日 録  「みずほ台・ナウ」   

2011年9月1日(木)

時折吹く風は涼しげであるのに、蒸し暑くてじわじわと汗が吹き出してくる。
この「矛盾した気象」は目下太平洋上にあって上陸・列島横断(?)を伺っている台風12号のせいである。朝から雨が降ったり、止んだりを繰り返している。時に激しく降る。

終日だらだらと過ごしてしまった。新しい月の始まりとしては最低かも知れない。雨が止んでも外出はせず、寝っ転がって本を読みながら眠り、ラジオで野球中継を聞きながら眠り……一度、誰かに呼ばれた気がして「はい」と大声で応じながら突如として起き上がったのは不覚であった。時計を見ると横になってから1時間と経っていなかった。浅い眠りのなかで、人恋しくなったとでもいうのだろうか。
孤独ではないが、24時間は結構長いと感じた。  
 

2011年9月3日(土)

茅花(つばな)、すいば、虎杖(いたどり)、それと生のサツマイモ……うーん、食べた、かじった。

坪内稔典「青柿のころ」(『図書』9月号)に『二十四の瞳』からの引用があり、その内容がボクらの小さい頃の風景に重なった。長い間あれは何だったのだろうかと思い続けていた野原の食べ物の正体がわかった。インターネットで調べるとあれこそ茅花であり、すいばであった。誰に教えられたわけでもなく、、名も知らずに(おそらく)、むしゃむしゃと食べて、楽しんでいた。茅花はまるでチューインガムをかむような感覚だったし、すいばは塩をふりかけて食べ、生野菜のようだった。

虎杖はいまも道ばたに自生しているのを見かけるが、それらは美味しそうではない。美味しい虎杖の見分け方も知っていたような気がする。これも塩をかけてそのまま食べたり、煮てご飯のおかずになったりした。

蕗(ふき)、自然薯、松茸となれば“高級”になるが、それ以外のものは野原にいっぱいあり、本来の遊びの余興のようであった。うーん、なんでこんなことを思い出すのだろう。秋風のせいだろうか。


2011年9月5日(月)

10トントラックの助手席に乗せてもらって、片道一時間強の所沢=立川間を往復した。仕事の一環だったが、滅多にない経験だった。高い荷台から眺める、迫り来る景色・走り去る光景は新鮮、乗り心地もまた観光バス並みに安定している。

「左側の電信柱や、自転車・歩行者などを間近に感じすぎて怖いかも知れませんが、気にしないで、安心して乗っていて下さい」

はじめにそんな注意をしてくれたドライバーは33歳、一女一男のお父さんである。上の子が中学一年生。結婚前後からこの仕事に従事している、という。10年選手で、いまや働き盛り、と言えるが、仕事の実態を聞いてびっくりした。

一週間、あるいは10日以上家に帰れないで、関東近辺から大阪・名古屋に向けて10トントラックを走らせ続けていることが「しょっちゅう」だというのである。夜遅くに仕事を終え、次の日の夜明け前に出発するので、家に帰る時間がない。それが何日も続く。
子供が小さい頃は、「どこのおじさん? と帰るたびに泣かれ、しばらくいて仕事に出かけるときには寂しさから泣かれてしまい、さんざんでした」

「仕事に見合った給料とはとても言えませんがね」と苦笑するが、全部で7台ある10トン車の「これが一号車です」と言うところに働くことの自負も感じられた。

帰り道の午後7時ごろ、メールを受信して「明日は名古屋に決まりました」と言うから、「これから帰る時間は?」と訊くと、「ありますが予定外に帰ると、女房がなんで? と怒るかも知れませんね」

「いやぁ、それでも、帰った方がいいですよ」

余計なお節介を焼いてしまった。気持ちのまっすぐな、さわやかな青年であったから、つい。


2011年9月6日(火)

季節外れの紫陽花が、菊のつぼみと並んで咲いていたので切り取って活けてみた。

7月に紫のアジサイを「遅れてきたアジサイ」と命名して活けたから、それよりもさらに2ヵ月“遅れてきた”ことになる。冬の季語に「返り花(帰り花)」があるそうだが、これなどは「遅れ花」。

天変地異のなせる技とはいえ、こういうのは心が和んで良いものだ。



夕刻に、ひと回り大きな鉢にゴムの木を植え替えた。今日一日の土いじりはこれのみ。真昼の暑さは退いていたが、庭先に出ていると半ズボンの足にヤブ蚊がわんさと寄ってきた。たくさんの血を吸われてしまった。

夜になって、『愛を読む人』(2008年、独・米合作)を観た。番組表でシュリンクの『朗読者』を原作にした映画と知って観る気になった。この本は読んで感銘を受けたが、映画もなかなかよかった。ただ邦題は、まったくセンスなしと思った。『THE READER』、せめて『朗読者』で十分である。


2011年9月7日(水)

8日ぶりの国立行となるこの日、Yシャツ、背広、革靴など着替え一式を車に積み込んで家を出た。所沢のはずれの田園地帯から国立まで、どういう移動方法を採るか相変わらず悩ましい問題だった。

約4キロ先のJRの東所沢駅まで車で移動し、駅前の駐車場に停めて、などとあれこれ思案してみたが、結論は出ていなかった。

すると、終業時刻が近くなった頃、立川への同行を仰せつかったのである。

国立までは駅ひとつ、おまけに荷を下ろすその場所は、上にモノレールが走り、立川駅までひと駅という近さである。仕事が終わり次第、国立に向かうことにした。とりあえず今日の悩みは解決したのだった。帰りのことにまで考えは及ばなかった。

かくして、着替え一式を積み込んで10トントラックの助手席に再び乗ることとなった。同じ運送会社だが、一昨日のドライバーではなかった。30歳になったばかりの、やはり気立てのいい若者だった。そのドライバーに脱いだ作業着などを預けた。

中央線への乗換駅でモノレールを降り、エスカレーターに向かっているとき並んで歩く若者に見覚えがあった。仕事先に2週間ほど手伝いに来ていた社員だった。同じ仕事を一緒にやり、一度などは最寄りの駅まで送っていったことがあった。

聞けば、 顧客のスーパーが新しい店を開店した(その場所は失念した)のでその応援に会社を代表して行ってきたのだと言う。本社に戻らずにまっすぐ帰ってよい、という許可が出たので淵野辺の自宅に帰るところだと話した。奇妙な出会いだった。

帰りは東所沢駅からの約4キロを歩くことになった。

駅前の様子、主に有料駐車場の場所を確かめつつ歩いていると、昔、講師をしていた学生を車で送っていた道に出ていた。
歩いてみると、案外と起伏の多い道だった。坂のてっぺんに、巨大な桜の木が何本もあり、枝が頭上をおおっている。

国道との交叉点までは、コンビニもあり、人ともときおりすれ違った。

国道に沿って1キロほど歩いたあと左の側道に入ると、その道にはもはや人の歩く場所はなかった。
真っ暗闇の道を、大小の車がひっきりなしに走り抜ける。

あるときは側溝の上、あるときは垣根にへばりついて車を避けなければならなかった。いまの仕事先の倉庫がオープンしたとき、「東所沢から30分かけて走ってきました」という若い社員の言葉を思い出しながら時計を見ると、きっかり一時間が経っていた。もうこりごりであった。


2011年9月9日(金)

昨夜はミーティングのために帰宅が12時を過ぎ、眠りに就いたのが午前2時だった。それでも朝6時には目が覚めて、畑を見れば、三々五々働く人の姿が見える。皆、勤勉である。

わが家の畑は、昨日朝までに植えるべきほどのものはほとんどTさん夫妻が植えてくれている。ボクに課された仕事は毎朝の水遣りだけである。

7時過ぎに半ズボン、スリッパ履きの姿で畑に降りて、小学生の“お手伝い”のように如雨露をふらふら揺らせながら水を遣った。それでも、畑との往復が4、5回に及び、小一時間の仕事だった。“朝飯前”にしては、まぁまぁではないか。


2011年9月10日(土)

昨日の夜と今朝、車のエンジンの掛かりが悪い。あちらこちらに問い合わせると、バッテリーが弱っているのではないか、ということになった。11万キロ以上走った車で、先回の点検の折りに「交換」を勧められていたが、見送っている。この夏の猛暑でさらに酷使したはずだから、いよいよ悲鳴をあげたのだろう。

昨夜などは、夜の11時半ごろ、勤め先の駐車場に戻りキーを回してもシュルシュルという情けない音を出すだけだった。何回試みても同じだった。水曜日と同じ展開となって東所沢駅から約4キロを歩きようやく辿り着いたところでこの事態であった。途方に暮れた。

車がないと動けないという生活(思い込みかも知れないが)をしている身には、もしこのまま故障するとさしあたりどうするか? という心配が先に立つのであった。なによりも今夜は?

夜勤の人に話すと「バッテリーかな?」と心配してくれる。ひとりで倉庫を預かっているのでそれ以上は期待できない。数日前娘のアパートの洗濯機の水漏れの件で的確なアドバイスをしてくれた同僚の男が思い出された。電話すると、少しでも反応があるのならアクセルを踏んでキーを回すとかかることがありますよ、と教えてくれる。急いで駐車場に戻って試してみると、かかったのである。またもや、助けてもらった。それにしても、釣りが三度の飯より好きというこの男は知恵者である。

かくしてその夜、無事家に帰り着くことができたのである。
翌朝、つまりこの日の朝は2、3回目にエンジンがかかった。
今日の夜、午後10時過ぎだったが、頼むぞ、かかってくれよ、と祈りながら駐車場に向かった。その甲斐があったのか、1回で、普通通りにかかった。

とはいえ、風前の灯、滅びの姿は明るい、ということばもある。交換の手筈を整えねばならない。


2011年9月11日(日)

すでに畑で働いている他の人たちに遅れてはならじと、6時半から水遣りを始めた。7つの畝に植えてもらったのはカブ、大根、白菜、ブロッコリー、人参である。

カブ、大根は種から植える様子を“見学”した。その日から数えて三日目の今日、すでに芽が出ているのでびっくり。

丸い穴から子葉が顔を出した程度だが、ふんぞり返っているように見えて微笑ましい。幼児が小さいなりに気に入らないことがあって、腰に両手を当てて大人をにらみつける図である。“反抗する幼児”はだいたいにおいて好きである。ほどほどにからかってみたくもなる。

こちらは子供の手伝いのように如雨露を振り回しながら水遣りをしている。「まじめにやれ」とたしなめられているようにも想像され、ひとりでにやにやしていた。

2時間後、いつバッテリーが上がるかわからない車で出かけようとした時になって大粒の雨が降り始めた。ほどなく止んだが、“幼児たち”には、天の配剤、きっとほっとしただろうと、思った。


2011年9月13日(火)

“特売”があるというので休日を返上して仕事に出かける。

商品の搬入場所(立川)では最終的には総勢6人の社員・アルバイトが集まり、約1000個の箱(一箱の重さ約12キロ)を下ろしてシールを貼るのに、1時間ほどしかかからなかった。
もしここは二度目という大型ドライバーとボクとふたりだけだったら、3、4倍の時間がかかっていただろう。仕事とはいえ、ぞっとする光景である。

しかしながら、あれはまるでお祭りさわぎのようだった、とあとで思った。どんな種類であれ、こういうカタチになると仕事はすべからく楽しいものだ。


2011年9月15日(木)

今日は夕方からの仕事なので畑の水遣りをのんびりとやった。

午前9時過ぎ、この時間にしてはや炎天下、バケツ2杯と如雨露を手に10往復くらいしただろうか。どの苗も成長が早い。ブロッコリーなどはすでに虫食いの穴があちこちにできていて、油断できない。

1時間くらい経ったころ、早朝からの仕事を終えたTさん夫妻がやってきた。
「なかなか雨が降りませんね」と話しかけると、本葉が出てきたから、水ももうやらなくていいかも、ということだった。
「強いて言えば、里芋でしょうか。これは、いっぱい水を欲しがります」と教えてくれる。

太くなった里芋の根元にバケツ6杯分の水を直接かけて、朝の仕事を終えた。


2011年9月17日(土)

いつまでも暑い日が続く。それでも風は…と呟けど、その風すらも湿気が多くて、慰めにはならない。午前10時の段階でパソコン画面上の温度計は30度を示していた。秋はまだ遠いのだろうか。

午後「(夏休みの)報告会」のために国立へ。そこで久々に逢った女性から、ミニトマト・パプリカの入った紙袋を渡される。「うちで穫れたものです」というのでその場で試食した。ほんのりと甘みがあって美味しかった。「こんな貴重なものを、良いんですか?」と恐縮しながら全部もらって帰った。

早速食卓に出されたが、ここには「なつかしい夏」が残っているように感じた。


2011年9月18日(日)

畑の中でうずくまって白菜の苗を植える、白いシャツを着た配偶者が縮んで見えた。畝をおおう不織布や寒冷紗のトンネルの間にすっぽりと入り込んで、保護色のような印象を受けるせいだったろうか。

植え付けを少し手伝ったが、約1時間後こちらは先に上がって出かける準備をした。それからさらに1時間近く畑で作業を続けていた。1か月ぶりの畑作業に時間を忘れる風にも見えた。

この1か月、向こうでもこちらでも多事多難、と言うとやや大げさだが、それに近いものがあった。人の世の常、とはいえ過酷さはどこかでうっちゃらねば前に進めない。いつもと変わらずに苗が育つことに希望があるのだった。

水をやりながら、植物の遺伝学を専攻した理由について「植物は裏切らないからな」と言った恩師・ナベさんの言葉を不意に思い出した。


2011年9月20日(火)

4泊5日の滞在を終えて、配偶者は富良野へ。 志木駅前から羽田へのリムジンバスに乗ってもらおう(電車は連休明けのラッシュアワーと重なって混むであろうから)と、午前7時前に家を出たが、ほんの十数分の差で、間に合わなかった。

車の渋滞がこの時間から始まっているのを失念するとは迂闊であった。間に合わなかったからこちらの心づもりも徒となったが、文句も言わず、むしろ機嫌よく改札口に向かって行った。

自宅での5日間が幾分かの気晴らしになったのだろうか。こちらにも一種の緊張というか、張り合いみたいなものはあった。やはり一人よりふたり、ふたりより三人、三人よりみんな、ということだ。

そうか、ふたりからみんなへ、というのが人間社会の基本なのだろう。「ひとりぽっち」は大きな矛盾を孕んだ言葉ではないか、と思った。ひとりという概念は本来あり得ないのではないか。約半月かかった「口笛と記憶」の最中も、ずっとそんなことを考えていた。

2011年9月21日(水)

朝から台風の雨である。昨夜のニュースで庄内川の上流が決壊、名古屋市民100万人に避難指示・勧告が出された、と伝えられたので、その少し下った所に住む友人に電話した。5階建てマンションの2階に住んでいるので、避難はしていない、と言う。

「そのうえ、このあたりは天井川だけど、11年前の“東海豪雨”の経験から堤防がしっかりしているのと、この少し上にいざという時のため新川に水を流す洗い堰もあるので二重の意味で安心なんだ」

その台風15号が列島を縦断して“埼玉”にもやってきた。10年来、来る来ると言っても結局ここは避けて通った感のある台風だったが、今回ばかりは直撃となった。車が飛ばされ、街路樹が倒れ、家屋が浸水した。交通機関も一斉に止まった。

台風が通り過ぎるまで2時間以上仕事先で待機を余儀なくされた。休憩室にいると、獣の咆哮と見紛うばかりの風の音がひっきりなしに聞こえてきた。

裏手の窓を開けると、江戸初期に開墾(三富新田)された時のままの雑木林が枝先をくるくると回転させながら揺れている。 降り注ぐ雨が葉にのって振り飛ばされる様も見える。

自宅では玄関先の龍眼の鉢植えが飛ばされていて、仰天した。どっしりとしているのでまさかと思ったが、風速20b以上の風が吹き募れば立ち続けることも叶わなかったのだろう。幸い、横倒しになっているだけで起こしてやれば、元通りしゃきっとした。


2011年9月22日(木)

“台風一過”とはゆかなかった。

午前中近くのコンビニに出かけたときはちゃんと掛かった。お昼前に胸騒ぎがして一度掛けてみた。そのときも掛かった。午後2時過ぎ出かける支度をしてキーを回した。クスン、クスンと2、3回反応しただけであとは沈黙。ついにバッテリーが上がってしまった。

10日夜に最初の徴候が出てから13日目、このこと自体は、「来るべき時が来た」までである。それまで放っておいた自分が悪いのである。むしろ自宅で「上がった」のは運が良かったと言わねばならない。これがもし路上だったら、別のドラマ(?)が生まれてしまう。

問題はそのあとだった。この地に「大雨洪水注意報」も出ていたから、ちょうどその時間に当たってしまったのだろう。「雨が上がる」のを待つ余裕はなく1.5キロ先の最寄り駅まで歩き始めた。雨足はどんどん強く激しくなっていった。早くも横なぐり状態である。

昨日は台風が通り過ぎるのを待って難なく帰宅できたのに、一夜明けた今日になって、テレビに映し出されていた渦中の通行人を“再演”している気分だった。シャツは肌にべったりとくっつき、ズボンは歩くたびに重くなっていく。皮靴の中は洪水状態である。この濡れ様だと仕事先まで持ち越すだろう、厄介だなぁと思いつつも、もう引き返すことはできなかった。

最寄り駅から目的地まで約1時間半、素肌に着たYシャツは何とか乾いていた。ズボンは、裾の方が依然重く感じられた。靴に至っては、自宅に帰り着いた時点でも、まだたっぷり水を吸っている。晴れたら日干しだ、と苦笑せざるを得なかった。

このことを振り返ってみれば、台風の行ったあと一身の中に「台風もどきが入り込んだ一日」であったとでもいうべきか。からりと晴れ渡る日がいつか来るだろうか。


2011年9月23日(金)


車が使えないので電車を利用して仕事に出かけた。仕事先はバスも走っていない陸の孤島である。最寄り駅は「みずほ台」、そこからかなり離れているが、はじめから歩くつもりで出かけた。2、3キロと見当をつけていた。実際は1時間弱かかったから4キロ近くあったのだろう。

帰りは同僚の車に便乗して近くの私鉄の駅で降ろしてもらうつもりでいったん頼んでみた。快く応じてくれたが、駅周辺での大切な用事を忘れているような気がするので、と断った。

歩き始めて20分後、最近の若者の流行りを真似て
「みずほ台・ナウ」
とメールしてみた。

相手は教え子の紀である。10年前の、9.11の時にニューヨークに留学中だったこともあり、以降も折に触れて「日録」に登場してもらっている。自宅にいるなら元気な顔だけでも見ておきたいと思ったのである。

すぐに電話がかかってきた。近くのビルの壁の文字を読むと「めちゃくちゃ近いですよ」という。1、2分後、川越街道を越えると前から自転車に乗った紀がやってきた。あまりの早さにびっくりした。

もう何年も逢っていないのに、そんな風には思えない近しさ、なつかしさがある。「同級生」と対しているような感じと似ている。
鋭敏な紀は「もっと構えてしまうかと思ったけど、全然そんなことないですね。不思議ですね」と言う。
あぁ同じように思うのか、と嬉しかった。

昨日は、車が動かなくなり、ずぶ濡れになって出勤する羽目に陥ったが、今日は一転、いい日になった。


2011年9月24日(土)

先週につづき国立行。一昨日、昨日の歩行の影響で“そろそろ”足の筋肉がだるくなってきたので、4キロ先の高萩まで自転車で行く予定を変更して、新しいバッテリーを着けて戻ってきた車で東飯能まで行った。
これがお昼過ぎで、ネクタイこそしていないが背広上下はちょっと暑かった。しかし帰りは、この服装でちょうどよかった。むしろ寒いくらいであった。いよいよ秋か、それにしても変わり目が素早い。毎年こうだっただろうか。

知人のメールには、「明日は、冬に備えて薪ストーブの掃除をしまーす」とある。敷地1ヘクタールの農家を買い取ったと人づてに聞いてはいたが薪ストーブとはなんとも羨ましい。


2011年9月26日(月)

「アジサイからムラサキシキブへ」
わずか20日あまりの間に、わが家の庭は変化した。
初旬には数本の彼岸花も咲いた。広い世間でも、この一か月の変化は目を見張るものがあった。それとともに一気に秋模様である。今週後半は多少気温は高くなるようだが、台風のあと朝夕は涼しさを通り越して寒いくらいで、季節の変化、その急変ぶりに改めて驚愕する。



朝刊で山内賢が亡くなったことを知った。ボクには「ふたりの銀座」である。帰りの車の中でNHKFM放送から追悼の意を込めてこの曲が流れてきた。ちょっと高音で、ハスキーな声がよかった。この歌以前に映画のなかで見たこともある。40年以上それら好ましい記憶が残っていたのだった。

のちに北極冒険で名を馳せる和泉雅子も、当時からずっと好きであった。高校生の頃、雰囲気の似ていた、奇しくも同じ名前のそばかす美人に恋心を抱いたこともあった。

家に帰って「ふたりの銀座」をYOU TUBE で聞いてみた。昭和41、2年当時のものから、5、60歳くらいになってからのものまでいくつか聞いた。この歌、作曲がベンチャーズというのは知っていたが、作詞が永六輔とは知らなかった。

この歌を踊りながら歌いたいとずっと思ってきたが、根っからの音痴ゆえに“見果てぬ夢”となっている。口笛でなら吹くことができるのに、これではデュエットにならない。


2011年9月27日(火)

休みというのに元気が出ない。
“へんのない一日”になりそうな気がしたので『捜神記』(竹田晃訳、平凡社ライブラリー)を取り出して読み始めた。晋の代、4世紀半ばに干宝が書いた「志怪小説」、その名の通り「464の怪異譚」が収められている。一話一話は短いのではじめから丁寧に読んでいこうと思った。しばらくするとベッドに横になって読むようになるのだが、文庫本とはいえ600ページ以上あるから持ち重りがする。その重さに負けてついうとうととする。ウソだろう? と思うような妖術・魔術が、あってもおかしくない、いやあって欲しいと、ドラえもんのような夢のなかへ。


曹公(魏の曹操)は怒って、心中ひそかに元放(左慈の字・若い頃から神通力を持っていた)を殺そうと考えた。逮捕しようとするとぱっと壁の中へ逃げこんだまま姿を消してしまう。(略)
ある人が町で元放を見つけたので、つかまえようとしたが、町じゅうの人がみな元放と同じ姿になり、どれが本物やら見分けがつかなくなってしまった。(略)

陽城山のあたりで元放を見かけた人があったというので、また追いかけた。すると羊の群れの中へ逃げこんでしまう。曹公はとてもつかまえられぬとあきらめたから、羊の群れに向かってこう言わせた。
「曹公は(略)あなたの術を試してみるおつもりだったのだ。もうわかったから、どうかお目にかかりたい」
すると一匹の年とった牡羊が前足を折り曲げ、人間のように立ち上がりながら声を出した。
「さりとはご性急な」
そこで人びとが
「あの羊だぞ」
とわれ勝ちに駆け寄ったところ、数百匹の羊が全部牡羊になってしまって、そろって前足をかがめ、人間のように立ち上がりながら声を出した。
「さりとはご性急な」
どれをつかまえていいのか、ついにわからなくなってしまった。

『老子』にこのような言葉がある。
「自分が大きな心配としているのは、自分に肉体のあることだ。自分に肉体がなくなったならばあとはなんの心配があろう」


以上は巻1の21話「左慈」からの抜き書き。これなどは長目の話(3ページにわたる)で、だいたいが1ページ前後で終わる。
それにしても、千年経っても二千年経っても、人の想像力はあまり変わっていない。日本には『遠野物語』もある。


2011年9月28日(水)

夕方、越谷へ。入院中の兄は一か月ほど前に見舞ったときよりもずいぶんと元気だった。こちらを認めて笑い、手を差し出す。手を握る。嚥下の訓練のためにゼリー1個を毎日食し、点滴ではなく流動食を一日三回管で流し込んでいる。車椅子に移って外の風景を見ることも日課に加わったという。手振り身振りでさかんに何かを伝えようとするが喉から酸素吸入器を入れているので話せないのが唯一痛々しかった。

もともとの肺炎が治まってきて、吸入する酸素は25%(空気中には21%の酸素が含まれているから+5%程度)までに減っている。それだけ自力呼吸ができるようになったということである、はじめの頃には60%以上吸入していたことを考えれば、大きな進展ぶりである、などなどと居合わせた甥が教えてくれた。

病室に入るまでは“どんな風だろうか”と毎回ドキドキしたのものだが、これからは快方ぶりを楽しみに見舞うことができそうである。


2011年9月30日(金)

大阪の姉が送ってくれたものの中に「梅こぶごはんの素」というのがあった。研いだ2合のごはんに梅、昆布、五穀米を混ぜて炊き込むというもので簡単にできそうである。姉もメールで「作ってみたら」と書いていた。

帰りが10時近くになって、食事自体が面倒であったが、急に気が変わってその炊き込みごはんに挑戦してみた。
出来上がってみると、ひとかどの料理を仕上げたような気分になった。匂いも味もなかなかのもので、ひとりで食べるには惜しい。

田舎のかやくご飯を思い出した。あれは絶品だった。おにぎりにして少しあとで食べたひには、至高の喜びだった。母から嫂にきっちりと引き継がれている。

晦日が食べ物のこととは。いよいよ秋の到来である。


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