人身御供

 東西に走る国道を放物線を描くように高々と跨ぐ橋のてっぺんに来たとき、はるか前方に大きな旗のゆらめきがみえた。人の頭の上でその何十倍もある布製の赫い旗が地面からの風に煽られて天に舞い上がろうとしていた。
 旗まで二、三百メートルと迫ったところで後続車のないことを確かめて減速させた。間近にみると旗は予想以上に大きかった。畳二畳分ほどもある。旗を振っているのは紺色の制服を着た若い男だった。口のまわりに不精髭を生やし、角ばっ顎はヘルメットからはみだした金色の髪に覆われていた。まん丸い眼に幼さが残り、どことなく優しげな表情をしている。男は自在に旗を操り、上空で旗自身がわきおこす風を気持ちよさそうに頬に受けとめている。
 男のすぐ傍に車を寄せていった。遠近感がふいに消えたと思った瞬間、旗の先がフロントガラスを掠めた。男はたたらを踏んで、いまにも倒れそうになった。
 ハザードランプを点滅させて工事現場のすぐ手前に車を停めた。蒸気を吐き続けるローラー車の回りで五、六人の作業員が掘削機を使って路面を掘り返している。先端で地面を掃きながら近づいてくる旗がサイドミラーに映った。
「何で止まるの? 危ないじゃないすか」
「旗を振る君が二十五年も前の友人を思い出させたんだ。なぜかなつかしくなってね。邪魔かい」
「当たり前ですよ。だからこうやって、重い旗を振っているんです。そんな遠い昔なら、まだ僕は生まれていません。くだらない理由で、わざわざ擦り寄ってくることないでしょ」
 いま、赫い旗は二車線のうちのひとつが工事中のために塞がれていて、避けて通れ、という合図でしかなかった。それは分かっていたが、なお訊かずにはおられなかった。
「ひとりでずっと振り続けるの? 代わりの人はいないの? 君は学生?」
「余計なお世話ですよ」
「おーい、何してるんだ」
 十数メートル前方から胴間声が響いてきた。白いヘルメットを被った年配の、他の作業員に較べて顔の白い、でっぷりとした男である。
「しっかり振らんかい。車が突っ込んでくるだろ」
「ちぇっ、監督風を吹かしやがって。もともとあんたのせいだ。同じ車種だから最初はオヤジにみつかったのかと思ったぜ。さあ、行った、行った」
 若い男は急になれなれしい口調になって言うと素早く元いた場所に戻り旗を振り始めた。最後のことばが少し気にかかったが右側の車線に出て唐木もふたたび車を走らせた。
 こんな希有な光景に遭遇し、それに惹かれていくのは昨夜の繭子のせいだった。それに友人を思い出したというのも嘘ではなかった。都会の真ん中で、人も車もせき止めて旗が闊歩していた頃の友人である。意外と坂の多い海に面した地方都市の息吹を靴底に感じながら旗のあとをついて歩いた。あのとき旗は確実に何かの徴だった。自信満々に旗を振っていた友人は、ビルの隙間から射し込む夕陽を受けて、頬をいっそう赤らめ、もっと大きな声をだしぇー、国家権力をくずしぇー、と叫び立てていた。名前は思い出せないが、筑豊なまりの心の真っ直ぐな男だった。騒動の波が引いたあと友人は忽然と姿を消した。田川に帰ったというのがもっぱらの噂だったが、明け方近くに年増の女に手を引かれて歩いているのを見かけたという奴も何人かいた。卒業証書をもらうためだけに大学に戻った唐木とはその後何のかかわりもなかった。友人などと言えるのかどうか本当はあやしいものだが、記憶の底には鼓舞される側であった自分が熾火のように潜んでいる。あれらの日々がまちがいなく青春だったとすれば旗に滲んでいた埃や泥や黄ばんだ血の色が見えなかったのは道理である。四半世紀を閲してやっと見えてくる類の心象風景には違いなかった。
 狭霧のたちこめる深更に別れたせいか助手席に繭子の匂いが残っていた。車を降りる間際には白い、たおやかな手が目の前に差し出された。その掌は吸いつくでもない突き放すでもない、晒した小麦粉のような触感があった。「わがままにつきあってくれて、ありがとうございました」額に垂れた幾筋かの前髪を除けようともせず繭子はぺこりと頭を下げた。門灯のだいだい色が卵型の顔の左半分を照らしていた。
「県内でただひとつ流鏑馬をやっている神社知ってる?」と聞かれ、「知らない」と答えると繭子は「いまから行きましょう。連れてってくださいよ」と唐木にねだった。すでに十一時を過ぎていた。左手には同僚の辻村からの手紙を握り締めている。
 神社に着くまでのおよそ一時間の間にルームライトをつけたり消したりして繭子はその手紙を何度も繰り返し読んでいた。頼まれて繭子に手渡したのは唐木であったが、何が書かれているのかは知らない。口では言えないよほどのことがあったのだろうと推量するだけだった。
 本殿からとなりの八幡社へと巡り歩いたあと繭子は参道に平行して横たわる流鏑馬用の馬場でその手紙を泥のぬかるみに捨て、靴先で枯れ葉にまみれさせたのだった。
 唐木には手紙よりも繭子が大事であった。ふだんの理知的な仕事ぶりや毅然とした振る舞いからは考えられない、一見激情を滾らせただけのようなその行動の奥にふかい哀しみを宿していると考えた。赫く光り輝く瞳の奥にあるものを見たい。見るだけでなくできれば触れてみたい。馬場の柔らかい土に両足を踏んばって繭子の躯を受けとめた。繭子は唐木の肩に両手を添えて胸もとに顔をうずめた。かいなを抱きとった手に思わず力を込めていた。
 あのときも繭子の全身からはあまやかな苺の香りが匂い立っていた。車を走らせながらその香りを幾度か反芻してきた。合間には、中身を知らないのは当然のことだとしても、その結末を目撃することになった辻村の手紙にうしろめたいものも感じた。辻村が直接渡すことを避け、自分を仲に立てたのは、気の弱さ、恥ずかしさ以外に何か理由があったのだろうか。案外、このことを予見して、唐木の目でしっかりと見届けさせることが目的だったのかも知れない。だとすればこのうしろめたさは甘い香りとは表裏一体の、破壊的な感情に近いものであると思えた。

 繭子はふだん通りの挨拶をしたあと資料を傍らに置いてパソコンの画面に文字を打ち込みはじめた。いつもと同じ朝だった。昨夜の出来事は、幻灯機に映しだされた不鮮明な映像みたいなもので、夢とも現とも決めかねると唐木も醒めた心で思い直しはじめた。
 こどもの来館者が増える昼下がりから夕方にかけては何人もの母親が本の貸し出しや返却、整理に当たる。分館長である唐木は購入図書の選択も含めて運営の大部分を彼女らに任せてきた。身近かな図書館として、十年前に望まれて開設された関係で地域の母親たちがボランティア同然に手伝ってくれるのだった。県から彼女らの属する読書サークルにいくらかの補助金を年二回交付できるよう取り計らったのは唐木である。
 不幸な結末を迎えた手紙の送り主辻村は明後日まで三日間の休暇をとっている。母親らが来るまでは繭子とふたりっきりであった。
 十二時を少し過ぎた頃、大通りに面した窓を背にした唐木の席まで来て「先にお昼食べてきていいですか」と訊いた。「一緒に行きたいが、無理だね」唐木は目を伏せてぼそぼそと呟いた。来館者は老人を中心にまだ十数名とはいえ館内を留守にする訳にはいかない。数秒後に顔を上げたときにはもう目の前にいなかった。
 このあたりは古くから開けた水運の船着き場だったために、近辺の旧家には貴重な文献が数多く眠っている。地下の書庫にも前任の分館長が集めた古文書が百点以上所蔵されていた。三代目にあたる唐木はその功績において初代や二代目にはとうてい及ばないながら博物館にいる学生時代の友人に「宝の持ち腐れにならないように配慮してもらいたい」と直訴したのである。年度替わりの四月になって、入って五年目の繭子が県史の編纂室からやってきた。おもに近世から近代にかけての民間信仰とその変遷を調べています、と初対面の挨拶で繭子は言った。本来の所属は県立博物館の学芸員である。唐木はそのとき若い繭子が放つ理知的な雰囲気に魅かれた。おかっぱ風の無造作な髪型もよかったが、容貌よりもなによりも、知で立つという気概が新鮮に思えた。唐木は学歴からいえば出世コースに乗ることもできるのだったがそっちの方の欲は最初からなかった。それが本庁の幹部には覇気がない、斜に構えすぎと評価されついに西の果てのここに左遷された。三年前の秋のことで、四十をはるかに越えていた。まわりからは終着駅と目されている。そんな辺境に一年の期限付きで招ばれて来たマレビト、それが繭子だった。
 三十分ほど経って繭子は戻ってきた。席に着く寸前に唐木は手で呼び寄せた。
「今朝ね、赫い旗を見たんだよ。道路の真ん中でね」
「落ちていたんですか」
「いや、人が振っていた」
「いまどき珍しいですね。人が振る旗も旗を振る人も。旗なんて、デパートの壁にかかっているのを数年前に見たきりだわ」
 繭子らしい明晰な言い方をする。
「そうそう、それを言いたいのだよ。久しぶりに若い頃のことが思い出されてね。なつかしいというか苦々しいというか、とても複雑な気持ちになったよ」  この日やっとまともに話ができて唐木はほっとした。これだけでもう今日一日の糧は汲み尽くし、昨夜の抱擁もチャラになると思った。繭子は感傷たっぷりの唐木の口調に八重歯を覗かせてにこっと笑うとすぐに自分の席に戻ろうとした。が、再び向き直って、言った。
「館長たちは、ひとつの旗の下に集まることができた最後の世代なんですね」
「現在とどこかで切れてしまった過去なんだね。それとも、シラケといわれた時期もあったから、やはりつながっているのかな」
 くだらんと吐き捨てた若い男と幾つもちがわない繭子は首を傾け、きょとんとした眼で唐木を見た。
 午後四時を過ぎた頃、暇にあかせて二階の閲覧室を歩き回っていると母親のひとりが、
「このところ嬉しそうですね。日々若返っていくみたい」
 と笑いながら話しかけてきた。この時間閲覧室にいるのはほとんどが隣接している小学校の児童、それも低学年だから大人の会話はいつも無遠慮に行われる。辻村の休暇を予め知っていていつもより早い時間に現れた母親らはさっきの繭子とのやりとりを聞いていたのである。
「みなさんと一緒に楽しく仕事ができるからね。何もしないで、ただいるだけ、というのがいいんだよ。感謝してます」
「うまく逃げた。憎らしいわね。嫉けるわ。サラブレッドの佐田さんなら、わたしらには勝ち目はないものね」
「あの子は大切な預かりもの。まあ、自分の娘といってもいいくらいなんだ」
 正直にそう言ってみたものの少し心が揺れ動いた。騒動の終わったあと、ぶらぶら夜の街をほっつき歩いているとき知り合って以来二十年以上連れ添ってきた千代子と春がくる前に別居生活に入っていた。老いていよいよ持病のリュウマチがひどくなったふるさとの母親のそばでパン作りを手伝いたい、そこならば自分らしさをみつけることができるかも知れないと千代子は唐突に言い出した。打ち込めるものを見つけたいのに心が見えてこない者の傍らにいることに窮屈なものを感じていたのか、めずらしく頑なに自分の意志を貫こうとした。最後には「どんかん」ということばを唐木に浴びせた。自分にも他人にも本当の意味で興味というものを持ってこなかったことに唐木は気付かされた。二人の関係の中で互いに何者であるか、または何者かになり得るという期待をついに見限ったということだろうと思う。
 いま、半年前にやってきた繭子に対する自分の態度が以前千代子や他人に対していたのと百八十度違うことを感じている。鋭敏な母親らは、すでにそれを見透かし、小さなスキャンダルに仕立て上げようとしていた。これもまた是非を超えている。
「娘だなんて言って、ミイラ取りがミイラになることは珍しくないですよ、館長」
 午後六時の閉館時間が過ぎて、母親三人が帰っていった。帰り際にもまた「おふたりで今日も残業ですか?」と聞きようによっては皮肉ともからかいとも取れる物言いをした。唐木は慣れているが若い繭子がどう受け取るかは気にかかった。しかし繭子は三人の顔をまっすぐ見据えて「お疲れさまでした」と背筋をゾクッとさせる嗄れた声を発した。唐木もほっと胸をなで下ろした。

 そろって図書館分館を出たのは九時を過ぎていた。ファミリーレストランで軽く食事をしてから自宅まで送り届けるつもりだったが、こっきりこの牛神社を今夜中に見ておきたいと繭子が言い出した。おとついの夜とよく似た成り行きとなった。
 牛神社は分館から約三キロほど離れたところにあった。市街地を離れるとすぐ土手と平行な道が右に九十度曲がって橋にさしかかり、渡り終えると目の前にこんもりとした森が見えてくる。道は森を迂回するように橋の袂をこんどは左に九十度折れて土手に沿って数十メートル伸びていく。
「ひとつの短い橋を渡るのに、随分込み入ったルートになっているんですね」
 繭子が素朴な疑問を口にした。唐木は得意になって説明した。
「あの森の下には古代の遺跡が埋もれているらしい。それがこんな風にクランク状になった理由だよ」
「遺跡のことは知らなかったわ。まだまだわたしは不勉強」
「発掘が始まれば、いろいろなことを君たちが調べなきゃならないのだろう。そのときで十分さ」
 森のヌシたる牛神社はこの地区の氏神である。畦道のような参道に乗り入れ鳥居下の空き地に車を停めた。砂利敷きの境内は正面に権現造りの本殿が控えている。雲ひとつない西の空高くに、満ちるまであと数日の月が風船玉のように浮かんでいる。さして広くない境内はぬくもりの消えた光りで皓々と照らし出されていた。ここが雨乞い踊りこっきりこの舞台となるのだった。
「正式な名前は大須賀神社でしたよね。通称で呼ばれるぐらいだから牛と関係が深いのでしょうね。雨乞いと牛のとり合わせは不明ですけど、こっきりこは陣屋の日次帳にもそのままの名前で出てきます。いまでこそ収穫の終わった秋に行われますが、百五十年くらい前の天保の頃までは必要に応じて一年に何回も踊っていたようです。次の日に早速雨が降り田畑をうるおした、とか、十日経っても降らず、進退いよいよ谷まった、降るまでやるしかない、などと悲壮な決意が書いてあったりします」
 図書館分館では一ヵ月後の奉納日にあわせて特別展を予定している。この珍奇な民俗行事を大型の団地に住む新住民にも知ってもらおうという企画で、牛神社の氏子でもある辻村が準備を進めている。繭子も自分の守備範囲だからと古文書から関連部分を抜き出す作業を手伝っている。
「絵なんかはあるの?」
「それにはまだ出会っていません。わたしの目下の関心は名前の由来なんです」
「ぼくの生まれた村の鎮守にはでんこしゃんというのがあったな。いまなら、湯立て神楽とわかるけど、大人も子どもも巫女が左手に持って踊りながら鳴らす鈴の音からそう呼んでいた。もちろん右手には釜の湯に浸した笹竹を持って見物の村の住人にふりかけるんだがね」
「よそにはちんこんかんという名の雨乞い踊りもあるようですが、こっきりこはたんに音をなぞっただけの命名ではないと直感から思うんです。はじめてそう呼ばれた時期まで遡れれば謂れもわかるかなぁ、と。なんとか突き留めてみたいナゾなんです。できればステキなものであって欲しいんですが」
「想像力の勝負だね。ロマンかな」
「発見すれば嬉しいから、かも知れませんね」
 本殿の斜向かい、境内の隅にお堂のような屋根に覆われた本格的な櫓が建っている。中空に囲いのない畳敷きの桟敷があり、外し忘れたのかそこに通じる梯子がかかっていた。繭子と顔を見合わせて頷き合った。ふたりとも同じことを考えていた。
 桟敷の縁に立って見おろすと砂利敷きの地面はかなり下に見えた。となりで繭子が唐木の肩に軽く手をあてながら地面を覗き込んでいる。
「十メートルはあるね。それにしても、昨日張り替えたように真新しい畳だ」
「たった十メートルでも天がぐーんと近くに見えるわ。わたしたちみたいに、より高いところに上ろうとするのは習性と本能のどちらだと思いますか」
「ぼくは地面に足をつけていないと落ち着かないよ、本当は。ここに上ったのは好奇心以上のものではないね。すると、習性、ということになるのかな」
「残念でした、正解は本能でした。証拠はいまの発言のなかにあります。高い所での恐怖心や、地面に執着するのは空から閉め出された人間の怨念、引きずり下ろされたときの記憶が強烈だったからだわ」
「人はむかし鳥だった、というわけ? なんでもよく知っているね」
 感心して、月の明かりに照らし出された繭子の顔をみた。かげりのない白い卵型の顔だった。
「……。信じてくれたの? でまかせなのに」
 繭子はぺろりと舌を出した。他愛ないいたずらをちょっぴり後悔しているらしい繭子に頷きながら、唐木は天に真っ直ぐ伸びた欅の梢が目の前で揺れる様を見ていた。こっきりこにはどんな漢字が当てはまるのだろうかとぼんやりと考えた。
 ふたり並んで桟敷に立っていると背後から砂利を踏みしめる草履の音がだんだん高く聞こえてきた。
「そこにいるのは誰ですか」
 首元を撫でられた猫のような弱々しい声に聞き覚えがあった。
「なんだ、おふたりでしたか」
 砂利のうえで仁王立ちした辻村が見上げていた。櫓からは道ばたの地蔵のようにちんまりとした塊りに見えた。
「梯子がどうぞ、って言っているんだもの」
「冗談言ってないで、とにかく降りてきて下さい。そこは神聖な場所なんですから」
「ここに上る資格がない。するとわたしたちは汚れているということ」
 繭子は小声で呟いたあと口を尖らせた。本気で怒っている風には見えなかった。
「展示の取材のために寄り合いを傍聴してました」と悪さを見つけられた子どものように辻村は恐縮している。弁明しなければならないのは本当はこっちの二人だと思いながら辻村に案内されて本殿脇の社務所に入った。老人五人が自在鈎の吊り下がった、火の気のない囲炉裏を取り囲んでいる。辻村から故老ともいうべき五人をひとりずつ紹介されて唐木は土間に立ったままその都度頭を下げた。「ご苦労なことですのう」五人が五人ともおなじ調子で挨拶を返してきた。唐木にすれば、ぶんかんちょう、ぶんかんちょう……と五回呟いたようなものだった。老人の顔にも苦笑いが走っている。早々に退出すると辻村は見送るために鳥居下までついてきた。
「一緒に帰ろうか。三人で何か食べに行こう。こういう機会は珍しいよ」
 唐木は繭子といまここにいたことの言い訳の代わりに辻村を誘った。すぐあとにあの踏みつけられて泥にまみれた、唐木にとっては幻の手紙のことが頭を掠め、繭子を盗み見た。繭子はコンクリートでできていることを確かめ、落胆したように鳥居を右手の甲でこつこつと叩いていた。

 三日ぶりに逢う辻村は職場にいるときよりも明るくて開放感に溢れ、いつものおどおどした印象がなく、新鮮な感じがした。二十も年下の元来が寡黙な男にはじめは、本当は何を考えているのか分からないような狷介さを覚えたが三年も一緒に仕事をしているとこれはこれでひとつの個性だと納得するようになっていた。繭子が来てから辻村は、年齢が近いことや土地勘があることから、旧家を訪ねるときに案内役を買って出たり、資料の収集を手伝ったりしてきた。図書館の仕事と関係なくても、唐木はそれを奨励している。尊大なところもある繭子のアシスタントを辻村なりに機嫌よく勤めてきた。
「さっきの櫓だけど、どうして神聖なの?」
 しばらく間をおいて繭子が訊いた。
「大鬼役とその家族はこの地区の人にとっては特別な存在なんですよ。みんなから尊敬、というか、畏怖の眼でみられる。敬して遠ざけると言う方が当たっているのかも知れない。その昔は人身御供に近かったのではないかとぼくは想像しています。白羽の矢が立ったその人も、みんなが救われる水と引き換えなら死もまたやむなしと考えたはずです。あの桟敷は大鬼がふたりの小鬼役とともに農民たちの共同幻想を全身に叩き込む場所です。いわば結界を作ってから下に降りて踊るわけです。神聖な場所と言ったのはそういう意味です。それに、女人禁制」
 辻村は真面目な顔で説明した。こんなに能弁な辻村ははじめてだった。
「ああ、有り得るね。ただし、今は昔の話でしょ?」
 繭子は最後のことばに反応した。唐木はちがった。人身御供とは久しぶりに聞くいい響きのことばだと思った。
 破魔弓を持つ大鬼と六尺棒を持つ小鬼が雷鳴を擬した太鼓・小太鼓・鉦の音色に合わせて足を交互に上げ下げしてひたすら踊り続ける。それがこっきりこだった。一ヵ月ほど前に三人で見たビデオが頭の中を回り始めていた。鉦や太鼓の音をかき消す見物衆の歓声まで甦ってくる。大鬼小鬼は、ときおり、感極まったように全力疾走でさして広くない境内を縦横無尽に駈け回り頭から地面に突っ込んでいった。法被に似た装束は泥土にまみれ、顔面は傷だらけとなる。たしかにそこには一身を犠牲に捧げてきた生活の名残りがあった。辻村によれば大鬼は壮年の男子一名、小鬼は十三歳までの少年二人が氏子の中からそれぞれ選ばれる。なかでも踊りのリーダー大鬼は一年前から家族と竈の火を別け、肉食を断ち、早朝、深夜のお詣りを一日として欠かさない。そうやってまず神に使える人になる。生活の一部だった何百年も昔からのしきたりだという。踊れば踊るほど大鬼の表情が能面のような安らかさに変わっていくのはそんな精進の結果に違いないと思わせた。
「あの櫓で毎年踊りの終わったあと次の年の大鬼を発表するんですが、これが氏子たちには一大事なんですよ」
「白羽の矢ということは、必ずしも望んではいないということかね。誰が矢を立てるの?」
「さっきいた氏子総代の老人たちが五人の候補者が書かれた紙を大須賀神社の神主に渡して、神主が神の意志を聞くわけです。そういう意味では神が決めるのです」
「神々の時代、というわけね。わたしも似たようなことをやっているんだけど」
 食事が終わり、話題も尽きかけた頃辻村はいままでの自分に戻ったようにおそるおそる切り出した。
「実は、来年の大鬼の候補にぼくも入っているらしいんですよ」
「それを早く言えよ。おめでとう、といっていいのかい」
「昔からの人はお役目ご苦労さんですと言って必ず目を逸らしますね。それが先祖代々インプットされてきた作法であるみたいです」
「拒否はできないのかね」
「まず、しませんね。人智を超えた意志というもんです。大鬼に決まったとしても、仕事上で迷惑をかけることはありませんが、雨乞いというものに現実的なモチーフがないだけにこの役割を一年かけて自分自身に納得させていくことは、ちょっと厄介でしょうね」
「身を引き裂かれる感じがするわね」
 繭子は大鬼になって踊る辻村を一所懸命思い描こうとしているのか、躯を震わせて天井を見上げた。
「ええ、たんなる民俗行事と割り切れない何かを背負うことになると思います。重圧感というか、しがらみというか、大げさに言えば民衆の何百年の記憶すべてを。人を好きになる気持ちと似てますよ、きっと」
「幻想を育むための精進潔斎というわけですか」
「佐田さんにかかると、たまらんですね。でも、まだ決まったわけではありませんから、ご安心を」
 唐木は多少のショックを受けていた。昔の農民たちのように尊敬したり畏怖したりする謂れはなかったが、魂のみが神隠しに遭ってどこか遠くに飛んでいき、実在の辻村は鬼の甲羅を被って日々のありきたりのことばを吐く。それは一緒に仕事をしている自分らが全否定される寂しさに通じている。
「明日から出てくるんだね。展示の方は大丈夫?」
「もうだいたい固まっています。佐田さんの原稿も冊子に入れなきゃいけないんだ」
「催促しているんですか。引っかかっていることが解決すれば出せるんだけど」
「なに?」
「大鬼候補には秘密にしておくわ」
「どんな展示になるか楽しみだね。ひとりでやるより二人の方がやりがいがあるだろ?」
 返答はなかった。気のせいか辻村が微かに頷いたようにみえた。

 ずっと唇を吸い続けているわけにはいかなかった。塩辛さが消えた頃にあまやかな苺の香りが喉奥まで降りてきた。
「朝早くごめんなさい。一人ぐらしと聞いたものだからこんな時間でも平気かなぁと。名前の由来が分かったの。真っ先に聞いてもらいたくて。こっきりこって五回言ってみて」
 唐木は半覚醒のまま受話器に向かって声を張り上げた。
「こっきりここっきりここっきりここっきりここっきりこ。これでいいのかい。舌を噛みそうになったよ」
「うん。ありがとう。わかったでしょ?」
「いや、なにも」
「どんぶらこと響きが似てるでしょ? 涸れた川になみなみと水を注いでください。なみなみとは変かな。一回こっきりでいいから頼みますよ、と。一回こっきりというのは、一生のお願いの類で、いわば方便。これ、見て。少し汚れてしまったけど」
 電話で話しているはずの繭子が目の前にいる。口元に小さなえくぼを作っていたずらっぽく片目をつぶってみせる。手品師のように掌を広げるとそこにいつかの夜の辻村の手紙がくしゃくしゃになって張り付いていた。
「あっ」と唐木は叫び声を上げた。てっきりあのまま土の中で枯れ葉とともに朽ちていくものだとばかり思っていた。繭子は自らがいったんは捨て、靴の底に敷いてしまった手紙を小さな旗のように掲げてみせる。
 大鬼になった辻村につながる民たちの慟哭、こっきりこはそれではないのかと夢の中で考えた。繭子はそれを知らせたくて突然唐木の前に現れた。四十をはるかに過ぎた男の夢精を阻むほどの大事だとでもいうように息づかいも荒い。
「わたしは……さんのことが百倍も千倍も好きなのに。この思いが口に出来ないの。読んでもいいですよ」
 ……のところはよく聞き取れなかった。辻村とも自分の名前とも考えられた。        (了)


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