日  録 黄色いスイカ 

2011年7月1日(金)

文例「ハンプティ・ダンプティは依然威張りくさっている。」という場合の「くさる」というのが気になって、広辞苑に当たってみた。すると「腐る」の項のFに出ていた。

【(他の動詞の連用形について)人の動作を軽蔑し、にくむ意を表す。(主に関西地方で使う。関東では多く「やがる」)】

そうか、ボクは「くさる」を使うからここでも出自に関係があるということか。「いばりくさってやがる」といえば、関東と関西を股にかけた言い種となるが、強調の強調は結局“負の強調”となって「漫才」で出てくるようなお笑い言葉になってしまうのだろう。

ともあれ、こんな下らない詮索よりも、「腐る」にはさまざまな意味があるのに驚いた。「人の心が救えないほど堕落する」「気分が滅入る」「ばくちで負ける」などが用例とともに出ていた。

それこそ「腐る」ような7月の書き初めとなったが、辞書を引く愉しみ・言葉の不思議として記録しておこう、と思った。


2011年7月4日(月)

先日、倉田良成さんから詩集『金の枝のあいだから』が送られてきた。1994年発行の私家版、装丁は三嶋典東氏である。紙質からデザインまで細部にこだわりを貫き通した作りで、手にすれば心和み、ひもとけば心躍る、そんな本であった。
詩集の17篇目「群芳譜−中川幸夫氏に寄せる」を早速読んだ。

夕暮れどきにたましいはめざめる
みずからのするどさに
つめたく濡れふるえている刃の裸身のように
石をえぐる
それが花だ(二連目、冒頭五行のみ引用)

中川幸夫氏は1918年生まれ(今年93歳)の前衛生け花作家である。その作品に触れて紡ぎ出されたという詩の言葉は、生け花に拮抗するほどの力を秘めている。いまなお、力強い、と思った。

ボクは、学生の頃から「中川幸夫」の名前を知っていた。当時付き合いのあった女性の縁者だったので何度も活躍ぶりを聞かされてきたからだ。ひょんなことからそんな個人的なことを倉田さんに吐露したところ詩集の贈呈に預かってしまったのである。
そればかりか「その女性は、ゆかしいですね」とのコメントまでくれた。
いまは昔、なべてなつかし。そんな心境を言い当てられた気がした。


2011年7月5日(火)

4日間の“一時帰宅”を終え再び富良野に戻る配偶者を志木駅まで送って行った。帰り道は当然ながらひとりになった。混む道を避け、移転した仕事先の周辺(三富新田あたり)をロケハンしているうちに道に迷った。行きつ戻りつを繰り返したが、かつての記憶も少しはもどり深刻な事態にはならなかった。よほど時間がかかったと思ったがそれほどでもなかったのである。

正午過ぎ、気温はすでに30℃を超えていたが、畑仕事に取りかかる。里芋に肥料をあげて根元に土を寄せることと、ジャガイモの残り分を掘ること、である。前者をなんなくこなし、後者も二回目故に上手いもんさ、と自画自賛しながら、うずくまって素手で土を掘っていった。

ひと株に7、8個のイモが付いている。大きいものが多く、去年よりも豊作である。ところが、半分つまり10株ほど掘ったところで突然体力がダウンした。また次だなと呟いて、中断。
2時間と続かなかったことになるが、土にまみれ、汗だくにはなったので、シャワーを浴び、休日の残り時間を気ままに過ごすこととした。体力ダウンの正体は、気力のことでもある、とあとで観念した。


2011年7月7日(木)

雑然とした庭にやっと紫陽花が咲いた。10株近くあるなかのひとつから白い花が4つ。

土との相性がよほど悪いのか、6年来、咲いたり咲かなかったりを繰り返してきた。ひとつ咲けば、それがわが家のニュースになるのであった。今年もやはり“やっと”という感想が出てくるものの、梅雨はまだ明けてはいず、この紫陽花なりの生理で生きていると思えば、特別の感慨も湧いてくる。

紫陽花にとって誤算は、何日も続く、ひと足早い猛暑であろうか。
近くで見ると、花弁に艶々しさはないが、葉の間から屹立している大輪の花は、懸命であるように思える。

剪定した木の枝に埋もれたとなりの木では弱々しげながら紫の花弁が少し覗きはじめていた。これは大発見であった。切り取って水差しに活けた。それが、理に叶うことかどうかはわからないが、発作的な行為だった。




2011年7月9日(土)

まだ午前9時を過ぎたところなのに、少し動いただけで汗がだらだらと流れる。きのうも、ずっと蒸し暑い日だった。

夜10時過ぎた頃に最寄りの駅に着いて、バス停の電光表示板を見ると「あと10分でバスが来ます」との文字が流れていた。歩くに如かず、とすでにベンチに坐っている数人を尻目に、歩き始めた。車を停めた場所まで約2キロ、優に30分はかかる。途中で追い抜かれるにきまっているが、それでも汗だくになって歩いた。

運転席に坐った途端、どどっと一気に汗は流れ出たが、爽快感がなくもなかった、といまは思う。山登りやハイキングの喜びもかくやと想像できた。

それに比べて この朝の汗は、執拗で、重い。体が縄目に掛かったようである。この際、外に出て熱射を浴びるに如かず(またもや!)と畑に降りた。赤く色づいたトマトがいくつかあった。鈴生りのシシトウも、朝食用に少し採った。葉をかき分けて覗くとスイカは早くもサッカーボールほどの大きさになっていた。まだ食べられないとはわかるが、気が逸って、しょうがない。

汗を飼い慣らしたような気分だった。1時間前に家の中から「精が出ますね」と声を掛けた人はもういなかったが、そのSさんも同じ思いだったのかも知れない。


2011年7月10日(日)

夜、ミッドナイトプレスの岡田幸文さんと、このたび二冊の本を同時に刊行された山本かずこさんにお逢いし、直々に著書をいただいた。ひとつは小説『真・将門記』(ミッドナイトプレス)、もう一つはエッセイ集『日日草』(北冬舎)である。

前者は3年ほど前に原稿を読ませてもらった小説で、何回も改稿したあと今回の出版に辿り着いたという。いまとなれば初稿ともなるその原稿をかたわらにおいて読む楽しみもあるが、なによりも主題に寄り添いつつ(衿を正して!)精読しようと思っている。新刊に対してこんな気持ちになるのは久しぶりのことである。

お二人とは何年かぶりの再会のはずだが、一方でいつも身近に“居る”ように思えるのである。 盟友である、またそうでありたいという祈りみたいなものがそんな感想を呼び覚ますのにちがいない。

もうひとつの『日日草』は「高知新聞」に2ヵ月にわたって連載した文章をまとめたもので、『真・将門記』と並べてみれば山本さんの文業がきっと俯瞰できるだろう。すると、二冊同時刊行は、偶然の仕業ではなさそうな気がしてくる。いよいよ、楽しみである。


2011年7月11日(月)

ブースに付けられた車の荷台に向かっていたときにがつんときた。半分しか上がっていなかった扉に額上部、髪の毛の生え際あたりをぶつけた。小走りだったから、時速7、8キロはあったかも知れない。大きな衝撃があった。それが三日前のことで、まわりにいた者たちは心配してくれた。

今日は、外からブースによじ上って倉庫の中に入ろうとしたときであった。
胸くらいの高さがあるからまず右足を床まであげて、懸垂の要領で両手を使って勢いよく体を持ち上げた。そのとき右側頭部がまたもや扉に衝突したのである。

一瞬何が起こったかわからなかった。扉は完全に上がっていたはずなのに、なぜなんだ、と思った。その瞬間扉が勝手に降りてきたか、目測を誤ったか、どちらかだった。もっとも、どちらもちがうような気がした。

「いまのは痛かっただろ! もろだもんな」大型トラックの運転手にうしろから声を掛けられた。一連の不様な出来事は目撃されていたのだった。
三日前に気遣ってくれた若者に「またぶつけたよ」と話すと、「笑い事じゃないですよ。気を付けて下さい」とたしなめられた。

それにしても、「発語に関しての中枢、人間を人間たらしめるのに必要な高次の精神機能の中枢」といわれる前頭葉に続いて、側頭葉である。こちらは、「記憶、聴覚、臭覚、感覚言語の中枢」といわれる。

罰か、警鐘か。これらはあり得る。


2011年7月12日(火)

暑い、が、凝っとしてはいられない。やるべきことは畑仕事。正午をすぎると暑さもピークとなるのでできるだけ早い時間に、と思いつつも、取り掛かったのは10時前。里芋に肥料をやって土寄せをし、残ったジャガイモを全部掘り出し、雑草をむしって、家の中に入ったのは12時前だった。2時間近くぶっ通しで作業をやっていたことになる。

この夜のニュースで、畑作業中に熱中症で死んだ人がいると言っていた。だいたい同年配の人だった。これは、年齢には関係ないみたいだが、それでも、高齢者は特に気を付けなければならない、という。

前日に「罰か、警鐘か。」と書いたところ、近所の友人一哉さんから「老化という自然の成り行きですよ(ニヤニヤ!)」というメールが届いていた。

さもありなん。いつまでも気持ちは若いつもりだが、からだはそれを裏切っていくということか。からだが気持ちを追い越していった若い頃は、過ちが多かったとしても、もう戻っては来ないのである。


2011年7月14日(木)

日用品を買い足しにいく途中住宅街の細い道を走ると、前の道路に水を撒いている人と遭遇した。午前10時とはいえ、すでに30度を超えていたかも知れない。いい風景だったので、家に戻って早速真似をした。

庭に水道栓がないので、風呂場にホースの先を取り付け建物を約半周して前面に出す。ホースはとても長いので、道路を隔てた畑にまで届く。
問題は、散水ノズルが壊れたままであることだった。ホースの先を押して縮め、遠くへ、という原始的な方法でアスファルトの道路に水を撒き、ついでに畑にも飛ばした。

撒いたすぐあとから、アスファルトも土もからからに干し上がっていくような気がする。それでも、撒かないよりはいいのだろう。人のを見るのと、自分のとでは、“かっこよさ”に大きな差があることに気付いた。


2011年7月16日(土)

昨夜、会議のために上京中の高校の同級生・H君と話しているとき、グラグラっときた。新宿のビルの五階にある居酒屋だった。見上げると席を照らすスポットライトが大きく揺れていた。天井はコンクリートが打ち放しになっていてごつごつしていた。かけらが落ちてきたら、どんなに小さなものでも、脳天を直撃して、わが身はひっくり返るだろうと想像した。長い時間揺れていたように思う。(今朝の新聞には「栃木南部で震度5弱、関東の広い範囲で震度4、震源は茨城県南部、M5.4」と書いてあった。)

揺れはそれっきりで、再び話に戻った。H君は県庁を退職したあと、いまは県体協の仕事をしている男で、県庁時代は教育行政に10年以上携わっていたというので、高校再編や先生の人事の話をしている途中だったが、こちらもそれっきりとなって、また別の話題に移った。

わが村の鎮守は一年神主の制度がまだ残っている貴重な神社だが、今年の神主が誰それで、その男は、自身が経営する整形外科医院を他の医師に任せて一年間神主に専念している、などとこちらの知らないことも知っている。今度、陣中見舞いを兼ねて、参拝してくるよ、と言うのである。よく知っているね、と訊けば「同窓会つながりなんだよ」

彼は、高校の同窓会(鹿深同窓会)の会長にも就いているのだった。一期2年だが(いま2年目)、「2期目も頼まれているので、都合4年、後任が見つからなければ6年間やるかも」と話していた。まだまだ元気いっぱいの同級生に逢って、英気をもらった気がする。

と同時にかつて同級会の席で「同級生ってええな。ええやろ」と耳元ででささやいた恩師・ナベさんを思い出した。去年の春に亡くなってしまったが、来年(2012年)の早春には追悼の意を込めて、熱海で一泊の同級会をやろう、ということになっている。

その幹事役と電話で話したあとに、酒が大好きで、口調も恩師に似てきた同窓会長・H君は、「修学旅行の再来みたいでええな。最低20人、動員をかけるぞ」と腕まくりをしたのだった。

H君は、大学生になってはじめての夏休みに広島に遊びに来てくれた。一緒にもうひとりの同級生もいて三人で宮島に行った。そこで「和」と彫り込まれた木の盾(宮島彫り)を買い求め、三人の名前を彫って貰った。掘った人が「三人とも二字目が“本”なんじゃね」と感嘆したように言った。そういえば、とお互い思わず顔を見あわせた記憶が残っている。ところがH君は、宮島に行ったのは覚えているが、木の盾は知らない、と言う。三人同じものを買ったはずだから、家に残っているのではないか? 現にボクはつい最近まで、机の上に飾っていた。今どこにあるのか、わからないが。と迫ってみたが、知らない、と言う。

次に、ボクが東京に来て、業界紙で働いているとき、H君は仕事で上京したついでにボクと待ち合わせて酒を飲んだ、と言い出した。こんどはボクのほうが、全然覚えていないのだった。

「ここの女主人は同県人だ、と教えてくれた。愛想は悪いが、毅然とした態度を逆に慕ってくる客が多い、とも言ったよ。一目会って帰りたかったが、生憎そのときは店に出ていなくて、残念な思いをした」という。

そこは池袋の駅前にあった「藤屋」という大衆酒場である。業界紙の編集長に連れられて何度も行ったお店だった。しゃきっとした女主人だった。上の評は編集長の受け売りに近いが、年格好、風貌が似ている自分の母親を見ているような感じがしたのも事実である。どうしても思い出せないが、ここはH君の記憶が正しいのであった。

ともに40年の“むかし”のことである。記憶というやつは、まったくわがままである。

2011年7月18日(月)

毎日トマトを5、6個食べる。いまや鈴生りで、ミニトマト(これにも4種類ある!)から大玉トマトまで、どれも美味しいが、とりわけ大玉には感動した。

両手のそれぞれの指先をくっつけて球を作った時の大きさ、と言えば想像してもらえるかも知れない。
そしてその味は、文字通り地味だけれど、香気のようにあとに残る。なつかしのトマト! としか言いようがないが、とりあえず誰かと共有したくて、きのう職場の同僚に二個持って行った。

最近、一日、とりわけ朝の日課が決まってきた。
すなわち、 主に里芋への水やりのあと、トマトをはじめ、茄子、ピーマンなどの収穫(今朝ははじめてゴーヤを採った。ずんぐりとした姿形をしていて、表面は艶々しい。)をする。7時頃からはじめて約一時間かかる。汗だくになるが、たいして苦にはならない。出勤を控えているので、その後シャワーを浴びるからだ。

里芋の水遣りと言えば、所沢近辺の広大な里芋畑には、天を向いた電動の撒水機が据え付けられていて、ときおりぐるぐると回る。昨夜などは、10時過ぎているのに大きな音を立てて回っているところを目撃した。

それほど里芋は水が必要であるらしい。こちらなどは如雨露にての水遣りで、炎天下ではすぐに乾いてしまう。こんなのを『焼け石に水』というのだろうか。ちとちがう気もするが、つい雨水が恋しくなる瞬間であった。

もっとも、干天の慈雨なら申し分ないが、暴風雨は困る、勝手ながら。


2011年7月20日(水)

まわりの道路をほぼ完全に封鎖して排水溝の清掃作業を行っていた3台の黄色い車が、お昼の休憩に入ったようで外は静かである。台風も、ここにいるかぎりどこかへ行ってしまったとしか思えない。雨が止み、日差しがさして蒸し暑くなっている。風は、かすか。嵐の前の静かさ、という感じでもない。

台風は今回も全国の広い範囲で大きな被害をもたらしたようだが、ここはいつも無傷の土地柄である。“台風銀座”と言われている(そんな言い方をいまはしないのかも知れない)土地の人たちには申し訳ないことである。
橋の上から水かさの増した入間川を眺めていると、人と自然とのたたかいでは、実は敵も味方もないのではないか、つまりこれは闘いにならないのだ、と思えてくる。


2011年7月21日(木)

水道の水がなま暖かく感じられる朝であった。気温は20度を下回っている。窓を開ければ、風鈴が賑やかな音を立てる。その風は冷たい。Tシャツの上に長袖のシャツを着なければならなかった。

台風は近くの海上をのろのろと東進(あるいは北進)している、という。予報士が「完全に遠ざかって、消滅しないかぎり、台風一過はない」とラジオで伝えている。これには、大いに納得した。高気圧と低気圧との闘いなら、さて、どちらに味方しようか。


2011年7月23日(土)

夜になってから蒸し暑さが戻ってきたが、先日までの猛暑に比べれば、まだまだしのぎやすく、肌を掠める風もひんやりとする。

今日は、4キロほど先の最寄り駅(八高線・武蔵高萩)まで自転車で行くことにした。約30分かかるので、あれこれ思案を重ねたうえでの決断となるのだった。

行きはまわりの風景を観察する余裕はなかったが、帰り道では新しい発見がないかとキョロキョロしながら走った。見慣れた風景でも、車の10分の1の速度で眺めると、またちがった景色が見えてくるはずだった。

ほぼ等間隔に4つある信号の一番目を渡ったとき突然「アヒルの声」が飛び込んできた。駅から自宅までは、ずっと平坦で、道路もまっすぐである。これも元飛行場と関係があるのかどうかわからないが水田はひとつもなく、点在する人家と工場のすきまを埋めるように畑が広がっている。どこにアヒルの生息地があるのか、と俄然色めき立ったが、しばらく走るとその声の正体がわかった。

「羽村シニア」の選手たちが掛け声を発しながら、一団となってグラウンドを走っているのだった。その掛け声を聞きまちがえたのだった。すぐ近くで聞き耳を立てても、どんな風な言葉が変じたのかついにわからず、どうしても「アヒルの声」だった。もっとも、選手たちの間で通用すればいいので、「通行人」がとやかく言うことではない。本物のアヒルもよかっただろうが、これもまた悪くなかった。

隣接した「全坂戸ボーイズ」の野球場では、本塁への走り込みを繰り返していた。こちらは、スタート合図の周期的な笛の音が日没前の空に響くのだった。

あとは畑の作物(市場に出荷している、いわゆる専門家の手になるもの)に目を散らしながら、ぽつぽつと落ちてくるようだった雨を警戒して、少し急いだ。


2011年7月26日(火)

先週末から連日の夏期講習が続いている。昨日、今日は猛暑がぶり返してきた。とりわけ夜が蒸し暑く、熟睡できないうえ、6時前後には起きる習慣になっているので、国立までの“長旅”はほとんど眠っている。隣の人にもたれかかってはっとする経験を何度もしたし、気がつくとまわりには誰もいないというときも一度だけあった。あれは、体の芯までシーンとなる。奇妙な静寂感が漂い、夢から覚めたようだがそれしも夢であるような……。

ところで、 これが今日収穫した黄色いスイカである。体重計で計ったところ5キロに少し足りない重さだった。これでも十分に重いが、同じ畑の黒いスイカは8キロあった。Tさんが富良野に送ってくれたもっとも大きな黒いスイカは8.5キロだったそうである。早々と猛暑が続いたせいでこんなに大きい、ともっぱらの噂である。




何から何までTさんのお世話になったスイカ畑だが、8キロのスイカ半分を自分用にもらい、シャワーで汗を流したあと食べてみた。甘さはまずまずで、たっぷりの水が旨かった。

黄色いスイカは、果たしてどうだろうか。食べてみてはじめてわかる、とはスリリングではある。


2011年7月28日(木)

米の生産額を表す円グラフ(2011年版)で、「東北 27.6%」についで「関東・東山 18.4%」とあった。

東山(とうさん)?

あまり聞かない言葉だなぁと首をひねった。五幾七道のなかの「東山道」は近江から始まり本州のど真ん中を縦断して東北まで延びている。ここで言う「東山地方」がその街道筋の“国々”を差しているとは思えない。

グラフに表示されている「北陸 13.1%」「東海 6.1%」から消去法で考えていくと中部地方のなかの「中央高地」が浮かぶ。すなわち「岐阜・長野・山梨」である。もっとも、これは自然地理学的な区分けだそうで、こういう統計で使われる場合は、具体的に何県を指すのか、依然わからない。

家に戻って早速「wikipedia」に頼ってみた。

「東山地方は長野県、山梨県、岐阜県を指すほか、長野県、山梨県、岐阜県北部(飛騨地方)とする場合もある。また、岐阜県を東海地方の範囲に含めることが一般的になったため、農林水産省の農林業センサスによる全国農業地域の区分などのように長野県と山梨県の二県のみを指す例もあるが、その他の場合では甲信地方という表現が使われる。」

これを信じるならば、疑問の円グラフでは、東山地方=長野・山梨の2県のみ、ということになるのであった。

背景には定義の曖昧さがあるのだろうが、wikipedia の説明も、わかりづらい。


2011年7月29日(金)

日付が変わる頃に激しい雨が降った。雷鳴も聞こえた。4か所の窓を開け放って“降りぶり”を眺めていたが、2か所については庇が短いので雨がどんどん吹き込んでくることに気付いた。そのふたつは慌てて閉めなければならなかった。

激しい雨が30分程度で止んだ直後に、ラジオの臨時ニュースで埼玉地方に竜巻注意報が出たというのである。頭のなかには、このところ手入れを怠っている庭を風の渦が舞い上がって猛烈な速さで動くさまが去来する。実際は何事もなく、雨もよいの朝を迎えた。

虚と実のふたつが、どんどん入れ変わっていったら、どちらも虚またはどちらも実、となるのだろうか。そんな不埒なことも、ちらっと頭を掠めた。


2011年7月30日(土)

何げなく見始めた『レッド・ドラゴン』を見終わった午前1時半頃、雨が激しくなり、雷が遠く近く聞こえはじめた。昨夜の再現のようである。

雨の降り出す前から、草茫々の庭を出かける前に少しきれいにしようと思っていた。夜10時過ぎに帰ってきたとき、無人屋敷同然に荒んでいるさまがヘッドライトに照らし出されて唖然としたからである。
しかし、このまま雨が続けば、その心づもりは実行できなくなる。そんなことを考えながら、時折轟音を響かせる雷を警戒してパソコンの電源を切り、ベッドに横たわり、そのまま寝入った。

朝雨が止んでいたので、草取りを実行した。といっても、長いものは剪定鋏で切り、そのあと短い草とともに鍬で根こぎするだけである。やっつけ仕事の域を出ず、いわゆる、虎刈りであった。それでも、人が住んでいる感じは出たかも知れない。


2011年7月31日(日)

朝、雨戸を開けると、三和土の上に小振りのスイカが置かれていた。Tさんが持ってきてくれたものと思われる。スイカ畑には黄色いスイカがひとつ、黒いスイカは大小合わせてまだいくつか残っている。敢えて小さいものを穫ってくれたということは、念入りに叩いて、甘さを確信したうえでのことに違いない。仕事が終わったらそのまま兄の入院する病院に行く予定なので、そのスイカも車に積んで出かけた。

国立から離れて、もう一つの職場は一週間ぶりだった。「やぁ、しばらく。元気してた?」「もう、席がなくなりますよ(笑)」などと歓迎される。人事の煩わしさがない分、大いに気分転換ができた。


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