一 対

  (一)

 ガレージであなたの後輩の中原君と関係を結びました。この人なら気が楽だと思い、やっと本当の自分にめぐりあえたような安堵感にひたれたのでした。中原君はこだわりのない人です。わたしの過去を深く詮索したりしません。端から興味がない風です。中国文学を専攻しているだけのことはあるとヘンな感心もします。
 他の仲間たちはガレージをわたしと中原君の巣だと半ば認めるようにして次々と散っていきます。ガレージは連夜の送別会で賑いました。これを称して散華の宴。誰かが「ザンゲのまちがいじゃないのか」と半畳を入れましたが、わたしは、いやいや散華でなければ、と強く言い張りました。いちばん最初にここを離れていったあなたのことが頭の片隅にはあります。途中下車のつもりが結果的に一年間も滞在したことになる富田君は鹿児島の実家に戻りました。早稲田を正式にやめ、来春にも医学部を受け直しゆくゆくは家業を継ぐと言って、あなたの後を追うようにして散っていきました。心がけが殊勝すぎてアナーキーなところが売り物の富田君には似合いません。一ヵ月持つかどうかがその席での最大の話題となりました。人気のない駅ばかり撮っていた自称カメラマンの森山君は東京へ行きました。あなたとひょっこり出逢うことがあるかも知れません。伊地知君はアルバイトで始めた小中学生相手の添削指導に本腰をいれるようです。ある夜突然「もうここに来る理由がなくなった」と宣言しました。その場がすぐに散華の宴になったのは言うまでもありません。よくよく聞いてみれば親から金を援助してもらって会社組織にしてこんどは学生アルバイトを使う立場になるということですが、それはそれで批判も難詰も何も出ずみんなすーと聞き流し、あとはいつもと同じ酒を喰らって与太話をするだけのことでした。ひとり、またひとりとこのガレージを去っていくのはやはり寂しいものがあります。
 あなたの親友を自認していた大木君は送別会なしに散ってしまったようです。もう何日も顔を見ていません。この一ヵ月間、大木君はまるであなたの代わりのように身辺の世話を焼いてくれたのでした。好意はわかるのですが、おおいに困り果てます。はっきり言ってお節介が迷惑でした。「君を立ち直らせたい。それにはぼくしかいない。あいつは君とやっていく気なんかなかったんだ。体よく逃げたんだぜ。信じている君があまりにも惨めに思えるんだ」と言います。思い入れが強すぎ、それに考えることが常識的すぎて息が詰まりそうです。あなたとのことは何よりも当のわたしがいちばんよく知っていることで、あなたの親友とはいえ他人様からとやかく言われる筋合いはないのです。それは、常に、冷酷なまでに理性的だったあなたも同意見だと思います。
 いま、ガレージには夕方から朝にかけて中原君がアルバイトの夜警として詰め、夜の八時頃わたしだけが枯れ葉が掃き寄せられるように訪れ、朝までいるのです。中原君の勤務が終わると仮眠から目覚めたわたしも連れ立って外に出、気が向けば洋品店に直行するし、そうでなければ欠勤の旨電話をして中原君のアパートにしけこみます。あの部屋はもう引き払いました。したがってわたしの居場所はガレージと中原君のアパート以外にはないのです。
 中原君はあなたと同じくらいよく勉強します。あなたと同じくらい無口でもありますがあなたと違うところは考えていることがからっとして、さわやかで、わたしにもストレートに分かるということです。例えば中原君が「どうしようもない世の中だ。オレたちもそろそろ散る準備をしなければならない」と言ったとします。わたしもそう思いますが、中原君の言葉には重圧感も息苦しさもないのです。中原君と今日うまくやれたのなら、明日はきっといいことがある。そんな気がする。わたしや中原君にはもはや失うものは何一つない代わりに未来の時間は無尽蔵によこたわっているからです。
 あなたのことを考えると、よい思い出もたくさんあったのに、虫酸の走るような、胸くその悪くなることどもしか思い浮かんできません。いつの日にかそれを気付かせるのがあなたのたくらみだったのか、と愕然とすることもあります。その日がとうとうやってきたというわけです。しかも、あなたが目の前から消えたあとに。これも織り込み済みのことですか。随分とないがしろにされたものだと思います。かけらも疑わずわたしは能天気にもあなたを信じ続けた。こんなことだったならばもっと早くに中原君を知っていればよかった。でも、あなたへの憎悪が居座っているうちはまだまだ未練を残しているのでしょう。中原君はあなたのことをいっさい口にしません。わたしへの気遣いかと憶測することもあるのですが、もとより感情の小細工を好むような中原君ではありません。虚無をまとった中原君にはあなたへの興味がない。わたしの過去を知りたがらないのと同じことです。
 あなたが去るときに「肝心なときに優等生になるからなぁ」と突き放すように言ったのを覚えていますか。中原君はなかなか鋭かったのです。案の定「一ヵ月あとに、来てくれ」と仲間たちの前であなたは言いました。なぜ一ヵ月かは分からず、というか、何の疑念も感じず「あとはまかせて。うまく世間に潜り込めるといいね」と励ましたのでした。あなたは自分の口から別れの言葉を切り出すのがイヤだったのですね。この街のこの閉塞から逃げ出さざるを得なくなったあなたが自分に課した猶予期間。それぐらい経てば事態が変わる。つまり、わたしが変わると思ったのですか。実際その通りになったのです。
 あなたを見送るのはわたしだけだと思っていたのに、駅のホームには道子さんがいたのでした。繰り言めきますがはじめにこれだけは書いておかねばなりません。
 あなたを乗せたくすんだブルーの急行列車「安芸」が去ったあと道子さんに誘われ、長い時間一緒にいました。道子さんはわたしのことをあなたがこうも言った、ああも言った、と話しました。年長者らしいいたわりも感じましたが、端々に言葉の棘が潜んでいました。負けん気の強そうな人ですから張り合う気持ちもあったのでしょう。そう思えば、わたしに隠していたあなたの真意が道子さんによって暴かれるのを案外と冷静に聞くことができました。クリスマスイブと大晦日の夜、あなたはとうとう帰ってこなかったのでした。あなたの下手なうそもあっけなくばれてしまいました。昔の友達と朝まで飲んでいた、海に突き出た小山に登って初日の出を見ていた、大方そんなところだろうと思っていたのですが、三ヵ月後にいざ真相がわかってみると、こういうことでは批判できる立場にないわたしもさすがに動揺しました。これはあなたの復讐か。それとも自分自身への罰か。どちらにしても日頃のあなたの優しさにそぐわない。しかし、そのときはまだ一ヵ月後にあなたのもとに駆けつけてともに世間に潜るつもりでいました。うすぐらい駅前の深夜喫茶の雰囲気からして、道子さんよりはわたしの方があなたにふさわしいという気持ちが萌していたのです。
 それも、いまはもうすっかりなくなりました。ガレージを中原君との巣と思いなせばなすほど、活力が湧き、躯が甦ります。夜毎出逢える人の肌の真の温もり、たったひとつのその温もりを大事にしたい。それがわたしを生かす道だと思うからです。「一ヵ月後」の約束を果たせないことも、中原君と関係を結んだこともあなたにあやまろうとは思いません。これは過ちではないし、こうなることを望んだのは他ならぬあなたなのですから。
 ここまで書きながらまたぞろあなたの冷えた視線を思い出してしまいます。抱く前も抱いたあとも、見下すような、軽蔑の目だった。口では「過去は忘れてともに歩もう」などと言いながら、あの態度はなぜだったのですか。あなた以外の男に抱かれ、いったんはあなたから逃げたせいですか。人とのことや季節の変わり目に、感動したり、涙を流したりするとあなたはことさら無表情を装いました。アパートのそばの荒れ地に可憐なネジ花を見つけて歓声をあげたときには露骨に嫌な顔をしました。最初は照れ隠しのつもりかとも思ったのですが、あなたは十分に意識的だったのですね。いつか地獄を見せてやる。そんな悪意があった。優しい仮面で引き寄せて至近距離に届いた瞬間突き飛ばす。精神的にも追いつめていくあなたの手際の鮮やかさ。たいした優しさだったと思えます。

 (二)

 ちょうど中原君がわたしにおおいかぶさり、セーターの裾を捲りあげて乳房に手を掛けたときでした。久々の大木君がこともあろうに石崎を連れて現れました。なんという無粋。といってもここは誰でもが自由に出入りできるわれらが砦です。自虐的にフキダマリと言う人もおり、富田君などは秘密めかしてアジトと呼びました。謀議をめぐらす必要がなくなった時代にこれはとんだアナクロだと内心思い、ここは中性的にガレージでいいではないかと呟いたものです。いずれにしても大木君を咎めることはできないわけです。でも、石崎はいけない。いまのわたしがいちばん逢いたくない人間です。あなたに遠慮しているわけではありません。わたしにもっとも近い存在が石崎だからです。あなたとの距離の何億分の一の近さです。
 あなたが散ったときのままに、部屋の真ん中には電気こたつが置いてあります。腰から下はこたつの中だったのですが、ガラス戸を断りもなしに開けて、四、五十センチ段差のある土間に立った大木君が上半身を重ね合わせたわたしたちを見て、
「だめだ、だめだ。ここの空気は不健康すぎる。頽廃の匂いがする」
 例の嗄れた声で叫びました。余計なお世話にあらためてむかっ腹が立ちましたが、大木君とわたしたちとでは棲む世界が違うと思えば腹の虫もじきに収まります。セーターの裾を引っ張り下ろし中原君を押し退けるように背を立てて、わたしは大木君の肩越しに石崎の坊ちゃん然とした顔を認めたのでした。裸同然の恰好で重なるわたしたちに石崎は大木君ほどの嫌悪はみせず、代わりに、
「オレの子をなんで」
 低い声で呟くように言うのです。あなたの元を飛び出すきっかけとなったこの石崎からわたしは文字通り逃げてきたのでした。行方を晦ますつもりでいったん日向の実家に帰り、数ヵ月後あなたの元に舞い戻りました。あれから一年以上経っているのにまさかいまだに捜しまわっているなんて考えもつかないことです。実家でわが身を軽くしたのは事実ですが、石崎は知らないはずでした。石崎の子供かどうかの確信もありませんでした。それにしてもなぜ大木君が手引きするのだろう。わたしの頭はぐるぐる回りはじめました。口を衝いて出るべき言葉は時間の遠心力で吹っ飛んでいきます。
 石崎はいまにも涙を流さんばかりの顔つきでわたしを見つめています。大木君は私から目をそむけ、物問いたげな視線を中原君に送っていました。中原君は上半身裸のままこたつテーブルの上の煙草に手を伸ばします。大木君の義憤、石崎の感傷、それにわたしの狼狽、いずれにも無頓着です。駐車場の一角に立つ照明燈の蒼白い光りが窓から射し込んでいました。部屋の灯りを消しても十分に明るいのでした。ここの常連だったあなたはもちろんよく知っていますね。ついいっとき前までは中原君の重みを感じながら、両目を開けて高さ五メートルの照明燈ばかりか、その向こうの、電車通りを挟んで犇めくビルの屋上のネオンサインまで見えていたのです。背を立てると蒼白い光りに原色がときおり混ざるだけでそれらを直接目にすることができなくなりました。唐突に、そのことが悲しい現実のように思われました。煙草を挟んだ中原君の二本の指。光りはそこから湧き立っていると見粉うほどに、この小屋は霧に包まれたように茫漠としてきます。石崎が「オレと一緒に、一生いるべき女だったのに」と叫びました。わたしを睨んだままでしたが、中原君に言い聞かせるつもりかさっきとは様変わりの大声です。
「ここで車座になって酒を飲めば、そんな考えは消えていくよ。また、消さなければいけない」
 中原君が芝居がかった声で言います。半ば冗談に違いありませんが、どすの利いたいい声でした。脳震盪を起こしたように頭の錯乱がすーと退いていきます。神の託宣のようでもあります。
 石崎は上がり込んできました。大木君もあとに続き、坐る直前に螢光灯のひもを引っ張りました。ひもを離さずに坐ったので滑稽な感じが残りました。旧式の水洗トイレを連想したのです。が、それによって部屋のなかが明るくなったというわけではありませんでした。
「こんな生活を送っていてこれからどうする気なんだ」
 性懲りもなく大木君は説教を始めようとします。それがわかるくらいなら……。いや、わかったところでどうだというのか。他の誰かれよりも散る時期がほんの少し遅いだけかも知れない。ふっとそう思わないときがないわけではありません。ガレージにまだしがみついているのですから傍目にはそう見えるかも知れない。しかし、あなただって真の意味で散ったと言えるのでしょうか。花は散っても実が残りますが、じゃあ、あなたは、種子がはじけ、芽ぶくきっかけが掴めましたか。業界紙の記者をはじめたということですが、世間は口を開けて待っていてくれますか。それとも、世間とは、潜り込むべき穴なんですか。わたしにはどれも否に思えます。たとえ潜ったつもりでいても、胚の部分はまだまだ中空をさまよいます。十年や二十年はそうやって、半端者の宿命のように暮らさなければならない。だとすれば、わたしは急いで散りたくなんかない。ずっとでもこうしてわたし自身にしがみついていたい。
「なるようになるわよ。いまはこれで、すべて」
 やっとわたしは大木君に返答することができました。中原君が流し台から湯呑み茶碗を四つ持ってきて台の上に並べました。一升瓶から、まんべんなく、素早くついで、それぞれの前に押し出しながら飲めよというようにその都度顎を突き出します。大木君も石崎もほとんど無意識のまま茶碗に手をそえ、口に持っていきます。もちろんわたしもそうしましたが、いよいよ、楽しいような、悲しいような宴がまたはじまると錯覚したほどです。窓辺にもたれかかった富田君が臆することなく得意のビートルズの歌を唄い、森山君は唄声に誘い出されるようによろける足で立ち上がります。「人間を撮るのが嫌いなんだ」と言いながら、両手の指を絡ませてつくったファインダー代わりの輪から螢光灯のひもを覗き込みます。
「この揺れがいいんだなぁ」
 あなたがそんな森山君を援護するように、「そう、生活。大事なのは生活感覚だよ」とさかしらなことを言います。するとわたしはわざと突っかかります。
「生活のなんたるかも知らないくせに」
 あなたはわたしの稼ぎに頼り切っていたのです。
「だから、憧れるのさ」
 あなたに口で勝った試しはないのでした。
 みんながいた頃のガレージはまだまだ地下にマグマを蓄えた休火山でした。いまはどうでしょう。目の前に、消してしまいたい唯一の過去をひきつれた石崎がいます。石崎が前にいるということは、それらの日々と向かい合うのに等しいことです。石崎はまるっきりの赤ん坊でした。働く気はまるでなく、来る日も来る日もわたしの躯を撫で回し、一日に何度も入ってきました。日は繰り返すということをいやというほど実感させられました。石崎にはあなたからわたしを奪い取ったことがすべてである、とわかったのはあの街に着いて何週間も経たない頃です。欲しいおもちゃを手にいれて悦に入る幼児です。なお質が悪いことにいっこうに飽きるということがないのでした。幼児ならば日々の成長に合わせて次の段階のおもちゃを見つけるものでしょうが石崎はそうではなかったのです。あなたには隠していましたが生活のために何回か躯を売りました。あれが生活だったのかね、とあなたは皮肉っぽく言うかも知れません。お金が底を突いて身動きが取れなくなっていたのは事実ですが、いま考えればそのためばかりではなかったような気がします。石崎が喜ぶおもちゃならば他の男にも通用するのではないか。わたしの出自は、意思に関わりなくそれを促したのです。
「ぼくの家は、海に浮かぶ小島にあるんだ。島全体がみかん畑で、みんなぼくの家のものさ」
 その話は何度も聞かされていました。いよいよとなれば島に帰って家業を継ぐ、君と一緒にみかんの栽培なんて絵になると思うよ。石崎は肘を折り曲げ両掌で顎を支えながら口癖のように言っていた。
「よかったら君も一度遊びに来るといい」
 石崎は中原君に言います。かなりの量の酒が入り、目が据わってきました。根は無邪気なのでしょうが、それがかえって他人の神経を逆撫でする嫌味な言葉を吐かせるのです。中原君にはしかしなんともないようでした。
「秋になったら残ったわれわれだけで行くか」
 などと石崎をつけあがらせるようなことを言います。わたしは不満です。わたしと、大木君や石崎との区別をきちんとつけて欲しいと思う気持ちがあるからです。
「それまでに自堕落な生活から脱出しなくちゃなぁ」
 大木君はいつになく悲愴な口調で言います。いままで思いもつかなかったことですが大木君にしても所属のはっきりしないこんな状態は他人事ではないのです。中原君の言い方を真似ると、わたしたち残された者はもう散りどきを待つばかり。つい数ヵ月前までのようなごった煮の愉しさはない。出所したばかりの伊地知君が深夜「しばらく匿ってくれ」と声だけは妙に明るく飛び込んできたのがつい昨日のことのように思えます。今度はかつての仲間から逃げる羽目に陥った彼をみんなが一斉に笑い、そして拍手しました。ひとり加わることが心底から嬉しいのでした。富田君が隣り街の米軍基地から黒人兵士をひき連れてきたこともあったのでした。掌を突き出して「もしグラスを持っているならばここにいるみんなに分けてくれることを希望する」と流暢な、しかしわたしにもわかる発音で話すと黒人兵士は爪だけが矢鱈に白い手でジャンバーの内ポケットをまさぐり一見普通の煙草ケースを取り出しました。わたしはぐいとひとつ息を飲み込みました。平然と彼は一本に火をつけ、みんなに回してくれました。残った者の間にはあのような緊張も悦楽もない。観念したわたしをおおうように、中原君と石崎はともにわたしの躯を知っている男だという妙に気恥ずかしい思いが湧いていました。
 石崎はわたしと一緒にいることにすべてを賭けたのでした。それは認めねばなりません。彼が捨てたものは五年間まじめに勤めた自動車販売会社でした。関係した直後、この街にはいたくない、車で遠くへ行こうと唆したのはわたしです。石崎はすべてわたしの言うなりでした。そして、ガレージに集まって与太を飛ばしながら日々を安穏に送るような者たちに石崎は激しい憎悪を示しました。そこには嫉妬心も含まれていたのかも知れません。時間に縛られず、無為の生活を送ることへの憧れもあったのでしょう。そのせいかあの街ではわたしにしがみついたままいっときも離れようとしませんでした。働く気は最初からなかったのです。石崎もまたこの時代から無縁ではなかった。では石崎は何に唾を吐きかけたかったのでしょうか。一年も前の、ほんの数ヵ月間の関わりでしたが、いま石崎のなかでそれらの日々がどんな風に甦っているのか衝動的に知りたくなりました。
「誰に訊いたの?」
 石崎の耳元に囁きました。
「おまえの父親だよ」
「そんなところまで行くことないじゃないのよぉ。つまらん男だね」
「塩を撒かれたよ。腹いせに人殺しと怒鳴って退散してきた」
「よく言ってくれるよ。どっちが悪人か、胸に手をあててよく考えてごらん」
 石崎は本当にそうしました。思わず吹き出してしまいました。
「ばか」
「やめろよ。そんな話題はここでは似合わないぜ」
 聞いているとも見えなかった中原君がわたしを嗜めるように言うので、それっきりにしました。
 金輪際逢いたくなかった石崎ですが、いざ逢ってみても修羅場にはほど遠い情景でした。ちょっぴり不満です。もはやかつてのガレージではないんだという落胆が間欠的に襲いかかり、その都度、「もう帰ってよ。ここはあんたたちのようなまともな人間の来るところじゃないのよ」と怒鳴りたくなりました。
 そしてふと思い当たったのです。この変化は集う人のせいではない。外の空気が動き、わたしたちに見える風景がその姿を変えつつあるのではないか。小屋を飛び出しました。青みがかった薄靄を屹って駐車場のまんなかに立ちました。東の空が焼け初めています。あなたや森山君が散って行った方角です。夜はいつも決められた車しか停まっていないはずなのに、見慣れない車が一台目につきました。暗い色調の赤がわたしを誘うように潤んだ光りを発しています。うしろにまわり番号を確かめ、小屋の中へとってかえしました。お客から預かったキーの保管場所をわたしは知っています。ダイヤルを合わせて土間の右手の壁に埋め込まれた鉄の扉を開けました。背を伸ばして覚えてきた番号の下のフックに吊り下げられたキーに手を掛けました。その時、背後から強い力で腕を掴まれたのです。中原君です。静かに首を横に振って、
「ここに居れなくなるぜ」
 と言います。それでもいいではないかと一瞬思いました。潮時だ。
「わかりゃしないわよ。一緒に行こう!」
 中原君は両手首を手錠をかけるように握りました。
「そういう問題じゃない」
 わたしは思いあまって中原君の胸に飛び込みました。
「どうすればいいのよぉ」
「没法子(メイファーズ)、としか言えん」
「じゃ、あの二人を追い返してよ。二度と来るなと言ってよ」
 思ってもいないことを口走っていました。大木君も石崎もこたつに潜り込むようにして眠っています。土間からは、ふたりの丸まった、貧相な背中が見えるだけです。

 (三)

 ふたりっきりの夜が減ってしまいました。二人の巣など考えたのは、まさに一炊の夢です。石崎が常連となり、大木君もときどき連れ立って現れるようになったからです。
 あなたがいなくなって二ヵ月が経とうとしています。川縁りに並んだ夾竹桃が濃緑の鋭角的な葉の間から白や赤のつぼみを覗かせるようになりました。日一日と昼の気温が上がっていきます。この調子なら次の月のはじめには花が開くかも知れません。ガレージの小屋の前にも一本の樹がありました。エゴだと森山君が教えてくれました。まわりの建物よりはまだまだ低かったのですがいずれ追い越すと言われ、その日が待ち遠しくもあったのです。その樹の下に立つと汗ばんだ肌がひんやりとしました。冬の間にため込んだ冷気が繁った葉から降ってくるようです。街の中にはふさわしくなくともこのガレージに集まる人間にはお似合いだとわたしは思っていました。野育ちの傍若無人な幹が幹なら、枝も枝だ。勝手気ままに伸びたい方向にくねくねと伸びています。笹に似た葉と鈴蘭のような花は別ですが、幹や枝の定見のなさはわたしそっくりに思えてきます。ところが、そのエゴの樹は花を咲かせる前に伐られてしまいました。それ以来、まだ青く湿った感じの残る切り株に足をのせて呪文めいたひとり言をいうのが新しい習慣になっています。足の裏が涼しくなるわけではありませんが、伐られたことに対するせめてもの抗議です。オーナーは根こぎにしたかったようですが、そうすると小屋が傾くと言われてあきらめました。駐車スペースにはコンクリートを打つ心づもりのようでもあります。この辺りで石ころがむき出しになっているのはここだけだったのに、樹ばかりか、石までも消し去ろうとしている。そうはさせじとわたしは意味の分からぬ呪文を唱えるのです。
 二人っきりになれるたまの夜に中原君はわたしの股間に深く顔を埋め濡れそぼつ性器を剛い陰毛もろとも嘗め回すようになったのです。なんともみすぼらしいお尻が、目を開けると間近の丘のように見えてきます。何分か経ってピチャピチャと小魚が水面で空気や餌を吸い込むような音が耳に憑くと、もうたまらなくなり、「はやく、いれて」と思わず叫んでいます。本当は、わたしの躯は意思の力に負けるほど弱くありません。富田君に言わせれば「寝すぎ」というわけです。しかしわたしはそれをこそ憎んで居るのです。セックス封鎖宣言でも出したいぐらいです。それ以外のところで有り得たかも知れないつながりが、それをたくさんすることによって単線化する。理屈を言えばそういうことになります。以前の夜に、胸に飛び込んで行ったわたしらしからぬ行動を中原君はどんな心で受けとめたのかと考えてしまいます。
「これは何の香りだろうか」
 中原君の呟きがくぐもって聞こえます。わたしの股間で性器に向けて問いかけている。香りの正体を見極めようとするかのように舌先は弁をかきわけ、女陰にわって入る。どこで覚えたの? と訊き返したいほどでした。
 あなたとのいちばんはじめのときはよく覚えています。わたし自身がはじめてだったからではありません。あなたはわたしを破る前に零したのでした。中原君に嘗め回されながらあのときの困惑顔のあなたを思い出していました。十九歳のあなたは、そして同い年のわたしもとても無垢のものに思えます。たった四、五年の間に随分変わってしまった。これからも変わるのでしょうか。変わるとすれば、どんな関係が待ち受けているのだろうか。あなたとはもうおそらく以前のような関係に戻ることはないと思います。が、わたしはまず自分自身と関係を持たなければならない。中原君が私の中に入ろうと入るまいとわたしはこの躯とともに居続けなければならない。そしてこの躯は関わったすべての人間をあまさず記憶している。こんなに厄介なことってありますか。
 中原君はわたしの躯を離れるとすぐに畳の上から読みさしの本を取り上げました。
「久しぶりにふたりっきりになれたね」
 返事がありません。中原君の表情が見えません。
「なんとか、言ったら」
 わたしの躯の芯には生温い唾液のなごりがあります。
 中原君の読んでいる本を肩ごしに覗き込みました。ふと、仙人のようでもある中原君を怒らせてみたくなりました。中原君の右肩に掌をいったん置いて、その手で素早く本を奪いました。閉じて題名を大声で読み上げ、本を土間に向けて投げ捨てます。
「こんなものが何の役に立つ」
 中原君はおもむろに立ち上がり、窓から射し込むネオンの光りの中を泳ぐように土間に降りていきます。わたしと目を合わせようとしません。怒りを抑えているというわけでもないのです。依然、無表情。いよいよ中原君がわからなくなりました。かつて彼そのものに安らぎを覚えた自分、他ならぬその自分自身に裏切られたような気持ちです。
 この朝の新聞は社会面の片隅に同世代の男女一対が稲荷山で自死を決行したことを報じていました。赤い鳥居にぶら下げた荒縄に並んで首を吊るし、足元には「死の詳細右の通り」とだけ書かれた一片の紙切れがある。この紙切れが風に煽られ、重しの石をじわじわと動かしているのだと考えると、これこそ潔く散ることの形象だと思われ、魂の震えるままに中原君に告げました。
「一緒に死んでくれる?」
「なんで」
「花も散りぎわが大事でしょ」
 少女のような感傷に浸っていました。自分の死にざまを他との関係の中で思い浮かべるのは、生きていたいといういわば未練の証拠です。それしも見通したように、
「気が知れんなぁ。どんなスタイルででも生きていける時代になったのに」
 わたしの感傷も含めて笑い飛ばします。
 こたつの上に角に土の汚れがついた本を置き、中原君はわたしの両肩に手を添えました。
「いつ出ていってもいいんだよ。拘束しているつもりはないし、されたくもない。オレにはこころのいざこざがいちばん面倒なんだ」
 ぞっとしました。
「何を考えながら私と交わっているの。好きだからと言うんじゃないでしょ。かといって性欲だけとも思えないし」
「答えられないことを訊くなよ」
 男はみな同じ、などと凡庸なことを言うつもりはありません。中原君とあなたとは先便で書いたようにやっぱり違うし、石崎はあなたたちふたりとは根本的に異なっています。
 わたしがいま言えることは、躯も心も関係という意識を抜きにしてはりネズミのようにしてひとつ屋根の下に居るんだということだけです。あなたが好きな言葉だった、まさに蝟集です。それはそれでわたしにとっても関係の理想型のひとつです。中原君と居て覚えた安らぎも、防御はするが攻撃はしないという不文律に支えられたものだったようです。それを破るようにわたしは一緒に死んでくれなどというクサい言葉を吐いてしまったのでした。実際の事件に触発され、言葉の比喩とはいえ、性急な俗にまみれた言葉をよくぞ言えたものだ。恋も愛ももう本当は諦めていなければならない。わたしに残されたものは究極の生活、生活のどんじり。ちょっと傲慢でしょうか。このままぐっすりねむって、できるなら何もかも忘れ果て、明朝目が覚めたら遅れずに洋品店に行こうと思いました。

 (四)

 石崎にはわたしと縒りを戻すとか、端的に抱きたいとかの直線的な情熱はなくなったようです。ガレージに夜毎集まって中原君や大木君と夜を徹してしゃべることが愉しくてならない風です。かつての憧れを埋め合わせるかのように、誰にも何にも縛られず無為に時間を遣り過ごしています。人のことを言えた義理ではありませんが、仲間との戯れ合いに溺れ、酒に溺れる石崎を見ていると日がな一日わたしを抱くことしかしなかった昔が幻のように感じられます。そしてわたし自身はだんだんここへの興味をなくしていきます。中原君は石崎とウマが合うらしく、彼の正真正銘のほら話にも無表情ながら時に感心する風を見せて聞き入ったりしています。石崎は中原君のそんな反応に得意満面です。すでに聞かされた話も、はじめての話もあるのですが、石崎は何年間も人恋しくて、寂しい心をだかえていたのかなぁと改めて思います。いまさら同情も憐憫もあったものではありませんが、出逢った最初の頃わたしの気を引くために吐いた真っ赤な嘘「孕んだ恋人との別れ話云々」も石崎には強烈な現実感を持っていたに違いない。わたしは石崎に関して大きな誤りを犯してきたのではないか、中原君の彼への対し方を見るにつけ、そんな気分にさせられます。
 その晩、石崎と大木君は蒼ざめた顔でガレージに飛び込んで来ました。ここに来る途中、歩道に片輪をのせて停まっていた白のベンツを蹴り上げたと言うのです。スモークガラスだったので中は見えなかったが、人はいないものと決めていた。ところが、続いて大木君までが「邪魔なんだよなぁ」と車体にパンチを喰らわせたとき両側のドアがほぼ同時に開き一目でこの街のヤクザとわかる風体の男二人が降りてきたのです。大木君が逃げるに如かずと判断し、路地をわざといくつも折れてやっとここにたどり着いたというわけです。男たちにはもちろん他の用事があったのでしょう、深追いはされなかったようですが、石崎と大木君は全力でガレージに向かって逃げてきたのです。荒い息遣いでそれはすぐにわかりました。二人を見てわたしは驚きの声を上げていました。伊地知君がかつての仲間に追われてきたとき以来の緊張と昂揚があったのです。中原君は悠然としたものでした。
「十年は遅れているよ。同じ蹴るならもっとましなものにしたらいいのに」
 と言います。しかし、蹴るものがあるだけまだ脈がある。わたしなどは自分自身でさえ蹴り上げることができない。鞠のように弾ませて中空を舞わせる力がない。かつてはあったかも知れない力、ましなものの根っこにはその力かあるはずです。
 わたしたちは大木君を留守番に残して外へ出ました。石崎が実家から送られてきた書留封筒をひらひらさせて「厄落としだ」と提案したのです。
 海のある方角に上弦の月が冴えわたる夜でした。海と月、どんなにスタティックなとりあわせに見えても、魂を生のはじまりに向けて揺さぶるから不思議です。シニカルなまぜっかえしはなしですよ。疎らな雲影の合間に弦を上に向けた月は荘厳ですらあります。
 石崎と中原君に挟まれて曲がりくねったカウンターの窪み付近に坐っていました。何回目かに会話が途切れたときそれを見計らっていたかのようにわたしの肩を叩く者がいます。
「なんなのよぉ」
 わたしは振り向いてその男に牙を剥きます。獣の本能です。顔は背後からの照明の中にすっぽりと入ってただ青黒いだけです。大きな躯の男です。三つの原色の織り交ざったカクテル光線をかざして仰いだ顔に見覚えはありません。閉店まで三十分を切って、喧噪はいっそう高まります。向こうの広いフロアーにはリズムに合わせて激しく躯を動かす人の群れが見えます。わたしたちはいままでその喧噪に背を向けて沈黙の行の合間に所は変わっても中身は同じどうでもいいような話をしていたのでした。
「一緒に踊ろうかと思ってね」
 さっきの防御か攻撃か自分でも判然としない姿勢をわたしはなぜか恥じていました。両となりの石崎と中原君を見較べました。照れ隠しのつもりだったのですが彼らにはわたしが酔漢に手を焼いて助けを求めていると映ったようです。中原君は背もたれに両手をついて椅子を立とうとします。少し遅れて石崎もだらんと垂らした両脚に力を入れました。大きな男は二、三歩後退って身構えます。いっそこの場を立ち去ってしまわないのはこの人にも恃みとするところがあるからでしょう。わたしは二人を制して椅子を離れました。
「いいわ」
 そう言うと、背中を押すようにしてその人をフロアーに向けて歩かせました。振り向いて中原君に一度だけ目配せをしました。
 人の群れの中でいきなり腰を抱きかかえられました。距離をとって思い思いに躯を動かしている方が似合う音楽なのに、事実回りの人はみんなそうしているのに、随分強引な、そして無骨な男です。
「ひとりで来ているの?」
「あたりまえだよ」
「どうして? 仲間はいないの」
「ああ。いるもんか」
 ステップを踏む毎に躯が男の胸に吸いつけられて息苦しさが極まります。この男の腕から早く逃れたくて、また不安な気持ちも昂じて、自身への義務のように質問を続けました。
 わたしの耳に男は性急に息を吹きかけます。そればかりかズボンのポケットの膨らみをわたしの内股にこすりつけて回転させます。どれもちっとも気持ち良くないのです。
「あなたまだ学生でしょ?」
 内堀を攻めようとしました。つまり学生ならば、気障っぽくて、技巧に走る振る舞いを詰ってやる。
「君と同じだよ」
「わたしは違うわよ。酸いも甘いもかみ分けることが出来る、分別ざかりの女よ」
 音楽が途切れ、わたしの躯を離すと男はポケットからピンポン玉を二個取り出しました。掌で弄びながら、
「これで泣く女もいるんだけどなあ。やはり、ウネメさんには通用しないか」
 男は意外にもわたしの名前を知っているのです。
「あなたは、いったい誰よ」
 わたしは思わず大きな声を立てていました。その声が届いたのか、あるいは偶然か、石崎と中原君が傍に来て両側からわたしの腕を掴みます。
「帰るか。大木を待たせちゃ悪いよなぁ」
「俺も一緒に行くよ。仲間とやらに混ぜてくれ」
 大きな男は、わたしの予想に反して、学生ではありませんでした。かつて同じ大学にいたことはあるが二年以上も前に三行半を突きつけたなどと意気がって言い、ついこの間まで繁華街の雑居ビルの地下にあるスタンドバーで働いていた、と胸を張りました。「属性があった方がよければだな、バーテン見習い中としておこうや」尊大に言い捨てます。それにしても、なぜわたしの名前を知っているのか。あまり存在しない名字だから特に覚えていたとしても、そもそもかつて逢った記憶がわたしにはないのです。それとも記憶していないだけで本当は何度も逢ったことがあるのか。それをもし忘れているとすれば、と自分への不信が湧いてくるのでした。中原君は「あのときのオレたちの話を盗み聞きしていたんだろう。どうでもいいじゃないか。気にするな。それに、来たいという人間を拒むことはできない」とわたしの気がかりにはとりあってくれません。とにかくこうやってガレージに集まる人間がまたひとり増えたわけです。男はその店でシローと呼ばれていたから、ここでもそう呼んでくれと言いました。
「なぜやめたの?」
「そこのママとできてしまった、としておこう。庶民的な、面倒見のいいママだったが、これがいてね」
 シローは親指を立てました。
「ばれて追い出されたというわけか」
 石崎は嘘かも知れない話に半畳を入れます。
「いや、逃げてきた。相手はピストルを持っている。素手では叶わない。これは、これだよ」
 立てた親指を石崎に突き出してみせ、もう一方の手で頬に傷跡を作ってみせます。座の賑わいに花を添えるつもりで入れた半畳のはずですがここで石崎の顔から血の気が退いていったのです。白いベンツを蹴ってヤクザに追われたことが思い出されたにちがいありません。案外と小心な男なのです。
「ろくでもない奴しか来ないなぁ。昔がなつかしいよ」
 大木君がしんみりとした口調で言います。彼にもヤクザに追われるという怖くて、恥ずかしい思い出が反芻されているのです。矛先はすぐにわたしに向かいます。
「ろくな奴はどんどんいなくなる。ここから早く出ないと、君は本当に駄目になるぞ」
 大木君のひとつ覚えですから気にもしなかったことですが、このときばかりは同感できる部分があり、ちょっとしんみりとした気分になりました。シローはかつての男達とは異質で、底の浅い人間に見えたからです。中原君も中原君です。誰でも見境いなしに受け入れてしまう。腹を立てると同時にわたしは苦笑しました。中原君にとってわたしもけっして特別なひとりではなく、大勢の中のひとり、ワンオブゼムかも知れないのでした。
「どうしてわたしの名前を知っているの」
 さっきのお店の中で突然名前を呼ばれたときの驚愕、そしてなによりも自分の姓にまつわる響きを反芻していました。
「そのうちわかるって。思い出さなければ、それはそれでいいんだよ」
「さっきから一所懸命思い出そうとしたけど何も出てこない。もったいぶらないでよ」
 シローはもうわたしの言葉など聞いていない風で、実におそろしい、不気味な笑顔を作っていきます。

 (五)

 もはや巣どころではありません。中原君とひっそり暮らそうなどと考えたことが遠い昔の絵空事に思えます。このごろのガレージは人の息で埋まっています。掃き寄せられるように来るのは大木君だけです。あとの人は、少なくとも外見は意気揚々とやってきます。大木君は例によってあれこれ常識的な文句を並べながら批判というよりは説教臭いことを言っています。それなら来るなよと言いたいところですが、やっぱりやってくるのです。なぜ? と訊こうとして止めたことが何度かあります。またぞろ「君を守るため」などと言われれば辟易するからです。しかし、ヒロイズムに堕ちるほど単純ではなくなっていると突っ張る一方で、もし大木君までこのまま散ってしまったら何もかもがわたしを離れていくようで怖いと思う気持ちもあります。大木君はものすごくわかりやすい反面鏡で、うんざりするのは見つめるわたしにも問題があるということかも知れません。
 中原君は中心にどっかりと居座っているけれどそれだけでは重しの役に立たないほどガレージは変わってしまいました。石崎とシローのふたりがもっぱらはしゃいで、あるときなどはシローの連れてきた希未さんが突如一枚ずつ服を脱ぎはじめ、すっぽんぽんになって踊り出したことがあります。酔った勢いでシローは「へたくその罰だ」と叫びながら太股に煙草の火を押し付け、苦悶する様を喜んで眺めていました。
「ばっかじゃないの」
 そのときはわたしも久々に躯の奥底からの怒りにかられ石崎とシローを怒鳴りつけました。が、肝心の希未さんは嬌声をあげ、ともにはしゃぐ風なのでした。何回目かに希未さんが本物の踊り子であることがわかりました。週に三回薬研堀のキャバレーで「ストリップショー」をひとりで演っているのだと言います。芸名はフェニックス麗だそうです。
「そうは見えないなぁ。もったいないよなぁ」
 大木君は驚きの声を挙げます。もちろんわたしも同じ思いでした。明るい大きな目と整った容貌は原色の照明にさぞ映えることだろうが、二十代前半の若さでキャバレーとはなにかしら物哀しい感じがつきまといます。そんな外見の希未さんだったから大木君も救いの手を差しのべ、例のお節介を焼きたくなったのです。傍にいると大木君の目の輝きが、火の粉のように舞い散るのがわかります。希未さんは大木君の言外の意図を見透かすように、
「もったいない? なんでそんな発想が出てくるのよ」
 気色ばんで論争を挑みます。初期のガレージでは日常茶飯事だった光景が再現するのかと思いました。どんな風に大木君を論破するか胸をわくわくさせて待ちました。希未さんはひとつ大きく息を吸ってから、
「厚化粧で、声が掠れて、衣装がけばけばしくて、いい加減歳を喰っていて……要するにらしくあれば納得するというわけでしょ? それは偏見よ。ストリッパーで何が悪いと私は向きになったりしないけど、ここでこんな常識的な感想を聞くとは思わなかったわ」
 わたしは期待が大きかっただけに物足りなく感じました。石崎とシローに言った「ばっかじゃない」という言葉を、裸になって煙草の火を押し付けられていた当の希未さんがどう受け取ったか知りたくもありました。
「プロは舞台以外では脱がないと思うけど」
 皮肉を精いっぱい込めて言いました。挑発してみたくなったのです。利いた風なことを言うもんじゃないよと啖呵のひとつも返ってくるか(これも偏見のひとつかも知れない)と予期したのですが、同性のわたしには優しげな、またなんともくつろいだ眼差しを降り注いで、
「恥ずかしい感じが残っているうちはどこでだって脱ぎ続けるわ。他の要素、たとえばお金を稼ぐためとか、芸術だとかの名分が強くなって恥ずかしさが消えたらきっぱりと止める。断っておくけど、私は劇場の舞台に立つ気はないし、場末専門の、ど素人。プロではないの。いわば修行ね」
 すっかり打ち解けた口調で言います。
「修行だって」
 石崎が希未さんの最後の言葉をとらえ、怪訝そうに首を傾げました。
「将来は役者にでもなるのかい」
 大木君でした。
「まだ言ってるぅ。どこまでナイーブなの。ひとりで裸になること。それだけよ。それ以外の一切の意味を付けない。そうだ、あなたも一緒にどう? いったん脱ぐとあとはすごくいい気持ちよ」
「いいね。暇を持て余している男が四人もいるんだ。二人を応援するぜ」
 シローがまんざら冗談とも見えない表情をつくり、片膝を立てたままわたしの方に躯を寄せてきます。外は雨です。六月もあと何日かでおしまいです。梅雨が明けるとすぐに炎暑の夏がやってきます。アスファルトがうだって蒸気が全身を包み込むこの街特有の夏です。いっそ、暑いから裸になる、それもいいなぁとわたしは酔狂な呟きを漏らしました。中原君との巣作りに腐心するよりわたしらしいことに思えます。
 シローは、中原君がシナリオを書き、石崎と自分がマネージャー兼用心棒、大木君の役は特に見当たらないが自己変革のためにはわたしたちと一緒に裸になった方がよし、と酔いにまかせて突飛な構想をぶちあげます。与太話がにわかに現実味を帯びてきます。
「女二人に男ひとりか。三角関係のドラマを、服を一枚一枚脱ぎながら三人三様に演じていく。観客がわかろうとわかるまいとこっちは知らん」
 中原君まで乗り気になっています。希未さんはただ笑うのみでした。
「大木君が加わればシロクロだよ。これで客を喜ばすんだ。売れるぜ」
 シローは大木君にはどこか一目置くか、あるいはただ単にけむたいだけか、決して呼び捨てにはしません。それはともかくシローの言い方は秘密めいて、うさん臭げで、犯罪の匂いすらしてきます。これはガレージには異質だ。今回のことで言えば希未さんがわたしを誘った真意ともかけ離れているようです。
「やってみるか」
 中原君は手ずから一升瓶を傾け自分のコップに注ぎながら言います。与太話が実現した試しはいまだかつてないのです。目新しかった車を無断で拝借して夜の海を見に行こうとしたときでさえ中原君がわたしの腕をきつく掴んで阻止しました。それがこんどばかりは違っています。いよいよ散る準備を始めたな、といちばん身近にいる他人として直感しました。散る前はぱっと明るくというやつです。いまはもう遠い昔に、やっぱり実現はしなかった与太話がありました。あなたは覚えているでしょうね。歴代のなかで戦後はじめてここを訪れた首相の句碑が祈念公園の一角に建てられると決まったときに「ぶっこわしてやる」と息まいたのは伊地知君でした。敷地内に学生数十人が座り込みを続けているという情報も入っていました。
「勝手に建てさせればいいんだよ。建ったあとにわれらガレージ派が夜陰に乗じて粉々に壊してやる」
 ふだんはこういう場で発言することの少なかった中原君もみんなを煽り立てるような言動をみせました。出番が一刻も早く到来するためには句碑が速やかに建てられなければならない。すなわち建設賛成、阻止のための座り込みは阻止せねば、というなんともアンビバレンツな進み具合となりました。与太の与太たるゆえんですが、みんなで渾身の力をふりしぼって鉄のハンマーを降り下ろす様は想像するだけでわくわくし、とにかく愉快であったのです。ほかにも、すっぽりと抜き取って海の底に沈めるとか、一夜のうちに男根の形に変形して道祖神にしてしまう、いやいや時限爆弾で破砕するのがいいとかさまざまに想像を膨らませたものです。それもこれもいま考えれば凡庸ゆえに珍味な酒の肴です。実際には句碑が建った様子もなく、したがって壊すこともできずやがて次の話題にとって代わられたのでした。こんどの希未さんの登場と男どもの提案はあのとき以来のビッグな法螺になっています。わたしにも、もし昂揚と言えるものが戻ってくるとすれば自分の裸のなかにこそという気も兆しているのです。希未さんのように堂々と修行と言えないとしても、ストリップ・ティーズを演じることはやはり革命的なことにちがいない。
『怨霊ショー』と名付けたのはシナリオを担当するという中原君です。ガレージに斎く数々の霊、実行されることなく口の端にのぼっただけで消えてしまった与太、そしてそれを飛ばして散った者たちへ、二人の女とひとりの男を生け贄として捧げる……そんなあらすじを言い立てます。石崎やシローは「生硬すぎる。いかにも学生あがりだと知れてしまう」と喰ってかかります。中原君らしくない大袈裟な言い方です。わたしもどうかなぁと首を傾げます。
「ぼくは抜けるよ。やりたけりゃ勝手にやってくれ。見物さえもしたくない」
 大木君も本当に実現するような気でいます。
「そうはいかんぞ」
 シローが加わってから大木君とは一緒に行動することが少なくなった石崎が威嚇するように言いました。

 (六)

 停車場ともいえるガレージから心太のように押し出されていきたいと思います。しかし、どこへ? 先人の言葉を借りれば、思い出のみによって未来の時間を生きることはできない、せめて一緒にいた誰とも決して共有できなかった感情のありかを現在の躯の中に求めていく。それはときにくぼみであり、ときに突起であり、躯の内と外を自由自在に駈けめぐる、シローがポケットに忍ばせていたあのピンポン玉のような腫瘍。純粋培養できるものなら、そうしてみたいものであり、そのためにわたしは衆人の前で裸にもなる。『怨霊ショー』についてのこんな考えを持ちましたが、まちがっていますか。
 四月から勤めはじめた洋品店の名前は羊やです。気ままに勤めていたとはいえすでに三ヵ月が経ってしまいました。そこでちょっとした変化があります。若い女の子向けの洋服のデザインをやってみないかと広報課の人から言われたのです。いままでは通りに面した大きなショーウィンドーの飾り付けをもっぱら行ってきました。マネキン相手に服を着せたり脱がしたりするのも重要な仕事のひとつでした。毎日着せ替え人形のお遊びをして給料をもらっていると自嘲に駆られることがなかったわけではありません。が、なにしろ相手は物言わぬマネキンですから気分は随分と楽なのでした。
 直属の上司に当たる営業課の南さんは、
「思いっきり斬新なやつを頼むよ。ゆくゆくは自社ブランドを主流にしたいんだ。その突破口を開いて欲しい」
 と大上段に切り込んできました。
「なんでわたしなんかにそんな大事な仕事を任せるんですか」
「見所があるということだよ。人形に着せるものや背景の構成にセンスを感じるからね」
 南さんが言うのは日頃の反抗的な、拗ねたような勤務態度のことで見所やセンスとは何の関係もありません。
「買い被りですよ。会社が損をしますよ」
 アルバイトをはじめて以来この南さんがずっと苦手なのでした。まともに顔を見られなかった。蛇と蛙。前に出ると互いの存在自体が前世からそんな宿命を抱かえていたように竦み上がってしまう。そればかりか叱責を受けているようにも感じる。身に覚えのない、いわれなき叱責でした。三十代半ばの南さんはいわば働き盛りです。おそらく家庭には妻も子もあり、全身から湧き立つ温気は、わたしのまわりの悪風を蹴散らすのです。
 自分にわからないものは本質的に怖いということかも知れません。南さんの発する言葉は言外に棘を潜ませていると感じることがあります。ちゃんとやれよというようにも聞こえ、大木君の常識よりはるかに凄みがある。勝手な思い込みかも知れませんがわたしの自我をせせら笑う背骨(バックボーン)を持っていて、わたしにはそれに拮抗するものがない。いままではあると思っていたのですが、あるとき夢幻のように消えた。あなたにも身に覚えがあるでしょう。いや、消えたというのは実は錯覚で、南さんのような男をこそ足蹴にしたいという衝動をいまだに隠し持っているということでしょうか。とすれば、その機を伺って、臆病な犬のように牙を矯めていたことになります。
「打ち合わせを兼ねて今夜食事をしよう。いいね」
 わたしは言葉を呑み込んだまま、こくりとだらしなく頷いていました。
 最初に行った釜飯で名高い割烹ではデザインを頼んできた広報課の人と、一緒にディスプレイの仕事をしている女子社員が一緒でした。そのあと、女子社員を送って行くという広報課の人と別れて南さんと二人になりました。
「わかった? あの二人は恋人同士だ。近く結婚するだろうね」
 当たり前のように南さんは言います。わたしも表向きはへぇーと型どおりの驚きを示しながら内心ではそういうことに迂闊になっている自分を遠い景色を見るように見ていました。
「服を脱ぎ捨てることを考えているわたしが、ひと様の着る服を作るなんて笑止だわ。そうは思わない?」
 南さんの行きつけのバーでわたしはそんな風に口走ってしまいました。
「君たちの歳頃のことは、ただ懐かしいだけだなぁ」
 南さんは巧みに論争めいた話題を避けます。そして、その述懐がどういう意図で吐き出されたのか酔ってしまって頭が自分を中心にぐるぐる廻るばかりのわたしにはわからなかったのです。自分だけの感慨なのか、わたしたちへの皮肉があるのか、詮索することではないのですが、南さんの浅黒い端正な横顔とその言葉とを較べていました。
「秋から冬へ変わる境目にそれをオーバーコートの下に着て街中を歩けるもの。この街の野暮さ、純朴さを損なわないでしかも流行の先端を切るもの。しゃれじゃないよ。ちょっと難しいかも知れないが、色からイメージを膨らますといい」
 仕事の話の合間にさりげなく生い立ちやら生活ぶりを南さんは訊いてきました。酔った女をいかにも扱い慣れた風にするのでつい口をすべらします。事実たくさんのグラスを早いピッチであけていました。南さんのペースにぐいぐい吸い込まれていくのでした。吸い込まれながら南さんに対して「赤の他人」という評言が浮かびます。物言いもぞんざいになります。
 真夜中近くなって、
「遅くなったなぁ。送っていくよ」
 と言ったあとようやく南さんは、
「服を脱ぐというのはどういう意味?」
 優しい声で訊き返します。我ながらさっきは突っ張った言い方をしたものだと思います。
「仲間と一緒にストリップ・ティーズを計画しているの。裸を見たけりゃ来てもいいよ」
 呂律の怪しくなった口調でぶっきら棒に言いました。
「ほう、いろんなことをやるんだね」
 南さんはわたしの小さな躯をながめ回します。実現するかどうかわからないのですが、南さんの背骨にわたしの裸が拮抗するかどうか試してみたい、ふとそんな気になりました。
 店を出るとすぐに南さんの腕に掴まりました。そうしないとまっすぐ歩けないし、わたしには送ってもらうべき自分の家はないに等しいのです。
「君は一見したたかのようだけど芯が優しすぎると私は見た」
「ほう、それだけ?」
 南さんの言い方を真似てみました。
「手綱を締めておかないと、どこへ走り出すか分からない」

 あなたがいなくなってからガレージに行かなかったのはその夜がはじめてでした。最初は大木君から逃げるようにして、あとは中原君との関係を続けるために毎夜ガレージに通いました。改めてそれを意識し、仮病を使って学校をずる休みしたような後ろめたさもあるのです。
 その夜は川縁りのホテルに南さんと泊まりました。夜明けにそこを出、タクシーで送っていくと言う南さんを「歩きたい」と振り切り、電車通りに沿って三十分ほど歩いてガレージに戻ってきました。五時前でした。ビルとビルの谷間に砂利敷きの空間が青ペンキを塗った金網に囲まれてそこだけまるで異界のように現れます。入り口の右手にそびえる照明燈はまだ消えていません。今日もまたすぐにも降り出しそうな雲行きだから消える時機を掴み損ねているのでしょう。
 歩くのを急ぎすぎたせいか頭がひび割れるように痛くなっていました。昨夜の酒のいたずらかも知れません。躯の不調に誘われるように積もり積もった過去が喉元にこみ上げてきます。両わきの車を目の端に捉えながら小屋の前まで歩き、エゴの樹の切り株に乗りました。玄関に向かって呪文の代わりに中原君の名前を大声で叫びました。
「おーい、中原君、出てこい。無駄な抵抗はやめろ。いい加減に本性をあらわせ」
 建物の壁に弾き返されて声は戻ってきます。ひとつベッドで寝ましたが、南さんが入ってきたという記憶はありません。ねぐらを失った女がほんのささやかな夢を見るために寄ったホテルです。男に抱かれようなどとは思っていませんでした。南さんはお見通しだったはずです。溺れまいとするように南さんの太い腕にしがみついていましたが、それも夢の中の一シーンのようです。
 ガラス戸が開き、中原君が下駄ばきで出てきました。
「みんな待っていたんだぞ。それに、心配もしていた」
「そんなこと頼んだ覚えはないわ。『みんな』の勝手でしょ。それより中原君、ここへ来てごらん。不思議な感じがするよ。たった十センチ地面から高いだけなのに、この足の下は地中を這う無数の根につながっていると思うと、頭の芯から血の気がすーと引いて、天にも昇る心地がする」
 実際、数分前の頭の痛みが消えていたのです。中原君は砂利を引きずるようにしてわたしに近づき、下駄の先で切り株に乗った私のむこう臑を蹴り上げました。使い古された下駄のまわりには木の繊維が棘のように出ています。頭とは較べものにならない激烈な痛みが走りました。切り株の上でうずくまり、何をするのよぉと叫ぶ間もなく中原君の掌がわたしの頬にむかって飛んできます。酒乱気味だった父親でさえわたしにだけは手を上げなかった。父の記憶のうちいまも心地よく思い出せる唯一のものです。
「早く入れよ」
 中原君は悠然と小屋に戻っていきます。切り株を降り、痛みの去らない足を引きずって五、六歩歩きましたが、疼く痛みのためにまた地面にへたり込みました。そして、無意識のうちに掌にはいるほどの石塊を握りしめていたのです。
 石塊は中原君の背中を掠めてガラス戸に命中しました。粉々に割れて散る音がまだ完全には明けきっていない空の下の異界に響きわたります。もうひとつ石塊を拾うとこんどは向き合った中原君をめがけて思いっきり投げていました。最初から避ける気がなかったのか中原君は胸に当たった石塊が足元に転がる様を目で追っています。中原君を取り囲むように、石崎、シロー、大木君、それに希未さんの眠たそうな顔が並びました。さらにもう一つ石塊を掴んだとき希未さんと大木君がわたしのもとに駈け寄ってきました。
「中で熱いコーヒーを入れてあげるから、まず気持ちを落ち着かせて」
 希未さんがわたしの肩を抱きかかえ起きあがらせようとします。そのとき臑にTシャツの裾を当てて青紫色の腫れのまわりからにじみ出た血を拭きとってくれたのが大木君でした。

 (七)

「素敵じゃないの。研鑽を積んでいつか独立すればいいのよ」
「そうかなぁ。そんなこと考えてみたこともないわ。だいたいわたしに才能があるかどうか。きっとないわ」
「弱気はダメ。必ずやり遂げる、というんじゃなかった。あなたがたの合い言葉だったでしょ?」
 希未さんは語尾に力を込めて話しました。そういえばガレージにみんなが集まる前にはそんな言葉が行き交ったこともあったのです。南さんのアンポよりも遠い昔のことのように感じられます。中原君に投げつけた石の触感が甦ります。投げる相手をまちがえた。そう思います。むこう臑をよりによってささくれた下駄の先で蹴り上げられたから仕返しに石を投げたのではないのです。石の冷たいような熱いような固さがなつかしかった。それにいったん手にすれば石は憎悪を込めて投げられねばならない。条件反射のようなものでしょうか。だとすれば本当はあなたにこそがふさわしかったのです。中原君をこういう場に引きずりこんではいけない。中原君は情緒にまつわるいざこざがもともと嫌いだった。あのあとも「ちょっとやりすぎたかな。あの瞬間は自分じゃなかったんだなぁ」と照れ笑いをしてみせただけで、弁解じみた述懐をしませんでした。あなたと似て非なるところは、恋人気取りでわたしが大声で呼んだから、また背中に他の男の顔を張り付けて朝帰りしたから怒ったのではないということです。いやいやあんなもの怒りですらない。発作だと思いたい。では、なぜ? と訊かれてもわたしの石同様正解は出ません。希未さんにそのことを有体に言うと、
「分かるような気がする。私も何回脱いでもダメだもの。相手のせいにはできないのよ。目に見えない境界が自分の中に絶対にある。それをどうやって乗り越えていくかが課題。修行のゆえんよ」
 その日希未さんの部屋で昼過ぎにそろって起き出し、夕方まで一歩も外に出ずおしゃべりをしました。わたしはこれまでこんなに居心地のよい同性に出逢ったことがなかったのです。まわりにはいつも男どもがいた。
「ついて行っていい?」
「同性にみられるのは嫌だけどな」
「前には一緒にやろうと誘ったくせに」
 わたしは希未さんの職場に付き人として同行することを希望しました。希未さんに興味を覚えていたからです。
「支配人がびっくりするわよ、きっと。弟子をもてる身分かよって、あきれかえった顔付きが思い浮かぶ」
 弟子ではなくて、本当は希未さんに憧れ、希未さんを追っかけ回すファンのひとり、たったひとりであったとしても、そんな風について行きたい。
 何日も続けて、ガレージに行く代わりにわたしは希未さんの部屋に転がりこんでいました。洋品店の仕事が七時に終わると流川のジャズ喫茶「シルバー」で夕食代わりのピラフやスパゲッティやトーストを食べ、その足で訪ねるのが日課のようになっていました。合い鍵を作ってもらったので留守でも勝手に入り込みわが部屋のようにくつろいできました。
「でも、どうするの? ここは好きに使ってもらっていいんだけど」
「そのうちなんとかなるでしょう」
「私がお節介を焼くことではないわよね。いたいだけいて。退屈が紛れて私も助かるわ」
 希未さんはわたしより三つ年上の二十六歳です。寝起きをともにしてみればその躯からは相応の衰残の香りが漂ってきますが、希未さんは自分の過去も現在の生活への自己批評めいたことも口にしません。世間ばなれしているところなどはこの歳頃の女の人と違っています。そこにわたしは自分自身の可能性を見届けたがっているのかも知れません。かといって、洋品店の仕事が面白いというわけでもありません。デザイン室の余っていた机をもらいそこに坐る時間を南さんはくれ、またあちこちから手ほどきも受けるのですが肝心の仕事の方はいっこうに捗りません。ずぶの素人ならそれなりにがむしゃらな熱気だけでもあってよさそうですが、残念ながら、省みてそれもなし。物言わぬマネキン相手に着せ替えのお遊びをしている方が余程たのしいと思ってしまうのです。それに加えて、日増しにまわりの善意がうっとおしくなってきます。大本営があった時代に個人経営の小さな店から出発し、灰燼に見舞われた歴史的なひとこまも他と同様奇跡的な立ち直りを見せ、今日の大店にのし上がってきたのだそうです。そのせいか、本来反抗心をバネに仕事をするはずのデザイン室のスタッフも含めて家族的な雰囲気が社内の隅々までゆきわたっているのです。南さんも、かつてはどうか知らないが、わたしに言わせれば所詮そんな善意の人たちのひとりにすぎません。ここにもあまり長くはおれないだろうと、そんな予感があります。

 希未さんと連れ立ってガレージに久しぶりに行きました。玄関のガラス戸には段ボール紙が貼り付けられています。わたしが壊したガラスのことを中原君はオーナーにどう話したのだろうか。真っ先にそんな心配をします。よくよく損な性分です。その戸を希未さんが勢いよく開けて閾を跨ぎました。わたしも希未さんに続きます。女二人で殴り込み、一瞬そんな昂ぶった気持ちになりました。客席フロアーよりも五十センチ高いだけのステージの袖で希未さんすなわち「フェニックスの麗」の上手とはいえないけれど懸命な踊りを見た直後のせいです。希未さんの籐製の化粧箱をわたしは手に持っています。キャバレーの裏口を出てすぐ、是非にと頼んで持たせてもらったのです。希未さんは空いた方の手で差し出したわたしの右手を握りました。掌のなかで甲を上にして指を揃えさせると、
「きれいだね。あら、爪にお星さんが出ている」
 顔を近づけて覗きこみました。つられてわたしも自分の爪を凝視めました。真白い斑点が原色のネオンの光りに浮かび上がります。
「なんの徴かなぁ」
 不安げに希未さんの目を見ましたが、ただ笑うのみでした。
「どんな題がついていたか知ってる?」
 歩きながら希未さんは訊いてきました。一枚の絹布を素肌に巻き付けただけのアラビア風の出立ちで希未さんは狭いステージを端から端へと大股で何回か往復しました。けだるいジプシー音楽が終始低い調子で流れていました。踊り自体は、常に絹布の合わせ目を割る激しい動きのもので、最後の数分間は床に仰臥して、胸をはだけて、肝心の部分を絹布の裾で覆いながら両足を広げたりすぼめたりしました。
「上品だったわ。全部脱ぐのかと思ったけどそうじゃなかったね」
「サロメのダンスと言うの。自分でつけた題だけど、題名から湧き立つイメージの片鱗は感じられたかしら。ショータイムといってもね、誰も本気で見てくれないのよ」
「客席が真っ暗になるのには驚いたわ。劇場みたい。わたしの方からお客さんの顔は全然見えなかった」
「ショータイムじゃなくて、エッチタイムなのよ」
 希未さんは一時間おきに三回、十分ほどの踊りを同じように演りました。その間中ずっと客席は暗闇に包まれていました。わたしは三回とも目を凝らして踊る希未さんを追い、懸命さの正体を探ろうとしました。
「あなたのね、視線がすごく痛かった」
 踊りに関して鬼気迫るものはあったと告げたかったのですが、それは言わず、誰も見ていないと分かっているのになぜあんなに向きになって動き回るのか、と考え続けました。直載に聞けば「修行、修行」と逃げてゆかれそうでした。ガレージに向かう道で、わたしはあることに気付きました。歌舞伎役者を思わせるような大袈裟な身ぶりに比して生白い肩や乳房や太股は、感動と呼ぶには白々しい哀切さを感じさせたのです。それを発見しただけで十分です。客の顔なんか、客がホステス相手に何をしていようと、関係ありません。
 ガレージには石崎とシローが来ていました。二人とも枕代わりに片肘を立てて寝そべっています。中原君はかつて富田君がそうしていたように窓の下の壁に背をもたせかけて雑誌を読んでいました。
「またひとつ花が散ったかと思ったよ」
 わたしたちを認めると雑誌を閉じて畳の上に放り出し、ポツリと呟きました。
「大木君はいないの?」
 希未さんが誰にともなく尋ねます。石崎とシローが寝そべったまま互いに顔を見合わせました。
「大木君は飢えた牡犬だよ。女の匂いの消えた場所にはけっして現れない」
 したり顔でシローが言います。大木君の方がずっと古くからのガレージの仲間です。新参者に犬よばわりされる理由はどこにもありません。腹が立つとともに、さっき顔を見合わせて二人がにやにや笑った景色が甦り、まさかの、不吉な想像が湧いてきます。思わず希未さんの上着の裾を握り締めていました。
「彼が犬なら、あなたたち二人はハイエナだよ」
 わたしの心が生地越しに伝わったのか希未さんはシローを睨みつけるようにして言いながら上がり込んでいきます。
 畳に坐った途端、土間に仁王立ちしていたときにはしなかった汗くさい男たちの体臭が、噎せ返るような熱を帯びて襲いかかります。これがハイエナの匂いかとうそぶき、すぐ横の中原君に、
「元気そうだね。相変わらず?」
 とありきたりの挨拶をしました。
「前と同じだよ。いや、そうとも、そうでないともいえる」
 奥歯に物の挟まったような言い方をします。
 わたしは七日ほど前の出来事のせいでガレージに来なかったのだと思われたくありません。拘りを残さないのが中原君との流儀と心得ています。情緒が前面に出ればたちまち壊れる関係に成り下がっています。
「怨霊ショーはどうするの?」
「やめた。君や希未さんさんを踊らせて語るべきものではないよ。まず自らが踊らなければ嘘になる」
 中原君の言葉に誘い出されて目の前の石崎やシローと散っていった誰かれとを較べていました。終わったところからはじめる旅は、また新しい旅の始まりと言えるのか、それとも終わりのない旅なのか、と堂々めぐりの感慨に捉えられていました。石崎もシローも、そして中原君も、かつていた男たちのなれの果て、亡霊みたいなものに見えます。忽然と消えた大木君だけがちがう。赤と白の幟を立てた小舟が何百隻となく行き交う港を背に長い人の列が坂道を登っていく。列の中程で時折振り向く男、それが大木君のようです。わたしを立ち直らせることも、守り切ることもできずに行ってしまった。胸のなかが執拗にざわめいています。なぜなんだろう。一本の大欅に群がってさえずる雀の不安に似ています。ここが最後の地点ではない。ここには餌はない。ただみんなが鳴くからいっとき一緒に鳴いてみるだけ。そんな雀にも悩みはあるはずです。大木君はそのことを本能的に察知していたのかも知れない。
 中原君の金色の不精髭は長く伸びて顎を覆い、鼻の下からは八の字形に垂れ下がっています。髪は相変わらずのバサラ風で首筋を三方からすっぽりと隠しています。石崎は小憎らしいほど垢抜けた坊ちゃん風で、その分腑抜けのような顔つきで希未さんとわたしに潤んだ目を注ぎます。大きなシローは石崎とは好対照にぎらついた目で「さぁ脱げよ」とでも言い出しそうです。攻撃を仕掛ける寸前の野獣です。たった七日間遠ざかっていただけなのに三人はなんともむさ苦しい風体に見えます。住み慣れたというべきこの小屋でさえ、よそよそしくて、居心地の悪いものになっています。拒絶しているのか、されているのか分明ではありませんが、唐突に、あなたの元へ行ってみたい、いますぐにも、と思いました。約束の一ヵ月はとうに過ぎ去っていますが、いまこの瞬間あなたが何を思い何をしているのかとても気がかりだったのです。あなたと不在の大木君がだぶっているのでしょうか。いずれにしても変な心の動き方です。冷静に考えてみればあなたの元へ走ることを妨げているものは、あなたという存在そのものなのに。
 こういう場では日常の関係の中では決して出てこないような激しい言葉が似合っている。ガレージはそんな言葉をきっかけに何度も何度も再生してきた。節目節目に相手の人格を壊してしまうほどの言葉が半ば酔いにまかせて、半ば本気で飛び交っていたのでした。あなたも中原君もあまりにもおとなしくなりすぎた。それを時代のせいにはさせないぞと私はまた憎悪なるものをあなたにむけて滾らせます。
「この小屋に火を付けて、すべてを燃やし尽くしてしまおうよ。ともに土に還るのも一興よ。その前に、窓を開けて空気を入れ換えるべきだわ」
 喉元を震わせて言いました。目は天井の雨の染み跡を睨んだままでした。与太も悲惨極まりなし、こんなことを実行すれば、与太なりの思想も理念も吹っ飛びます。

 酔いざましの散歩と洒落こんだつもりの三人とはわざと距離を大きくとってわたしと希未さんは歩いて行きました。夜明け前の青々とした街中を五人の男女が連れ立って歩く、もうそういうことは外の時代の空気と関わりなく、何よりも自分の中で現実感を持たなくなっています。歩くならひとりがいい、とまでは言わなくとも横一列も縦一列も、また三々五々もグロテスクな行進めいてアウトでした。それは希未さんも同じだったようです。
 電車通りを北に向かっていました。背後の海へかすかな風が吹いていきます。風が来る方角に天と地を分かつ稜線がクレヨンのいたずら書きのように浮かび上がり、風はひとりひとりを掃くように通り過ぎていきます。わたしたちは風の邪魔者です。
 交差点の角の本通り派出所の前にさしかかったところでいちばん前を歩いていた石崎が不寝番の巡査に呼び止められました。人も物も荒れに荒れた一時期が終わり、靄に包まれた制服姿の巡査には勝ち誇った者の傲岸が感じられるのです。遠目にもそれは分かり、癪の種でさえあります。巡査は本来は身をかばうべきジュラルミンの盾をうしろの戸口に立てかけ、長い棍棒を杖代わりにちょうど「休め」の姿勢で突っ立っていました。その無防備ぶりは世の平穏の証しです。
「答える理由も、必要もない」
 大きな躯のシローが石崎の肩越しに叫び、一瞬巡査が怯んだ隙を衝いて棍棒をひったくりました。シローは灰青色の天を仰いで棍棒を繰り返し空に突き立てます。その度に足を交互に上げ下げし、威嚇するように地を蹴ります。でんこしゃんでんこしゃんという意味不明のかけ声があれば日向の田舎でかつて見た巫女の踊りのようですが、シローの原始人のような敏捷な身のこなしにわたしの記憶はもう一つの熱狂へと引き戻されます。剣道三段の大男、竹刀を捨てて素手で教授も図書館職員も、右の学生も左の学生も、誰かれかまわず殴り歩いていた男のことです。あの時代、春夏秋冬、雨の日も風の日も、学内を突風のように駆け抜けた男です。理論と行動を見事に一致させる理想的な指導者だった三つちがいの兄に反発するかのように「殴りたいから殴る。それがなぜ悪い」と言ってはばからなかった。また「しらっと見物している奴も、美辞麗句を並べ立てて人を煽る奴も、ともに気に喰わん」そうも言ったという男。シローはまぎれもなくその男だったのです。わたしの名前を知っていたこともこれで合点がいきます。
 兄にあたるわたしのサークルの先輩は行けば必ず捕まり長期間拘留されるとわかっている闘いに出かける前夜「あいつの傍にいてやってくれないか。俺の唯一の気がかりなんだ。単純な奴だが、いいところもあるんだ。いまは方向を間違っているので、君のような人が必要なんだ」とわたしに言いました。もちろんそんなことはしませんでした。わたしはすでにあなたと一緒に棲んでいたからです。予想通り先輩はわたしが所属していた間にはそのサークルには戻ってきませんでした。その後もこの街で見かけたことはありません。弟も騒動が止む前に出番がなくなった役者のように忽然と消えていました。が、伝説はしばらく残りました。当時人の輪の中心に必ずいて何十回となく見ていたはずなのにいままでその男とシローが記憶の中で切り結ぶことがなかったのです。なぜなのかとわたしは自問します。呼び名が違うせいかも知れない。その男はあだ名でしか呼ばれなかったのです。あなたも間近に見たこともあったはずです。かつてそこにはケルンパー(本物の馬鹿という意味でしょうか)がいたと伝説は語りはじめられます。実在の男はすでに名前が変わり、顔つきも変わりました。風になぶられ、雨に洗われ、人の目にも刺されてすっかりふやけています。こういうことがなければ、騒動のど真ん中で自らの鬱憤をはらすためだけに暴れていたケルンパーが目の前のシローと同一人物だなどと誰に分かったでしょうか。
 おそらく何年かぶりにシローは竹刀でなく、石でもなく、人を攻撃する手段として棍棒を手にしています。わたしと希未さんもその場に辿りつき、五人のさまざまな大きさの躯が塀のようになって若い巡査をとり囲みました。予期しなかった成り行きにどう対処すべきかとまどっている風に見えます。余計なお世話ながら明らかに訓練不足です。
「この通りを歩くのにいちいち名前を名乗っていけというのかい。その根拠は何なんだ。ちゃんと言ってみろよ」
 中原君が巡査に迫りました。低い声でしたが嵩にかかっているのがわかります。
「棍棒を返せ。そうでないと、公務執行妨害で逮捕するぞ」
 しきりに背後の詰め所を振り返ります。同僚が仮眠をとってでもいるのでしょう。起こして救援を頼むべきかどうか、その時機を計っているとわたしには思えました。新米なりに面子もあるのかと埒もない考えにとらわれていました。
「返してほしけりゃ、かかってこいよ」
 シローは棍棒を左手に持ち替え、右手ですばやく巡査の肩を掴みました。シローは巡査を見おろすほどの背丈です。
「もう行こうぜ。これ以上やるとやばいよ」
 シローの耳元に石崎がささやきました。
「シロー、やめなさい」
 このまま放って置いたらシローはもっとひどいことをやらかすと直感的に悟ったのか希未さんが怒鳴ります。わたしは希未さんとはまた違う考えを持っていました。シローのそばに歩み寄り、棍棒を奪い取ったのです。それが発火点となったのかシローは素手で巡査の顔を殴りつけていました。地鳴りのような音が響き、自分の帽子のあとを追うようにして巡査はコンクリートのうえに倒れました。シローにケルンパーが舞い戻ったと見粉うほどの素早さでした。棍棒を掲げてわたしは一散に走り出しました。大通りを右に曲がり、アーケードのなかに入っていきます。静まり返った商店街をくぐもった靴音をリアルタイムで耳に確かめながら走り続けたのでした。
「どこへ行くんだ」「おおい、待ちなさい」と交々に叫ぶ声が急速に遠のき、荒い呼吸音が心拍をさらに煽ります。服を脱いで裸になる代わりに二本の足でただ走ること。追われているのではない。先頭を切っているのだ。距離が伸びるにつれてわたしは唯我のみという清澄な気分に見舞われていきます。いまのわたしにはなんだってできる。手に武器がある。間接的とはいえ官憲から奪い取ったものです。なんの不足もない。
 羊やの見慣れたショーウィンドーの前で立ち止まりました。中には躍動感を出そうと苦心して配置した四体のマネキンがはいっています。目はそろって天を睨みつけ、前かがみの姿勢で両手を宙に泳がせています。「つぎの一歩」に道行く人の関心を惹こうとしたのですが、改めてみるとマネキンは凝っと突っ立っているだけです。そしていま物言わぬマネキンがしきりに呼びかけてくるのがわたしには分かるのでした。何が言いたいのか、いや何を聞き出そうとするのか、目を閉じ、口を噤み、耳を閉ざしました。すると突然躯中のありとあらゆる穴をこじ開けるように閃光が何回も走っていったのです。
 前を見るとマネキンとわたしを隔てていた厚いガラスが躯の大きさ分だけくり抜かれています。わたしは仕事の場所へ晴れがましい気持ちで入って行きました。四体のマネキンと並んで立つといままで一緒に行動してきた中原君、石崎、シローそれに希未さんまでが単なる通行人にしか見えません。マネキンと会話できるほどにも、彼らとは言葉を交わすことができないのでした。
 左腕を伝って流れ落ちる赤い血が、海の波を形象化した青白のサテンの布地のうえに絞り紋様を描くように広がってゆきます。それがおそらくわたし自身のデザインです。分かってくれるのはあなただけのような気がします。

 (八)

 あなたに向けて語ることもこれで最後となります。わたしがいまいるのは街の北端にちょこなんと居坐るお城が眼下に見わたせるマンションの八階です。南に向いたベランダに出れば強い夏の陽光を弾き返す海も見えます。大木君の見立てにしては上等すぎる部屋です。
 棍棒で叩き割った拍子にガラスの切っ先が左肘に深く突き刺さり骨の近くまで肉が抉りとられました。左腕の自由は利きません。副え木のうえに包帯をぐるぐる巻きにしているので折り曲げることができないのです。躯の脇にたらしたまま、肉が盛り上がり窪みを埋めるのを待つということです。こうやって右手で字を書くのにもかなりの負荷がかかり苦痛が伴います。文字どおりの苦痛で、もちろん比喩なんかではありませんが、左手が動かせるようになるまで一ヵ月かかるとも医者は言いました。もし動脈が断ち切れておればショーウィンドーは血の海となり、わたしはそのまま逝ってしまったことでしょう。そうならなかったのは天の配剤。もう少し生きてみろという励ましです。
 事件のことでは南さんが間に入ってくれました。病院での取り調べは八日目に終わりました。「精神科ででも診てもらった方がいいよ」と捨てぜりふを吐いて立ち去った刑事と入れ代わりに南さんがやってきたのです。入るなり「君はもう自由だ」とやや興奮した口調で言いました。それがわたしにとっていいことなのか、悪いことなのか判断を留保したい気持ちでした。
「社内での私の力は君が考えている以上に大きいんだ。勤めを続ける気なら、そのように手を打つよ」
 歳不相応の茶目っ気もありましたが南さんの言葉はまんざらうそではないようでした。本当におひと好しの羊やです。大損害をかけたわたしをお咎めなしの身に解き放ったのです。「お情けは無用に願いたい」と突っ張る気持ちも失せていきます。
「デザインを頼んだのがストレスになっていたのかなぁ」
「わからないわ」
「どこからあんなに凄い力が出たのか、それが謎だよ。バックし損ねた車が時速二十キロでぶつかっても割れはしなかったんだ」
 へぇ、そんな厚いガラスの中でほとんど毎日のように仕事をしてきたのか、と他人事のような感想が湧いてきました。ガラスを割ったのはわたしの力ではなく、棍棒の威力だったのかも知れません。あるいは、わたしの躯の中に脈々と受け継がれている血すなわち采女の祖先のお加護があったのかも知れない。傷が内からの力によって癒えるのを待ちながら、あれこれ成算の立たぬことを考え巡らす時間だけはたくさんあります。もちろん羊やには戻りません。わたしは居候です。
 一緒に居ることなど思いもしなかった大木君とひとつ屋根の下に棲むこと。奇妙な取り合わせだとあなたは訝ることでしょう。でもわたしにとってはこれもごく自然の成り行きなのです。異性の誰かれと共生することこそ、姓名に元来備わった属性です。
 大木君は病院まで迎えにきてくれたただ一人の、ガレージゆかりの人です。
「だから君を立ち直らせるのはぼくしかいないと言い続けたんだよ。はやくに忠告を聞いておればこんなことにはならなかった」
 その後のガレージはもぬけの殻のようです。この目で確かめたわけではありませんが、中原君もどこかへと散り、あの小屋は取り壊しにかかる寸前で目下閉鎖中ということです。エゴの切り株も掘り起こされ、一面にコンクリートを打たれてしまうことでしょう。ここから直線距離にして千メートルもないのですが、もう行く気にもなれません。
 新しい肉がわたしの躯の窪みを修復するまで……そう言い聞かせて右手だけで癇症のように足の爪を切っています。念入りにやすりもかけます。大木君は「君を軟禁しているのか、匿っているのかどっちともつかない気分になることがある」と言います。他人に対して、わたしには金輪際持てそうもない発想です。病院から一歩出るとそこに大木君が立っていて手招きしてくれた。希未さんの口調を真似て言えば、ただそれだけ、です。
 そんなことよりもなによりも、いまもっとも不思議に思うことは大木君とはまだ一度も交わっていないということです。左手が元に戻るまで遠慮しているとは思えないのです。ひとつ布団のうえに夜毎二つの躯を横たえているのだから、無事だった右手を握るか、足を絡めるかすればそれへのきっかけはすぐにも掴めそうなものなのに、わたしの躯にいっさい触れようとしません。わたし自身が不可触のいわば禁忌ででもあるかのように、眇めて見れば頑なな態度を持しています。かといって不自然さはどこにも見あたらず、したがって大木君にその訳を直接訊くこともないのです。かえってわたしの方から大木君のために『あれがあすこにあるということがいきいきと維持されるためには、そこに近づくという行為が拒否されていなければならない』というどこかの本の一節を呟いてあげたいぐらいです。わたしには大木君を拒絶する気も、またそのいわれもありません。大木君にもよく分かっていることです。知っていながら、つまりいつでも交わることができる場所に近づいていながら、生理に逆らってあえて触れない。大木君にしてはじめてできる芸当なのでしょう。
 週二回病院へ行く以外にはこの部屋から一歩も出ません。そういう日がもう何日も続いています。今朝、出かけに大木君が、
「たまには気晴らしを兼ねて映画でも観てくればいい」
 と言いました。
「ひとりで? 戻ってこれなくなるかも知れないよ」
「大丈夫。君はすでにぼくのものだ」
 あっと叫び声を挙げていました。四、五年来あなたのうしろで影のように見えた大木君です。コンクリート製の三和土に降り立った大木君の似合っていないわけでもない背広姿にポンポンと柏手を打っていました。
 空気だけはやけに熱かった八月もあと数日で終わります。         (了)


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