羽衣伝説  
           
 
『わたしのこと、覚えていますか。半年以上前に、ほんのいっとき一緒にお仕事をさせてもらった者です。あなたの姿かたち、立ち居振る舞い、いろいろな場面でのさまざまな言動、つまりあなたのすべてを間近に観察したいばかりに、勤め先を捜し出して、縫製にもデザインにもズブの素人のくせに、頼み込むようにして『キャロル』にはいったのです。一ヵ月というのは予め決められていた期間でした。なぜそんなことをしたのかとさぞお訝りになり、またお腹立ちにもなることでしょう。
 わたしはいまひとりの男にとらわれつつあります。その人が誰かはもう察しがついていると思いますのであえて固有名詞は避けます。当時は、抜き差しならない関係に陥る前に、あなたのことを見ておくべきだと思ったのでした。
 明敏なあなたは、なにげない会話のなかで、わたしの過去について、いやそんな大げさなことではなく、どこで生まれ、どこで育ち、若い頃はどんな風だったのかを訊いてきました。暗いかげをわたしの全身から感じ取ってのことでしょう。好きな人の奥さんに、それと気づかれずに正面から向き合うのでしたから暗くならざるを得ないわけですが、あなたが感じ取り、訊きたかったことは、そんな下世話なことではないはずでした。
 わたしはいまこそ若い頃の迷妄、錯誤の記憶をここで白状します。
 わたしはある人と一八の時から二十のときまで三年間同棲していました。年齢的にも好きならそうするのが当たり前という時期だったのです。惚れられた強みというやつを存分に味わい、また発揮していたようです。いま思えばわがままな女王さまみたいでした。わがままの行き着いた先は演劇サークルのリーダーだったいまの夫の子を宿すということだったのです。それを知ってその人はどうしたと思いますか? 殴られるか蹴られるか、わたしはまっとうな罰を期待しました。ところがその人はわたしの前からふっつりと消えてしまいました。それだけならばありふれた都会の男女の色恋沙汰で、何の罪も感じるほどのことではないのですが、大学にも来なくなったその人についての噂は執拗に私の耳に届いてきたのです。その人は、京都伏見稲荷の山に入って、断食していた、死ぬ気だった、一週間後に、老夫婦に偶然見つけ出され一命はとりとめた、などとこの先とても一人では生きていけないような風聞ばかりです。なぜなら、その人への思いが冷めていまの夫に心移りがしたというのではなくわたしは朴訥で気弱な、自分を語ることがへたくそなその人をちょっとからかってみたかっただけだったからです。なんでそんな気になったのかいまだに自分でも分かりません。以来わたしはけっして人の心をもてあそぶまねだけはすまい、本性をさらけ出さざるを得ないそういう場面がやって来るに違いない関係だけは金輪際ごめんだと、こどもと形ばかりの夫だけを見て生きてきました。
 そんな姿勢が観念的にすぎて自然と臨界点をこえたのか、または、英語を教わっていた娘を介してわたしの前に現れたその人が殻を破ってくれたのか、それは分かりませんが、ただ一つ、その人はあの人に似ているのでした。それが好きになるきっかけだったのです。
 つまりは前世からの因縁のようなものに呪縛されて仲のいい友達のように連れだって映画を見たり、禅寺を散策したり、ちょっとドライブを楽しんだりを続けてきたのです。そういういわば年老いた男女のようなつきあいはこの先も変わらないと思います。精神的なつながりならばかえってタチが悪いとあなたはお怒りになるかも知れませんが、少なくともわたしの正直な気持ちを申し上げますと、その人といることで贖罪を生きることの甘美さが味わえるということでした。もとより女としての情欲は捨ててきました。
 もっとはっきり言えばわたしとその人との間には関係と呼べるほどの濃密な、絶対的なものは実は存在し得ないのではないかといまは思い始めているのです。娘が二年間お世話になった予備校の先生、それ以上でも以下でもない。このことのみを言いたくてこの手紙を認めているという気もします。  どうか信じられるところは信じて、想像される他のことはすべて、わたしのわがままとうっちゃってくだされば幸いです。
  水村知子様
  九月一五日
                                                              佐和山瑠子』
 
 一時同僚だった瑠子と「相思相愛」であることを知っているとは思えなかったが知子は直感から「子供もいるのに、早く大人になってよね。ときどき馬鹿じゃないかと思うわ」と全人格を否定するようなことを言う。またあるときには五歳の息子をわざわざ電話口に連れてきて「わたしには他人だけどあなたには残念ながら父親なのよね」こちらにも聞こえるような大きな声で誰に似たのか心根の優しい息子に向かって皮肉な言を吐いた。険悪な気配を感じ取った息子は受話器を持たされても何も言えず、私の方から「心配するな。朝目が覚めたら家にいるから」と慰める始末だった。ただ仕事で遅くなるという業務連絡のような電話のつもりだった。
 そんなことはしかしまだ些細なことだった。じわじわと肌に刻み込まれる暑さが体温を越えそうになり心の襞にも滑り込むようになった頃、十八年も前に同棲相手が断食をしながら死を待ったという伏見稲荷へ行きたいと瑠子は言い出すようになった。
「行ってどうするというのでもないけど、前々から一度は見ておきたいと思っていたの」
 いつになく投げやりで、虚無的な口調だった。
「あなたが現れたおかげでまた余計なことを考えるようになったわ。もし二人が共通の思いを持って生きるとすれば、その先には何があるのかな」
「それと伏見稲荷とどう関係があるんだろう」
「そんなものないわよ。ただ言ってみたかっただけ」
 その伏見稲荷に一緒に行くことにしたのだった。
 伏見稲荷に二人で行くことが何を意味するのかを私は考えた。知子と息子を捨て、また見限られて平気というほどの覚悟はなかった。瑠子はそんな私にお構いなく「わたしにはもうあの人に似ているあなたしかいない、と言ったらどうする?」まるで私の心を試るように挑発した。
 瑠子はただ言葉だけを舌の先に転がしたのだった。それは私にもわかっていたから「もう言ってしまったじゃないか。いい加減にその枕詞止めて欲しいなぁ」冗談めかして言い返した。
 ひそかに桂川辺りの旅館を二人の名前で予約した。知子には「取材をかねて、一人で頭を冷やしてくる」と威厳を保って告げた。私は予備校講師のかたわら学生の時からの延長で民俗学の勉強を続けていた。もはや趣味に成り下がっているが、知子は認めている。「珍しいね」とか細い声で言ったきりそれ以上の詮索をしなかった。
 出発の前々日に瑠子と最終の打ち合わせをするため繁華街から少し離れた花園神社で待ち合わせた。神殿の裏から境内に入り、土鳩を蹴散らせて駆け寄ると、
「ごめん、行けなくなった。その日の昼に夫が帰ってくるの。帰ってくるなと言えば理由を聞かれるし、理由を言えばあなたのことがばれてしまう」
 息せき切って言った。
「ぼくのことだけ隠してあとは本当のことを言えばいいじゃないですか。旦那だってその男に負い目を負ってるわけでしょ? 鎮魂の旅だとでも言えばいい」
「一緒に行くと言い出したらどうするのよ。それにその人はまだ生きているかも知れないのに」
「同じようなもんですよ」
「どうしても行くの?」
 九月二十三日、私はひとりで伏見稲荷へ行く羽目になった。
 額に汗を垂らしながら千本の赤い鳥居をくぐり、余程酔狂な参拝客でもここまでは来ないと思えるような頂上付近の鬱蒼とした杉林に分け入った。蝉の鳴き声も、嘲るような烏の呻き声も間遠に聞こえた。杉林の中は暗く、瘴気が立ちこめ、隠れるようにうずくまるのならここしかないという場所に思えた。朽ち葉の散り敷かれた黒土の上に坐って人の腕のような小枝の縫い目から天を仰いだ。瑠子が『あの人に似ている』という枕詞で私を形容するその男について、思いがけず血が騒ぎ、なぜか張り合うという気持ちが兆していた。死ぬつもりで入ったのかどうか知らないが見つけてもらえたのは僥倖だったんだよと眼の前にその男がいるかのように呟く。そうでなければ負け犬のようにひっそりと息絶えていただろうよ。ふふんと鼻で笑うような心持ちにもなった。
 途中峠の茶屋で買った氷砂糖の入った袋を取り出し半透明の水晶のようなそれをひとつ口に放り込んだ。甘やかなものが唾液に混じって躯中に沁み込んできた。木陰の涼しさに誘われるようにいつしか眠りに堕ちていた。ここは、もう三十年以上も前に《死の詳細右の通り》とだけ書き遺して大学生の男女が千本鳥居のひとつに荒縄をつり下げて縊死したという伝説の場所である。『戦後事件・世相篇』の一項には、一切の弁明をしない潔さ、ここにこのように二つぶら下がって在るという事実、が時代に迎えられたと書かれている。夢の中にその男女が出てきてもおかしくはないと思った。が、実際は夢など見ず、時間だけが冷酷に吹っ飛んでいった。背筋を刷毛で掃かれるような寒気で目覚めた。陽はすでにかげっていた。
「そろそろ山を下りないとキツネに化かされますよ」
 眼の前に立っていたのは瑠子だった。躯から芯棒が抜け落ちる気がした。思わず「なんでここに」と叫んでいた。
「あなたに逢いに来たのではないの。あの人が呼んだのよ」
「またそれか。何者なんだその男は」
「本当に知らないみたいね」
 瑠子は私の額を指先で数回弾いた。微かに痛みは起こったが幾重にも、それこそ狐につままれているようなものだった。
 
「風聞では、その人はあそこで、ちょうどあなたが坐り込んでいたあたりにいたらしいの。あなたもきっとそこにいると思ったわ。わたしは老婆になって家出したあなたを探している気分だった。なんで老婆なんだと思うでしょうけど、それが実感なの」
 案内された別棟の部屋で瑠子がこう言ったとき私はまだ正気に戻ってはいなかった。
「まったくの嘘ではない、かといってもはや十八年前のそのままのこととも思えない、あなたが作り話に似せた形で引きずっている伝説みたいなものにすぎない。それに翻弄されるなんてどっか変ですよ」
 私は自分自身への憤りも交えてくそ真面目に言い募った。瑠子は下端に花柄をあしらった封筒をバッグから取り出した。胸元に差し出して「読んでみて」と言った。ろくに見もしないで私は突き返した。
「現在のあなたにしか興味はない。過去がなんだというんですか」
「そんなことを言っていると、時間の袋小路に絡めとられてしまうのよ。それでも、いいの?」
「望むところです」
「なら、いさぎよく読むべきよ」
 封筒を手にし、なかから薄っぺらな便箋の束を取り出した。そこに知子の筆跡を認めると顔を上げて瑠子を見た。きりりと結んだ唇の端に点のような窪みが数個できている。
「なんで? しかし、余計読みたくない」
「ルール違反を承知の上で、昨日届いたこれを見せるために、夫が戻る寸前に家を飛び出して入れ違いに新幹線に飛び乗ったのに」
 瑠子は拗ねたように言った。
 
『びっくりしました。たった一ヵ月ほどでしたが私はあなたに魅かれていました。さっぱりとした気性が見ていて清々しかった。自分を決して貶めず私みたいな若輩者が言いつける雑事を嫌な顔ひとつしないで無言のうちにこなしていく姿は光り輝いているとさえ思えました。それほどの存在感も品もあったということです。もっと親しくなって、お人柄に接したいと私は思っていました。
 あなたに露悪趣味(ごめんなさいね、こんな下品な言葉を使って。他に思いつかなくて)があるとは思いません。清一とのことは親切で教えてくれたのでしょう。私の眼がたしかであれば、あなたは真率な人です。前世からの因縁だと言うあなたのお考えもよくわかります。私はあとに書く理由によってその因縁も含めてあなたの言うすべてを信じます。
 あなたが『キャロル』に入ってきたのは意図されたことだったのだと今回の手紙でよくわかりました。私はあなたの声に聞き覚えがあったから長い間どこで聞いたのだったか思い出そうと努めてきました。清一にも尋ねたことがあります。春先の早朝、会社でお逢いする一週間ほど前、偽名でかかってきた電話の主こそあなただったのでしょ? 私が取って取り次いだのです。いま思えば清一は隠し通そうとしたか、言いそびれたかだとわかります。それはここでは措くとして、お手紙を受け取る直前に、ついにあなたの正体がわかったのです。ただし記憶の底から浮かび上がってきたのは声ではありませんでした。あなたのお顔です。今度はあなたが驚かれる番ですよ。
 あなたのいう罪の根幹を担っている人の名前を当ててみましょうか。波田敏勝、私の実兄です。お手紙を読んでいよいよ確信しました。
 伏見稲荷で九死に一生を得てから兄は故郷の多度津に引き上げてきました。瀬戸内海に面した塩田と漁業をなりわいとする小さな海辺の町です。この町で百年に一人出るか出ないかともてはやされた神童が大都会東京で神経を病んで帰ってきた。親類縁者、近所の人たち、町の人みんなからは、一転して、それ見たことかとばかりに嘲りや蔑みを受けました。戻って一年ほどはすっ裸で海岸や畦道を走り回るという奇行もありました。そんな兄も五つ違いの妹の私が傍にいるあいだは生きていても楽しいことがあったようです。殊に数学の込み入った問題を教えるときなどは実に生き生きとしていました。
 兄が家の前の畑にある一本の柿の木に荒縄をぶら下げて縊死したのはそれからたった一年後、私が上京する少し前でした。手を振って私を送るべきなのに「あした天気にな〜れ」のてるてる坊主みたいに折れる寸前の枝に自分の躯を吊り下げていました。
 父も母も恨み言ひとつ言いません。それがこいつの寿命なんだとそればかりを繰り返していました。自らを納得させるための方便とわかっていてもこの悲劇的な結末をやり過ごすためにはそう言わずにはおられなかったのです。兄の死の理由について私も父や母同様詮索する気はありませんでした。突然変異のように頭がよかったばかりに神経もうんと遠くへ跳んで行くんだと悲しいことは悲しいけれどあきらめも早かったように思います。家族はそれぞれの仕方で兄の記憶を封印しようとしたのです。母はとなりの市のあやしげな祈祷師の元に通いはじめ自身も占いやおまじないの掘り起こしのようなことをはじめました。まだ五十代の半ばなのに父はめっきり老け込んでいよいよ無口になりました。私には幸せそうな一対の男女の写真だけが残りました。兄は私にだけ部屋に入ることを許してくれていました。しかし、その私にさえ写真の女性が誰なのか教えてくれません。最初のうちは冗談に紛らわしながら「振られたの? 片思い?」などとからかっていたのですが、時が経つにつれて不機嫌さが増していく兄を見たくないばかりに話題にするのを止めたことを思い出します。清一の様子がおかしい、と勘づいて古いアルバムに手が伸びていなければ、またお手紙を読んでなければ、あなたが兄の最後の恋人だったという確信には至らなかったわけです。
 いままた兄は私にとってひとつの、かけがえのない財産だという気がします。しかしあなたを通して当時の兄、私たち家族にとっては空白の三年間をかりに探り出したとして、どうなるものでもありません。悲しい記憶はいくら積み重ねても負の価値しかもたらさない。あの時に思い知ったことをまたぞろ繰り返すことはできません。敢えてこう書くのはそういう気持ちにきっぱりと別れを告げるためです。兄のことは家族のタブーでもあったのでその五年後に知り合った清一は何も知らないはずです。ご安心下さい。ちなみに清一は私の口から言うのもなんですが、二人の姉と一人の妹にはさまれて育ったせいか甘ったれの世間知らずのナルシスト、それに自分勝手です。そのくせ、人の気持ちに逆らうことができない、それはもう小さい頃からの躾みたいなもので、その程度の筋金入りの小心者です。
 奇しき縁のあなたのご多幸を祈りつつペンを置きます。
 
 どちらが言うともなく私たちは重い足どりで外に出た。疎水に沿った道をふらふらと歩いた。ときおり、枝垂れ柳の葉先が肩に触れた。そのたびにひんやりとした氷の粒のようなものが背筋を通って足元に抜ける。一個の屹立した避雷針になりたい、ふと思った。そうであれば瑠子も知子ももちろん心優しい息子もすべていっしょくたにして守り抜くことができるはずだ。狭霧が鈍く光る河原に降り立った。
「いっぺんの思い出に成り下がる運命かも知れないけどあなたとのことを知らせずにはいられなかった。なぜなんだろうね。知子さんこそ露悪趣味という品のない言葉で私の行為を批評しながらその実正確に受けとめてくれたんだわ。皮肉が皮肉にならない。韜晦も身につかない。あの人もそんな風だった。血は争えないね」
 大きさの違う石ころが足元を危うくさせた。
「とんだ薮蛇だったわけだ。それとも神か仏の導き手があって手紙を出したとでも言うのかな?」
「この期に及んで皮肉を言わないで。あなたは、無念の死を遂げた人の妹のつれあいなのよ」
 目をつり上げて言った。
 
 時間はうつろに過ぎて行った。水入らずの観光旅行からはほど遠く、若気の至りのような気まずさが飼い慣らすには重くのしかかった。夜半すぎに、瑠子は寝巻き用の浴衣を脱ぎ、いったんクローゼットに仕舞い込んだ洋服を引っ張り出した。ひとりで勝手に来たのだから勝手に帰るのが自然だわなどと訳のわからないことをぼそぼそと呟きながら赤茶色のツーピースを身に纏っていった。着終えるとそれが最後の挨拶だとでもいうように腰を振り立て、タイトスカートをたくし上げ、昼間の山登りのせいで痛む腰をかばって布団の上でうつ伏せになっていた私の躯に馬乗りになった。尾底骨が何度も背骨をこすった。ごつごつしい骨盤の骨は一往復でひとかけらずつ表皮をひき剥していく。
 私は獣のように跳ね起き、脱がされるために着替えたのだろうと言わんばかりにブラウスを剥いでいった。目の前に現れた肌は蛍光色を放っている。その輝きは眼潰しの白である。乳房の張りも若々しさの象徴のようなしこりを芯に残している。
 神水の湧き出る泉にも見えた瑠子の中心めがけて突き進んでいきたかった。もはや、つながるしかなかった。なにもかもが夢幻の仕業に思える瞬間だった。
「いれちゃだめ」
 ささやきに似た声を瑠子は出した。シーツに滲んでいく赤い染みがなかば瞑った眼の中で光の条のようにちらついた。昼間くぐり抜けた千本鳥居もこんな色に染まっていた。
「なんて夜なんだ」
 瑠子の上から降りてすべすべとした背中を撫でながら私は叫んだ。すると、昂ぶった心を鎮めようとするかのように、
「いまわたしの躯は熾る炭火のように熱いわ。じんじんと音を立てて裂けていく。裂けてゆきながらあなたを拒んでいる。私の罪はここで罰せられている、そんな気持ち」
 伊香保の温泉宿の一室で浅間のシルエットを見ながら胸をはだけた瑠子の浴衣姿に私が感じたことと似ていた。あのとき瑠子はひとつになりたかったのに、私のためらいが拒絶したのだった。こんどは瑠子が異を唱える。ひとつになることがそのまま死への道程であるとも、また、瑠子と切り結ぶ唯一の糸にも思えた。まるで風に翻る幟の表と裏だのようだ。
 夜明け前に出ていく二人をフロントの男は眠そうな眼をこすりながら疑わしそうに眺め遣った。料金を払った上で、しかもひとりではなく二人そろって出て行こうとする者には何の落ち度もない。お節介な自分には声を掛けることができないのがもどかしいという思いが全身に溢れていた。あまりにも優しげなその視線を背に、いっそう落ち着かない気持ちで人通りの途絶えた都大路に踊り出た。
 瑠子は私の腕を掴んでぴったりと寄り添い、足は自然と遥か北の不夜城のような駅に向かっている。四条の百貨店の前にさしかかったとき「電話する」と言い置いて走り出した。歩道の真ん中に木偶坊のように電話ボックスが立っていた。原色のネオンを跳ね返すガラス越しに手帳を繰る姿はすぐにも極彩色に色どられていくようで、この世のものには見えなかった。
「こんな時間に誰にかけたの」
 瑠子を日常に連れ戻すような気持ちで訊いた。
「娘のケイタイよ。サークルの合宿に行ってるの。母親の血も巡っていると思って、自分でもすこし安心したわ」
「出たの?」
「そんなこと問題じゃないわよ」
 瑠子は邪魔者を追い払うように右手を何回も振り立てた。
 ちょうどそのとき向こうから歩いてきた若い男女が五十メートルほど先で突然歩道から消え去った。
 私たちは歩度を速め、二人が消えたあたりまで来た。左手に樹齢数百年の杉木立の参道がタイムトンネルのように黒い口を開けている。眼を凝らすとどっしりとした湿気のたれ込めた闇の中に白い服を着た二つの影が浮かび上がった。残像は重なり合いながらついにひとつに溶けあっていくのだった。
「見た?」
「うん」
 ふたたび顔を見合わせ目の前で起こっていることを確かめると念を入れてみたび瑠子は頷いた。どこか悲しげな表情をしていた。手首を掴んで砂利敷きの参道に入った。すぐにひんやりとした空気が全身を包み込んだ。中に消えた二人に早く追いつきたくて私は急いでいた。砂利に滑る靴底がじれったいと感じていると、五メートルほど走ったところで足をもつれさせて瑠子は転んだ。腕を持ち上げると「どうしてそんなに、きつく引っ張るの」と嗜めるように睨みつける。
 いよいよこの参道が黄泉への入り口のように思えた。すっくと立った瑠子はもう一度難詰する代わりにバッグの口金に手を添えて覗いてみるよう促した。底から鈍い光りが立ち上がっていた。巧妙に匿われたその物体は発光して自らの居場所を知らせていた。その光りに誘われるように手を差し入れた。触れた瞬間掌に犀利な痺れが起こる。咄嗟にバッグから手を引き抜いた。異変を隠し立てするように瑠子は両手で私の掌を包み込んだ。赫い血でぬめった掌が瑠子の体温を吸い続けていた。
「預かっておくよ」
 私は理容師が使うような切っ先の鋭い剃刀を取り出し、柄を手に握りしめて立っていた。
 前方の先すぼまりの参道を見遣るとさっきのアベックは影も形もなかった。
 太い幹に背をもたせ掛け、瑠子の躯を胸に受け留めながら私はうつらうつらしていたのだった。木漏れ日を受けて目覚めると再び駅に向かい、瑠子は朝一番の新幹線に乗って岡山へ向かった。互いに反対の方角へ向かうことになんの疑問も感じず、また夫の赴任地とはいえ不在の街へなぜ出かけるのか、聞きそびれてしまった。
 
 伏見稲荷から帰った私は、知子に宛てた瑠子の手紙を目の前にいつ突き出されるか、半ば恐れ、半ば期待した。叶うならばそれを読んだ上でもう一度だけ瑠子に逢いたかった。知子にも言いたいことがあった。まぼろしの会話は何度も反芻されている。そこでは、一切弁明をしないことが瑠子への仁義だと私は信じ、正直な自分を守り通していた。それは知子の見幕に実際に接すれば正反対の対応をするかも知れないという畏れの裏返しでしかなかった。
 幸か不幸か知子とは何の会話も成立しなかった。相手の出方を牽制しあうように、顔をあわせてもにらみ合うだけの日々が過ぎていった。
 十月の半ばを過ぎた頃、止むに止まれず私は十三階の部屋を奇襲した。
「とうとう来たのね」
 瑠子は私を玄関脇の寝室に案内した。部屋からはみ出しそうなダブルベッドの上は雑多なものが捨て置かれ散らかり放題だった。客が来たからといって片づけるそぶりも見せない。大胆にもベッドの端に腰を掛け頬のやつれが隠しようもなく現れ、眼光が鋭くなった瑠子をみつめた。
「どんなにあなたのことが好きだったかが、いまごろ分かってきた。もう遅いよね」
「わたしだって同じ気持ち。年を重ねればこんな、辛いのか懐かしいのかわからないようなことにも遭遇するってことよね」
 瑠子は洋服の上から赫い着物を羽織った。
 ベッドの上に投げ出された画集は二曲一隻の屏風絵の頁が開かれたままになっていた。絵の中の女は長い振り袖と裾がもつれたくすんだ赤色の着物にS字形に湾曲した細い躯を包んでいた。よくみれば背後からの構図である。腰高に結ばれた帯は背中一面を覆うように垂れ下がり、しどけなく開いた項は白が際立ちすでに毛羽立って見える。百八十度見返った細面の顔はやや傾いで、頬は淡紅色に染め抜かれている。目を瞑っているのに、笑っている。女の名前はこの絵の題名にもなっている立田姫、秋の風を司る女神の異称だった。右手に黄金色の扇を持ち、この着物が羽衣ならばいつ飛び立って頁から消えてなくなっても誰も不思議には思わない雰囲気を漂わせている。
「伊香保で買った図録と違うね」
 私はまた頓馬な質問を浴びせかけた。そんなことどうだっていいでしょ? と言わんばかりに眼を剥いて瑠子は私を睨みつけた。それでも、
「岡山にもこの画家の美術館があったのよ」
 と教えてくれた。私は背広の内ポケットから鋭利な切っ先もこれでは役に立たないというほどハンカチでぐるぐる巻きにした剃刀を取り出した。返さなければと思っただけで他意のない行為だった。そのことも見透かしたように、一瞥しただけで瑠子は広げた両手を蝶のように上下に煽り立てながら絵の中の姿態を真似た。
「どう? お姫さまになれるかなぁ」
 着物の裾が畳を掃くように滑った。
 靴音の響きがコンクリートの廊下から届いてきた。娘が帰ってきたかと危ぶんだが、その音は扉の前で止まることなく次第に小さくなっていった。
 すると、自身を立田姫になぞらえた瑠子が眼の前を通り過ぎ、居間を一散に駆け抜け、両手を広げて南側のベランダの柵を飛び越えていくのが瞼の底に見えてくるのだった。知り初めの頃垂直に三十メートルほど離れた中庭とベランダで身ぶり手振りで会話を交わしたことがあったその同じ空間を瑠子の躯は肌理を裏返すような鋭さを持った風の波を截っていく。あとを追う自分までがまるで羽衣に包まれた風であるかのように中空に舞い上がる。高熱に襲われる前の、躯中の血が逆流していく一瞬の感覚に似ていた。それが心地よくないはずはない。                     (了)


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