采 女

              
 ドライブに誘い出し、七、八時間ぶっ通しで車を走らせた。やっと到着した山あいのモーテルで、膝ぐらいの高さしかないベッドのうえに正座して指先を櫛の代わりに立てば肩をすっぽりと覆うほどの長い髪を壱岐は梳いていた。祈りも呪いも、いっさいの思いを髪の毛に封じ込めるようにひとしきり繰り返すとふいに手を止め「頭の先から火焔がむらむらと立ちのぼってくる気がするわ。近くでほんとうに火が燃えているんじゃないかしら」と懈い声で神懸かりのようなことを口走る。ほこりと汗でぬめった掌にはうす茶色のサラサラした髪の毛が落ちきれずに何本もこびりついていく。
「一緒にどうだ」
 髪を梳く作業に没入している壱岐に声をかけた。
「どこへ行くの? 戻っておいでよ。アグニの怒りに触れて黒こげになってしまうよ」
 誰にともなく、訳の分からないことを呟く。
 シャワールームで、ぬるま湯を頭から浴びせかけた。壱岐の裸身が水のすだれのなかにうごめき、そのむこうに堂神の嘲弄するような厳つい顔が欄間の彫刻のように見える。シャワーを冷水に切り換え、火焔に包まれているのはこいつだとばかりに吹きかける。躯は無数の虹のアーチに取り囲まれるが、的は迫り上がろうとする一物である。飛沫に弾かれて上下に揺れる。ふり摩羅などという雨乞いの儀式があるのか、かつてあったのかは知らないが、ひとりだけの密室で、唄うことも踊ることもせず火を鎮めるための雨を呼んでいる、そんな気分がしてくるのだった。
 昼前に平野部を離れ、左右に切り立った崖のような山をすり抜けてきた。車がいくつものきつい坂を越え、越え切ったあとはただひたすらこのモーテルまで滑り落ちてきたように、壱岐は何度でも、造作もなく自分の閾をまたぐのではないか。坂を上りきったあとの蛇行する下り道でヘッドライトに掃き清められていく路面に眼を凝らしながら壱岐との八年が夢や幻よりも遠いと思えた。
 冷やされていったん萎えた一物をタオルにくるんだまま壱岐の躯に乗った。もう一度昂まってくるのを待って、芯に差し向ける。壱岐は音ひとつ漏らさず自ら抜け殻となった蝉のように、意地も張りも、欲も快楽も、希望も絶望も、すべての感情を捨て去ったあとの、かつてはひとつの機能であったモノとして横たわっている。躯の奥底に侵入してこようとする一物を決然と押し戻し《こんなこともうやめにしてはやく帰ろう、急がないと遅れてしまう》と託宣めいた言葉を吐く。紫がかった照明を透かして壱岐の顔を見ると、瞼が腫れて茶色の瞳を押し包み、目尻が力なく垂れていた。炎のなかでカッと眼を瞠き、頭髪を逆立てて踊り狂う堂神の顔と重なった。壱岐に向けて言うべきことがいっぱいあった。
「どこかで一緒に暮らさないか」
 平常の状態に戻った間隙を見計って口火を切ると、壱岐は「ばかばかしいわ。そんなことできるわけないでしょ」言下に否定した。ベッドから起き上がり、左腕で胸を隠しながら散らかった下着を寄せ集め、カーペットのうえに放り出していたカーディガンを羽織った。のろのろとした動作がいっぱしの悪女にみえなくもない。身づくろいが済むとひとつきりのソファーに大きなため息とともに坐り込み、細い指先でまた髪の毛を梳きはじめる。さっきと同じ動作でもどこか様子が違っていた。募りゆく苛立ちを梳く手の指先に凝集め、炎とともに躯ごと消えてしまえとばかりにかきむしった。指の間にこびりついた髪の毛をもうひとつの手で摘みとり、数える風でもなく二、三本を束にしてテーブルのうえの灰皿に捨てる。蛇行を繰り返す坂道にはいると山頂からも谷底からも風が吹きつけてきた。中腹に切り拓かれたスカイラインの白いコンクリートの路面で風は竜巻のような渦を作っていた。暗くても運転する者にはそれが見えた。その渦を断ち切るように車を走らせると、樹木の精をはらんだ風は窓ガラスに浸透して車のなかにも入り込んできたのだった。髪の毛には騒々しい車に対する樹々の怨みが宿っていると思った。
「堂神との組み合わせ自体がそもそも間違いだったんだよ」
「……」
 カーペットのうえに坐りこんで、ままごと遊びに使うような丸いテーブルを間にして向かい合った。数十センチ高い位置でゼンマイが巻き戻る寸前の人形のように壱岐は黙って髪を梳いている。灰皿のなかはうす茶色の細長い髪の毛で満たされていった。
「イキを救い出すのは俺しかいないじゃないか」
 灰皿に溜まった髪の毛玉は、マッチの炎とともにちりちりと音を立てて焦げていく。マッチはぼくが碌に消しもしないで捨てたものだった。「秋になるとよく抜けるのよ」胸の奥でとぐろを巻く匂いに鼻を詰まらせながらついさっきまで皮膚のうえで生きていた髪の毛に詫びるように壱岐は呟いた。
《髪の毛を燃やすと気が振れる。だから火にくべてはいけない》小さい頃さんざん聞かされた迷信を思い出した。気が振れるのは髪の主かそれとも燃やした者かどっちなのか、屁理屈のようなわだかまりは残ったが、わざとのように何度も禁忌を破り、その度に鼻を刺す不吉な匂いに噎せかえった。

 夜の白む頃モーテルを出て、乳白色の霧を縫うように車を走らせた。営業用に会社から貸与されている旧型のライトバンはガソリンさえ補給してやれば、小学生向けの百科事典を一セットも売ることができなかった落ちこぼれセールスマンの言うことも忠実にきいてくれる。来た道を引き返すつもりはなかった。陽を浴びると壱岐は、今日でなければ明日、明日でなければあさってにもきっと堂神は戻ってくると半ば面子を保つように胸を張る。癪に障った。そんな自信はまやかしだった。壱岐を乗せて堂神の手の届かない世界を走り抜けて行きたいとむかっ腹のようなことを思う。それが物言わぬ車の意志でもあった。
「二度とあの部屋には戻ってこないよ。あいつは酷薄な奴なんだ」
 平坦な一本道に安堵して、ハンドルに軽く手をそえたままでまかせを言った。
「どうしてそんなことがわかるの?」
「勘だよ」
「じゃぁ、はずれだね。蒸発や失踪じゃないのよ。れっきとした……。からかっているのね。そうでしょ?」
 心の動揺を映し出すのか、ことばの先がささらのように震えている。
「何日も前に出てるってよ。もっぱらの噂だ。定期的にサツに情報を流すという約束で出してもらったと尾鰭もついている」
「信じられるわけないでしょ! うそに決まっている」
「馬鹿を見るのはイキなんだ。だから言うんじゃないか」
 吐かれたことばの内実にいっそう煽られてぼくも昂ぶっていた。壱岐が欲しいという気持が骨に付いた肉を内側から剥すほどに露わになる。
 日本海沿いの曲がりくねった道を東に向けて走らせていた。外の景色に眼を遣ったまま壱岐は長い沈黙におちた。まばらな松林とその向こうに泡粒の立ち騒ぐ海が広がっている。瀬戸内に面した元の街とちがってこの海は、はるか大陸の岸辺にまで通じている。
 道が九十度近いカーブにさしかかり、曲がりきると砂の粒が突如驟雨のような勢いでフロントガラスをかすめた。壱岐は咄嗟に身を屈め、両手でぼくの上着の裾を握り締めた。ハンドルから左手がすり抜け、その分右手に予想外の力が加わった。車は対向車線にはみ出ていた。ゆっくり元に戻しながら「死ぬ気かい。向こうから走ってこなかったからよかったけど」拗ねたような言い方をぼくはした。
「いまにも割れそうな音がするんだもの」
 壱岐はすまなさそうな声を出し、おそるおそる上着から手を離した。
「つかまる前に、実は逢っているんだ」
 堂神は人の気持ちを思い遣り、それと折り合うようにして生きることが下手な男だった。そのくせ里から遠く離れた山中に棲む魔物オモイのように、目の前の人の心を読み取ろうとする。それが孤独な自分を救い出す手段であるのかも知れないが、彼もまた時代の呪縛から逃れることはできなかった。かつての仲間十数人とともに「とりこわし反対」を叫んで老朽化した学生会館を占拠した。キャンパス内の騒動は本部棟の封鎖解除で一年前に実質的には終わっていた。この篭城は断末魔の喘ぎに似ていた。案の定一ヵ月ほどあとに県警の精鋭部隊に取り囲まれると、石や火焔ビンによる抵抗はあったもののあっけなく排除された。その三日ほど前のことだった。バリケードのなかに堂神を訪ね「イキはどうなるんだ」とぼくは詰め寄っていた。「いい加減その偽善者ぶった言い方はやめようぜ。惚れてるんだろ? オレのいない間にものにしろ。おまえにやるよ」義のうすれた闘いの前の荒んだ心がそんな節操のない言葉を生んだのか、オモイの化身堂神から出るべくして出たのか、すぐにはわからなかった。
「なんて言ってた?」
「聞かないほうがいい。腹が立つだけだ。それよりあれを見てみろよ」
 顎をしゃくって斜め前方を指した。
 風に舞う砂の粒は間欠的にフロントガラスを叩き続けた。何度か繰り返すうちにはじめの唸り声にも似た衝撃は消えていった。幹線道路をそれて砂丘の入り口に車を停めた。まわりに人影はなかった。先に車を降りた壱岐は砂の粒を蹴散らせて襲ってくる潮風を「わあー砂漠だ」と叫びながら両手でかきあげた髪のなかにとりこんだ。長い糸のような髪が水平に流れ幽玄な文様を作る。壱岐はいくつかの砂の丘を走り抜け、ひときわ起伏の大きい丘に立った。そこからは眼下に見える海に向かって「いなばのしろうさぎになるぞぅ」と嗄れた声を立てた。その声は海からの風に押し戻されくぼみに立っていたぼくの躯をぐるぐる巻きにした。

 信号待ちの間に、両手の甲を揃えて竹の葉脈のように何本もの条が走る指先の爪を見つめていると、突端の黄色い月の輪が刻一刻と大きくなっていく気がした。
 二人のほかには誰もいない砂の丘で俯瞰すれば大地の黒子のように見えるにちがいない浜昼顔の群生を縫って幼い頃に戻るように二人だけの鬼ごっこに興じた。傾きが十数度もある砂の斜面だった。両足にふんばりが利かず浜昼顔の根を握り締めてバランスをとった。その根が抜けるとでんぐりかえるように転んだ。仰向けの姿を見て壱岐は笑った。口元からはみ出した八重歯が弱い陽ざしをはねかえしていた。九月の空は自棄に高かった。哺乳類は悲しすぎるという、何度も口にしては傷口を癒す薬草代わりに使ってきた垢まみれのことばがこみ上げてくる。いつまでも癒えない傷ってなんだったのだろうと唐突にぼくは思った。「誓約書」を書くことと引き換えに無罪放免となり、かつての威勢を殺がれ腑抜けのようにおとなしくなったことか、大学に見切りをつけ、堂神以外の友をみんなしりぞけたことか。しかし、どれもいまとなれば、小さいことだった。ぼくは胃のなかのものを砂の上に吐き戻した。酸っぱさが鼻を衝く黄土色の液体だった。砂地に滲み込むその液を砂漠に棲む奇妙な生き物を見るように壱岐は長い間みつめていた。
 爪の中にはそのとき紛れた砂が何時間も居座り、陽光に煽られて黄金色に輝いている。ゆうべモーテルの中で一時的に神懸かりのようになった壱岐の姿態が目に浮かんだ。髪の毛を火にくべると気が振れるのなら日々伸びていく爪もまた同じなのだろう。
 道路が山側に蛇行して海が隠れると、この近くに親戚の人が住んでいると壱岐は言ったのだった。
「たっちゃんっていうの。なつかしいわ。その人に逢えれば、このドライブは大成功」
「いいよ。どこへだって行けるさ」
 ぼくは気軽にそう答えた。
 昼前にはさびれた埠頭の鬆だらけのアスファルトを滑るようにしてフェリーに乗り込んでいた。
「大学に入ってすぐの、たしか五月の頃、正門前の交叉点であなたたち二人と行き逢ったことがあったでしょ? 私も何人かと連れだっていたけど、渡り終わってからも立ち止まってあなたたちのうしろ姿をじっと見ている私にあなたは気付いた!」
 舳先に並んで立って、行く手の白い波頭を見つめているとき、大事なモノを忘れていたとでもいうように壱岐は急に眼を剥いて言い立てた。
「はるか昔のことに思えるけど、よく覚えているよ」
「堂神になんか言ったでしょ。しばらくして、彼が振り向いて、手を上げたのよ。なんて言ったの?」
「忘れたよ」
「当ててあげようか。おまえのことを見ているぞ、気があるんじゃないか、でしょ?」
「かも知れないな」
「自分に視線が向けられているとは思わなかったの?」
 似たような記憶が甦ってくる。ぼくは川の流れに身を委せて泳ぐことしか知らない、田舎出の高校二年生だった。なぜクラス対抗の水泳大会に担ぎ出されたのかは忘れたが、五十メートルプールで、もうゴールだろうと立ったら、まだ半分も残っていた。力尽きたというよりも風船玉になった躯から空気がすーと抜けていく感じがしたのだった。プールサイドで、唖然として、やがて嘲りの笑い声を立てた級友たちに混じって一人憂い顔で、水中に突っ立ったままのぼくを見つめている少女がいた。少女は小さな胸元で祈るように両手を合わせていた。両手の指先はくっついたり離れたりを繰り返した。いま思えば音の消えた励ましの拍手だったのだ。「好き」という一言がついに言えなかった。気品に満ちた卵型の額と黒く輝く瞳、ちょっぴりハスキーな高くもなく低くもない声、人の気持がわかる完璧な少女だった。ぼくには高嶺の花と映った。
 いま壱岐は、二人分の生活費を稼ぐためにより実入りのいい夜の仕事をしている。あのときの少女のままの壱岐に戻すためにも、堂神への義理立てが大きな錯誤であることを分からせなければならなかった。
 三時間フェリーに揺られて、高校の時から数えればもう八年も身近にいながらずっと遠い存在だった壱岐との距離が一気に縮まるかに思えた。

 あてがわれた二階の部屋で深夜に目が覚め、両手両足をいっぱいにのばして畳の上に寝そべり、天井の染みを睨みつけていた。突然瞼の裏に閃光が走り抜ける。縁続きの男を十数年ぶりに訪ねることができた安心感からかとなりの壱岐はすでに穏やかな寝息を立てている。すると、自然発生するように新天地の屋台村に蝟集していた頃の一夜の記憶が甦ってくるのだった。
 ひとりの教官と大学院生のほかに学生くずれが四、五名いた。二つのグループに分かれて、延々と与太話を続けていた。そろそろ話の種も尽きかける頃、なんの脈絡もなしに堂神はすぐとなりの教官に冷えた燗酒を浴びせかけた。「しょせん知識人じゃないか。知識を増やしていくことが、他の欲望より上等だと勘違いしてんだよ」堂神は教官とは反対側に坐っていたぼくの耳元で囁いた。教官には聞こえなかったはずだ。「元気な奴がまだひとりいた。だが、とんだお門違いだ」いきり立った一人の院生を制して教官は平然と粘った顔を素手で拭った。壱岐の頼みだったにもかかわらず堂神は謝ろうとしなかった。なかに立った壱岐はおろおろしていた。温厚で、ずっと学生に味方してきた三十代前半の教官だった。その一年後に東京の私大に招かれてこの街を去っていった。大学にも学生にも愛想が尽きた、ということだったのかも知れない。
「壊れてきたみたい。一緒にきて」壱岐の気遣いも通じず堂神は自分本意の姿勢を崩さない。寝入ったのを確かめるように大仰な恰好でぼくの顔をのぞき込んだ。片目を薄く開けるとウインクを返してきた。壱岐には「平気、平気。よくねてるよ」と大声で言った。ぞっとした。同時に嫌悪感がこみ上げてきた。意思表示をしなかった以上「遠慮なくやれよ。寝た振りをしてじっくり見せてもらうよ」と言ったも同然だった。そんな自分にも腹が立った。はだか同然になって重なる二人に背を向けて目を閉じた。二つが離れた頃合いに寝返りを打つと布団からはみだした壱岐の両肩が見えた。あのときの壱岐はすすけた天井板の一点を長い間見据え、親指の爪を前歯でコリコリと噛んでいたのだった。
 もやがだんだんとうすれていく夜明け前、そっとガラス窓を開けると、海を取り囲むように点在する瓦屋根の向こうに一角だけ焼けた空が見え、熾りはじめた炭火のような鈍い赤色を見せている。この色は、比治山公園で見た朝の空の色に似ている。逃げるようにしてあの部屋を飛び出したあと一人で登ったのだったか、また別の日にたくさんの仲間と夜明けのランナーを気取って行ったのだったか、時間の観念がひと塊りの石と化しているいまはもう確定することもできない。
 階下から壱岐に呼ばれた気がしてうす暗い階段を降りて行った。黒光りした踏み板には塩の香りが染み込み、白い斑模様ができている。

 海に添って島を一周する舗装道路を歩いていた。昇ったばかりの朝陽が道いっぱいに広がって歩く三人を背後から炙るように照らしてきた。左手にさざなみの立つ海が広がっている。その波に蹴散らされる光りの柱が見え、ときおり、その柱に襲いかかるかのように飛び魚が水面で跳ねた。頬には少し冷たいくらいの風だった。
 あくびをかみ殺しながら傍の壱岐を見て、ぼくは「あっ」と叫び声をあげた。あんなに長かった髪が切られ産毛の密生したうなじが目の前にある。気付くのが遅かったうかつさも忘れて、いつの間に、という驚きは、それはないよ、ルール違反だよ、という落胆に変わっていった。
「なんで切ったの?」
 壱岐はそれには答えず、
「おばあちゃんに連れられて来たときと同じ景色だ。かつての記憶がそのまま生きている。感動するわ」
 男の方を向いて言った。たっちゃんと呼ばれる男は、前を向いたまま頷いていた。
「このあたりの海は昔のままだね。キレイだろ? イキちゃんだって、その髪型だとほとんど変わっていないよ」
 地面に滲みるような低い声で冗談めかして言う。背骨が少し湾曲しているのか立って歩く姿は実際より小さく見える。左足を地面に引きずり、歩く度に砂を蹴ちらす乾いた音が立った。濃い顎髭が顔一面を覆っている。誰かに似ている、どこかで逢ったことがある人だ、と思った。それは壱岐の言うなつかしさとは違う質のものだ。
 壱岐が教えてくれたのは十年以上前にここを訪ねた感傷的ともいえる理由だった。
 壱岐の祖母は島に渡ったきり音信不通の、みなし子同然の甥を気遣って来たのだった。生まれたときからずっと同じ家に住んでいたのにある日忽然と消えたたっちゃんに逢いたい一心から壱岐は祖母にねだった。列車と船を乗り継ぐ、小学生には途轍もなく長い旅だった。瀬戸内に面した小さな町の旧家の奥座敷で、たっちゃんが祖母から時にはしつこいくらいの叱責を受けながら生け花の手ほどきを受けていた光景を壱岐は何度も繰り返し思い出したという。たっちゃんが家を出たのは生け花を習うことがイヤだったからだろうと長い間思っていた。
「いまのわたしはあの頃のたっちゃんになりたい心境。おばあちゃんにも逢いたいけど、こんな状態では、帰れないし」
「おれもあれ以来逢っていない。一度訪ねてお礼を言わなきゃと思ううちに歳だけを喰っていく」
 たっちゃんはひとりごとのように言ったあと振り向いて、血は薄くても、壱岐の保護者としての資格が十分にあるとでも言いたげに値踏みするような視線をぼくに向けた。
 きのうは、ふたりの訪問を「よくここがわかったね」と一見感動を押し殺した声で受けとめたが、夕闇がおりる頃になるとどこかへ出かけて行き、紙袋いっぱいの食料と一升瓶をだかえて戻ってきた。陽気でも陰気でもない、ただ静かな酒だった。
「ぼくらも新しい生活を探しているんですよ」
「探しているだって?」
 たっちゃんはひたっとぼくを見つめたまま口の端を歪めた。
「探すなんていう行為は観念の仕業だと思うんだよ。ここでゆっくりして行けばいい。頭を冷やす場所としても、隠れ家としてもサイコーだよ」
「いても、いいの」
 壱岐は心底からの喜び様を示した。ぼくは困惑した。百科事典の販売会社に入った半年前「あせらず、気長に、勉強だと思ってがんばりなさい。誠意と高校生程度の知識や関心があればそのうち面白いように売れ出しますよ」と言ってくれた温和な顔立ちの課長はぼくに期待をかけ続けた。それが重荷であるどころか、笠に着るように、昼の時間を自由気ままに使い、車も勝手に動かしてきた。ひと組ぐらい売って恩義に報いたいという気もなぜか起こらなかった。
 舗装道路を右に折れて、小高い丘に登っていった。先導するのはたっちゃんである。まわりは、潅木の繁る林だった。
 中腹に拓いた、五メートル四方の斜面はそこだけ灰褐色の地肌がむき出しになっていた。背は高いが見るからに弱々しい草木が人の手で植えられ楕円状の仕切りを作っている。ストーンサークルを思わせる構図だった。壱岐は草木の葉を掌で弄びながら内側を一周した。
「これ、あざみでしょ?」
「よく分かったね」
「葉の棘が痛かった。かっきり三十三本あったよ。なんか意味があるの?」
 いつの間に数えたのか壱岐はそんなことも言った。中央部分にはこんもりと盛り土が施されている。何のための装置なのか、疑問が喉元までこみ上げてくるが、肩まではあった髪の毛をばっさり切り落として先端の不揃いなおかっぱ頭になった壱岐が見知らぬ他人のように思えて、推理をぶつけ合うことができない。他にも理由はあった。この人工的な平面は、不可侵の宗教画のごときものとして迫ってきて、おのずからの沈黙を強いる。そのくせぼくは数十センチほどの高さの盛り土の上に登って自分の足型をつけてみたい誘惑に駆られていた。

 遠浅の浜辺に押し寄せる波は太陽が高くなるにつれてだんだん勢いをましてくるようだった。足元にハングル文字の書かれたペットボトルや化粧瓶が転がっていた。波の音が高い空に吸い込まれていく。ぼくはこの島をいつか観た映画になぞらえて、秘かに「裸の島」と呼んだ。
 最初の日に屈強な島の男五人ほどが手伝ってひと抱えもある花崗岩を運び上げ、盛り土の上に乗せていった。巨岩が乗ってしまうと盛り土も回りの三十三本のあざみもあっけないほどの静寂に包まれる。
 緑の木々に覆われた島全体が丘である斜面の、その一角にたっちゃんは毎日出かけて行った。壱岐とぼくはたっちゃんがその岩にノミをふるう姿をそばでじっと眺めたり、島のあちらこちらに置かれている作品を見て回ったりして、日をやり過ごしていた。いつの間にか三日が経っていた。時の流れはうつろで間遠だった。同じことの繰り返しは、あの映画の中に入り込んだような気分にさせる。
 この島の丘の大部分を県内の大手建設会社が所有していて、たっちゃんは管理人という身分で暮らしているのだった。雨の日も風の日も興にまかせて岩を刻む。それが創業者である社長に見込まれたたっちゃんの唯一の仕事である。社長はこの島を十年ぐらいかけて「芸術村」に変えていく意向を持っている。利益を社会に還元したい、あわよくば名を残したい、成り上がり者にありがちな発想だなぁと冷ややかにぼくは思った。たっちゃんは「話の分かるオヤジだよ。世間の考えるような俗物ではない。本社の何階かの全フロアーを使ったKコレクションを見れば分かる。帰りに時間があれば寄ってみるといい」と言う。成り上がり云々とのぼくの思いを即座に読み取っての反応かとふと思ったが「生け花を習ったことは、いまに役立っている。いずれは、花にも向き合いたいね」続いて、誰にともなく呟いた。晴れやかな顔で壱岐は頷いていた。
「ゆうべたっちゃんのお布団に潜り込んだの。なんともなつかしい匂いがしたわ」
「……」
「昔、眠れないときは二階のたっちゃんの部屋に枕を持って上がって行ったの。いま思えば、枕を持っていくという知恵のあったのがおかしくて」
「変わった人だな」
「たっちゃんのこと? 祖母のいちばん下の妹の子供。戦争で夫をなくして、戦後すぐにたっちゃんを祖母に預けて、再婚したの。いつか迎えに来ると、長い間信じていたみたいだけど」
 この浜辺からは丘の斜面、黒褐色の土肌が露出した場所がよく見える。蜘蛛男のように蠢く人影、それがたっちゃんだった。何ヵ月もかけて石を削って、形あるものに仕上げる。丘の随所に据え置かれてある彫刻作品は、潮風に吹き晒されても永遠に古びないモアイ像を思い起こさせた。たっちゃんらしい優しさ、さりげなさがよく出ていると壱岐は評した。こんど、あざみに囲まれた盛り土の上の岩がどんなモノに変身するか見届けたいが、いつ出来上がるとも知れない作業に思えた。
「そろそろ帰ろうよ」
「一人で帰れば。私はしばらくここにいる」
 堂神はこことは比べものにならないぐらいの静かな場所で心を読み取る相手もなく過ごしているのかと思った。あるいは、噂通りすでに娑婆に出てもうひとつの敵である壱岐、いまやあの街にとってはまぼろしの壱岐から、逃げ回っているのかも知れない。流す情報もないのに、昔の仲間の元に出入りして、公安の誰かに電話をかける。スパイまがいのそれらの行為は滑稽を通り越して哀れを催す。堂神へのなつかしさは、生まれたばかりの蝶々のように危うげな壱岐への不安につながる。

 一人でバンに乗り込むと静かさが極まり、海の底に佇んでいるような気がした。高低の一定しないエンジン音が裸の島のうとましさを突き破って鼓膜を震わせ、敬虔な気持ちにさせる。浜辺ではちょっとした意地悪を仕掛けて「一人で帰れば」と壱岐は言ったのだと高をくくっていたが、もともと気の利いた冗談や軽口の、ましてや駆け引きのできる壱岐ではなかった。「もう捨てるモノはすべて捨ててきたから、何もない。何もないここが私には似合っているかも知れない。ここにいることは堂神には教えないでね。折を見て、私の方から知らせる」深夜を過ぎて、となりの布団に潜り込もうとすると、拒絶のしぐさとともにそう言ったのだった。
「堂神はもういいよ。おれのことも考えてくれよ。会社から追われかねない危険を冒しているんだぜ」
「私に必要なのは孤島の静けさだけ、と言ったら大げさかな。確信は持てないけど、ここでしばらく考えてみるわ。あなたには悪いけど」
「いまの情けない言葉は撤回するよ。俺の勝手で、イキを連れ出したんだからな」
 エンジンはかけたが、車を動かす気にはなれなかった。
 シートを倒して、フロントガラス越しに灰色の空にきらめく星を眺めていた。ガラス窓がこつこつと叩かれた。ぼくは驚いて起き直った。
 一瞬、蓬髪の堂神が仁王立ちしていると思った。《とんだ道化師だったな》そんな声も耳に飛び込んでくる。灰色の空を遮るほどの黒い影は車の上にかぶさっていた。
「ドライブにつきあうよ。島を一周しよう」
 たっちゃんは助手席に乗り込んできた。
 行く手の空がかすかに白みはじめていた。これが見納めだ。
「朝一番のフェリーで帰ります」
「それがいい。いまの壱岐は、おれを必要としている。おれも壱岐が必要だ。また遊びに来いよ」
「望まれれば、そうしますけど……。ダメかも知れませんね」 
「おれの布団で、よく眠っていたよ。無邪気な子だよ」
「あなたは本当に壱岐の大叔父さんですか」
「うん、まちがいない」                                     (了)



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