日  録  伊那谷へ             


2011年8月3日(水)

日付が変わって、今日はもう3日である。先月の22日から“
休日”なしで働いている(休むヒマもないくらい忙しい、というのではない)が、日の経つのがあまりにも早い。
それは、いくつかのやるべきことがあるのに、じっくりと向かい合えない腑甲斐なさにつながっている。ひとつのことを考える機会を日延べしながらつい新しい日を迎える、その繰り返しである。それを断ち切るものは、やはり完全な休日だろうか。


 
2011年8月4日(木)

先月21日に見舞ったときは、ちょうど起きていて、うっすらと目を開けて弟のボクを認めた。酸素吸入のために鼻と口をおおうマスクをしているのでしゃべることはできない。うつらうつらしながらもマスクの存在が煩わしいのか右手を上げて取るしぐさを繰り返した。肺にたまった水を取るために酸素を送り込む必要がある、これが治療なのです、と若い主治医に説明されていたので、取っちゃダメだよ、と上がる手を押さえ、両手を握った。一時間ほどいて、帰り際に、「また来るから、がんばるんだよ」と声を掛けると数回頷いた。

2回目に病院へ行ったのは31日の夜だった。兄は眠っていた。呼吸器の数字を見ると、呼吸数・血圧などが正常値を示していた。栄養は? と訊くと看護師さんは、高カロリーのものを点滴しています、と言った。眠っている方が楽で、治りも早くなるんですよね、と半ば誘導尋問的に聞くと、「以前にからだの中に送り込んだ眠り薬が残っていて、利いているんでしょう」と言う。このときも、快復の希望を持って、退室した。

今夜の電話で甥は「実は二酸化炭素が体外に放出されなくなっていて、臓器が不全状態に陥りつつある。この間の眠りも、原因はそれらしいです。血圧が下がっているので、この先……」と心細いことを言うのだった。

細菌性の肺炎から、器質性肺炎、肺水腫、とからだのなかに不具合が次々と出てくる。モグラ叩きみたいな気もするが、ここは、ひとつひとつを徹底的に叩いて、快復して欲しいと願うのみ。


2011年8月5日(金)

昨日、あまりにも煩わしくなったので職場近くの「1000円・10分」の店にて長い髪をバサリと切ってもらった。自宅近くのこの手のお店は、同じ1000円で15分とガラス窓に宣伝しているが実際は30分近くかかることもある。理容師が納得いくまでやるという風が多少なりとも見られる。お客であるボクに異存があるはずもない。

ところがここはちょうど10分に終わったのである。髪型、切り方に不満を持つような歳ではなし、この暑さに耐えられるほどの髪になればよかった。鏡をあてて後頭部を前の鏡に映し出しながら「こんな感じでよろしいでしょうか」と訊かれ素直に頷いたが、10分ぴったしには驚いた。まさに職人技だと感じた。こういう技はきらいではない。

長い髪(おまけに硬い)で床屋に入るのは気が引けるものである。何年か前に、椅子に坐って「耳が出るほどの長さに」と言うと、「え、こういうヘアスタイルだと思いました。似合っていますよ」と返されたことがあった。
多少のお世辞はあっても、嫌味はなかった。「じゃ、そろえる程度にしてもらおうかな」と言い出しそうになった。
その髪もいまや白くなり、薄くなった。時代の波(?)には勝てない。


また猛暑が戻ってきた。そんな日に、能天気な話題、ある意味暑苦しいことを書いてしまった。髪を短くしても、暑いものは暑いのに。


2011年8月8日(月)

「ヒロシマの日」の6日、「地元」だというので引率を買って出て、川越・菓子屋横丁に行った。

本川越駅前からボンネットのある小江戸バスに乗った。小・中学生と先生たち計16人が乗り込むと小さなバスは満員状態となった。目的地までは遠回りになるが、低学年もいるので炎天下を一時間近くかけて歩くのはどうか、ということになったのである。

中院、仙波東照宮、三芳野神社、喜多院、川越高校、博物館・美術館、本丸御殿、氷川神社などなじみの観光スポットを運転手のガイド付きで車窓に見ながらのドライブだった。童謡「とうりゃんせ」発祥の地・三芳野神社では、運転手自らが唄を披露しながら歌詞の解説をしてくれた。中身の真偽はともかくその熱意に打たれた。子どもらの住む国立市の横断歩道ではこの童謡が流れるんだと中学生が教えてくれた。奇しき縁か、と思う。

川越高校は、ウォーターボーイズ(男のシンクロ)の舞台として紹介された。家光からの連想で大河ドラマ「江」とのゆかりを説くのは話題性から言って当然だった。
歴史の街・川越は江戸から現在までの400年間にわたって生きつづけていると改めて感じさせてくれた。

菓子屋横丁では、昭和の30年代の菓子がたくさん並び、ボクにはなつかしかった。それぞれの店にいるおばあちゃん、おじいちゃん(大半は60代後半に見えた。もちろん、若い人たちもたくさんいた)が、当時店番をしていた人の姿に重なって映った。

子どもらも、飴ができる様子を興味深く見学し、自分の食べたいもの、家の人へのお土産を、楽しそうに選んでいた。


2011年8月9日(火)

「長崎原爆の日」の今日は東京ガス・根岸工場へ。ここは東京ドームの11倍の面積を持つLNG(液化天然ガス)の供給基地だそうで、ほとんどの家庭で必要不可欠のガスがどのように作られているかを学習するための見学会だった。

八王子から横浜線をひたすら南下して磯子まで約1時間30分、けっして短いとは言えない時間だったが、線路はどこまでも続いていることを実感した。高崎〜八王子〜横浜(八高線・横浜線)はかつての絹の道であるから当然と言えば当然か。

ビデオでの説明のあと、−162℃のLNGを使った実験、バスによる工場見学、質疑応答、と息を継がせぬ90分間だった。低学年の児童らは−162℃がどれほどのものかを示す実験で大いに感嘆していた。工場の説明は少し難しいかと思われたが、質問コーナーでは「直径36bの貯蔵タンクの外側に付いている螺旋状の階段は全部で何段ありますか?」と訊く小学2年生がいて、意外とちゃんと見ているものだと感心した。

われら10名に対して4人の社員が応対してくれた。「東京電力ではなくガス・パッ・チョ!の東京ガスですよ」には思わず苦笑したが、全編丁寧かつ親切な態度で嬉しかった。数年前この会社に就職した卒業生はいま頃どうしているだろうか。そんななつかしさに囚われた工場見学でもあった。


2011年8月10日(水)

20日ぶりの休日となった。気分的にずいぶん楽なものだ。ただ、朝の早い時間から気温は30℃を越え、猛烈な暑さになった。

昼過ぎに兄の病院に着いた。この街は「打ち水運動」を展開していることを市役所の壁に掛かった垂れ幕で知った。

病室にいると、小走りで来てくれた看護師さんが 「よくなるんです」と言う。はじめは酸素吸入器のアラームのこととは思わなかった。
「自分の呼吸と機械の吸入が合わなくなると。数値は安定しています」

ほかにも点滴の管や、テープなどで顔面は痛々しいが、こちらの存在もわかり、目を開けて見ることもでき、この前とはずいぶんちがうと感じた。夜、甥も電話で「山は越えた、と言ってもらえた」と教えてくれた。「よくなるんです」は聞き間違えでもなかったと、大いに安堵した。


2011年8月13日(土)

猛暑のうえに夕立程度の雨も降らない、もっとも、降ればそのあとが蒸し暑くなって叶わない、ただ庭の草花、畑の野菜には水が必要。午前7時過ぎ、長いホースをセットし、道路をまたいで畑の近くまで持って行った。

びゅんびゅん水を飛ばしていると奥の畑からおばあちゃんが野菜を手にやってきて、「畑が近いと、これができるから便利だね」
「自分の体にもかけたいくらいですよ」と応じたが、おばあちゃんはきょとんとしていた。

「キュウリ、ある? 大きくなりすぎたけど、たくさんとれたのであげようか」
空きの増えた畑を見回し「これからは秋野菜の準備だね。私もインゲンを植えようと、時期を見計らっているところ」
など脈絡なく話しかけて隣のTさん宅を訪ねていった。

はじめて見るおばあちゃんだった。はて、誰だろう、と気にはなったが、里芋と、そのとなりのゴーヤ畑に水を飛ばし、あの棚の下は確かに涼しそうだなぁ、「緑陰の云々」という言葉もあったがいまは緑のカーテン。水遣りを終えたあと、同僚へのお土産として天井から吊り下がった2個のゴーヤを収穫した。そういえばさっきの朝食も卵、タマネギ、ゴーヤのチャンプルーだった。


2011年8月14日(日)

昨13日は谷保天満宮に参詣した。
菅原道真が太宰府に左遷されたときその第三子道武は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に配流させられた。
以下HPから引用すると、

『延喜三年(903年)父君薨去の報に、道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起りである。天暦元年(947年)京都北野天満宮造営の折、当社の威霊を奉上され村上天皇の勅により神殿を造営され官社に列せられる。(中略)明治十八年には府社に昇格し東日本における天満宮としては最も古く、湯島天神、亀戸天神とならび関東三天神と称される。』

お昼前、国立駅からひたすら南下して30分ほどで南武線の谷保駅に着いた。踏切を越えた先に、高い樹々がそびえる森が見えてきた。石の鳥居をくぐると、歩き詰めで汗びっしょりのからだがヒヤリとした。ボクを迎えてくれたのは一対の狛犬と燈籠、それに鶏の群れだった。

「神社と鶏」は天の岩戸伝説からきていて、鳥居というのも鶏の止まり木だったという説があるらしい。これは初耳であったが、いかにもと納得させられる。いまはどうか知らないが、田舎の若宮神社境内にもたくさんのチャボが遊びたわむれていたのを思い出した。

鎮守の杜に戻ってきたようななつかしさを覚えたのであった。おみやげに、鷽(うそ)のお守りを買い求めた。


2011年8月17日(水)

背の高さくらいに積み上げたところから一枚のパレットを下におろしていて、それが落ちた拍子に角が左足親指の付け根を直撃した。それから2、3時間は多少痛い程度で何ともなく普通に仕事をこなしてきたのに、午後7時、家に帰り着いた途端猛烈に痛くなってきた。歩くのにも難渋するほどに痛い。湿布薬を貼り、保冷剤で冷やしても、痛みはなくならない。

昨年正月にパレットに蹴躓いて膝の皿を割ったときの記憶が甦ってきた。あのときは初めての入院、初めての手術という結果となったのである。

つくづくドジだと反省した。反省してどうなるものでもないが、あとで考えるとそれなりの原因はある。今回はなぜか急いでいた。慌てて引っ張り下ろした。そんな風にする必要は何もないのに、そうした。

昨年は、ほかのことに気を奪われていた。魔が差したというほかはなかった。

今回 もし骨が折れてでもいれば悪夢の再来である。そんなことを考えながら、暑さと痛さのために何度も起きてクーラーを付けてからだを冷やした。

ところが朝になってみると痛みはかなり和らいでいた。何かに寄りかからなくても歩くことができた。ひと晩のあの痛みはなんだったのか、と思った。自棄で飲んだビールが、痛みを忘れさせるどころか、助長したのかも知れない、と今度はビールのせいにする始末だった。

ともあれ、大事にならなくてほっとした。


2011年8月19日(金)

今日雨が降ったあとに気温が下がるという予報である。実はそのときを待ちかねているのだがいっこうに雨が来ない。いつも通りの、じっとしていても汗がだらだらと落ちてくる朝である。すでに30℃を越えているにちがいない。昨夜、帰り道で駐車場に着くと同時にぱらりときた。あわてて車に乗り込んだが、雨はそれっきりだった。まぼろしの夕立に肩すかしを喰った。

午前8時40分、激しい雨が降り出した。カラカラの土に雨水が跳ねて、瞬間、ひなたの匂いが漂ってきた。何日ぶりの雨になるのだろうか。

「学校は楽しい?」と訊けば「ふつう」、「テストどうだった?」と訊いても「ふつう」
これが、20年ほど前の若者の大方の反応だった。

やがてこの「ふつう」は「びみょう」にとって代わられたように思う。
さらに最近(?)は「やばい」が使われているのかも知れない。こういう言葉の流行は若者だけかと思えばさにあらず。老若男女に広く浸透している。ただし、もう下火になった頃から使い出すのが通例である。つまり、流行に一、二拍遅れる。

自分も例外ではない。そして、癪なことだが、使い始めると手放せなくなる。それが意思伝達の、つい頼りたくなる簡便さ、ということだろうか。


2011年8月22日(月)

19日に亡くなった義母の葬儀の日だが、この地で見送ることになった。10年前、義弟の葬儀のときに逢って、それ以来こちらは無沙汰のままだった。子どもらも含め、大事にしてもらったのに、不実なものだと自責の念に駆られる。

優しくて、賢い人だった。昨年10月北海道旅行中に訪ねてくれたTさんが撮った写真が携帯に残っている。配偶者宛にきたものだっが、「すてきなお母さん」という初対面の印象が書き添えられているのも読んだ。その通りの人だった。線香を焚いて、玄関口でのその写真に向かって手を合わせている。


2011年8月24日(水)

「意思伝達の、つい頼りたくなる簡便さ」と書いたあと、若者だったときボクらはどんな言葉を多用していたのだったかを思い出そうとしている。
お互いの立つ位置を確認し合うような一言、同時代の空気を吸っているんだと感じさせるような一言。そもそもそんな言葉があったかどうか、いまとなれば“藪の中”だが、なかったはずはない、と思いながら記憶の澱をさらっている。

時は、40年以上前である。「ナンセンス」「消耗」という政治的な言葉が、日々の生活場面にまで降りてきたという印象はあるが、「やばい」のように流行った気はしない。
シラケ世代という言葉はあったが、会話のなかで「シラケたよ」などと頻繁に使いはしなかった。

ひとりひとりの世界に沈湎していくなかで、そういう言葉は必要なかったのかも知れないが引き続き探していこう。


2011年8月26日(金)

10日以来の休日となった。今月の休日は、明日を入れて合計3日である。この2日間を代わりにやってくれる人のために資料を揃えておかねばならない。これが結構面倒なのでつい“自分でやった方が楽だな!”と何度か呟いたものだった。が、ここはどうしても休みを取りたかった。

昨日から伊那・小黒川キャンプ場にいる学生時代の友人3人と今夕合流することになっているのである。去年4月の「塩山墓参」以来である。この3人は、ことし早春には東海道・水口宿〜土山宿(ボクの故郷)へと歩き、中・高時代の友人の店に立ち寄ってくれている。
今回も「一泊だけでもいいから来い。手ぶらで来い」と言ってくれたのである。どうして、行かずにいられようか。

朝から一部区間が通行止めになっている中央道を使う予定だが、電話で問い合わせると流れ出した塩酸の回収作業が終わり、事故を起こしたタンクローリーの牽引を始めた、というので、お昼過ぎには通行止めも解除となるだろう。

200キロ余の行程。時間にして、2時間半くらい。これも久々の、ひとりドライブとなる。(AM10:46 記)


2011年8月27日(土)

昨26日夕、ほぼ同時に待ち合わせ場所の「みはらしの湯」に到着した。
風呂に浸かりながら、標高900bから眺める南アルプスは絶景だった。

その夜はバーベキューであった。炭火のまわりに立ったまま酒を酌み交わした。少し先には数十人の小学生がテントを張っていた。さらに上では、若者らが豪勢な花火に興じていた。その煙が川原一帯に漂ってきた。山肌から降りてくる霧に押されてきたのだったが、はじめは幽玄な霧か、と錯覚した。

腹ごなしに闇同然の道を歩いた。この地に蕎麦の種をもたらしたという役小角を祀った祠が近くにあった。信州そばの発祥が役の行者であったとは、驚きである。山小屋に入って時計を見ると、12時近かった。5、6時間がまたたくうちに過ぎていた。部屋の中には「幸か不幸か携帯はつながりません」との貼り紙があった。俗世を離れる、時を忘れる、という意味ではたしかに「幸」なのだろう。

3人とは1年後の再会を約して別れた。

帰りは中山道に入り奈良井宿から北上し、贄川の関所跡を見学し、塩尻に出た。そこから松本まではあと少しと知った。はじめての地だけに、足跡だけでもと思ったが、断念した。長野自動車道を経て、中央道に入った。
ひとりドライブは行きにもまして眠かった。コンマ何秒間か眠りに陥る場面が何回かあり、ヒヤリとした。その都度SAに寄って、眠気を飛ばさねばならなかった。

往復500キロ、いい旅だった。よい休日だった。畏友たちに、感謝・感謝である。


2011年8月29日(月)

昨日午後9時頃、薄力粉なるものがあったので、水と砂糖をいれて捏ね油を引いたフライパンのうえで焼きはじめた。こんがりとなったところでフライパンを持ち上げてひっくり返した。見よう見まねの素人芸のようなことをやった。すると左手の甲から手首にかけて油が飛び散ったのである。

水道水、保冷剤で冷やし続けて数時間後には痛みはとれた。
朝、しみじみと確認したところ、中指の付け根に1センチ大の水ぶくれがひとつ、その10分の1くらいのものが甲から手首にかけて4つ、これらが度数2くらいであろうか。手首からかいなには4筋の茶色い線がついている。これらは度数1と見た。つまりフライパンから遠ざかるにつれて皮膚の損傷具合も小さいということなのだろう。熱い油の粒が空を切る間に冷えるのか。
などと、負け惜しみのような分析をして憂さを晴らした。


2011年8月30日(火)

夏野菜の終わった畑に石灰、鶏ふんを入れて耕し、畝をつくり、新しい野菜を植えるための準備をTさん夫妻が朝早くからやってくれていた。
6時に目は覚めていたが、新聞を読んだ後もう一度ベッドにもぐりこんでようやく起きる気になったのが8時。雨戸を開けてはじめて気付いた。

早速畑に降りてお礼を言いつつ、すでに苗の植わっているもの、これから植えるものについて尋ねると、白菜、ブロッコリー、大根、キャベツとの答えが戻ってくる。いずれもついこの間食べた記憶があるものばかりである。
改めて時の経つ、その早さを感じる。日射しは夏だが、風は秋を感じさせるほどの涼しさである。


2011年8月31日(水)

8月もこの日かぎりである。過ぎてしまうとあっけないものだが、中身いっぱいの月であったように思う。悪いこともあったが、よいこともあった。

31日間が、猛暑・暑中・残暑ときれいに3等分された印象がある。今日などは、初秋の気配もあったのではないか。車の窓から入る風や空模様がどこか「天高く馬肥える」季節を連想させた。

畏友らと再会を果たした伊那の夜は、心洗われるような涼風だった。これを書き留めておかねばならなかった。


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