隣人

              
 九月はじめのまだ昼間の熱気が残る夕暮れ、みやげの紙包みを片手にぶら下げて板敷きの三和土に入るなり来栖は「ありゃ、ただもんじゃないよ」と並んで立った雅子と一平に言った。
「妖怪かなにかかね」
「似て非なるものだな。目尻が狐のようにつり上がっていて、なかは赤く充血している。感情をつとめておもてに出そうとしない男さ。一度見ればわかるけど、言ってみれば、どんなことにもけっして笑わない、怒らない、泣かないの三無男だよ。その分なにをしでかすかわからない奴。まわりにも何人かいたじゃないか。時に勇敢だったり、時に雄弁だったり、時にシニカルだったよな。ああはなりたくないけどああなれたら痛快だろうとおれなんか思ったものだ。階段ですれ違うとき、うえから睨まれて久々に躯が竦んだよ。眼の中に他人を寄せつけない毒を潜ませているね。ほんとうに知らないのか」
 義妹夫婦が引っ越してから二ヵ月ほどが経っていた。それから今日まで、そのとなりの部屋に新しい住人が入った気配さえ感じることがなかったのである。ほとんど一日中部屋にいる身重の雅子も首を横に振った。
「ひとりで爆弾を作っている、そんな感じだな。いま増えてるそうだよ」
「あら、そういう感じなの?」
 雅子は下腹を両腕でかばいながら来栖の方に身を乗り出すようにして訊いた。
「まあね。カンですけど」
 来栖と逢うのは、半年前の、形だけはきちんとして欲しいという雅子の両親のねがいを入れて行った披露宴以来であった。
 披露宴といっても仲人を頼んだ雅子の上司沼沢以外は身内ばかりだったのである。来栖は気に留める風もなく「これも浮き世の義理だ」と双方の親族の前での「挨拶」を引き受けてくれた。「学生時代のこいつはまわりにいた誰よりもナーバスでした。いくつかの傷も負ったはずですが、自ら癒す術を知りつつあります。この男には時代をむかえ、時代にむかえられる資質があるはずです」などとまじめくさった顔で話した。一平の親兄弟はもとより雅子の親族もきょとんとしていた。
「わあぁ、すごくおいしそうだ。高かったでしょ?」
 紙包みをほどくと、流し台を向いたまま雅子が大げさに驚きの声を上げた。雅子は来栖が大量に買ってきた松阪牛でスキヤキを作り始めた。それを潮にふたりは酒を呑むのを我慢してできあがりをただ黙って待つ飾り人形のようになった。となりの男のことは一過性の話題として消えたかにみえたが、醤油と砂糖が焦げる香ばしい匂いに刺激されて空腹のために湧いた唾液を飲み込むと揺り戻しのように「どんな男なんだろう?」と不吉な予感や恐いもの見たさの興味がこみあげてくる。雅子が掛け布団をとり払っただけの電気こたつのうえに鉄鍋を運んできた。一平は水屋がわりのみかん箱からウイスキ−とコップを取り出した。
「殺風景でしょ? 家具も食器もなにもなくて」
「はじめはこれぐらいの慎ましさがいいね。これから二人でどんどん増やしていけばいい。また、増えるもんだって言うぜ。しかし、電話ぐらいは欲しいな。なにかあったときに困るんじゃないか」
 来栖は自分も所帯を持っているような口ぶりで言った。電話は一平たちにはまだ高価すぎた。雅子の両親は援助すると言ってくれたが断っている。
 三人で鍋をつつき、酒を飲んだ。普段はあまりやらない雅子も迫り出した腹の上に置いたコップを掌にくるみながら合間にちびりちびりとなめ、頬を赤く染めている。来栖とは互いに黙り込んでいても、意志は通じ合う。西の街の最後の半年間、お互いの下宿で何をするでもなくふたりで過ごした夜が幾晩あったか知れない。そばにいて、なんの気詰まりも感じなかった。来栖が逮捕歴を隠さず話したうえで老舗の運輸会社に就職を決め、残った単位を駈け足で取って卒業する頃、一平も新聞広告で銀行相手の業界紙を見つけて上京した。それが三年前の春のことだった。二人の間の沈黙を埋めあわせるように雅子が仕事のことや出身地の熊本のことをあれこれ訊き出そうとしている。雅子らしい心配りだった。
 誰かを呼ぼうと来栖が突然言い出した。ねらいは就職してから病みつきになった麻雀である。一平も、出張校正が早く片づいたあとなどに、誘われればたまにやるようになっていた。覚えたてで興味はあった。
「奥さん、いいでしょ? おまえ、誰か心当たりはないかね」
「とりあえず、あとひとりだな」
「近くに同僚がいるはずだけど、仕事がらみは面白くもないか」
 来栖は縦長の黒い手帳を広げた。表紙に勤め先の運輸会社のマークが金文字で浮き彫りにされている。
「おとなりはどうだい?」
「それならいちばん手っとり早いな」
「ほんとに声を掛けるのか」
「言い出しっぺはおまえじゃないか」
「なんかゾクゾクするわね。いい機会かもよ。来栖さんがいれば心強いし」
 この夜はしかしまだ見ぬ隣人を肴にしたいっときの余興に終わってしまった。それとなくとなりの物音に注意を払っていたが帰ってきた様子はなかった。そればかりでなく、酒の量が増すほどに一平も来栖もなんとなく億劫になっていった。来栖の言う通りの男だとすればなおさら会う気分ではなかった。
「今度下の妹たちに声を掛けるから、また来てくださいね」
 雅子に言われて来栖も「披露宴で逢った人だね。それはたのしみだ」と帰る支度をはじめた。一平と雅子は吹き晒しの通路に出て見送った。鋼鉄製とはいえ階段につながる通路は建物の外壁に、震度4の地震でもあっけなく切り離されるかと思えるほど不自然に張り付いていた。手すりによりかかって下を覗き込むと、五メ−トルほどの高さなのに深い崖っ淵にいるような気がした。全身に鳥肌が立った。大柄な来栖が面倒くさそうに肩のうえで掌を回している。そこは霧深い谷底にも思えた。実際、かつては起伏のあった丘のてっぺんでもあるのかアパートの前の道は左の方向に傾いている。少し前まで義妹夫婦がいて、いま新しい男が入っているというとなりの部屋は依然静まり返っていた。

 私鉄の駅からアパ−トまでの道は傾斜十度ほどの上り坂になっている。七、八分歩くと古くからの街道に突き当たる。この街道は右に行けば都心とかつての城下町とを結ぶ国道に出、左に行くと新旧の中仙道を横切って川辺りの新興の住宅地に至る。そのほかに小道が三つ高台のこの交差点に集まっていた。合わせると確かに六本あった。一平はここで立ち止まるたびに「地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上」と暗記した知識をおさらいするように呟いた。老婆のナミアミダブツのように、そうするとなぜか安心を覚え、雅子の待つ部屋までの足どりがかろやかになるのだった。
 その六道の辻からアパ−トへの道は三本の小道のうちのひとつで、街道と直角に交叉している。数人がやっとすれ違える程度の、むしろ間道といえた。六つのうちのどの世界に通じるのかはわからない。入り口には農家の庭先だったかつての名残りに老齢のとちの木が立っていた。いまは奥まった場所に、こんなところには場違いな白い洋館が見え隠れしている。
 アパ−トの所有者はずんぐりとした体型で顔もいかつく、先祖伝来の土をいじっているほうが似合いそうに思えたが、個人タクシ−の運転手を本業にしている。家の前と横の、姓名を冠した二棟のアパート以外にもいくつか家作があり、それだけで食うには困らないはずだった。タクシーの運転手は半分道楽のようにもみえた。昼日中、かつての畑地に作ったトタン板のガレ−ジで何人かの運転手仲間と大声で話しながら車を磨いている姿をよく見かけた。通りすがりに聞こえてくる話の中身は近くのボ−トレ−ス場かパチンコ屋のことが多かった。アパ−トの管理は、亭主に似ずうわ背があり和服が似合いそうな楚々とした風情の夫人にまかせっきりだった。数度見かけただけだったがその夫人は、銀縁眼鏡が土地成金のいやみにならず細面の白い顔によく調和していた。上品な印象があった。
 雅子は、真下の部屋に住むやはり身重の主婦金井から家主夫人についての不満を聞かされてきたことがあった。月を二、三日越してから前払いがきまりの家賃を持っていくと膨らみかけた下腹を眼鏡をずり下げるようにしてなめまわされた。その際、子供が生まれたらすぐにでも出て行ってもらいたいというようなことをほのめかされた。それらのことなら一平たちにこそ当てはまる。家賃はすでに一ヵ月遅れだったし子供が生まれるのは真下の主婦より何ヵ月も早いはずだ。しかし雅子は一度もそんな嫌みめいたことを言われたことがない。
「すごくきつい人でしょ? 乳呑み児をだかえて橋の下ででも暮らせと言うのかしら。顔を合わせるのがこわいわ。ねえ、共同戦線を張りましょうよ」
 この数ヵ月間の関わりをどんなに反芻してみても雅子にはその言葉が信じられないのだった。真下の主婦の見幕に気圧されてその場では無下に否定することがはばかられた。思い過ごしじゃない? と言えば夫人の肩を持つことになる。むこうの味方と勘違いされ、以降日常のつきあいが難しくなる。いや、そんなことよりも、せっかく自分をたよりにして話してくれた人を悲しませることになる。雅子は曖昧にうなずいて話を聞いていた。自分にはとても優しい。なぜだろうと夕食のあとに思いあまって一平に持ちかけたのだった。
「簡単なことだよ。贔屓というやつだ」
 雅子の口から他人の悪口を聞いたことが一平は一度もなかった。一癖も二癖もある元上司の沼沢でさえ雅子によれば部下思いの温厚な紳士となるのだった。それが、雅子が他人を無警戒にさせる源とも考えられた。むろん雅子は意識してそうするのではない。いわば天性のものだと思われる。
「おまえは人に可愛がられる素質があるんだ。自然体で接することができ、話しているだけで、自分の欠点が現れ、同時にそれらがすべてかき消えていくんだよ。気持ちよく人間の美点を再発見できるという意味ではいまどき珍しい性格だ」
「まあ、歯の浮くようなおべんちゃらを言うのね。そんな風に考えてみたことは一度もないわ。金井さんに言ってわたしに言わないというのはみっちゃんがよっぽどうまく付き合ってたってことかしら。あの子、真ん中で育ったせいか如才がないから」
 いらぬ釈明をしたと気付いたのか、雅子は俯いてしまった。
「まあいいよ。これ以上悩みの種が増えないに越したことはない」
「共同戦線はどうする?」
 思わず一平は苦笑した。

 深い谷間から引きずり上げられている気分だった。半眼を開けると、雅子がしきりに躯をゆすっていた。
「へんな音がするの。ねえ、聞いてみて」
 両腕をつっかい棒のようにして上半身を立てている雅子の躯に一平はしがみついた。それをすべり台に見立てて太鼓橋のように迫り上がった下腹まで頭をずりさげていった。裾のもつれた茜色のネグリジェをまくりあげ、何重にも巻き付けられた晒し木綿の帯に耳を当てた。
「馬鹿ね、なにねぼけているの? 違うのよ」
 雅子は一平の頭を軽くぶってから親指を立ててとなりとの壁を差し示した。脂の浮き出た両眼をこすり立てて、這うようにして足元のモルタル塗りの壁に近づいた。そこに耳を当てると雅子が言う通りかすかに音が聞こえてくるのだった。壁の中でふつふつと湯が沸き立つような音だった。生木同士をこすり合わせればこんな音が出るかとも思われた。気にすればするほど音自体の力によって大きな響きや霊妙な音色が醸し出された。それは黒人の唄う霊歌のように躯の奥底にじんじんと沈み込んでいく。気にしなければ睡眠の妨げにはならない。現に一平は起きなかった。雅子が気付いたのはいまが尋常の躯ではないせいだった。枕元の目覚まし時計を見ると午前三時を回っている。
「こんな時間になにしてやがるんだ」
 坂道で見た紗をかぶせたような光る眼がふいに思い出された。六道の辻を過ぎたあたりで家主夫人が一平に追いつき、「駅まで? じゃ、一緒に行きましょ」と言ったのである。膝ぐらいの高さの鉄のガードレールで区切られた狭い歩道を並んで歩くのは晴れがましいことだった。和服こそ着ていなかったが、はらみやつれした雅子よりもうんと若やいで見えたのだった。肩をときどき触れさせながらつんと背中をのばして歩いていた夫人が突然一平の脇腹をつついた。前方から、駅までの道のなかで一番きつい上り坂をゆっくりとひとりの男が歩いてくる。
「となりにはいった人よ。吉川さんて言うの。知ってた?」
「あっ……」
 一平は口中に溢れた言葉にもならない叫びを堪えた。
「え、いまなにか言った?」
「いえ、別に。何をしている人ですか」
「さあ、よくわからないわ。会社員としか書いてなかったもの。年恰好はあなたたちと同じくらいよね」
 夫人と一平は男との距離が三メ−トルほどに縮まったときどちらからともなく立ち止まってすれ違う瞬間を待った。道を譲ってくれたと思ったのか男は二人の顔は見ずに軽く頭を下げて通り過ぎた。意外と端正な横顔と切れ長の、紗をかけたように鈍く光る眼を一平は見た。来栖がただものではないと言ったのはその光る眼のことかも知れなかった。白い半袖のシャツに灰色の作業ズボン姿だった。来栖が言うようにもし世間の常識に背を向けて爆弾作りに勤しんでいるのだとすれば、眼の印象とアンバランスでかえって目立つように思えた。「気付かなかったみたいね。朝帰りかなぁ」夫人は大家らしい感想をつけ加えたのだった。
「爆弾を作っていたらどうしよう」
 夢見が悪かったとでもいうのか雅子は蒼白の顔で歯をがたがたと震わせながら言った。こんな雅子を見るのははじめてだった。
 一平はトイレに駆け込んだ。壁の中に互い違いに洞窟を掘ったようなトイレなら、薄いベニア板に共振して音が増幅され、その正体も掴めると思った。耳を澄ました。こんどは金属を切り刻むような音に変わっていた。単調なリズムのせいで人の唸り声とも見紛うほどだ。歯ぎしりかいびきかとも考えられた。しかしそれだと断定するものが何もなかった。爆弾であってもおかしくはないということだった。状況証拠ならある。いまだに、爆弾にまつわる物騒な事件が新聞紙上を賑わせていた。身近かにそんな隣人を抱かえ込むことは単に確率の問題だった。ここは東京のはずれ、普通の生活人に身をやつすにはもってこいの場所である。丸の内の三菱重工ビルの玄関に時限爆弾が仕掛けられ八人の死者と二百人にものぼる負傷者が出たのはたった半月前のことだった。同じ頃に一平は近くの銀行にいた。直後に多くの野次馬に混じって遠巻きにビルを見上げたが、爆弾が炸裂した時刻にそのビルの前を通らなかったのは偶然としか思えなかった。線路沿いのその道は有楽町や銀座に抜けるためのいつもの散歩道だったからだ。ほんの十数分の誤差であった。運命のいたずらで命を救われたと思っている。駅頭で配られた号外を広げながら、見聞きしたことを雅子に話すと「出かけるときにいやな予感がしたの。よっぽど、休んだら? と言おうと思った。でも無事だったのはこの子のおかげだね」と膨らんだ腹を見おろすようにして柏手を打った。予感の根拠は、モルタルの壁に飾っていたモディリア−ニの「ハンカ・ズボロフスカ夫人の肖像」の複製画が風もないのにはらはらと押しピンごと落ちたことだった。「地震よりも恐いわね。ヘルメットかぶって取材に行くことはできないかしら」真顔でそんな提案をしたものだった。
「不気味ではあるな」
「警察に知らせる?」
「そんなことはできないよ。証拠もないし。かりにあっても密告するみたいで嫌だよ」
「こどもがおなかにいるのよ。万一のことがあったらどうするの」
 生活の場に新しく参入してくるはずのこどものことは一平には雅子が考えるほどの現実感はなかったが、もし三菱重工ビルの前を通りがかったばかりに命を落とした人のように雅子が死んでゆくとすれば、それは耐えられない痛恨だった。こんな風に人の死を考えたのははじめてであるような気がした。炎に炙られたかのように躯は沸騰直前まで熱くなっている。
 パジャマ姿のまま玄関に向かった。外に出ると「ちょっと待って、わたしも行く」と雅子が柄の長い箒を手に握り締めて追いかけてきた。
「なんだそれは。似合わないよ。中で待っててくれ」
「いざというとき役に立つと思うけど」
 蒼ざめた顔で、動悸を高鳴らせている雅子を部屋の中に押し戻してふたたび鋼鉄製の通路に立った。街灯のあかりでとなりの扉を透かし見た。表札はどこにも見当たらない。合板の、叩けば剥がれてしまいそうなドアだった。四つの部屋それぞれの色が異なっていた。一平たちはクリ−ム色でとなりは薄いピンクだった。下の二部屋も紫と青のペンキで彩色されていた。家主の無邪気な趣向とはいえ改めて見ると安っぽさが際立つ。
「となりの者だ。ちょっと話があるんだ」
 ドア越しにそう言うのがやっとだった。それでもノックと呼びかけを五、六回繰り返した。が、なかから応答はない。いったん部屋に戻って、
「うんともすんとも言わない」 
 と雅子に告げた。すれ違ったときに感じた光る眼が思い出された。顔の輪郭は記憶の澱の底に沈んでいた。あの眼はたしかにただものの眼ではなかったが、来栖があこがれ、ついに持ち得なかったものだと思えば、他人事でなく、捉えどころのない憂愁をも合わせ持っているような気がした。
「音が止んだみたいよ」
「聞こえてて知らんぷりだったのかな」
「もういいわ。寝ましょう」
 ひとつの布団に同時に潜り込んだ。一平は背後から雅子を抱きかかえ、条件反射のように大きくなってきた陰茎を躯の芯に向けて突き立てていった。こんなときだから嫌がるかと思ったが、雅子も膝を心持ち内側に折って応じる構えをみせた。膨らんだ腹とその中で母体と一緒に呼吸をし、この世に飛び出す時期を悠然と狙っている胎児をかばいながら交わるのは骨のおれる作業だった。作業などと言うと潔癖な精神主義でことに臨む雅子は目を剥いて怒るのだった。が、一平は関係のあかしのようにできるだけひっついて精を出しつづけていたかった。ここに越してからの雅子は、お腹の子のほかに、試験浪人の義弟がいたとなりの部屋にも気を遣わねばならなかった。枕に顔を埋めたり、汗まみれになりながらタオルケットを口元までずり上げる。愉悦の渦の中にすっぽりと身を委ねることができない。となりの物音に目覚めたいまはなおさらだった。そんな雅子を見かねて一平は掌でそっと口を塞いでやった。少し安心したのかかみつくようにして嗚咽を堪えている。唾液となまあたたかい呼気が混じってぬるぬるしてきた皮膚にもうひとつの命が凝集する気分だった。ともに果ててからしばらく凪の海を漂うような余韻をたのしんだあと、そっと躯を離すと天井あたりから押し殺した声が間断なく降り注いできた。電話に向かってひそひそと話すとなりの男の輪郭が像を結ぶかと思うとすぐにぱらぱらと解けていった。雅子は口をうすく開けてそのまま眠りにおちていた。

 この日は間隔がだんだん狭くなってきた定期検診の日だった。線路の向こう側にある病院まで雅子を送り、余った時間をつぶすためにいったん部屋に戻ってきた。会社には取材先に直行すると電話を入れておいた。一時間ほど部屋にいたあと外に出ると家主夫人に呼び止められた。数日前雅子から聞いた話がその白い顔にかぶさり一瞬照れくさい感じがした。しかし、贔屓と表現したのは一平自身だった。
 家主の家はアパ−トと並んで一段低い地面に建っているが、背丈を越える柘植の生け垣で峻別されていた。瓦屋根の荘重な作りの家だった。一平ははじめて中に足を踏み入れた。数分後に奥から夫人が持ってきたのはカーキ色の封筒だった。黒枠に囲まれて内容証明郵便と印が押してあった。夫人は開けて見てくれと目で合図した。一平はうすっぺらな便箋を取り出し、ボールペンで書かれた、わざと事務的な調子を装ったような文章に目を通した。「敷金を返さないのは不当な措置で、法律に違反している」と乱れた筆跡で、磯浜ではじけ散る波頭のような勢いのままに書かれていた。
「まるで脅迫ですよね。返さなければ裁判に訴えるなんて、いくらなんでも言い過ぎだと思いません? わたしたちが出て行ってと頼んだわけでもないのに」
「おれっちは先祖代々お上の手を煩わしたことなど一度だってないんだ。こんなことで因縁をつけられちゃ間尺に合わない」
 眠そうな顔で家主が夫人のうしろに隠れるように突っ立っていた。「あなたはいいの」とでもいうように夫人が左手で家主を制し、まつわりつく犬を追い払うような仕草をつけ加えた。       
 すぐ下の妹の倫子からとなりの部屋が空いていることを教えられてはじめは雅子もためらっていた。
「あんまり近すぎるのもどうかしらね」
「近すぎるなんてもんじゃないけど、心強くていいじゃないか。それとも仲がよくないのかい?」
「仲良しよ。ただ、みっちゃんもひとりじゃないからね」
 一平は二十五、雅子はひとつ上の二十六だった。となりにいた妹の夫、二人にとっての義弟は雅子よりもさらに二、三歳上だった。最初は新しい知り合いがひとり増えたくらいのつもりで気楽に付き合っていた。しかし、いざとなり同士になってみるとなかなか気難しい、偏頗な男だとわかった。籍は入っていても、試験浪人中の身の上で、居候同然である年上の義弟が配偶者の姉から終日つぶさに観察されたのではたまらないと考えたとしても無理からぬことだった。雅子にそのつもりはなくても、背中を接するようにして住めばどうにも逃れようのない圧迫感を覚えるだろう。数回部屋の行き来はあったがついに話が噛み合わなかった。機嫌のよいときは義弟のほうから冗談らしきことも言ったがつまらなくて笑えなかった。笑わなかったことの報復のように、本棚から引っ越す度に少なくなっていった本をひとつひとつ抜き出しながら「ある種傾向的だよな」とぼそぼそと言ったことがあった。また、引っ越す数日前の夜には壁が吹き飛ぶほどにテレビの音量を大きくして雅子を恐懼させた。雅子ばかりか、形の定まりかけた胎児もびっくり仰天したに違いない。こちらに思い当たる落ち度はなかったが、その場に居合わせなかった一平は雅子から聞いて、「是非もなし」と劇中人物のせりふのように呟いていた。
 雅子の懸念は予想外に早く的中し、数ヵ月足らずで義妹夫婦を追い出すことになってしまったのである。そればかりか結果的にはその志まで曲げさせることになった。義弟は、沿線のさらに奥のベッドタウンに移ったのを機に何年も挑戦し続けた国家試験を諦め、土地ブ−ムに湧く地元の建設会社に就職した。さぞや寝覚めが悪かろうと雅子を案じたがそこは血を分けた者同士であった。さばさばとしていた。
「そのほうがみっちゃんにはいいのよ」
 雅子はそういう感想を漏らした。そのほうとは引っ越したことなのか、義弟が就職したことなのか、それ以上深く聞こうとしなかった。引っ越す事情と引き換えに大志を取り下げたのは義弟らしいむかっ腹かも知れないと一平はなおも皮肉な見方をしていた。
「あなたは新聞記者なんだから、この弟さんを説得してくださいな。何もお金が惜しくて言うんじゃありませんよ」
 家主夫人には、とにかく真意を確かめておく、と言って外に出たものの義弟を説得する材料は何一つ持ち合わせていない。

 となりの部屋に「吉川」という名前の男が入っていることは事実で、一度駅からの坂道で出逢ってもいたが、その存在そのものについてはいまだ実感からは遠かった。その一方で、ピンクのドアの前を通る度に、ぷいとそっぽを向きたい気分に襲われる。雅子との間でもあえて話題にのぼせなかった。不自然なことではあったが、二人だけの生活にいまは没頭していたいのに違いない。予定日まであと一ヵ月となって、自分が産むわけでもないのになんとなく気ぜわしさが増していたのもその一因であったかも知れない。伝染病か疫病にかかったかのように日々躯の奥深くから兆す原因不明の痛みに呻いた。といってもこの痛みも「吉川」同様現実感がなく、皮膚の下に隠れている針ネズミみたいな病巣が気まぐれに暴れ出して神経を刺激するといったようなものだった。となりの物音と同じで気の紛れるものが他にあれば感じないはずだった。そんな痛みは、一週間前のあのとき、二人で起き出して戦闘態勢にはいったことがありうべかりし被害妄想の産物だと教え諭すのだった。何を相手に闘おうとしていたのかもはやわからない。人を疑ってはいけないという、生まれながらに備わった雅子の信念に背馳することでもあった。おまけに武器ともなり得る箒まで持たせてしまった。ドアをノックした顛末を話すと来栖は困りきった表情を隠さなかった。やや間をおいて言った。
「もし本当に爆弾をつくっていたらどうするつもりだったんだい? 逆に別の物音だった場合は? 出てこなくてよかったよ。どっちにしても、こっちは引っ込みがつかないところだ。そこまで読んでくれていたとすれば、むこうの方が何枚もうわてだな」
 となりの男の肩を持つような言い方をした。
「やっぱりおまえもそう思うか。疑い出せばきりがないよな。暴発さえしてくれなければ何をしていてもいいわけだ」
「おれが余計なことを言ったせいかな。いまは微妙な時期なんだろ?」
「いや、危険な時期は過ぎて、あとは出てくるのを待つだけ。それにおれが傍にいればあいつは安心するんだよ」
「おお、そんなもんかね。そうなんだろうなぁ。おれにも誰か紹介してくれないかな。そういう相手がいればつまらん仕事もまた楽しからずや、だろうし」
「つまらん仕事のために乾杯といくか」
 その夜一平は来栖と新宿の居酒屋を三軒はしごして、タクシ−で戻ってきた。披露宴で逢った雅子の一番下の妹美子に来栖が強い関心を抱いていることを一平ははじめて知った。そのときには気付きもしなかったが、紹介してくれと言ったのは冗談や一般論の類ではなかったのだ。美子には同じ大学生の恋人がいた。両親姉妹ともに公認の仲で、披露宴にはふたり揃って出てくれたのだった。いずれ結婚という道筋が了解されている。友人代表の挨拶を頼んだ折りにそのことにも触れた記憶がある。知っていると思っていただけに意外だった。
 アパ−ト前の谷間に到着したのは午前一時頃だった。夜半を過ぎたというのに、家主の家の前が慌ただしかった。街灯の下で赫い光りを頭の上に受けて三人の学生風の若者がナイトキャップをつけた夫人を取り囲んでいる。思わず一平は雅子がいるはずのクリ−ム色のドアを見上げた。ドアの横手の流しの窓からはうすぼんやりとした光りが滲み出ていた。静謐な感じがした。真っ先に部屋に行くかどうか一瞬迷ったが、雅子はこの真夜中の小さな騒ぎを知らずに自分の帰りを待ちつつ微睡んでいると思うとその安穏を破る気にならず、夫人を取り囲む輪へと近づいていった。夫人は眼鏡の奥の目を細め、赫い光りの先の一層の闇を透かすようにして一平を見た。
「いいところへ帰ってきてくれたわ。友達が怪我をしたと言うんだけど、この子たちのアパ−トに行って見てきてくれない? あなたはこういうことに慣れているでしょ。わたしはこんな恰好だし、それに血を見るのがちょっと怖いの」
 夫人がガウンを少しはだけて下の花柄のネグリジェらしきものを見せた。それを合図のようにして、三人の男がそれぞれ一拍遅れで一平に頭を下げた。気の弱そうな、育ちの良い若者たちにみえた。繊維卸商社のたたき上げ社長のひとり息子だという美子の恋人宮崎にも共通するものを感じた。一平のまわりにいた者たちは来栖もふくめてもっと野趣に富んでいて、それこそ何をしでかすかわからなかった。そこに神秘的な魅力もあったのである。
 家主の家の向かいの窪地にある彼らのアパートは、旅館のような広い玄関から黒光りする廊下と階段が奥の闇に向かってのびていた。最初に建てられたということだったが、社員寮を思わせる佇いだ。案内されるままに二階に上った。
 怪我をした男は布団を抱きかかえるようにしてうんうん唸っていた。額には汗の粒が光っている。一平は布団をそっとはがして、
「どこが痛いんだ?」
 と訊いた。男は左脇腹のあたりを右手で指さしてみせた。一平がそこを押すと椋鳥のような濁った叫び声を挙げた。肋骨が一本肉を突き破らんばかりに腫れ上がっていた。棒切れを掴むように肉の上から先端が摘めそうだった。
「よく我慢してるなぁ。病院に行くしかないよ」
「自然に治るなんてことはないですかね」
 四人の中ではなんとなく貫禄もあり、ごつごつしい顔つきで多少野蛮な感じのする髪の長い男が額に垂れた髪を両手でかきあげながら言った。
「そのままにしておいたらいつしか肋骨が一本増えていたボート部の男を知っているけど、そんな奇跡は強靭な肉体がないとまず無理だろうな」
 怪我をした男を雅子の通う産院のとなりにあった夜間救急病院まで運んだ。保険証や入院に備えて着替えを用意させ、窓口で「酔っぱらって階段から転げ落ちたんです、酔いの醒めるのを待っていて遅くなった」と診ればすぐにばれる嘘まで喋ってやった。なぜ自分がこんなに肩入れするのか、ちょっと訝しい感じが残った。学生らに媚びを売るような、また数年前の過去の亡霊にエールを送るような気分でもあった。怪我をした男は見かけのわりには入院するほどのことはないと診断され、包帯で胸をぐるぐる巻きにされたミイラみたいな恰好で病院を追い出された。家主夫人が期待したような「記者的処理」は彼らを喜ばせた。口々に、くどいぐらい礼を言った。帰り道でなかのひとり、鳩のような眼をした学生が「どうしたのか、と聞かないんですね」とおずおずと言った。「どうせ、喧嘩だろう」一平は、必要なのは事実だけ、因縁話は聞きたくもないと心の中で呟きつつ、来栖の数々の武勇を思い出していた。彼は無敵の一匹狼だった。セクト間の争いが常態化し、大方が眉を顰めて遠巻きに眺めるしかなかったとき彼だけは目撃すれば必ず仲裁に割って入った。いや仲裁などという悠長なものではなかった。双方に喧嘩を売りつけるように「てめぇら、人の命をなんだと思っていやがるんだ」と怒鳴りつけた。それでいて相手が向かってくればどちらの陣営であろうと容赦なく叩きのめすのだった。熊本生まれの、剣道三段の腕前は無駄には使われなかった。急所ははずしている、と本人の口から弁解のように何回聞いたか知れない。来栖のおかげで命の助かった奴が何人かいたはずだ。「正常化」を唱え、学内の要所要所を見回る体育会の連中も来栖には一目置いていた。そんな来栖もある日を境に一切の関わりを断った。互いの下宿のなかをまるで時間の流れない繭の中でもあるかのようにほとんど外に出なくなっていた。

 ドアの前の通路に二つ並べて置いたプラスチックの容器からコスモスが何本か細長い茎を伸ばし、葉の先々に水に溶け出したようなピンク色のつぼみをつけはじめていた。引っ越してすぐの頃花の種の袋が郵便ポストに投げ込まれていた。「あなたの家庭ではどんな花を咲かせますか?」という広告シールを見て「粋な電器屋さんだね」と雅子は無邪気に嬉しがり、早速容器と土を買って蒔いておいたものだった。根元には下の地面からはるばる遠征してきた蟻が蝟集している。花が咲くのをいまやおそしと待ちかまえているように見えた。気の早い何匹かは茎の途中まで這い上ってきている。土が浅いために花が開く前に折れるおそれがあったが、同じ理由で副え木はできなかった。気になりながら一方で、折れるなら仕方あるまいと一平は思っている。野原に咲き誇るコスモスならば雨に打たれ、強風に煽られても悠然と立っている。あの種も土に直に蒔くべきだったのかも知れない。が、雅子は毎朝大きな腹を抱えて、不自由な姿勢で水をやり、「こどもとどっちが早いかしら」と花が開く日を楽しみにしていた。蟻も雅子も同じ心情でコスモスに向かっている。一平は茎が折れないことを雅子のために祈った。
 日曜日の昼過ぎに、髪の長い男と顔の白い男の二人がやってきた。指名手配書を差し出しながら、顔の白い男がさも大発見のように「この男ですよ、まちがいない」と言うのには唖然とさせられた。手配書の男は、目がたしかにつり上がっていた。えらが張り、頬骨が異様に高く突き出て、その先端に大きなほくろがあった。「違うんじゃないか」と言いながら、そもそも一瞬すれ違っただけのとなりの男の顔が一平には思い出せないのだった。紗をかけたように鈍く光っていた眼なら記憶に残っていると思いながら改めてその顔を眺めていったが意図的に修正を施したかと邪推したくなるほど見るからに凶暴なものに仕上がっていた。キツネ眼ではあったが光るような哀しげな眼ではなかった。それにもっとハンサムだったような気がした。
 真夜中に交番前の案内板からひきはがしてきたという手配書を振って「選挙のポスターと同じでこれをはがすことも罪になるぞ」と一平は学生らを脅しつけた。「電信柱の陰から近所の人間を伺うヒマがあったら、しっかり勉強でもしろよな」どうして否定か肯定がすっぱりとできないのだろうかと記憶の不確かさを危ぶみながらそう言うと「そんなんじゃないですよ。友達の命の恩人だから、気を付けてほしかったんですよ」と髪の長い男が上体をいっそう反らせて答えた。「気持ちだけでいいよ」余計なお節介と追い返されると思ったのかまだ何か言いたげだったが手配書を投げ捨てるように置いて去っていったのである。
 雅子の手から四つの角が折れたその手配書を奪いとって美子が、
「へえぇ、こんな人がとなりにいるの? なんかわくわくするじゃない?」
 と大きな声をあげた。すかさず雅子は、
「静かにして。壁が薄いんだからよく聞こえるのよ。それに同一人物と決まったわけじゃないし」
 とたしなめた。美子は動じる風もなく、
「お義兄さんに似てるんじゃない? ほら、ここのところ」
 頬のあたりを人差し指で押さえた。
「よせよ。冗談にもならないよ」
 写真の下にはこの男についてのカルテが漢字を多用して簡潔に書かれている。「神崎三郎。横浜国立大中退。頬骨の上に大きな黒子あり。山や川の字の偽名を好んで使う。ツリー爆弾事件の首謀者。板橋区内のアパートで爆弾を誤爆させたあと都内各所を転々としている模様。」もっともこれは、薬の能書きと同じで読まれることを期待されていない。手配書の効用はすべて顔にあり、その顔も肖像画の基本と同じで特徴を一ヵ所だけ誇張しておけばよかった。一ヵ所似た奴ならこの世の中には五万といる。情報は多いほどいいという考えで衆目に晒される。学生らの反応はそういう意味では、当局のねらい通り、まっとうなものだったといえる。
 三人の間を手配書は何回かたらい回しされた。そうこうするうちに来栖がやってきた。
 一平から手配書を受け取ると眼の前にかざして些細に眺めまわした。
「そうだなぁ。違うような気がするけど、似てるようでもある。夕方だったからなぁ」
「おれと同じだな。シロクロの判断つけがたし、か」
「いまいるかな? いるなら首実験ができる。いちばん確実だ」
 気の短い来栖は立ち上がって外に出る気配さえ見せた。
「いいよ。今日はそんなことが目的じゃないんだから」
「あら、じゃあなんなのよ、急に呼び出して」
 わざとのように美子は口を尖らせる。
「うん、それは、麻雀だよ」
 一平は口ごもって答えた。
「わたしはお見合いだと思ったわ」
 勘のいい美子が先制パンチを浴びせかけた。来栖も、初耳だというように苦笑している。美子に恋心を持つわりには落ち着き払って、挨拶抜きで旧知の間柄のように話を交わしていた。あのとき来栖は、酔いに加速されたとはいえ一度逢っただけの美子のことを「おれにとっても妹のように思えるよ。それこそ傍にいてやりたいと、男心をくすぐるよな」と率直な物言いで思いの丈を語ったのである。連載記事を頼んでいた沼沢の下で働く雅子にはじめて逢ったとき一平もなつかしい人に再び巡り合ったようなやすらぎを覚えたものだった。それと似ているのかも知れない。隙を見計らって、気を利かせるつもりでフィアンセの大学生のことを一平は訊いた。関西の出身で、マザコン男に通じるひ弱さを持つ男だった。数日前雅子に呼び出しの電話を頼んだときにも、ふたりで来るならそれでいいと思っていた。そういう意味ではお見合いをもくろんだとは言えなかった。あえて言えば披露宴の借りを返す、ということだった。だから、これだけは美子本人に語らせて、目の前の来栖にとりあえずの引導を渡しておきたかった。
「宮崎君はどうした? 一緒に来るかと思ったけど」
「お義兄さん知らなかったの? とっくに別れたわよ」
「あら、わたしも知らなかったわ」
「えっ、言ってなかったっけ? みっちゃんからも聞いてない? じぁあ、これぞホンモノの爆弾だ。しまった」
 美子は悪びれた風もなく舌を出した。美子はその名の通り三人姉妹の中ではいちばんの美人だったが、雅子とも倫子とも違ってわがままなところがあった。こうと思い決めたらまっすぐ進む情熱家の一面を持っている。雅子は、「熱しやすく冷めやすい面は確かにあるけど、心根はいちばん優しい」と言うのだった。
「困った子ね。ちゃんと話し合ったの? でもいいわ。あとでゆっくり聞くから」
 長姉の雅子は来栖の手前をはばかって偶然飛び込んできたこの緊急の話題を変えたがった。
「そうね、来栖さんは聞きたくもないでしょう?」
「いや、なんでも知っておきたいよ」
 来栖はまじめな顔で言った。それを茶化すのかと思っていたら、美子は顔を赤くして俯いてしまった。そのとき誰かの腹が大きな音を立てて鳴った。他の三人が一平の顔を同時に見た。おいおいそれはないだろ、と首をふり立てながらやがて、自分の躯から出た音かも知れないと思い始めていた。
 近くの寿司屋で食事をして戻ってきたのは午後七時頃だった。隣の部屋は真っ暗で口には出さなかったが四人ともほっとした気分で部屋に入った。
「奥さんはあんまり無理ができないでしょ?」
「いいわよ。かえって気晴らしになるもの」
 時間の経つのは早かった。もう一回、もう一回と牌を揃えているうちに十二時近くになっていた。
 来栖はいつになく上機嫌で、始める前に雅子の躯を気遣ったとは思えないほど麻雀に熱中してなかなか止めたがらない。美子は翌日は朝早くからアルバイトが入っていると言った。夜のうちに石神井の下宿に戻りたがった。すかさず「タクシーで送って行きますよ。どうせ途中だから」とみんなを安心させる。その来栖も、一平ももちろん仕事があったが、たとえ一睡もしなくとも、一日ぐらいならなんとでもなる。久しぶりに学生に戻ったような気がした。このまま徹夜でも、雑魚寝でもして朝を迎えるのもいいじゃないかと思っていた。
「あと半チャンだけにしましょ」
 雅子が眠そうな眼をしばたたいて言った。いちばんつらいのは予定日を一ヵ月後に控えた身重の雅子だった。かといって先に寝てしまうわけにはいかない。勝ち負けは二の次のように自分の牌だけを見ていた。仕事がらみで鍛えられているのか来栖は強かった。美子のオーラを受けてカンが冴えていたというべきかも知れない。ほとんどひとり勝ちだった。美子は完璧さと美しさとを求めるあまり、もう一歩のところで来栖やごくたまに一平に勝ちをさらわれる。悔しそうに大声で嘆いてみせるが、本当はそれほどでもなく、崩すのを惜しむように、終わるごとに横の来栖に自分の揃えた未完成の牌を説明した。四暗刻も大三元も幻となって消えていく。「パラノイアだなぁ」と言われながらも親身に聞いてくれる人がいて、思う存分いわば夢を話せることが楽しいようだった。来栖から勝つためのアドバイスを毎回されるが、次の勝負で活かされる試しはなかった。
「似合ってるね」
 肩を触れあわんばかりにして講評しあう二人を見て雅子が言った。
「別れたばかりだなんて言わなきゃよかった。お義兄さんが言わせたんだぞ。惚れてもらえないじゃないか」
 来栖はこのときもただ静かに笑うだけだった。こいつも数年で変わったんだと唐突に一平は思った。それが悪いことだなんて誰にも言えないのだった。
 そんな四人のささやかな遊びに水を差すものがあった。二度までも、ドアが強く蹴りあげられて、怒鳴り声がしたのだった。一度目は牌をかき回す音に消されてよく聞こえなかった。二度目は、足蹴にされたドアの振動ではっきりと意味はとれなかったが、深夜の麻雀を非難する音であり声であるとわかった。「他人の生活をなんだと思ってやがるんだ」そう言ったかどうかわからないが、四人ともがそう翻訳した。抑揚のないテノールで、ドアの振動ほどには声自体に凄みはなかった。粛然として互いに顔を見合わせた。
「うるさかったのね」
「なにも足で蹴ることはないじゃないか」
「となりの手配書の人?」
 美子が誰にともなく訊いた。因果関係から言えば、隣人以外に考えられなかった。この間の意趣返しかとも思った。
「いよいよ本物の首実験ができるぞ」
 来栖が立ち上がった。一平も続いた。
「喧嘩はしないでね」
 雅子が背後から哀願する。
「昔とった杵づかだ」
 来栖は両手の指を組み合わせてぼきぼきと音をさせた。「わたしも行く」と美子が来栖の腕につかまってついてきた。
 来栖は乱暴とも思える勢いでドアを押した。ところが、目の前の鋼鉄製の通路には、西に傾いた上弦の月の街灯よりも明るい光りに照らされたコスモスの弱々しげな茎がゆらゆらと揺れているだけだった。人の気配はどこにもなかった。ドアが蹴りあげられてから一分も経っていない。誰の仕業だと一平は空を睨んで考えた。四人ともが耳にしているのだから幻聴なんかでは有り得なかった。が、あるいはそうかも知れないと数秒の間にも自信が揺らいだ。湿った夜の空気に乗って遠くの物音がごく近くに聞こえる現象をなんと言っただろうかと埒のないことを考えていた。来栖には別の考えがあって、スリッパを履いて外に出ると、となりのピンクのドアの前に立った。息のあったコンビのように来栖の大きな背中には美子が張り付いている。来栖が仕返しのつもりでドアに向けて右足を上げかけたとき、
「ちょっと待て。もし別人の仕業だったとしたら、あとあと面倒だ。雅子は一日中部屋にいることだし」
 一平はかつて来栖が懸念したようなことを言って制した。
「それもそうだな」
 ピンクのドアの向こうは真っ暗で人がいるとは思えなかった。美子は狐に抓まれたような顔でうすく口を開けていた。部屋に戻る前にプランターのなかのコスモスの群れに目を留め、
「もうすぐ咲くね。よかったね、おねえちゃん」
 と三和土に立って成り行きを見守っていた雅子に言った。

 実在の人間でありながら、存在しないも同然の隣人は一平たちを日常の淵まで連れて行くように思えた。都会の日常は魔に取り囲まれている。お天道様があるうちは祈りもおまじないも効き目がない。そのせいかどうかわからないが、漆黒の闇がある田舎と違って、都会では昼日中から魔が出没する。
 部屋の中には一枚の手配書が残っていた。捨てることも何となくためらわれて、出勤前に、モディリアーニの「ハンカ・ズボロフスカ夫人の肖像」の横にでも貼っておくか、と言うと雅子は、
「やめて。お昼のさ中に魘されたりしたらいやだから」
 と気色悪そうに眉をしかめた。一平にしても本気ではなかったが、言ってしまったあとでそうするのも一つの手だなぁと思い直した。
「魔よけだよ」
「その人がとなりの人だと思わなければいいということ? でも一度疑った以上、もうだめかもしれない。あなたは会ったことがあるんでしょ。どうだったの?」
「確信が持てないんだ。自分でも腑甲斐ないけどね」
「一日中部屋にいるのにどうして会わないのかなぁ」
「天の配剤だ。雅子には会わせたくないということだよ。こどもが生まれるまで、やっぱり魔よけはいるぞ」
 手配書が魔よけになるという考えは何かの予兆のように、ずっと一平の脳裏を去らなかった。まわりのことごとくが見方を変えれば魔になり得るわけだった。日常の人間を、あるときは謂われもなく縛りつけたり、またあるときは自由に解き放ったりするという意味でもそれはれっきとした魔なのだった。しかし一方で、不用意に発した言葉にじわじわと締めつけられていくような不安感も覚えた。魔よけなどと言えば自身を弱い、他の者に守られるべき日常そのものに擬らえることになる。被害の感覚がまとわりつく。いったいよけなければならない魔とは何なのか。魔が日常ならざるものならば、魔にも五分の理があるのではないか。魔と呼ばれる筋合いはないとか、魔がなぜ悪いのかという反論の声が聞こえてくる。魔は天空に向けてひとり立ち竦んでいる。誰にも手出しはしない代わりに誰からも干渉されたくない。時を刻むふりこ時計のように、独立不覇の気概で屹立している。そんな孤絶を支えるものは志の高さ以外にはなかった。たった数年前そんな魔のひとつになることもできた一平にはまだ孤絶の中身がわかった。魔と同一化するための条件は類縁を減らすことはあっても増やしてはいけないということだった。一平は雅子と出逢ったときに内なる魔に別れを告げようと思った。魔と引き換えに雅子を選んだ。二人の間のこどもはその証文あるいは踏み絵を踏むことに似ている。暴れ者の来栖がおとなしくなって繭に閉じ込もったときもこんな風だったに違いない。いままた美子に恋をするのも、もう二度とそんな絶壁に立てない道、つまり魔との縁切りを行う仕業に等しい。魔の側からせせら笑われたり、攻撃されたりしても文句は言えない立場に自ら立つのだった。
 銭湯で一緒になった裸の学生らは、ここにも貼ってありましたよ、と手柄顔で言った。もういいよといったん手を振ってはみたものの先に洗い場から出て着替えているときにやはり見ずにはいられなくなった。さっきうんざり顔で手を振ったのは気管につかえた異物をなんとかして吐き戻したい、あるいは飲み干したいという気持ちの裏返しだった。そこは脱衣場の隅の、入り口の番台から対角線上にもっとも遠く離れたところだった。季節が変わって出番のなくなったとてつもなく大きい扇風機と昔学校の保健室でお目にかかった旧型のロボットのような体重計がそばにあった。大判の指名手配書には六人の顔写真が上下二列に並べられていた。どれが部屋に残っている手配書にあった顔かは下の能書きを読んではじめてわかった。他の五人は殺人、強盗、婦女暴行などの凶暴犯で、その男「神崎三郎」ひとりが確信犯だった。よくよく見れば等比形に写真が縮小されているだけで使用されている写真は同じものだった。顔の印象も他の五人のものと変わらない。ゆげでくもったガラス戸を開けて学生らがぞろぞろと出てきた。顔の白い男がめざとく一平を見つけて、股間に濡れたタオルを押し当てて一物を隠しながら近寄ってきた。
「その後会いましたか」
 一平は「いや」と答えた。しばらく間をおいて「他人の空似ということも結構あるからな」と隣人をかばうように付け足した。学生はもっとなにか言いたそうだったがそれを遮るように、
「いつもつるんでるな。怪我はどうだ?」
「あいつだけ置いてきたんですよ。まだ痛むそうですよ」
「病院にはまじめに通っているんだろうな」
「と思いますけど。あいつもこの写真を見て、ぶるぶる震えたんですよ。訳を聞くと、喧嘩した相手に似ている、と。意気がってかかって行こうとしたけど、背筋がぞくぞくとして足が竦んでしまったそうです。電光石火、ほとんど一方的にやられた、それでいて憎しみが湧かない、と嘆いていますよ。この眼のせいだと言ってますけど。兄ぃも気を付けて下さいよ」
「兄ぃ、か。悪くないね」
「何かあったら四人で助っ人にかけつけますからね」
「気持ちだけでいいよ。おれも女房も平和主義者だよ。血を見るのは好きじゃない」
 下着を身につけ終わった他の二人も一平のそばに来た。三人に囲まれて「おまえらとは別の思いでこの顔写真とおれは対峙しているんだぞ」という文句が喉元までこみ上げてきた。そのとき「いっぺい、出るよぉ」衝立代わりの鏡の奥から聞き慣れた声がした。条件反射のように「おお」と声を張り上げた。髪の長い男が「ひゅうひゅう」と唇から風のような音を出して上気した肌がむきだしになっている肩を二度、三度と軽くつついてきた。
 その瞬間はきょとんとしていた顔の白い男と、もうひとりの鳩の目を持つ男は間をおいてやっとわかったというように頓狂な顔を見合わせた。遅ればせに手を叩いて囃し立てさえした。

 いっんたアパートに立ち寄り、クリーム色のドアの前に銭湯帰りの二人の持ち物を置いた。中には入らず階段を駈け降り、下で待つ雅子を促した。
「どういう風の吹き回しかしら。珍しいわね」
「そうでもないさ。田舎じゃ鎮守の杜に抱かれて生活していたようなもんだからな。田舎の人間はみんな風呂上がりのさっぱりした躯でお宮さんに詣るんだ」
 雅子は一平の腕に掴まった。ずしりとした重みが躯全体を地面に吸いつけるようだった。六道の辻で信号に引っかかった。
「ここでいつも念仏を唱えるんでしょ?」
「ああ」
「やってみせて」
「だめだ。ひとりの時じゃないと、有難みがない。それに、向こうから帰ってくるときだけだよ」
 六道の辻を越えて、細いわき道を歩いた。月の明かりだけがたよりの農道だった。両わきはさつまいも畑から、区民への貸し農園に変わっていた。道よりも高く盛り上がった畑は灰白色の麻のロープで矩形に整然と区切られている。六道の辻からはじめての民家が右手に現れるとすぐにアスファルトで舗装された道路に突き当たった。右折して蛇行の多い坂道を道なりに下って行った。豪壮な造りの家が道沿いにまばらに立ち並び、どの家も樹齢二、三百年の欅や椚や樟の屋敷林の中に埋もれている。傾斜は徐々にきつくなっていった。つま先に必要以上の力がかかり雅子の重しがなければ加速度がつきすぎてたたらを踏むようによろけ、あげくの果てに倒れ込んでしまいそうだった。
「大丈夫か」
 一平は腕にすがりつく雅子に声を掛けた。
「ゆっくり行こ」
 雅子は消え入りそうな声で哀願した。実際雅子の言葉は大半が樹霊に吸い込まれ、一平の耳に届いたのはそのおこぼれにすぎなかったのかも知れない。
 思ったよりも時間がかかったが、十数分後に小高い丘を背にした溜池公園に辿り着いた。坂道の果て、谷底に雨水がたまったとしか思えない池だった。そのまわりを取り囲んだ桜並木の合間を縫うようにコンクリートのベンチがいくつか置かれていた。昼間は散歩する老人や親子連れや釣り客で賑わうのだろう。いま、池の水は古さびた銅鏡のように月やまわりの木々のかげを茫々と映し出している。水面は微動だにしない。雅子をこんなところに連れ出して何をしようとしているのか、最初は確かにあった意図が消されて行くようだった。雅子と出逢ってから一度としてまともな喧嘩をしたことがなかった。小さないさかいもない。そんなこともかえって不安を煽る。雅子には相手の攻撃の矛先を鈍らせる徳目が生まれながらに備わっている。折り合って如才なく躱すなどというのではなかった。策を弄さず真正面から立ち向かってくるだけだった。人が人ならばおよそ心の通じ合わないはずがないという信念に裏打ちされている。人に向かう態度としてあまりにも真摯すぎ、それゆえにあぶなっかしい。
 雑木林の中の踏みつけられて草も生えなくなった小道を登って丘のてっぺんに至った。とっかかりに建てられた鳥居をくぐると、一度に視界が拓け、やっとトンネルを抜け出たような解放感を覚えた。腕に縋る雅子も同じ思いだった。息を切らしながら「わたしたちを守ってくれそうだね。でも夜には向いてないわ。お正月には三人で初詣でに来られるね」と好ましげに印象を話した。普通ならあるはずの鬱蒼とした杜がなかった。神殿の背後からおおいかぶさるように杉と桧が五、六本そびえ立っているだけだった。手前の境内も、手水鉢は置かれていたがちびっこのわんぱく広場と言っても通用するぐらい開けっぴろげである。ここが赤塚の地霊が棲むという諏訪社だった。
「何を祈ったの」
 鎧戸の閉まった神殿に向かって柏手を打ち終わると無邪気に雅子は訊いてきた。そのままおうむ返しに聞き返してもよかったが一平は、
「懺悔だよ。昔の悪事の罰が当たりませんように。どうしても罰したければ、おれひとりだけにしてくれ、と」
 この幽玄な夜にほんとうの思いが不意に口を衝いて出る。もうそれはずいぶん昔のことに思えた。これ以上尽くせないほど尽くしてくれた女の躯から、無理矢理重しを取り除き、そのまま置き去りにしてきた。魔と結託するつもりならそのまま一緒にいるべき女だった。雅子に告白するならいまだと思った。いや雅子は薄っぺらな一平の過去などとうに知っているというように中天にさしかかった月をあおぐと、頭を勢いよく振り払った。
「そんなこと、信じないわ」
 左手で迫り上がった腹を押さえ、右手をまた再び一平の腕に回してきた。
 境内のはずれの、崖との境に張り巡らされた金網に近づいて行った。雅子を力を込めて引きずっているような気がした。金網まであと数歩というところで夜目に輝くモノに射すくめられて立ち止まった。金網を背にしてうずくまっていたのは犬のような大きさの野良猫だった。二人が近づいてくるのがわかっていながらぴくりとも動かない。光る目でじっと見据える。ふたりとも金縛りにあったようにしばらく足が地面から離れなかった。
 来た道を逆に辿り、六道の辻でもこんどは信号に引っかかることもなくアパートに戻った。帰りは倍以上早かったような気がした。階段の登り口にさしかかると雅子は錆の浮いた手すりに掛けるために一平の腕から手を離した。
「引き回したみたいで悪かったな。あったかいものを飲んで寝よう」
 鍵をさんこんで回しながら、不吉な予感がした。足元を見ると、ドアの前に置いたはずの風呂帰りの持ち物が消えている。雅子だけ先に部屋の中へ入れ、一平はまた下に降りた。階段の真下に、隠されるという風でもなく風呂桶やバスタオルや着替えた衣類などが散らかっていた。砂だらけになったそれらを拾い集めて腕にくるむと、今度こそは守り抜かねばならない、と一平は身震いした。

 今日の仕事はおしまいと思い決め一ヵ月前に玄関に爆弾が仕掛けられて大惨事を引き起こした三菱重工ビルの前を通って有楽町に出た。ビルの前でも、モディリアーニの「ハンカ・ズボロフスカ夫人の肖像」が落ちて一平の身の危険を雅子が察知したようには、何の前触れも感じなかった。
「気狂いピエロ」の看板につられてガードの先にある名画座にふらりとはいった。裏切られた恋人とその情夫を射殺したあと顔面に原色のペンキを塗りたくった主人公は顔にぐるぐる巻きにしたダイナマイトとともに砕け散った。爆死の直前に「これが、死かよ」と呟くのだった。残像のように最後の炎上シーンを躯に刻みつけたまま小さなビルの二階にあるその名画座を出た時すでに五時を回っていた。会社に直接帰宅する旨の電話をいれると社長の姪で経理部長の肩書きのある鈴木さんが「今週は休刊なのにいままで何をやっていたのよ。奥さんがたいへんよ。すぐに病院に来てくれって、妹さんから何回も電話があったわよ」と叱るような調子で言ったのだった。
 六時過ぎに病院の玄関に立つとたまたまかあるいはそうやってずっと待っていたのか灯りが落ちて誰も人がいなくなった待合室から美子が駆け寄ってきた。
「遅いぞ。何回も電話したのに、全然つかまらないんだから」
「悪い。今日にかぎって、会社によらずまっすぐ帰ることになったもんだから」
 映画を観ていたとはさすがに言えなかった。
「びっくりしたでしょ? でもたいしたことなかったのよ。わたしのおかげで」
 美子が住んでいるのは、同じ池袋から互いに三十度ほど離れた方角を郊外にむかって走っている私鉄の十何番目かの駅だった。直線距離にすれば十キロ未満の距離だったが心理的にはもっと遠いという印象が強かった。勤め先も家も同じ沿線にある倫子でなくてなぜ美子なのかに一平はまず不吉なものを感じた。
「生まれたわけじゃないんだね」
「おねえちゃんの顔を見ればわかるよ」
 美子は腕をとって雅子のいる二階の病室へ一平を案内した。そこには倫子もいた。一平を見るなり雅子は、
「となりで電話借りちゃった」
 と案外張りのある声で、子供が母親にいたずらを告白するように言った。雅子からの電話を受けて咄嗟に二トントラックを自由にできる友人を思いついたのは美子の手柄だと倫子が一平に聞かせるように下の妹を持ち上げた。倫子は長姉の一大事に、仕事帰りに駆けつけ、少し前に到着したばかりだった。
 雅子の容体はその表情通り何の心配もないものになっていた。予定日まであと二週間足らずだったから、出るなら出てこいということだった。が、二、三日ここにとどまって様子を見てそのうえでいったん退院しこんどはほんものの陣痛を待つというのが担当の女医の判断だった。倫子と美子がこもごもに話してくれたことで、おいてけ堀を食って、最初はなにがなんだかわからなかった一平もいまここに雅子がいる理由が解けてきた。と同時に魔よけの手配書も諏訪社もなんの役にも立たないじゃないかと毒づかざるをえなかった。
 昼前に、雅子は駅前のスーパーまで買い物に出かけ大量の荷物を抱えたまま坂を上って帰ってきた。部屋に辿りつくと同時に胸が悪くなり、何度も吐きそうになった。胃からは何も出てこないが、度を越した悪阻のような症状は続いた。そのうち、気がかりな下腹の痛みとともにほんのわずかだが出血を見るようになり、いよいよ不安も大きくなった。這うように鋼鉄製の通路に出て下の妊婦仲間の金井を大声で呼んだ。返事がない。留守だと観念してからいよいよ進退がきわまり思いあまって隣の部屋をノックした。寝起き顔の隣人が出てきた。隣人はコードをいっぱいに伸ばして電話機を玄関の靴箱の上に置いた。終始無言だった。雅子はいちばん時間の余裕のありそうな美子に「とにかく助けに来て」と電話をかけた。奥の間で雅子のか細い、途切れがちの声を聞いていたにちがいない隣人は、ひきこもったきり一度も雅子の前に顔を出さなかった。雅子も挨拶をしたかどうかもわからないほど心臓がふるえて、逃げるように部屋に戻った。それは一平が三菱重工ビルの前を歩いていた時刻と重なっている。部屋に戻ってからは息をひそめて美子の到着を待った。依然胸がドキドキした。三十分ほど後に二トントラックを駆って美子はやってきた。
「裏道を、飛ばさせたわよ」
「あの人にもお礼言えなかったわ。よろしく言っといてね」
「誰なの? 新しい恋人?」
 倫子が横合いから興味津々の体で訊いた。来栖とのことは、倫子はまだ知らないはずだった。
「そんなんじゃないわ。わたしのファンのひとりよ」
「危機一髪と言うところか」
「でもなかったみたいよ。松井先生には怒られたけどね。あれほど重い物を持たないでと言ったのに、って」
「オレはてっきり壁が吹き飛んだのかと思ったよ」
 一平にも冗談口を叩く余裕が出ていた。
 鈴木さんとの電話中に、咄嗟に輪郭すらはっきりしない隣人を思い浮かべたのは正解でないこともなかったが、電話を貸してもらったわけだから冗談口に込めた想像とはずいぶん違っていた。むしろ感謝しなければならないくらいだった。
 男の一平のすることは何もなかった。二、三日とはいえ入院生活に必要な物は美子が用意してくれていた。枕元には牛乳瓶にフリージァが数本挿してあった。せめて消灯時間ぎりぎりまでそばにいてやろうと思った。いやできるならベッドの下で一晩でも二晩でも一緒に過ごしたいぐらいだった。虫の知らせを感じなかったことへの罪滅ぼしのような気持ちだった。三日前の夜に、風呂上がりの、肌に抵抗のなくなった躯をおして、おまけに坂道を登ったり降りたりして、諏訪社へ行ったことも今度の原因かも知れない。あるいは、かつて流させた女の怨みが、雅子の躯をかりて復讐をたくらんだのかとも思えた。
 六時半に食事が運ばれてきた。
「わたしが食べるの?」
 倫子が看護婦から受け取ったアルミの盆を眼の前に置くと雅子は不満そうな声をあげた。
「ぴんぴんしてるのに」
「観念しなさい。自分が無茶したからこうなったんだからね」
 美子も六つ年上の姉に諭すように言った。雅子はいやいや口に運んだが、どこか嬉しげだった。長い間一平とふたりっきりでこどものためこどものためとお経を憶持するように生活してきたのがいま実の妹たちと頼りにしてきた夫の三人に見守られている。ささやかな世間にふたたび向き合うような昂揚感があり、得意な時間でないはずはなかった。美子はよく気がついて膳をかたづけたあと「何か欲しいものがあったら買って来てあげるよ」と言い、倫子も「ぎりぎりまでいるからね」と雅子を率直な態度でいたわる。
「いいよ。無理しなくても。二人とももう帰っていいわ」
 雅子はそう言ったが本心ではもっといて欲しい風だった。二人の妹にはそれがわかるのか、帰るそぶりも見せなかった。他の入院患者をはばかることなく延々とおしゃべりは続いた。患者といってもすべて妊婦であった。同室の五人も同じようにひと仕事終えたあとの井戸端会議のように明るい笑い声を立てていた。ともあれ、三人姉妹とはこういうものなのかとほとんど男ばかりに囲まれて育った一平は奇妙な安堵とも驚きともつかぬものを覚えていた。
 みんな一度にいなくなるのは雅子も寂しかろうと思ったが、九時すぎに連れだって病室を出た。
「明日の朝寄るから」一平はそう言うことを忘れなかった。すると雅子は「隣の人にお礼言っといて。具合悪い状態で、ちらっと見ただけだから手配書の人かどうかはわからなかったけど、悪い人ではないみたい」と二人の妹に手を振りながら言った。
 駅まで来て、倫子は美子をこの線の奥にある自分の家に泊まるように誘った。美子も池袋で乗り換えてブーメランのように戻る手間を面倒に思ったのか「そうする」と言った。「明日また寄れるしね」そのとき一平は二人の義妹に一直線につながる義弟と来栖のことを同時に思い浮かべたのだった。来栖のことは帰りのタクシーのなかでどんな話をしどの程度心が寄り添ったのか、詮索すること自体が野暮というものだったが、義弟の件は家主夫人から頼まれたままになっていた。
「敷金の話はどうなった?」
「あら、知ってたの。なんか言われた? 書留で二、三日前に返してきたわ。だらだらとうらみ言が書いてあったみたいだけど。わたしは見ていないのよ」
「じゃ一件落着か。おれの出番はないのか」
 一平はぶつぶつと呟くように言った。それを聞き咎めて同い年の倫子は、
「彼も気が済んだみたいだから。ごめんね。運がなくて、ちょっと屈折した人だから」
 と義弟をかばいながら一平に謝った。

 いつもは雅子に起こされ、急かされるように出勤するのだったが、その朝はすべてひとりでしなければならなかった。喫茶店で朝食を摂りそのあと病院に立ち寄る時間も計算にいれて一時間も早く部屋を出ると家主夫人が鋼鉄製の階段をきしませてゆっくりと上ってきた。
「入院したらしいわね。生まれたの?」
 掠れた、まだ半分寝ぼけたような腑抜け声で言った。一平は夫人の表情に感染したようにけだるげに首を振った。
「ゆうべは一睡もできなくてね。こんな時に悪いんだけど、ぜひ聞いて欲しいことがあるのよ」
 至近の距離で向き合った。「なんですかこんな早くに」とあらためて訊いた。
「ここじゃだめ。なかに入って」
 夫人はピンクのドアを横目で睨み据えながら一平の腰を押した。
 敷居のそばに遠慮がちに坐り込んだだけの夫人は化粧っけのない顔を両掌で退屈な猫のように何度もこすった。寝起きのせいか年寄りくさい仕草にも見えた。四十という歳を感じさせなかったあの華やかさは消えている。
 夫人は銀縁眼鏡の奥の眼を尖らせて雅子がいないせいで余計に殺風景になった部屋を眺め回した。奥の間との敷居にある半間ほどの壁にモディリア−ニの複製画がある。その横に手配書を貼っていれば奇異なものとして一番に目につくはずだった。一平は壁に背を向けて坐っていたが、なぜか貼ってなくてよかったと思った。その思いに呼応するように夫人は「ハンカ・ズボロフスカ夫人の肖像」に眼を凝らしていた。振り向かなくても半年間一緒に暮らしてきたその顔なら瞬時に頭の中に描くことができる。細長でやや左にかしいだ顔はどこか悲しげで憂いに満ちている。長すぎる鼻筋とその下のきりっと結んだ小さな唇には哀愁とともに滑稽感を呼び起こされる。現実にこんな人に出逢ったら男はどうすることもできずに立ちすくんでしまうだろう。悲劇であれ、喜劇であれ、完結したひとつの人生を見るようだった。それを見つめる夫人の眼にも自身の姿をその絵に投影しようとするようなねじくれた欲求が感じられた。するといままで掌で隠されてよく見えなかった夫人の左の頬に赤紫色の痣があることに気付いたのだった。そこだけが生きているぞとでもいうように生々しく立ち上がってきた。
「いちばん楽しい時期だね」
「そんなでもないですよ」
 見てはいけない痣は決して見なかったと知ってもらうためにわざとぶっきらぼうに答えた。
「喧嘩もこの歳になると出口をふさがれたみたいで、陰惨になってね。あなたはあんな風になってはだめよ。若い女の子になんかもてるはずがないのに、すぐその気になって、お金ばっかりつぎ込んで」
 一平にも身に覚えのあることだった。逆の理由から赤痣の浮くほどにひとりの女を殴ったことがある。その理由も、もともとは一平の屈折した心に原因があった。
「自分でもうすうす気付いているもんだから真実を指摘されると向きになるんだ。わたしを殴ることで自分を主張してるんだね。養子の身で辛いのかも知れないけど、こっちはたまらないよ。子供が成人するまでは追い出すこともできなくてね」
「……」
「愚痴になってしまったね。若いあなたにこんな話は面白くもないだろうね。吉川さん、なんか変わったことあった? この間の学生らがさかんに似てる似てると触れ回っているみたいだけど。いまどきの学生もつまらんことに興味を持つね」
 立ち上がりざま夫人は前かがみによろけて畳の上に四つんばいになった。近づいて手を貸そうとしたとき「こらっ、くそ婆ぁ。どこへ逃げやがった」外で大きな怒鳴り声がした。麻雀の場で聞いたテノールに似ていた。胴間声に近かった。夫人は息を殺して一平にしがみついてきた。一平も夫人の肩に片手を置いて、
「静かにしてください。ぼくひとりが出てうまく納めてきましょう。奥さんはしばらくここにいてもいいですよ。いや、そうしてください」
 と言った。目の前に乾いていっそう縦じわの目立った唇があった。もの言いたげに薄く開かれていた。ふっと吸い込まれそうになった。魔よけのこの部屋が夫人の駆け込み寺になると思うと悪くない感じだった。
「そうさせてもらうわ。すまないね」
 夫人は畳のうえに上がり込んで、複製画のかかった壁にもたれた。
 ドアを開けた拍子に赤ら顔の家主が振り仰ぐようにして一平を睨み付けた。
「みっともないですよ。痴話喧嘩は家の中でやったほうがいいよ」
 階段を降りて家主の前に立つと居丈高に言った。ところが肝心の相手の眼はとろんとして、あらぬ方を見ている。
「へへぇ、悪いね、朝早くから。どうにも気に食わねぇことを細々と言いやがるんで、ちょっと痛めつけてやったんだ。こっちの方に来るのがわかったんだけどなぁ。消えちまいやがった」
「もう帰ってこないんじゃないの」
「本当に知らない?」
「知る訳ないでしょ」
「階段を踏む音がしたんだけど妙だなぁ。ピンクかな」
 家主はまた二階を仰ぎ見た。ピンクのドアに照準を合わせるのでなく天空をきょろきょろと見回す風だった。自身の目が回るほどのせわしなさだ。相当酔っぱらっていた。足元がふらつき、立っているのもおぼつかなくていまにも地面にへたり込みそうだった。
「家まで運ぼうか」
「年寄り扱いしなさんな」
「酔っぱらいじゃないですか」
 そのとき家主の頭に蓋のとれたピースの缶が命中した。ピンクのドアが一度開いてすぐに閉まった。
「どこかに隠れていやがるな。物を投げるとは卑怯だ。畜生」
「天罰ですよ、天罰」
 と空を指さした。一面の青空だった。隣人のすばやかった離れ業に苦笑した。顔をうかがう暇もなかった。隣人は左手をドアにかけて躯を支え、空いた右手で煙草の空き缶を放ったのだった。右足はくの字に折れ曲がっていた。見事なコントロールだった。

 雅子が入院してから二晩目に、隣人にとっては自分もまた隣人ではないか、とあたりまえのことに一平は気付かされた。遠い過去、遥かな未来が双六のように選択できないのと同じように隣人を選ぶことはできない。それは大事な忘れ物に気付いていながら行けば自分の罪が暴かれるためにそれを取り戻せないようなもどかしさと似通っていた。大事な忘れ物は永遠のよそよそしさで眼前に立ちはだかっている。
 ふらふらと鋼鉄製の通路に出てピンクのドアをノックした。病院の慣れないベッドのうえで腹の中のこどもとともに雅子はすでに眠っている時刻だった。あわただしかった二日間を反芻することもなく、隣人を「悪い人ではない」と見定めて安堵の寝息を立てて眠っている。外の風は冷たいぐらいなのに汗が肌に滲み出してきた。躯の中から無益なエネルギーが放出されていく。押し入れの古新聞の束の中から再び探し出した魔よけの手配書も掌の中で冷たい汗にまみれていた。
「ちょっと待て。いま開けるから」
 ドアの向こうからくぐもった声がした。ノブに右手をかけ、動悸の早まった心臓をなだめ透かすように何度かぐるぐると回しながらせっかちに待った。なかから鍵を解いた気配はなかったが、一、二分後に偶然のようにドアは手前に開いた。
 自分の部屋と同じ構造の板敷きの三和土に立つと畳の上に放り出されている、雅子が借りたという電話機の黒い塊がすぐに眼に飛び込んできた。奥の間から、一往復したらしい隣人が現れた。外界を映し出す濃いサングラスのためにその眼の表情が見えない。隣人は三和土に立った一平を見ると口を薄くあけて驚きの表情を作った。一平でない誰かの訪問を待っていたのかと思えた。あとずさるようにして奥の間の襖を閉めた。その勢いで一平に迫り、自らも三和土に降り、ドアの近くまで一平を押し戻した。
「誰だったかな。なんか用?」
「あなたの隣人ですよ」
 鼻の奥深くに突き刺さってくる乾きを覚えた。遥かかなたで灰色の空と接する見渡すかぎりの砂の丘を何時間も歩き続けてきたような気分だった。手配書を差し出した。
「なんの真似だ」
「神崎三郎、御用だ、なんてね」
 サングラスをとれば隣人は手配書の男とぴたりと重なるような気がした。
 隣人は野球の監督が選手にサインを出すように左右の手を小止みなく動かして肩や胸をTシャツのうえから撫で回している。サングラスのせいで眼の表情までは伺い知れないが、手配書を見て落ち着きをなくしている風ではなく、そうやって自身の肉の感触をたのしんでいると思えた。そんな隣人を目の前にしていると逆に自分が触られているような錯覚に陥った。躯のあちこちがダイナマイトを抱え込んだようにこそばゆくさえあった。
 忘れかけていたあの音が幻聴のように届いた。生木同士をこすりあわせるような、金属がきしるような神経をざらつかせる音だった。慌てて襖を閉めた奥の間に隠されているものは家主の頭に命中したのと同じピ−スの缶の山かと思えた。ピラミッド状に積み上げ、上から順番にひとつずつとり、丁寧に火薬を詰める。キナ臭い匂いに噎せながら世間の誰が吸う空気よりもこちらの方がずっと躯に馴染むとでもいうようにいそいそとした仕草だ。そうやって魔の異物を作りながら隣人は世間への牙を研ぎ続ける。何に使われどんな結果を招来するかわからないモノをひとつまたひとつと職人のような手練で作り上げていく。
「夜中に何を作っているんだ」
「君の知ったことじゃないだろ」
「そうもいかないよ。なにしろ隣人なんだから」
 隣人はさっきからの仕草の総仕上げのように右手の指先を三本束ねて胸に一の字を書いた。
「やっと合点がいったよ。とんだ誤解だな。君は、これがぼくだと言うんだね。入って調べてみろよ。ぼくは確かに何かを作っている。だがそれは君の考えているようなモノじゃない。なんならひとつ進呈してもいいぐらいなモノさ。もっとも、欲しけりゃの話だけどね」
 そのサングラスを取ってくれ! と懇願したかった。
 三人姉妹が久しぶりに病室にそろった様が思い浮かんだ。あれはまるで女たちのお祭りだった。披露宴の時にも感じたのだったが、わけのわからないところで女だけの起承転結のはっきりしたドラマが繰り広げられていた。それにくらべれば男どものすることは、学生らの喧嘩にはじまって、ただ群れるだけが目的の麻雀、業界紙に書き流す原稿、どれもこれも結論の見えない、いわば終わりを知ることのないむなしさに満ちている。隣人の作っているモノがなんであれ似たり寄ったりだ。ドラマにはなり得ない。
 学生が置いていった手配書の写真といま目の前にいる隣人とは二度刷りの版画のように数センチのずれができはじめていた。そのずれは、歳月とともに取り返しのつかない亀裂を生み出す。生きて行くのは簡単なようで難しい。眩暈に似た感慨だった。
「さあ入れよ。そのかわり二度と出られないかも知れないぜ。覚悟はあるんだな」
 隣人の物言いも一平の思いを見透かしたような、非現実的なものになっていた。
「いや、やめておくよ」
 結局なんのために訪ねたのかわからなかった。電話を借りた礼は言わずじまいに終わった。となり同士にいながら二度とこの男とは逢わないだろうという気がした。理由はなかった。来栖の言葉を借りれば、似て非なるものということになるのだろうか。   (了)