傾 斜

 
左の肩が、右よりも数センチ上がっている。何年か前に家の者らに指摘されて、はじめて気付いた。日常生活には何ら不都合はないが、躯の稜線、天秤で言えば棒に当たる部分が傾いているのだとすれば、これは、実は、由々しいことではないのか。
 思い当たることと言えば、宿痾となりつつある、肩胛骨から肩にかけての痛みである。しかし、決定的な原因とは考えづらい。
 長年の生きる姿勢が体形にも現れるのだと身近な人間は言い、かも知れないといったんは納得する。もちろん、そんな非科学的なことを信じているわけではない。
「あの人を見よ」
 ぼくはテレビの画面を指差した。つい他人の肩を見る癖がついていたのである。
 あなたとちがってあの人は、一所懸命、前向きに生きているわよ、とでも言いたげに、家の者は冷ややかな視線をぼくに向ける。
 テレビのなかの“同類”は、右側が下がっていた。ということは、右から左に傾斜している。ぼくとは反対である。正面から見れば、この人は右肩が下がっていて、いわゆる「右肩上がり」なのはぼくの方である。
 ここで景気の比喩を“逆用”しても、自慢にはならない。 
 上半身を鏡に映しながらぼくは中学校の理科の先生を思い出す。どっちが上がっていたのかは忘れているが、片方の肩を下げて、つまりもう片方を心持ち上げて歩く姿が、颯爽としていた。古典的な二枚目だったから、世を拗ねている風にも、世間に刃向かっているようにも見えた。そのくせ、笑うと八重歯とともに人なつこさが溢れ出し、男子にも女子にも人気のある先生だった。当時三〇歳を越えたくらいだったと思うが、卒業して何年かあとに亡くなってしまった。肩のせいかどうかわからないが、いま思えば、笑い顔の奥に一抹の哀しみが宿っていたような気がする。
 ぼくの場合は、その先生ほどの哀愁感はなく、はるかに長く生き延びている。
 そもそも、いつからこうなってしまったのか。原因探しは止めて、ルーツをさぐりたくなった。あるいは小さい頃からこうだったのかも知れないと思い始めたのである。
 一枚の写真を引っ張り出した。掘り井戸の脇の南天の木をバックに高校生になったばかりと思しい自分が、古ぼけた自転車に乗ってポーズを決めている。傾がせているのは学生帽だけではなかった。肩が左から右へ10度ほどの角度で傾斜しているのはもちろんだが、躯の縦の線までよれよれではないか。縦の線とはいわば芯棒であり、大切な背骨である。異母兄が東京からお嫁さんを連れて帰ったときだと思う。となり近所の故老が居合わせて、「お前もこんなきれいな人をはようもらいたいんじゃろう」と目の前でからかったのを覚えている。そのいわば「図星」でぼくの躯はこちこちになってしまったのにちがいない。
 最近は腰骨が躯を支えきれなくなって、気が付くと背骨の力が抜けた状態で坐っていることが多い。これは自覚症状であり、人は気付かない。それだけに、ここだけは、何としてでも矯正してみせねばならない。(2001年6月13日)