日  録 ゆず湯から『照柿』へ   

2011年12月12日(月)

【年賀状は年が明けてからと決めこみ、正月を挟んで休みなく働いていたところ、連続16日目となる1月12日、朝の仕事中にけつまずいて転んで、膝のいわゆる「皿」を割ってしまいました。翌13日に入院、15日に二つに割れた骨を針金、ワイヤーで繋ぐ手術をし、23日退院、いまはリハビリ、筋トレ中です。

まったく油断大敵でした。なぜ、よりによって上体でなく、膝で受けてしまったのか、直後に事態の深刻さに思い至り、ドジを踏んだと思ったものです。入院も初めてならば、手術も初めて、貴重な体験といえなくもありませんが、新年早々のお年玉にしては、過酷過ぎる!

痛みとともに当時の記憶が甦りますが、2月にはいって、少し考え方が変わりました。
懸案の高血圧が止み、禁煙も果たせそうで、1年分の厄が落ちたかも、と思い、思いがけず時間の余裕ができたのは、なによりも嬉しい。今夜は雪みたいです。骨折した日にも、チラッと舞うのを見た記憶がありますが、こんどは雪景色を楽しめそうです。】

これは約一年十ヵ月前の2010年2月1日の日記の一節。知人らへの報告を兼ねて書いたものであった。

実は、先月27日に、同じ過ちを繰り返してしまった。先回が左で、今回は右。2年以内に二つとも「膝の皿」を割る人はいますか、と今回も手術をしてくれることとなった医師に訊けば、しばし考えて「そうそう、いませんな」。
予想した答えだったとはいえ、ショックだった。

入院して手術までの三日間は、これが夢だったらどんなにいいだろう、と何度か思ったものである。この恥を、このドジを現実と認めたくなかった。ところが手術が終わった直後に、医師がにこりと目で笑いかけてくれるのを見て、気持ちが変わった。

遠くの畏友はメールで歳とともに「バランスが悪くなっているんだよな」と一般論で戒めてくれた。見舞いに来てくれた近くの友人は、「手に何か持っていなかった?」かと訊いた。
一ヵ月ほど前だったか、同じ場所で躓いている。そのときはたたらを踏むように数メートル泳いだが転けはしなかった。かろうじてバランスを保つことができた。たった3、4センチ、コンクリの地面から鉄筋が2本突き出している。近道するとき以外は滅多に通らない場所だった。それでも、これは危ない、気を付けねばと、そのとき肝に銘じたはずである。そして、たしか左手に小さなねじを握りしめていた。
ふたりの指摘はまったく正しかった。

かくて、先回と同じような経緯を辿り、本日16日ぶりにわが家に帰還することができた。
先回よりも5日長い入院期間だったが、あっという間だった気がする。退院前日の昨日は、電車を乗り継いで2時間かけて古くからの友人が赤飯などを持って見舞いに来てくれた。
「こんなことでもないと、なかなか逢えないからね」
うん、こんなことも“怪我の功名”というのかなぁ?


2011年12月13日(火)

退院1日目。まだ手術跡が痛むので坐って立つ、またその逆の動作でちょっと難儀する。割れた骨を繋いでいるワイヤーが外れるのではないかと、想像はどうしてもそこに及び(あり得ないのに!)膝をかばってしまう。

つまり、 病院より家がいいに決まっているが不自由も感じる。家の中で使う杖がほしい、とか、手すりがあればいいのにと思ってしまう。

先回はどうだったのだろう、と考えてみると、一刻も早く仕事に復帰したくて、退院後もリハビリ・筋トレに精を出し、癒合を促すという超音波も使っていた。

ところが今日などは、7時に目が覚めて、ベッドに横たわったまま10分ほどリハビリの先生に教えて貰った筋トレを試み、片道二百メートルほどの所にあるポストまで歩き、午後になってからは庭に出てひなたぼっこをし……と我ながら緊張感がない。懸命さがない。やはり二度目は茶番であるか、と苦笑してしまうほどだった。

暗くなってやっと、せっかくの休暇だからいままでできなかったことを、と思えるようになった。5年ほど前に書いたものを呼び出して直しに掛かった。別の意味で長い一日をそのことのみを考えて過ごせる。こんな贅沢はやはり天の配剤としか言いようがない。


2011年12月14日(水)

昼、少し気温が上がってきた頃合いに、シャワーを浴びた。先週の金曜日以来だから5日ぶりである。
病院では、看護師が付き添って、手術跡に水飛沫がかからないようにビニール袋をかぶせてくれたり、石けん・シャンプーを所定の位置に置いてくれたり、着替えを用意してくれたり、ドライヤーをかけてくれたり、それはそれは至れり尽くせりだった。“殿様”のような気分でいられた。
ひとりではそうはいかない。スーパーの買い物袋の底を破って筒抜けにして膝に当てがい、両端をガムテープでぐるぐる巻きにし、そろりそろりと段差を降りて……。

それでも無事終わってさっぱりすると、これで次も大丈夫だと自分に納得させていた。


2011年12月16日(金)

濃密な、といったん呟いてみて、いや濃厚な、と言うべきか。
いずれも「時間」の形容詞として思い浮かんだものである。語感は似ているが意味は相当ちがうような気がする。その両方のことばで形容したいなどは、休養期間の贅沢さに多少の“うしろめたさ”があるせいだろうか。

時を忘れる…この感覚も久しく忘れていたものである。
文=言葉に向き合っているとあっという間に時は過ぎていく。次の展開をうんうん唸りながら紡ぎ出していくことが苦にならなかった“昔”を思い出しながらたっぷりある時間を愉しんでいる。惜しむらくは想像力が枯渇寸前であること。あのときにこれだけの時間があれば、と思うのは単なる言い訳である。卑怯なことである。常に“時は今”でしかない。

夕刻の野田首相の記者会見を聞いていると、心のこもらない言葉の羅列に大いに失望した。中身を信じていないから、自分の心の底から言葉を発しないから、あんな風になる。つまり、自分の信じていないことをどんな言葉に仕立てようが、人が納得するはずはない。他山の石と肝に銘じよう。


2011年12月17日(土)

モニターの温度表示が0℃となったのは昨夜のこと。今朝は−1℃だった。体感としてはそんなに寒くはなかったけれど、改めて布団に潜り込んでいた。マイナスの威力に負けた気がした。

夕べ車が戻ってきた。車検が終わる日に怪我をしたから約3週間預けっぱなしとなっていた。右足がアクセルとブレーキを瞬時に踏み分けることができるか、往復6キロほどの、往来の少ない畑の中の道をコンビニめざして運転してみた。これもまた、リハビリみたいなものである。たいした違和感もなくひとまず安心した。

もうすぐ日付が変わるが、気温は0℃。朝布団にくるまりながら聞いていたピーター・バラカンの声が、いままた聞こえる。この人の話声はなぜこうも耳に心地よいのだろうか。


2011年12月18日(日)

怪我をしてちょうど3週間が経った。経過報告を兼ねてアルバイト先へ行った。顔を合わせる人毎にねぎらいやお見舞いのことばをもらう。わざわざ事務室から出てきて「どうですか」と訊いてくれる人もいる。どの人も「無理をしないで、じっくり直してから復帰して下さい」と言ってくれる。

2010年の卓上カレンダーが残っていたので書き込まれたメモを点検していると7月の初旬まで週一回の割合で病院通いを続けていることになっていた。怪我をしたのが1月だから、約半年間、リハビリも含めて病院と縁が切れなかったことになる。これはちょっと意外だった。3月頃から二つの仕事を通常ペースでこなしていたようだからなおさらである。たった一年半前のことなのに、冬・春・夏と三つの季節をくぐって、とりわけ暑いなかを通院した記憶は残っていない。

この伝でいけば、今回は? とつい考えてしまうが、しかしこんな心配(皮算用?)をするのは止めた方がいいに決まっている。先回は先回、今回は今回、である。こっちの躰も変化しているので、直り方もちがうかも知れない。なんの根拠もないけれど。


2011年12月19日(月)

『田村薬品』の田村さんがやってきた。ほぼ同年代と思われるがこの人とも長い付き合いである。25、6年前、会話を自分の部屋で聞いていた、当時小学五年生くらいだった娘が『頭のいい薬屋さん』と命名した。別の会社の置き薬がもうひとつあり、そちらと区別するという意味合いから、それがわが家での通り名になっている。

今回田村さんは一年半ぶりに中身を改めに来たのであった。ほかに仕事をしているからこんなに期間があくのだが、それはともかく、どうしても怪我の話題となる。すると、

「両掌は脳に直結していると言いますね。足の裏には内臓の情報がすべて詰まっているのですよ。歩くときは、足の裏全部を使って地面を蹴り立てるようにして、つまり、膝を大きく曲げて、両手を大きく振って歩かなければなりません。地面を滑るように歩いていたのではないですか。歳をとると、ついそんな覇気のない歩き方をしてしまいます。日頃から、歩いて足腰を鍛えておくことも大切です」

とアドバイスしてくれる。
「もっと早く聞いていればよかった」
納得して叫んでいた。
歩き方、か。なるほどと思ったのである。父は地面をこするように歩く習癖を持っていたから、似たのかも知れない。晩年は、たまに逢うだけだったが歩くことにかなり難儀していた。

田村さんも老けたように見えるが、頭は依然クリアーであった。

「持って行きませんか?」
玄関に並べてある、新聞紙にくるまれた白菜を指さすと、
「いや、白菜は食べません。うちはもっぱら○○(白菜に代わる野菜の名前だと思うが、聞き返さなかったので忘れた)です。それに100坪の畑があって、何でも作っています。自給自足。人にもあげます」

田村さんの素顔をまたひとつ知ってしまった。


2011年12月20日(火)

退院後初めての診察。抜糸をしてもらい、膝付近が軽くなったような気がする。風呂もオーケーが出た。帰りに近くの本屋さんに立ち寄った。珍しく棚に入っていた文芸誌『新潮』と文庫本を買う。家に帰って改めると『新潮』は11月に発売された「12月号」だった。 いまは「新年号」が出回っている時期だから、一ヵ月遅れである。中身を確かめているから読みたい作品はいくつかある。それについ昨日まで同じ雑誌の11月号の記事を読んでいた。次いで12月号だから、整合性はある。

しかし、こんな買いものはかつてはしなかったのに。アンテナが鈍くなっているが、それが悪いことだと感じないのは、老成したからだろうか。


2011年12月21日(水)

カルシウムやビタミンDに敏感になっている。大根畑をみつめていると近所のKさんが、

「地上に出た部分が凍てついて、やがて腐っていくんですよ。もったいないので、うちなどは切って天日干しにして、からからの状態で保存しておくんですよ。ビタミンDがとても豊富なんですよ」

作り方を教わり、特大の大根を一本抜いて、早速ざるに干した。1、2週間後には「切り干し大根」が出来上がる。

あのあとすぐに Kさんは自分の畑に戻り、ブロッコリーを採ってきてくれた。
「これで、たっぷり栄養を取って、早く治して下さい」
ブロッコリーはカロチンや鉄分を多く含む野菜である。さっと茹でるだけで、マヨネーズをかけて食べる。いたって簡単である。

退院した日に隣のTさんは福井県敦賀産の「ふりかけ・ひじきごはん」をくれた。5グラム入りの袋が40個入っていた。インターネットでわざわざ注文してくれたのかも知れない。鉄分、カルシウムがそれぞれ牛乳の500倍、13倍含有されているという。

かくてボクの食事は、ありがたさが身に沁みる献立となる。感謝しながらいただくことになる。リハビリもがんばらねばならない。


2011年12月22日(木)

冬至。
一人で暮らしていると冷凍庫のお世話になることが多く、庫内を改めたときのいつぞやの記憶が戻ってきたと言うべきか。その柚子は同じ市内に住む仕事仲間のInさんが去年、庭の木からもいだものを持ってきてくれた。料理に何回か使い、去年の冬至にも風呂に数個入れてゆず湯を楽しんだ。その残りを配偶者が冷凍しておいたのである。

ほぼ一ヵ月ぶりくらいに風呂を沸かすことにした。
皮に氷の固まりをつけた柚子を一個湯の中に放り込む。湯の中でだんだん溶けていくのかい? いいね。やがてこの躰も一緒に温まるよ。

上機嫌で湯船に入ろうとした。ところが右足は今のところ90度曲げるのがやっとの状態である。それ以上は無理しないように言われている。縦・横・深さが1メートルに満たない湯船の中では、うずくまることはできないのだった。立ったままだとお湯は膝上十数センチまで。これだと何のためのゆず湯かわからない。

諦めはしなかった。まず左足を湯船の中に入れ、右足を縁にかけてまっすぐ伸ばしたまま、踏ん張った左足を少しずつ曲げて腰を沈めていく。それにつれて右足も太ももあたりから湯に浸かり膝下数センチまで来た。そこから足の先までは湯船をはみ出して斜めに伸びている。足で敬礼しているみたいである。恰好はよくないが、あとの部分は湯に浸かっているので、ゆず湯だなぁ、と思うことができた。

都合二回湯に浸かった。一回では、物足りなかったからだ。


2011年12月23日(金)

寒い一日だった。投函すべき封書がひとつあったので、200メートル先のポストまで歩いた。家のなかでは陽の当たる場所を選んで何度か移動したので気付かなかったが、風がとても冷たかった。行きと帰りに、畑で作業をするSさん夫妻と話した。大根の話題で、食べられなくなる前に収穫を思い立ったという。寒さこらえてのはたらきに脱帽した。

この日は中学生の時担当していた卒業生の男女ふたりからメアド変更のお知らせが入った。ひとりは社会人になっているか、もうひとりは大学3年生くらいか、などと見当をつけていると、いつものように時の流れが縦ではなく横に広がっていくと感じてしまう。

それにしても、時々この種のメールが入るが、一日2件は珍しい。


2011年12月24日(土)

病院のテレビを思い出した。

テレビカードを差し込んで見る、というやつだ。入院していた16日間で一枚800分のカード2枚を使い切った(ちなみに一枚1000円)。そのカードでコインランドリーを利用した(240分分に当たる)から、テレビを見た時間は1360分=22時間40分となる。一日平均85分である。主に朝7時と夜7時のNHKニュースとその前後(クローズアップ現代など)を見ていたから平仄は合う。

で何を思い出したのかというと、NHKばかりもどうかと思い、なにげなくチャンネルをいじっていて放送大学の“もう一度聞きたいあの講義”にぶつかった。
「微分」の初歩、微分係数・導関数について説明していた。思わず見入ってしまった。少しは知識も残っていたから、なるほど、なるほどと腑に落ちてきた。それ以上に、退屈な生活に勉強、というのがなんとも新鮮だった。


2011年12月25日(日)

昼前に必要最小限の買い物を済ませ、12時から広末涼子主演・犬童一心(いぬどう いっしん)監督の『ゼロの焦点』を見た。原作の題名は知っていても読んだ記憶はないが、見ていて納得する場面が多かった。エンディングで中島みゆき「愛だけを残せ」が滔々と流れてきたのもよかった。

そのあとが、TBS「報道の日2011
」である。3.11大地震・大津波・福島原発事故、同じ時間の映像をいくつか並べて、そのときを再現また検証していた。思わず見入ってしまったというのがほんとうのところであった。
10時からは「ETV特集」。地震予知に挑む地質学者に密着して、研究成果と期待を報告していた。

テレビとともに過ごすクリスマスなんて、かつてなかったことである。


2011年12月26日(月)

高村薫『照柿』(新潮文庫)を読み終えて、ホッとした。

というのは、ずっと長い間(初版は1994年)気に掛かっていた本であることと、予想を裏切らずうねるように物語が展開しカタルシスをもたらすと同時に人間存在について考えさせられることが多かったからであった。刑事ではないもうひとりの主人公をめぐる物語と見ればこれは“芸術家小説”ではないか、と思った。結末で、その主人公は幼馴染みの刑事にむけて電話口で次のように叫ぶ。

「俺の目、さっきからずっとおかしなっとるんや。臙脂色の雨が降っとる。雨も空も全部臙脂色や、浸炭炉みたいな色や、雨が燃えとる--。照柿の雨や--」

最後に置かれた4通の手紙と、たった2行の「後日譚」には、心がふっと軽くなるのを感じた。張り詰めた気持ちで読んできた心が、である。ことばの力を思い知った。

ところで、 坪内稔典は『図書』に連載していた「柿への旅」最終回でこの小説の題名に触れたあと次のように書いている。

「たわわに柿が熟れた秋日和を過ぎて、真っ赤な熟柿が枝に残っている、それが照柿だ。 この照柿がほとんどなくなり、枝先に一個か二個残っていると季語「木守柿」となる。天地の恵みに感謝し、鳥たちのために残す柿と言われる。鳥たちに恵みを分けることで、結局柿の木を守り、来年の実りも期待できるということだろう。」(『図書』10月号)

干し柿をひとつ食べてから寝ることにした。


2011年12月28日(水)

入院中のことを思い出すと、昼間眠ってしまうので「消灯時間(9時)」を過ぎてもなかなか寝つかれなかったことがつい前面に出てくるが、ただ一度夢を見て飛び起きたことがあった。

小さな頃育った田舎の家の茶の間に自分の家族が揃っている。出居の間でこたつに入って寝ているのは配偶者であり、仏壇や神棚のある奥の間から顔を覗かせるのは子供たちである。呼びかけに答えて「そこに食事の用意ができているよ」と茶の間を指差す。そこで夢見る者ははっと目が覚める。たったそれだけの短い夢であった。

過去と現在が一緒くたであることに衝撃を受けた。建て替えられていまはもうない家は50年近い前の構えをしていて、そこに住んでいるわれらは今を生きている。初詣に行ったのを最後に家族が揃うこともなくなっている。あれはもう5年前か。

ことしもあと3日で終わる。次の年に再生への希望を託すのはいずこも同じだろう。


2011年12月30日(金)

今朝、郵便受けに新聞と一緒に一枚の紙切れ“パトロールカード”なるものが入っていた。
午前二時にパトカーでふたりの警察官○○と△△がパトロールしたという“記録”のようであった。複写式になっているのか真ん中の絵のところに文字が浮き上がっている。筆圧による凹凸を透かしてみるとここの住所とボクの苗字が読める。こんなカードをもらうのははじめてだったので複雑な気分がした。

回りの家にも一軒ずつ入れていったのだろうか。だとすれば、年末とはいえ、ご苦労なことであり、頭が下がる。
それとも、うちだけに入れたのだろうか。とすればなぜ?

そんな疑問を配偶者に話すと「物音がしたので、雨戸を開けて外を覗いて見た」という。
こちらはぐっすり眠っていて気が付かなかった。
「どんな様子だった?」
「暗くてよくわからなかった」
結果がわかってからの、こんな会話は本末転倒もいいところであるが、そのときパトロール中の警察官も、こんな時間にわざわざ雨戸を開けてこちらを窺う住人にびっくりしたに違いない。
そこで言い訳のつもりでカードを郵便受けに入れることにした。
「決して怪しい者ではありません」と。

改めてご苦労さんですと、言わざるを得ない気持ちである。


2011年12月31日(土)

大晦日である。3.11東日本大震災は記憶にとどめるべき災害だった。個人的にもいろいろなことがあった。あちらに比べればこちらは、あって当たり前の出来事の連鎖という気はするが、列挙してみたい誘惑にも駆られる。個人の歴史=日記に“はまる”ということはそういう一面から逃れられないということだろうか。としても、ここは敢えてそれを遮断する。

ボクの生まれ年は来年、『方位除け』の年回りになるらしい。その名も“暗剣殺”となにやらおどろおどろしい。さらに“歳破”が同座するという。南湖神社の解説によれば、

『暗剣殺→五黄殺方位の正反対側に位置し、大変強い凶災作用が現れます。
歳破→「破る」作用が強く現れ、なかなか物事が思うように進まない星回りです。』

うーん、これは大変だ。心してかからねば。

みなさんはどうか、よいお年をお迎え下さい。
来年もよろしくご愛読のほど、お願いします。

 


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