙いた。その一節に曰く、
「燕の神聖さ、縁起のよさ、および生殖や恋愛における効験のあらたかさに関するこれらの俗信(家々を火災から守る秋葉の神の神聖なお使い、侵入軍を嘴と脚で熱い石を運んで全滅させた、燕の心臓を所持していれば、すべての人の友情を惹きつけることができる、などなど)は、いちじるしく定期的なその渡り、よく知られているその巣作り、およびその母性愛や夫婦愛に、すべて帰せられるものであり、これらの性質のゆえに、燕は太古のむかしから令名の高い鳥だったのである」と。
 東京からこの町に引っ越してきたのは、創刊したばかりの「海燕」に二つほど小説が載ったあとだった。「飛燕」開店はその直後だったと記憶している。「燕」に縁があるとこれも勝手な連想で思った。こどもも小さく、こちらも若かったせいで、いまよりも頻繁に利用していた。駅前ロータリーもまだできていない頃である。
 その後七、八年間、原稿が書けないとき、送った原稿がいつまでも活字にならないとき、ホームからお店の看板をじっと見つめていたものだった。恨めしげな視線は、看板にはいい迷惑、いわれなき嫌疑だったに違いない。その「海燕」は、いまはない。
 当時、中学生くらいのお兄ちゃんと生まれたばかりの女の子がいた。歩行器に入れられて、店の中で遊んでいた。ときにギャーギャー泣きわめいていた。
 その子は? と聞けば、いま小学校五年生、十歳だという。
 思ったより、年数が経っていないなぁ、と思った。   (2001年5月4日)