畏るべし、犬彦

 四方田犬彦氏が「新潮」3月号に発表した「先生とわたし」を読んだ。
 この作品は、高名な英文学者・由良君美との出逢いと別れ、そして死までを、評伝風に綴っているもので、変哲がないといえば言える。

  しかし、かけがえのない師の一生を辿る途次、「人はなぜ教師になるのか。ある人間が他人を前にしてモノを教えたり、ある技術を授けたりするという行為とは、いったい何なのか。」と自問し、スタイナーや山折哲雄の論文などを援用しながら、法然、親鸞、道元らにも触れつつ、師弟の本来の姿を探っていくあたりから、俄然精彩を放ってくるのである。
 
  四百枚のこの長編は、こんな文章で締めくくられる。
「由良君美という存在の再検討は、かつては自明とされていた古典的教養が凋落の一途を辿り、もはやアナクロニズムと同義語と化してしまった現在、(中略)小さからぬ意味をもっているのではないだろうか。」

 おりしも同氏は、「図書」(岩波書店)で古典を再考察する「日本の書物への感謝」を連載中で、十七回目の五月号は『さんせう太夫』であった。十五,六年来毎夏、「映画史」の授業で上映しているという、溝口健二の映画「山椒大夫」に触れて、「もしわたしが再監督を任されたら、溝口の虚無的な絶望とは対照的に、ここで(引用者注:厨子王が老いた母親に杖で追い払われ、打たれる最後の場面)華やかに音楽を入れ、父親と姉を蘇らせることだろう」「登場人物のすべてが神仏の本地であったことを観客に告知しながら、映画を終わらせる」と書いているのである。

  あの悲しみにまみれた物語が、こんな結末ならば、もう一度体験してみたいではないか。ここに「師」よりも大胆な意志を持つ「知の文人」を感じたのである。畏るべし、四方田犬彦。

                     (『新刊展望』(日販)2007年8月号、投稿。改題)