記憶からの風景
            
              
 何年も、何十年も前の、どうでもよいようなことがふいに思い出されて唖然とすることが多くなった。赤面したり、冷や汗をかくようなものもなかには紛れ込んでいる。数日前の、いや、つい一時間前のことですら忘れてしまうというのに、なんでこんなことが記憶の底から浮かび上がってくるのか、どうして永遠に消えてしまわないのか、腹立たしいような、おかしいような気分になる。
 小学生のころはじめて都会に出た同級生が書いた詩の、担任が褒め上げた一節「車が、お魚になった」や、二十歳をすぎたばかりの女の子が「虫歯、うつるかな」と真顔で訊き返してきたことなどがなんの脈絡もなく噴き出してくる。具体的な情景をともなっている分だけ時間の観念が薄く、今のことよりももっと現実的である。あるいは、そういうものだけが、池沼の澱のように底に残っているということなのか。
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 この年には、明けて早々に鎮守の大小二つの御札が届いた。ひとつは箪笥の上の、にわかづくりの神棚に前年のものと取り替えて祀るのが習いである。一日一回その前で手をあわせるようにしている。時に失念したり、誰も使わなくなった隣りのおもちゃの三面鏡に、つまり自分の顔に向かって柏手を打つヘマをやらかすが、鎮守の神様への畏怖、信頼の念は年を経る毎に強くなる。
 戸数八十あまりの村の神社は各家の戸主が一年交代で神主を勤める。生業の傍ら五年間もの厳しい修行ののちに神主となる。一年間は神職に専念する。昔ながらの《頭屋制》をいまに伝えているのである。民俗的にも貴重な資料だと思い、ちょうど十年前に、この分野にも造詣の深いある人に話した。
「それは、人身御供ですよ」
 即座に答がかえってきた。なるほどそういう見方もあるのかと目を見開かれた覚えがある。
 もっとも、この《一年神主》は忽然と戸口に白羽の矢が立って、ぬばたまの夜に神に召されるのではない。予め順番がきまっている。ことの起こりはどうか知らないが、いまは、百年、二百年にわたって連綿と続く日常の生活にとけ込んでいる。全国の村々の例に漏れず過疎は過疎だが、制度が立ちゆかなくなる気配はない。七年前に死んだ父も勤めたし、家を継いだ兄も年齢からいけば十年以内にやることになる。神主となれば精進潔斎はもとより、守らねばならない禁忌が多い。夫婦親子の情もひとつ屋根の下にいながらにして絶たねばならない。まさに神に身を捧げる一年ではあるが、それしも村内にあっては日々の営みの一部を構成する。しかし、だからといってこれが人知を超えたモノの配剤でないということにはならないのだろう。
 人身御供!
 それにしても、このことばの響きはなつかしい。昔話でしかお目にかからなくなった犠牲者の哀しみや美しさ、つまり悲劇の現実性も、澱をかき回すように記憶をまさぐっていけばしんみりと再現できるかも知れない。そんな気にさせる。
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 もうひとつの、小さな御札は、
「半紙にでもくるんで、肌身離さず持ち歩いていなさい」
 送り主の田舎の老いた母のことばにしたがって、日光山輪王寺、伏見稲荷大社のお守りと一緒に財布にいれた。当時中学生の娘がいつどこで観察していたのか「お父さんはマザコンだ」と批判めいて言ったことがある。これは度肝を抜かれた記憶である。それを認めるわけではないが、当方は昔から母の言葉に逆らわない主義である。正確には学齢に達して以降である。何があったか、はっきりと覚えている。ある日悪さの度が過ぎて夜になっても家にいれてもらえなかったのである。それ以来村一番のガキ大将が瘧りが落ちたようにおとなしくなったといわれる。これは、一番古い記憶として残っている。情景は変色しているに違いないが、忘れられるものじゃない。
 そんなことを知ってか知らずかマザコンと断定した娘は、正月二日、四、五キロ手前の大仏付近に車を駐め、二つの切り通しを越えてやっとの思いで辿りついた鶴岡八幡宮で友達の分と合わせて三つのお守りをもとめている。そういえば先に長年御世話になっている二つのお守りの一つは大事な人の旅行の土産であったかもしれない。
「小さい頃宮さんには白い馬がいたよな。いま神殿の横にお墓があるやつ」
「そんなの、いやせんよ。墓はあるような気がするけど」
 あやふやな記憶もある。ままならないものである。
頭のなかでは、初詣での人波にぎっしり埋まった参道を、その昔源実朝が暗殺された同じ道を白馬が駆け抜けてゆくのだ。もはや記憶ではない。凡庸な白日夢である。フィルムが切れて真っ白になったスクリ−ンのように参道から人の波が退いて、

 いづくよりともなく、
 美僧あらはれ来て、
 将軍を犯し奉る、
 はじめ一太刀は笏にて合わせ給へども、
 次の太刀にぞ御首落され給ひけり、
 (太宰治「右大臣実朝」より孫引き)
                                                      
 こんなことばをふと呟きたくなる場面だった。
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「おやじは、どうしていつも油揚げだったんだろうな」
「そうだったかい。もう思い出せんよ」
 これは、架空の対話である。しかし、記憶が確かだとすれば、三十年以上前、父の土産はきまって油揚げだった。母はここで、当時のように、
「自分が食べたいからでしょう」
 と冷ややかに言うこともできるのだ。ところが、そんなつまらないことをいまだに覚えているのは、手元を離れてからはらはらさせられっぱなしの、そしていまなお鎮守の御加護なしでは危ういと判定せざるをえないこの愚息だけである。ほかに考えることはいっぱいあるだろうに、と母は呆れかえる。当人にしても、いつもこんな取るに足らないことだけを考えているつもりはない。ふと思い出されて、かえって困惑しているくらいだ。とはいえ、気にはなるのだ。
 なぜか。それも実はわかっている。崖の下に大きな石塊がゴロゴロしている渓流が走り、反対側は深い森になっている一里の道のりを、油揚げの入った袋をぶら下げて、鼻唄まじりに歩く父の姿は今の自分にあまりにもよく似ている。会合か、親戚まわりの帰りである。大酒が入っているから足はフラフラ、おまけに深夜に近い時刻である。無事帰り着けたらお慰みという場面だろう。流れる水が間断なく岩にぶつかる音だけが頭上を超えて森のなかに吸い込まれてゆく。幽霊にでくわすか、狐に化かされるかなら、足をふみはずして崖下にころがり落ちるよりはましである。
 狐に化かされた人の、嘘とも真実ともしれぬ話は本当に恐しかった。肥え溜めを風呂と思って入り上機嫌で朝を迎えたとか、茨の生い茂った山中を一晩中歩き回って傷だらけで帰ってきたなどは子供心にゾッとするものがあった。本人はその間の事情を一切おぼえていない。記憶も狐に奪われるというわけだ。
 すると、父の油揚げは狐をおびきよせる手段だったのかもしれない、と、いよいよ似てきたその息子は考え始める。おびきよせてどうするのか。死に際にカッと目を見開いて母をみつめたという父は、倒れてから死ぬまでの三週間物が言えない躯になっていた。目だけで大好きな酒が欲しいと言い、おっとり刀で駆けつけて二日間だけ傍にいた不実の息子からしずくをなめさせてもらって満足げだったのだ。その目が母に何を訴えたかったのか、まだ思いつかないが、はるか昔の、ありうべかりし狐との対話なら想像できる。
『できるものなら、自分で化けてしまいたいものだが、生憎そんな才覚はない。今宵かぎりであってもいい。せめて、なにもかも忘れてしまいたいよ。この安気さが朝まで続くように。おまえにできるなら、そうしてくれ。そのかわり、命だけは奪わないでくれよな。代わりといっちゃなんだが、ほら、大好物の……』
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 退屈な一月が終ろうとする頃、農道の端に車を停めて立ち小便をする五十がらみのタクシ−の運転手を見た。見るべきじゃなかったなあとホゾをかみながら目を逸らせると秩父の山々が鋸歯のような稜線を連ねている。黒い地肌が、たなびくうす雲に滲み出て、まっ昼間なのに幽玄きわまりない。ああ、下品なものが目にはいったおかげでこんないいものがみえてくる。いつまで覚えていられるかわからないが、「若葉が目に沁みるなあ」大事な人とのあまりにも陳腐すぎた会話のことなどがまたふいに思い出されて狼狽しないように、新しい記憶で古い記憶をおおい隠してしまおう。(「midnight press(新聞版)第11号」1992年5月)