口笛と記憶

すれちがいざまにあれっと思ったがいったん遣り過ごした。赤い原付バイクに乗った平凡な郵便配達夫だった。ヘルメットを阿弥陀に被っているので、反抗心と羞恥心を秘めた少年のような感じを受けた。
振り返ると男もバイクを停めてこちらを見ていた。まちがいなくK君だった。

「こんなところにいたの? まっとうな仕事をしているじゃないか」
どこと特定できない場所だが、見慣れた風景であった。田んぼのあぜ道が交叉するところで、このまままっすぐ行けば駅前の繁華街に至るように思えた。

「店は畳んでしまったよ」
からだは随分縮んでいたが、全体に元気は漲っている。

やはり夢の中で五年ほど前にもK君と逢っている。そのときは、もっと老けこんでいた。しょぼくれた老人のようだった。雑貨品店の経営に行き詰まっていたのだろうが、それを気取られまいとするのか古なじみの前で懸命に虚勢を張っているように見えた。大声で笑ったり、大げさに頷いたりすればするほど、身の置きどころのなさが露呈した。

そのときのことを思い出しながらK君の全身を眺め回した。
「明るくなったな。それに、若返ったようだ」
ボクは正直な感想を伝えた。K君は心底嬉しそうに笑った。
「こういう仕事が、一番いいね。性に合っている。気付くのが遅かったけど」

K君が消えてしまわないうちに…とボクは焦っていた。この前の夢では、別れの挨拶もしないままふっと消えていた。もう金輪際逢えないのではないか、と落胆したのだった。

「台所で、慣れない料理を始めるだろ? ジャガイモの皮をむき始めると、つい口笛を吹いてしまうんだけど、なぜかな? タマネギのときは、涙が出てきてそれどころじゃなくなるから、きまってジャガイモのときなんだよ」

「口笛か! 口笛って、うきうきした気分の時に吹くものだろ? 君の場合は逆に気分を浮き立たせるために吹くのかも知れないよ。昔からそういうところがあったよな? 強がりというか、負けん気というか」

どこでそんなボクを観ていたのか。

「ということは、まな板の前に立つ前後は気分が落ち込んでいるということになるのか」

「あるいは、君はジャガイモが大好きなのかも知れない。小さい頃、たくさんジャガイモを食べて育ったんだよ。われらの世代はみんなそうだけど。サツマイモも高級なおやつだったなぁ」

蒸かしたジャガイモが食べられることに言葉では言い尽くせない喜びがあったが、そんなものもいまとなればいつのこととも知れない過去の記憶であった。

話題はふたたび口笛に戻った。
「そういえば、近頃オレも、バイクを走らせながら口笛を吹いているなぁ。きまって、配達を終えて集配局に帰るときなんだけど。やっと普通の人間になれた気がするよ」

これから配達に向かうのか、それとも帰り道なのか、ボクには判断がつかなかった。どちらにしても、急ぐ様子は見られない。ふたりだけの悠長な時間が流れている。

すると、堤防のうえに腰掛けて川岸の向こうを眺めながら話した記憶が湧いてきた。となりに坐っているだけで安心感があった。しかしこれは実際の記憶ではない。K君とならそんな情景が似合うというだけのことかも知れない。

「二人で山陰へ行ったろ? 覚えている?」
「ああ。若い詩人を訪ねる旅だったね」
また、あれっ、とボクは思った。

「鳥取砂丘だよ。その前に、三朝に寄ったかも知れない」
「もちろんそれも覚えているよ。でも、米子在住の若い女性詩人に逢うことが一番の目的で、砂丘、三朝は二番目、いわば付け足しだった。君が言い出したことなんだ」

K君は感慨深げだが、ボクはきょとんとしていた。米子の若い詩人? そういう存在自体「夢のよう」ではないのか。
「どんな経緯で米子行きになったの?」
と訊くとK君は、

「君がほとんどひとりでやっていた同人誌宛に詩集が送られてきたんだよ。君はにわかに興味を示して、ぼくに話を持ちかけた。下心があったんだろうね」
などと、とても具体的なのである。

当時のボクにとっては大いにあり得る話だったが、米子の詩人のことだけはまったく覚えていない。記憶からすっかり抜け落ちている。どんなにその日々に還ってみても欠片すら呼び戻せない。

しかしこれは事実かも知れない、という気がするのだった。
なぜなら、奥行きの深い喫茶店のいちばん奥の席にボクは佇んでいて、となりにはK君がいて、目の前にはボクらよりも三、四歳若い女性がいる。

「それにしても、もう30年以上前になるんだなぁ。中村教授の言い方を真似れば三(み)昔前、だよ」

生身のK君と近い過去に一度でも逢っていれば夢に夢を継ぐようなこんな夢は見なかったかも知れない。わがままな記憶に振り回されることもあるいはないかも知れない。

今回K君はエンジン音とともに、みるみる遠ざかり、やがて見えなくなった。口笛の音だけが風に乗って耳に届いてくるようだった。

(夢の往還 其の壱拾)