故 事

  

  道なりに右に曲がると舗装が切れて緩い上り坂になった。ついさっきまで地平線の衝立のように視界を覆っていた山顛のふところにいつのまにか入り込んでいる。 段々畑をみそなわす鎮守の祠のように簡素で、開放的なたたずまいの農家が曲がり角ごとに建っていた。石ころだらけの道はそれらの家々を縫い込んで、螺旋状に上へ上へと伸びて行く。摩耗の跡が忍ばれるエンジン音とタイヤが砂利を踏みつける音が、ときおり木霊となってはね返ってくる。外界からのシグナルはそれだけだった。
「出して、見てくれるか」
 ダッシュボードを指差すと、全県区分地図を取り出し、くたびれたGパンの両膝の上に手垢にまみれ背表紙の捲れ返った地図帳を広げはじめた。
「こんな道、載っているの?」
 眉間にたて皺を寄せて首をかしげる。
「教えられた通り来たはずなんだけどな」
「揺れがきつくて、だめ。眼がくるくる回ってきたわ」
「しかし、家はあっても人の気配はなし、だなぁ」
 いつしか地図帳を閉じ、指先で背表紙をなぞり、束を弄んでいる。元の場所にも戻しかねて、繰り返しこみあげてくるあくびをだるそうにかみ殺しはじめる。狭い運転台に並んで坐っていてもあくびは感染してこない。ゆうべ夜八時を過ぎてからやっと見つけた旅館でぐっすり眠ったせいだった。臓腑の底からたまたま食道を逆流してきた、市子のとは似ても似つかないおくびを久夫は掌で押さえつけた。
 だだっ広い野原や田圃を貫いてその道はまっすぐ延びていた。行き交う車も人もなく、ものさびた遊園地でメリーゴーランドに乗っているような気分がしたものだった。幽かな音を立てて流れる川に架かる小さな橋に突き当たり、それを越えたあたりから十字路やT字路に次々と遭遇した。右も左も校長が手配してくれた旅館に通じているように思えた。宵闇に沈湎した木造の民家を縫って行きつ戻りつを繰り返していた。
「叔母さんに電話しないと心配するかな。心配させるのも面白いね。なんかわくわくするね」市子は十代の娘のようにはしゃいだ声で言った。
 ようやく辿り着いた、日本海に抜ける街道沿いの旅館は長屋門を構えた壮厳な造りの本陣跡だった。住居と客室をつなぐ渡り廊下の奥にじっとりとした闇が潜んでいた。能面のように真っ白な顔の女将がその闇の中から音もなく現れ、「残り物ですけど」と遅い夕食を出してくれた。四十過ぎの寡婦という風采だった。笑うとうすく紅を塗った唇の両端に若い頃のなごりのような靨ができた。面妖で、かえって愛敬があった。淡水魚と山菜を基調にした食事を餓鬼のように平らげ、布団に入るとすぐに眠りに堕ちた。早朝にしては生温かい陽射しで眼を覚ましたとき親密さを偽装するように同じ布団に寝ていた市子は「わたしは明け方近くまで眠れなかったのよ」とまるで鬼の首でも取るように言った。ゆうべの陽気さはすでに鳴りを潜めている。あらためて部屋を見回すと畳がところどころ擦り切れ、隣室との境の襖には破れ目が幾つもできていた。
  焼き上がった作品を届けに行った県北の小学校で校長室に呼ばれ「あした分校に出向いてくれんかね。カンフル剤がないと子供も職員も退屈するんだよ」と頼まれたのだった。急で悪いんだけど、と一応断ってはいたが威圧的な感じがした。自身もその堂々とした体格や厳かな風貌ゆえに、時代にそぐわないものを持っているこの校長が、《なつかしかりし土のかぎろい》をキャッチフレーズに小学校を廻り歩いて「陶芸教室」を開く男女に関心を持ち、好意を寄せてくれるのはわかった。
  いま、路面の凹凸が車体を揺らし躯の芯棒を危うくさせる。地の底から突き上げられているような、不安がこみ上げてくる。あの好意はかえって重力を消し去る。なんとでも理由をつけて断るべきだったか、と思う。そうしておればいまごろは、のんびりと煙草をふかしながら、粘土から傘立てを作り上げる義理の叔父のていねいな仕事ぶりを眺めている頃だった。
「とめて」
 悲鳴のような声に久夫は慌ててブレーキを踏んだ。
 市子は助手席のドアを素早く開け、あっという間に先すぼまりの道に向かって走り去った。背中に紗のような霧がかぶさっていった。
 数分後、市子が胸にだかえてきたのは煎餅を大きくしたような、ひらべったい一体の地蔵だった。緑の苔が上半分をおおい、下半分は真っ黒の土にまみれている。「たったいま飛び出したという風だったわ。ということは、助けてくれという意志表示かも」
「風か猿のいたずらだろう。戻してこいよ」
「いやよ」
 予想外の剣幕で言い返した。
 中腹を思わせる平坦な道が続くようになった。両側は背丈の長い雑草が風のざわめきに合わせて穂先を揺らす原っぱだった。真ん中のただ一本の道は雲雀が狂喜するような澄んだ五月の空に通じている。伊吹山系の北の果て、地図帳からも抹殺されるほどのこの地が架空の隠れ場所であるような気がするのだった。
 蛇行しはじめた坂道を登り切り、緩い傾斜の道をさらに十数分走ると小さな集落が見えてきた。分校は点在する民家の中心に、若葉がまだ棘々しい欅の木に囲まれて、あった。山のてっぺんの窪地に建てられた木造二階建ての校舎だった。鎧のような羽目板には雨風のせいで白い霜降り模様が刻まれている。子供の背丈ほどの一対のコンクリートの門柱を擦り抜けた。玄関の横にバンを停めると、
「ひと眠りしてから行く」
 鳩尾に掌を当てながら言った。頬に稲妻のような青白い亀裂が走っていた。
「罰があたったんじゃないだろうね」
 足元に置かれた地蔵を一瞥して言った。宥めるつもりが、つい酷な言い方になっていた。しばらく遠ざかっていた痛みがまたぶりかえすかも知れないと危ぶみながら、着替えを始めた。

 正面玄関を避けて校舎右手の児童用の昇降口にまわり、見当をつけて入ったところが用務員室だった。用件を告げるまでもなかった。「待ってましたよ。でもまだ授業中かなぁ」そこに居合わせた男は優に一八〇センチを越える長身なのに爪先立つようにして柱時計を見上げ、濃紺の作務衣をまとった久夫の全身を眺め回した。「オヤジから聞いています。ぼくは長男なのになぜか三郎なんです。呼び捨てにしてもらって結構ですから」などとあけすけな態度で話しかけてきた。促されるままに板の間の椅子に坐った。水気を吸うと貼り付くシールのような三郎の視線から逃れるために目の前のテレビを見た。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボが映し出されていた。瓦礫の堆積した街中をカメラはジープと一緒に疾走する。「戦火の中、決死の取材です。ビデオカメラが世界ではじめて実戦の模様を捉えました」キャスターの声がそのフリージャーナリストによるスクープ映像にだぶって聞こえた。カメラは骨組みだけが残った建物のそばに立つ人にゆっくりと接近していく。「誰がこれらの花々のお守りをしてくれるというの?」被弾して茎が折れ地べたから直に咲いたように蹲まった薊の花を掌にのせて差し示しているのはどっしりとした大樹の幹のような老婆だった。攻撃を受けるとわかっていても住人は街を逃げ出す気配がない。死ぬか、這いつくばってでも生きのびるか、ぎりぎりの地点に立ってなお花々という壮大な比喩を全世界に向けて発信している。それがフリーカメラマンの意志か、おそらく昔からここに棲んでいる老婆自身の願望か、久夫には見極められなかった。サラエボの映像が終わる頃、チューブからゲル状の物質を絞り出すように一、二回躯を震わせた。
「手伝ってくれるのか」
「もちろんですよ」
 三郎は嬉しそうに応えた。
 肌にひんやりとする、木造建物特有の湿けた空気の流れる黒光りした廊下を先導しながら「いいですね。うらやましいかぎりです」と三郎はその体格には似合いそうもない甘ったるい口調で言った。両手に轆轤の入った段ボール箱を軽々とだかえていた。
「ある種の夢ですよね。夫婦でラーメン屋をはじめるような。いや違うかな。もっと、高尚な理念がありますよね」
「ないよ、そんなもの」
 三郎は完全には納得しかねるというように間遠に数回首を縦に振り立てた。三十歳の久夫よりはいくつも若く見える三郎に苦々しい韜晦は通じなかった。
「ぼくも弟子にして欲しいなぁ」
 工作室には鼻の粘膜を引き剥すような刺激臭が漂っていた。理科実験室で昔嗅いだ匂いにも幼児の乳臭さにも似ていた。
 轆轤といっても木の円板を二枚重ね、上の板だけ手動で回転できるようにした簡便なものだった。六つの広い机の縁に沿って等しい間隔で置いていくと三十五人分が用意できた。黒板を背にして、床より十数センチ高い教壇に立ってみた。広い工作台がみはるかせた。子供はまだ一人もいない。いちばんうしろにひと仕事終えた三郎が所在なげに佇んでいる。一瞬視線を躱したがすぐに向き直って眼を瞠いた。威厳のあった前世紀の遺物のような校長の顔を思い出した。似たところはどこにもなかった。
「ほかになにをすればいいんですか。言いつけて下さいよ」
「もう一度車のところへ行って、荷台から土の入った袋をとってきてくれるかね」
 三郎は機敏にきびすを返し、工作室から走り出た。本物の弟子のような殊勝げなうしろ姿を漫然と見遣りながら地蔵を子供らに見せることを久夫は思いついた。以前棲んでいたアパートは六道の辻を越えたところにあった。移り住んでまもなくの頃江戸時代からの街道に突き刺さる小道が他に四つあることを確かめてなぜかほっとした。その辻でうずくまった市子の背中に向けて祈りとも呪文ともつかない言葉を二年来何回も呟いてきたような気がする。市子は暗い天に背中を見守られながら人待ち顔でふり仰ぐ。自身が路傍に打ち捨てられた地蔵のようであった。瞳の中に久夫の姿は映っていなかった。
 追いかけるようにして車に戻ると、唇の隙間からせわしなく荒い息を吐き続ける市子を三郎はガラス越しに見ていた。押し退けるように助手席のドアを開け、足元の地蔵をひっぱり出した。
 眠ることが、どこにあるかわからない痛みをやり過ごす唯一の方法だった。それを知っているのは市子だけだ。ただの眠りではないと気付いた三郎は何度か振り返りながら、ドンゴロスの袋を引きずるようにして久夫のあとをついてきた。
 地蔵は、教卓のうえに土まみれのまま横たえるしかなかった。作業に入る前は物珍しそうに頭を撫でたり、へそらしき窪みをいじっていた子供らもいまは見向きもせず水を含ませた土に熱中している。「よくこねるんだよ。自分の掌になじませるんだ。そうすると世界にたった一つの、いいものができるんだ。身近に置いておけるモノ、できれば日常使うモノがいいんだけどな」作業開始の合図の代わりになぜかこんな説教臭い言葉も口を衝いて出る。
 見回りに出かけようとしたとき、金縛りにあったように足が動かなくなった。首を捩って教卓の上の地蔵を見た。頭の輪郭はあるが顔がなかった。かつてはくっきりと刻まれていたはずの眼や口や鼻が平らに均されている。何百年にもわたって風雨に晒されてきた石の作りものだった。眼だけを動かして子供たちの中から三郎を探した。ついさっき三郎は「ぼくもやりたいなぁ」と今度は久夫の目を見据えて言った。眼の奥に鋭い光りを宿していた。「ああ、やってみるかい。手伝ってくれたからなぁ」久夫の言い方がよほど気に入ったようだった。轆轤と余った土を慣れた手付きで工作台の端に用意した。子供らに混じっていまは轆轤の上の土と格闘している。ときどき顔をあげて久夫の感想を待ち望むような眼をする。弟子への思いを引きずったように何か言いたげだったが、邪心のない澄んだ眼に久夫はホッと一息ついた。すると、行け、と地蔵がかすかな声を発したような気がした。鉄の枷を纏った足がするすると解けはじめた。
 
 背後からカタチになり始めた陶土を覗き込みながら久夫はゆっくりと歩いていった。子供の自由に委せるというのが思いつきに過ぎない陶芸教室のやり方だったが、いつも市子は子供たちの間を回り歩いて有効な手助けをしてきた。そうせずにはいられないという切迫した行動にも見えた。その市子はいま車の中でほぼ二ヵ月ぶりに襲ってきた痛みを束の間の眠りによってやり過ごそうとしている。
 大学病院の若い医師が不定愁訴症候群という診断を下したのはS町に移ってすぐのことだった。皮膚の裏、内臓の襞に蜘蛛の巣のように張り巡らされている痛みの弦は二年来増殖を繰り返してきた。その弦の上を独楽鼠があわただしく駈け廻りそのたびに電流に触れる時に似た痛みに襲われる。内からも外からも鎮める手だてはない。「一種の自律神経失調症ですけどね。できるだけ穏やかな環境をつくってあげることですよ」久夫と同年輩のその医師は訳知り顔に言い「毒にも薬にもならないけど、気休めにはなるから」とバランス剤を処方してくれた。職務を逸脱したような自分の言葉にすぐに気付いて赤面するほどのナイーブさを持っていた。
 市子は普段着の上にオーバーを羽織って久夫を新宿警察署まで迎えに来た。寒さを防ぐためビルとビルの隙間に潜り込んであどけなさの残る顔ながら絹の光沢を放つピンク系の派手な服を着た少女にコートを掛けてやっただけだった。巡回中の警察官には抱き合っているように見えた。中学生だと言っていた自称家出少女は「連れ込まれて、エッチなことをされそうになったわ」と突然警察官に駆け寄り狂ったように喚き立てた。言われてみればそういう情動がなかったとは言いきれず、かといってあったとも断言できない。ぶち込むならぶち込めと観念したころ、久夫は始末書を書くだけで放免された。その背後には中空をさまよう塵のような市子の存在があった。担当の刑事は「なんとかしてやれよ」と目を伏せたまま小声で言った。三十を目前にした男としては覇気がないとようやく自分を客観的に見つめることができた。これは市子の引力だと思った。
あるいは二年前の列車事故で理不尽な死を遂げた市子の係累のものかも知れない。とすれば、ただの引力ではないのだった。
「うちの仕事を手伝ってくれればいいよ。久夫さんが嫌だというなら、近くに工業団地もあるから」と叔母の繁子が言ったのはその直後だった。叔母夫婦は自宅の前の畑にプレハプの作業小屋を建て、市価で一つ数万円もする傘立てや庭に置くテーブルを型どり、裏手の持ち山の斜面にある登り窯で焼いて市場に出荷している。「すぐ逃げてくればいいよ。ここは昔からそういう場所なんだから」とかねてからの主張を繰り返した。
 ことしは標高三百メートルの隠れ里のようなS町にもいつになく多く雪が降った。列車事故の三周忌の年にあたり、犠牲者の霊を鎮める雪だと叔母の繁子は市子に教えていた。三月に入っても大雪の日が何日か続いた。小止みなく落ちてくる白い虫のような雪を眺めながら、小学生相手の出張陶芸教室を市子は思いついたのである。
「あなたは、いっぱしの陶芸家のようにデーンと構えていればいいわ。あとはすべてわたしがやってみる」
 一からやり直そう、そんな風に言っているようにも聞こえた。氷柱の先のように細まっていくばかりで、どこへ行き着こうとしているのかわからない二人の関係に直感的に危機を抱き、自らの力で不定愁訴症候群と闘うしかないと、季節がひとめぐりした果てに市子は観念したのだった。なにもかもが市子の才覚だった。県の広報紙に案内広告が出て三日後には隣町の小学校から春休み直前の課外授業のひとつとして照会の電話が入っていた。「上々のスタートだね」叔母夫婦のつてを頼って赤茶色のこの地独特の粘土を買い求め、陶器商組合から手動式の轆轤を借り受けた。それらを載せる車は、駅前で陶器を商うかたわら全国の百貨店と提携して販路を拡大している市子の幼なじみから用済みのバンを譲り受けた。久夫に禅僧が着るような藍染の作務衣を当てがったのも市子だった。「このほうがそれらしくていいわよ」と生真面目な顔で言った。二年来の宿痾からやっと解放されるという晴れ晴れとした顔でもあった。
 窓の外には黒土におおわれた運動場とそれを取り囲むように立つ欅の木が何本か見えた。下枝の若葉の黄緑が目に突き刺さってくる。
 工作台の真ん中あたりに窓を背にして細長い花瓶を作っている少女が目に入った。原色に近い赤の、ムームーのような一風変わった服を着ている。蝋を塗ったように蒼白い顔が胴体や下半身に比べて異様に大きくみえる。少女は土を何回もひょろ長く伸ばしそれが屹立を拒んで崩折れる様を無念そうに眺めていた。久夫の眼の前で伸ばす作業を何回か繰り返した。少女にとって轆轤は無用の長物だった。
「そいつは大変だ」
 一緒に考えてみようというほどのつもりで言った。少女は人なつっこい笑みを浮かべながら久夫を見上げた。同時にどこにも行かないでと言うように作務衣の裾を握り締める。少女の白い骨の透けた手の甲にそっと掌を重ねた。なま暖かい、粘土に似た感触があった。
「長い棒のようなものがあればいいんだけどね。手びねりといってね、細長くうどんのようにした土をその回りに渦巻状にぐるぐる巻いていって、カタチを整えたあとで棒をゆっくりと引き抜くんだよ。でも、どうしてこんな難しいものを作る気になったの?」
「机の上に置いて、風の花を挿しておくんだ」
「風の花?」
 久夫の反問に頓着することなく少女は裾を握り締めたまま頭を左右に振った。利発そうで目鼻立ちが整っていた。十何歳という実際の年齢よりもおとなびて見える。胸のふくらみも形のいい饅頭のようだ。新宿で出逢った少女をふと思い出した。「終電に乗り遅れたんでしょ? 一緒に遊ぼ」甲高い声に本当は虫酸が走っていたのだった。
 少女の手を振り払って歩き出そうとしたときいちばんうしろで腕組みをして突っ立っている市子と眼が合った。いつからそこにいたのか、久夫は気付かなかった。頬にある数条の亀裂が赤く光り、視線は久夫の一挙一動を刺し貫くが、日常から逸れるような難詰の徴しはなかった。痛みを遠ざけることにいったんは成功したと思った。
 頃合いを見て「みんなそろそろ完成させるんだよ。ちゃんと模様も描けたかな」と言うとその少女がいち早く反応した。少女は頬を膨らませ、三角に尖った眼で睨み返す。もちろんそうするためにわざとこしらえた眼だった。市子が少女の背後に回り込んで「ちがうものにしたら?」と囁いた。少女はえらの張った頑固そうな顔で市子を睨みつけ、どこで見つけたのか右手に握り締めた型棒代わりのすりこ木で市子の躯を叩く仕草をする。久夫がアドバイスしてからも何度も失敗を繰り返し、筒の長さがだんだん短くなり、思い通りにカタチを成さない。かんしゃくを起こす寸前に久夫の声が聞こえてしまった。「まだできていない人、手を挙げなさい」いちばんうしろで黒板を背にしてさっきまでは市子と並んで子供らを見守っていた二十代後半にも四十近くにもみえる童顔の女教師が掠れた声を出した。引っ詰めにした長い髪が肩の上で不自然な揺れを繰り返している。やや遅れて少女ともうひとり坊主頭の男の子が手を挙げた。「あと十分間延長します。出来上がった人は、最後の見直しをしてわからないことは先生に聞いて下さい。先生、お願いします」久夫は最後の「先生」というのが自分のことだと咄嗟にはわからず両眼を天板に這わせた。少女の回りには女教師と三郎が駆け寄っていた。
 三郎が少女の頭に手を置いた。「なんでなのよ。もう、いやだぁ。何回やってもうまくできない」金属質の叫びにも似た声がガラス窓を震わせ、五月の風に乗って小鳥のさえずりのように空の高みに伝播していった。山の上の分校がこの黄色い単一色の声に包み込まれていく。切り裂かれるのは空気であり、芽ばえたばかりの若葉だった。少女は背伸びをして三郎の頬を打った。ペチャという狃れた音が響きわたった。三郎は芝居がかった動作で数歩うしろへよろけた。女教師が代わりに抱きかかえようとしてかがみ込んだ。少女がそのブラウスに手を掛けると、襟元のボタンがひとつこぼれ落ち、肩から胸にかけての、顔や腕に比して異様に白い肌がむき出しになった。女教師は片腕で胸をおおいながら「言うことを聞かないとこの人たちに遠くへ連れて行ってもらうわよ」と言った。いまどきそんな言いぐさが脅し文句になるのかと苦笑し、近くでその言葉を聞いていた市子を教壇の上から見た。女教師の腕の中で少女はもがき続けた。右手は若さを蘇えらせるシンボルのような女教師のポニーテールを握り締めていた。あらわになった肌を隠すことに気を取られた隙に少女は女教師の腕を逃れ、ついにカタチを成さなかった陶土を床に投げつけた。「あっ」と少女のものと変わらない金切り声を挙げたのは市子だった。土は元の単なる塊に一瞬にして戻った。
 床に這い蹲って市子は散乱した陶土を拾い集めていた。女教師が抱きかかえるようにして工作室から少女を連れ去った。それを見届けるとやっとふんぎりがついて市子の元に降りていった。
「細長い花瓶だったっけ? みんなのがあって、自分のだけないと知ったら、またまたかわいそうじゃないの」
 市子の言葉に頷き、散らばった土を一緒に集め始めた三郎の背中を遠い景色のように見ていた。

 荷台の、カタチを成したばかりの土の作り物の隙間に三郎は横たわっていた。土いきれで窒息するのではないかと危ぶむほどだった。信号待ちの合間に振り向いて「こんな窮屈な思いまでしてついて来たいものかね」と皮肉を言うと「学校に較べればいわば弦と弧、刺激の質が違います」と理屈っぽくうそぶいた。やっとめぐり逢えた恋人のように地蔵を両腕に抱きかかえていた。
 子供らの作ったモノを一つ一つ新聞紙にくるんで蚕棚に似せて改造した荷台に積み終わると「焼くところを見学させてくださいよ」と久夫の顔を拝み立てた。弟子からは譲歩した申し出だったが「オレを救い出してくれ」と言わんばかりの必死の形相にみえた。市子も「いいじゃないの。賑やかなほうが気が紛れるわ」と投げやりに言った。
 あらかじめ二人分余計に注文しておいた給食を三郎は用務員室に運び入れ、一緒に行けることがよほど嬉しいのかなにやかやと世話を焼いた。食べ終わると「ちょっと見せたいものがあるんだけど」と校舎裏手の小高い丘に久夫だけを誘った。「きっと喜びますよ」同道できるようになったお礼のような口ぶりだった。さっきの少女があとをついてきた。午後の授業はすでに始まっている時間だったからこっそり教室を抜け出してきたのに違いなかった。三郎は二度、三度と手で追い払う真似をした。その都度立ち止まるが、二人が歩き始めるとまた少女も動き出す気配だった。
 全体が見渡せる小ぶりな丘の裾には直径が背丈ほどの口をぽっかりと広げている洞穴があった。「入りますか?」丘の稜線によって截りとられた蒼空の彼方に眼を据えて三郎は言った。「知っているのは、さっきの女の先生だけなんです」意味ありげだったが敢えて詮索する気は起こらなかった。穴の中には鼻にこもる金気臭い匂いが漂っていた。「もともと隕石が衝突したあとみたいに少しはあいていたんですけどね。ここで昼寝をするのがいまやぼくの唯一の道楽なんですよ。変わっていると思うでしょ? すごく気持ちいいんですよ」掘り進めているのか? と訊こうとしてまた踏みとどまった。穴の中でくぐもって聞こえた三郎の言葉を奇妙なものとは思わなかったのである。訊き返せば、そんな潜在意識がばれてしまう気がした。代わりに屈み込んで三郎が何回か横たわったに違いない莚の目を掌で撫でた。背中にこそばゆいものを感じて振り返ると、少女が少し離れた窪地に隠れるようにしてそんな久夫の動作をじっと凝視めていた。大人二人の秘密を見つけて囃し立てるか仲間に入れろとねだるか
どちらかだろうと思っていると白い顔の中に暗い口が開いて突然笑いだした。久夫は腕を差し出してこちら側に来るように誘った。少女は身じろ
ぎひとつしなかった。二、三歩出口に進んでさらに腕を突き出すと西に傾き始めた太陽があるばかりで少女の姿は忽然と消えていた。
 荷台は三郎にとってさしずめ移動する穴巣だった。
 信号で停まる以外は一度も休まずバンを走らせた。市子は助手席で時折薄眼を開けてあたりを見回し、頷くようにしてまた眠りに入る。そん
なぜんまい仕掛けの人形のような仕草を繰り返していた。
「どこか悪いんですか」
 三郎は市子が深い眠りに入ったのを確かめてから身を乗り出して訊いてきた。
「もう大丈夫だよ。神経的なものでね」
「ぼくと似ているかもしれませんね。人に馴染めなくて、休学三年目なんですよ」
「………」
 あの事故さえなければとふと思った。市子の痛みの故事を自分以外のところに求めるとすれば、いつもあの事故に辿り着く。こんなのどかな田園地帯で犠牲者四五人という悲惨な列車同士の衝突事故が起こり、それを東京の片隅で、朝起き抜けに、ブラウン管越しになぜ知らなければならなかったのか。父と母と、両親以上に可愛がってくれた兄を市子は一度に失っていた。
 陶土を取り崩す小山の麓に建つ叔母夫婦の家にバンを滑り込ませると、ちょうど日干しにした型土を作業小屋に運び入れていた繁子が近づいてきた。荷台から降り立った三郎を見るなり、「いまの若い人は背が高いね。子供相手の仕事だとばかり思っていたけど、こんな大きな兄ちゃんもいるんだ」大袈裟に驚いてみせた。
「言いつけてくれれば、なんでもやりますよ。ひと味違ううどの大木です」
 三郎も軽妙にまぜっ返した。
「こんなのまで拾ってきたのよ」
 荷台から市子は真っ先に地蔵を引っ張りおろした。
「奥さん、ぼくがやりますよ」
 三時間近くの間ずっと地蔵を抱きかかえてきた三郎が慌てて市子の傍に近づいた。
「おやおや、どうしようかね。いまさら廻り地蔵でもないしね」
 繁子はその石の塊が形の崩れかけた、泥まみれ、苔だらけの地蔵であることを知ると眉根を寄せて言った。咎め立てする口調ではなかったが、困り果てたようには見えた。市子も敏感に察した。
「廻り地蔵って?」
「お祝いごとがある家を求めて村から村へと渡り歩くのさ。何日間か泊まると、大勢の若衆に担がれて、次の家をめざすんだとさ。ずっと前のことだから、もう昔話みたいなものだよ。わたしだって直接見たわけじゃないんだよ」
「道路の真ん中に寝ていたの。そのまま行けばひき殺してしまうところだったのよ。それでも放っておいた方がよかったの?」
 捨て猫や捨て犬とは訳がちがうがいまとなっては自分のことを一番気に掛けてくれる叔母の前で小学生のように屁理屈か揚げ足取りともとれる物言いをして精いっぱい甘えてみせる。ひき殺すなどという表現にも異和は感じられない。
「一度持ってきた以上戻せないしねぇ。おじちゃんに頼んで、山腹に穴を掘って、祠でもつくってもらおうかしら。これも供養のひとつになるかも知れないしね」
 久夫は金縛りを解いてくれた地蔵の来歴、行く末には口を挟まず、三十六の土の塊りを荷台から降ろして、軒下に敷いた莚の上に並べはじめた。実直な職人気質の叔父は、一昼夜日に当て、山の空気を通してから窯に入れると土の締まりがよくなると言った。その通りに実践してきた。土に艶を出すための釉薬を腰の折れた筆でひとつひとつていねいに塗っていった。コップや灰皿、それに動物を擬した置物がほとんどを占める中でひときわ異様な細長い筒型の花瓶を三郎は見つけ、まだ乾ききらない釉薬を警戒しながら手に取って些細に眺め回した。久夫も背後から覗き込んだ。かんしゃくを起こして陶土を床に投げつけた少女のために市子が急いで作ってやったものだった。短時間に仕上げたにしてはさすがに形が整い、心得ある者の仕業とひと目でわかる。「なつかしかりし土の陽炎(かぎろい)、か。奥さんに、ぴったし、ですよ」
 三郎がぼそりと呟いた。
 その市子は玄関の前で赤ん坊をあやすように地蔵を抱いて、ないも同然の耳元にことばを囁いているようにみえた。細かい水の粒が全身を覆っている。やがて、ガクッと両膝を折り畳んで崩れ、地蔵を土の上に立たせようと躍起になった。三郎は立ち上がって不安げに凝視するが、うずくまったまま、地蔵がひとりで歩き出す瞬間を待とうと思った。地面に落ちていた山の影が灰白色の大気に紛れ消滅寸前となっていた。(了)



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