日  録  積雪の一日  

2012年1月1日(日)

新しい年が明けた。真っ赤な太陽が、畑の向こう側、東南の地平線から昇ってくるのを見た。
近くの氏神さんにお詣りをと思い立ったが、なんだかんだとしているうちに暗くなってしまった。明日に持ち越し。さて何を一番にお願いしようか。ほんとうはそれが問題なのだ。


2012年1月4日(水)
 
暗くなってから一キロほど先のスーパーに卵、餃子、牛乳など当座必要なものを買いに出かけた。買い物を終えて一歩外に出ると風が強く吹き、横なぐりの雨が降っている。入ってから出るまでたった十数分程度だったが、その豹変ぶりにびっくりした。

からだの芯がぶるぶる震えるほど寒い。雨はみぞれから、すぐに雪に変わった。杖と買い物袋を握りしめ、背を丸めて風を除け、ようやっと店舗の端にある宝くじ売り場に辿り着いた。初雪に打たれながら、咄嗟に思い付いた数字を書き込んだ。先客が3人いたが、並んで待った。その間も、寒い。

家に戻るまでの間雪は舞い続けたが、しばらくすると雪も風も已んでしまった。いっときの気まぐれだったかのようである。

明日富良野に戻る配偶者は飛行機が飛ばなくなったりしたらたいへんと気を揉んでいるので、新聞の予報欄を見ながら、
「明日はおだやかな晴れだそうだ」と返事した。こんな幻のような初雪はこの7年間のうちで何回か経験したことがあるのだった。

秩父の山々を近くに望むこの場所特有の現象かも知れない、とこの日も思った。


2012年1月5日(木)

年が明けてから昨日まで、はがき印刷用のソフトを使って「寒中見舞い」を何通か作った。ソフトのあまりの使いやすさに感心した。はがきを印刷するなどは何年かぶりのことになるので、大げさに言えば「浦島太郎」のようなものかも知れない。

オモテの宛名などは郵便番号を入力するだけで番地以外はすべて自動で記入される。連名欄に名前だけ書くと、主となる宛名と名前の位置が揃って印刷される。

そのうちに住所録作りに乗り出した。去年と一昨年の年賀状を引っ張り出して、打ち込んでいった。これも難なく完成した。来年の年賀状は年内に出せるだろう、と思う反面、便利すぎて少し味気なくもあるだろう。年末の一日を充てて、宛名を手書きしつつ、一筆書き添える時間こそを楽しんできたからである。

今年は始まったばかりであるのに、面白うてやがて哀しき……みたいな、こんな感想はやはりまずいか。


2012年1月6日(金)

朝、新聞を、夕方になって郵便物と夕刊を取りに出た。外に出たのはこの二回だけだった。

夕方までの2時間は映画『突入せよ! 「あさま山荘」事件』(2002年 原田眞人監督)を観ていた。人質を解放するまでの10日間を警察の側から描いている。原作が元警察庁の高級官僚にして1972年同事件を現場指揮した佐々淳行であるので、県警と警視庁の対立、危機に当たっての対応などがテーマとなっていた。

観終わったあとで、三つのことを思った。
一つは、ちょうど40年前の事件当時自分はどこに住んでいたのだったか。

二つ目は、事件のあと連合赤軍に関する『本』(もはや手元にないので、題名も著者もわからない)を読んで興味を惹かれたことを思い出した。こちらは連合赤軍に参加した学生の側から書かれていた。いい本であったように記憶している。

三つ目が、昨年暮れに古くからの友人の版画家が「家系図によると実は私の祖先は、戦国の武将・佐々成政(さっさなりまさ)に深い関わりがあるらしい。あさま山荘事件の佐々淳行なる人は、佐々氏の子孫らしいけれど」と電話口で話してくれたこと。

上二つは、たいしたことではないが、三つ目はルーツをめぐる、捨て置けない話題だった。機会があれば、家宝とも目される系図を見せてもらいたいと思っている。

さて、外に出なかった一日の記録の続き……。

これからの少なくとも一週間は冷蔵庫にあるものを適当に見つくろって食べることにしている。
その前に、そもそも何があるのかチェックしなければならないのだが、それすらも億劫な気分であった。開けて、一番先に目に入ったのが、ごま入り生そば二人前であった。年越しそばの残りである。賞味期限はすでに過ぎているが、昼はざるそば、夜には月見かけそば、として食べた。
これもたいしたことではないが、美味しかった。


2012年1月8日(日)

「若い人の常として始めは左程に思はぬことも、筆を進める内に何となく勢いに乗って往々極端の文を作る風があるものだが……」

ドナルド・キーン「正岡子規」(『新潮』12月号、連載第12回=最終回)からの孫引きであるが、これは「五百木(いおき)瓢亭の若尾瀾水(らんすい)評」であるという。

若尾瀾水が子規の人物評として「冷血、狭量、嫉妬、同党異伐、尊大倨傲、衒学……等を列挙」「是れ先生(子規)の兇徳なり」と書いたことに対して上記のように軽くいなしたということらしい。

ここに書き留めておこうと思ったのは、いまもって、若くはないこの歳になっても、思い当たる節があり、戒めにしなければならないと思ったからだ。

なお「冷血」以下の二字・四字熟語の群れもどこかなつかしく、身につまされる。

このあと「猥りに人を罵り独り高うすること(自己礼賛すること)」「自賣自鬻(じばいじいく)の跡著しきこと(極端に自己宣伝に傾くこと)」と子規への悪口が重ねられているが、ここまでくると、「極端の文」というよりも「月旦評ほど面白きものはなし」の心境かも知れない。「他山の石(人の振り見てわが振り直せ)」とすればいいことのように思うが、敢えて書かせるものの正体はわからなくもない。これも、自戒すべし、である。


2012年1月9日(月)

6時頃南東の空にことしはじめての満月が見えた。寒気のなかでだいだい色に光っていた。
ひとりで暮らしていると涙もろくなるのだろうか。大河ドラマ『平清盛』で中井貴一扮する忠盛が、白河法皇の前で舞子母子の命乞いをする場面でついに涙が出てきた。清盛は法皇のご落胤という設定なのだが、忠盛の台詞は理に叶っていて、俳優の演技が真に迫っていて……。

『一冊の本』で4年ほど前から連載中の夢枕獏「宿~」は西行が主人公だが、「保元・平治の乱」を経て清盛が権力のとば口に立つところまで来ている。今日5回分くらいさかのぼって読み直してみた。この先がいよいよ楽しみである。


2012年1月10日(火)

二週間ぶりの通院。リハビリのあと診察を受けた。

リハビリでは、うつ伏せになって膝をぐいぐいと曲げて貰った。多少の痛みがあったが、リハビリの先生は110度まで行きますね、と喜んでくれた。ちなみに正座が180度となるのである。
「お風呂に入ったときには痛みも和らぐはずだからどんどん曲げて下さいね」とも。

レントゲン写真をペン先で指し示しながらお医者さんは「ここがもう少し白くなるといいですね。でも順調ですよ」と診断してくれた。
曲げるときの痛みが残っているので、まだ無理は慎むべきか、と伺いを立てると、

「曲げるほどに骨が締まるようにワイヤーを巻いていますから、どんどん曲げて下さい」

これはいままでのリハビリのあり方を根底からくつがえすほどの助言だった。痛みを気遣いワイヤーが外れたらどうしようなどと心配していたからである。臆病すぎた。もっと外科の腕前を信じるべきだった。(それにしても、もう少し早く教えて欲しかったなぁ。笑)


まんじゅうを食べたくなった。それも、田舎まんじゅう。ケーキならぬ“誕生日まんじゅう”である。歳を取るのはある意味怖いが、まんじゅうはこわくない。


2012年1月11日(水)

若葉で用を済ませたあと、家を出るときには考えもしなかった初詣でを思い付いた。そこからだと高麗神社は、家を通り越してさらに山を登ることになるが、思い立ったが吉日、である。
天気も崩れる前で、車の中にいると陽光が射し込んでくる。今日は大安だというし、1が3個も並ぶ。何となくめでたい気分がするのだった。

神殿の前に行く間、願いごとならたくさんあるなぁ、ありすぎて困るほどだ。それらをひとりで祈らなければならない。神様も呆れかえるのではないか、と思った。

それでも当面の願いごとをひと通り呟いたあと、隣りの社務所で列の後ろについて「幸せの鈴のお守り」を手に取っていると、音を聞きつけた前の人が、
「あなたは何を触っているの?」
と話しかけてきた。

「鈴の音がかわいいので、買おうかな、と思っています」
と答えるとふいにこちらの顔をのぞき込んで、
「あら、すみません。うちの人かと思った」
ぼくよりも少し若く見える奥さんだった。

花の名を冠した鈴が4種類あったがそのうちの「カエデの黄色」を選んで、「方位除けのお守り」と一緒に買った。

家に戻ると、離れて住む子供たちにそれぞれ郵送した。これも突然に思い付いたことである。ひとりの初詣でも、そうするとみんなで行って、みんなで祈ったような気になる。配偶者には高麗神社境内からメールに神殿の写真を添付して初詣での報告をすでにしていた。

夜はお風呂の中で膝の曲げ伸ばしをひたすら繰り返して、ついに100回に達した。

こうやって出来事を並べてみると、一日24時間というものも、意外と短いと感じてしまう。


2012年1月12日(木)

昨日広島刑務所から受刑者が脱走したという。事件の行方もさることながら、テレビに映し出される刑務所周辺の映像に“夢中”になっている。

塀のまわり(もちろん“塀の外”であるが)をうろうろ彷徨っていた40年以上前の記憶が甦ってくるからである。

女友達が正門の真ん前にあったお店の二階に間借りしていた。そのお店は受刑者へ差し入れる食べ物などを扱っていたように思う。お店の玄関脇に二階への入り口があり、貸間は二つだった。となりとは板戸一枚隔てただけで、話し声もラジオの音も筒抜けだった。

もちろん男子禁制だったが、夜、何度か部屋を訪ねたことがあった。「おばあちゃんから、将来を約束するのでなければ、許すものではない、ときつく言われてきたの」と彼女は機先を制したものだった。

窓の外は高い塀で、夜などは真っ暗である。それでもそこが女の子の下宿先として成り立ったのは「刑務所前」だからか。海を隔てた地方の街にいる親たちもそのかぎりでは安心だったろう。
映像に目を凝らしていると、かつての面影はほとんどない。ただひとつ、入り口あたりにあった電信柱は当時のままであるような気がした。

その何年かあとには寡黙なK君と塀に沿って歩いたことも思い出された。学科はちがったがどこか馬の合う男だった。塀が切れたところで握手をして別れた。K君は一足先に大学を去り、その後逢う機会も、音信もない。どうしているだろうか。

K君のほかにも、何人かと塀に沿っていろんなことを話しながら歩いた。きまって夜だったと思う。暗くて高い塀はボクらの象徴だったような気もする。が、そんな記憶は、これだけ年を経れば“幻”と変わりないのである。先の女友達と何年間か一緒に住んだ場所も正門の反対側の塀のそばの木造アパートだった。


2012年1月13日(金)

入院中の兄を見舞うため越谷へ。11月の終わりに行くつもりでいたのに、その二日前にこちらが怪我・入院となってしまった。
ちょうど若い主治医が来て経過と見通しを話してくれた。一難去ってまた一難ということのようだったが、新たな事態にもしっかり対応して治癒できているということで安心した。

途中古本屋に立ち寄って文庫本(骭c一郎『捨て童子・松平忠輝』)を買って帰り、『フロンティア・エイジweb版』を開いた。畏友の記事「本を愛し妻を恋い」をプリントアウトして読んだ。

88歳の古本屋店主の一途な人生を過不足なく拾い出し、“そのいま”を照射している。互いの人生が交叉するような古本屋も、いまや成り立たなくなっていると思うだけに余計心が温くなる記事だった。


2012年1月15日(日)

今日は小正月。かつては「成人の日」でもあった。祝日の方は2000年に変わったのだからもう12年も経つのである。
この日の行事としては左義長(どんど焼きとも言われる)が有名だが、「成木責め」というのをこの日に行う地方があるという。

『山形ふるさと塾』のホームページには、

団子つくりが終わると、団子を煮た汁を持って、実の成る木(果樹)に「成るか成らねが、成らねごんたら、ぶった斬るぞ」と鉈を木に振り落とすまねをします。すると、子供たちが「成りもうす、成りもうす」と、木の陰から叫びます。木の鉈を当てたところに汁をかけます。その年の実りを約束させる呪文です。

とあった。

樹木を叩くと実がたくさん成るのは理に叶ったことであるという記事をどこかで読んだことがあるが真偽のほどはわからない。ただ、似た風習・行事が欧州や東アジアにもあるというから、一定の効用は認められるのだろうか。

それにしてもなたで叩くなどは随分荒々しい所業だが、豊穣な自然(樹)と一体になろうとしたなごりと考えれば、こんな野蛮さも古き良き時代の、懸命の祈願のカタチに見えてくる。


2012年1月16日(月)

『群像』2月号には三木卓の「K」が掲載されている。数年前に亡くなった「妻」を、47年間の生活を通して描いている。描かれる「Kの肖像」はなかなか魅力的だった。「作者とKとの関係」もユニークで、時代を背負っているなぁと感じた。

三木卓と言えば『かれらが走り抜けた日』や『野いばらの衣』が記憶に残っている。それはもう随分前のことである。同じ雑誌には黒井千次の連作小説の第一回「芝生の子供」も発表されている。同じく連作だった『群棲』は、調べてみると1984年に単行本になっている。これをはるか昔というのか、ついこの前とでもいうべきか。ともあれ、堪能した。


2012年1月18日(水)

『群像』2月号には円城塔の「松ノ枝の記」という100枚の小説が掲載されている。候補になっていることは知っていたので読みはじめたが半分くらいのところで止めていた。それが数日前のことで、今回芥川賞を受賞したというので、最初からもう一度挑戦してみた。

読み通すことはできた。【書くという行為、物語というもの、それぞれの初源へ】モチーフはこんなところかと思えたが、それにしては知が勝ちすぎて、シュールさも不徹底で、面白くなかった。いや、こういう感想自体を拒否しようとする作品の姿勢かも知れない。受賞作はどんな風であるのだろうか。


2012年1月19日(木)

ふたつの用事を済ませて家に戻った昼過ぎにはもう青空はなかった。今夜半にも関東の平野部で雪が降るらしい。積雪も予想されるという。そのことと関係があるのかどうか、もう7年間足を踏み入れたことがない(大げさに言えば、存在自体忘れていた)図書館へ行こうと思い立った。

一番近いのは、隣接する市の「分館」である。週4日の開館で、木曜日はそのうちの一つだった。それはよかったが、読みたい本はなかった。そのまま出るのもどうかと思い「ちがう市に住んでいても借りられますか」と司書の人に聞いてみた。すると印刷物をひきだしから取り出して、

「広域利用」(たしかこういう言葉だった)という制度があって、いくつかの市同士お互いに貸し出しできるんですよ。

と教えてくれた。それなのに、次の瞬間には自分の市の図書館へ行こう、と考えていた。市役所に隣接した広い立派な建物・文化体育会館のなかにあるのだろうと見当をつけたが、窓口で訊くと、まだ2キロ程先だと教えてくれる。この建物は、「文武」のうちの「武」であった。

市の図書館には読みたいと思っている本の下巻しかなかった。それでもないよりましだ、下巻から読むかと思いつつ、一応カウンターで調べてもらうと、「ありますよ。ただし、奥の書庫です。持ってきましょう」と言う。
かくて『晴子情歌 上・下』(高村薫著)、比較的最新刊の『誰かがそれを』(佐伯一麦著)と『蜩の声』(古井由吉著)の4冊を借りてきた。

家に戻ってしばらくしてから、隣接する市の「本館」、かつてよく通った図書館のことを思い出した。この市の図書館よりも蔵書は多いはずだ。それに半分の距離であり「広域利用」が利用できる。

こんな思いは、随分走り回ってその甲斐もあったのに、往生際の悪いことではある。早く雪が降らないかなぁ。

2012年1月20日(金)

布団から出もせずに、懸命に俳句を作ろうとしていた。夢でないことはわかった。障子の破れ…これで七文字、ただし字余り。雪景色…これは五文字。障子の破れ目から新しい朝の世界を覗くという主題であるはずだが、あと五文字がなかなか浮かんでこない。

ところで、怪我以来二ヵ月に及ぶ休暇もそろそろ終わりに近づいてきた。この休暇は一種のモラトリアムだったのか。だとすれば、何を待っていたのだろうか。

そこで例の一句、 「雪景色 破れ障子の むこう側」


2012年1月22日(日)

ちょうど8週間ぶりに仕事をした。いつかは決断(復帰)をしなければならず、4、5日前から「きょうから」と決めていたが、それでも「試運転の気分」は抜けきらなかった。

「早いですね。ほんとうに大丈夫? 見切り発車じゃないでしょうね」
多少そのきらいはある。
また「無理しなくていいですからね」
などとみんなに労られるので、
「仕事下さい! 来た甲斐がないですから」と冗談ぽく受けていた。

「試運転」のわりには前と同じようにできた。まず及第点というところであろうか。ただし、右足だけが相当疲れていると思った。30分早引けさせてもらい、家に帰るとすぐ風呂に入った。あたためながら膝を何回も撫でた。今日はこいつが主役だった。


2012年1月23日(月)

3日前に携帯電話のディスプレイがおかしくなった。ぱっと開くと真っ白になる。たまにいつもの待ち受け画面が出るが、下半分が虹色になってしまう。受信はできるが、真っ白の場合相手が誰かが事前にわからないという不都合がある。

夕べ少し年下の友人から電話があったので、ついでにその話を持ち出すと「つい最近ぼくの携帯もそうなりました」と言う。さらに話していくと症状がまったく同じとわかった。

「開くときの角度を小さくすると見られるでしょう?」
「それはやってないけど、いったん電源を切って再び入れるとそのときだけ元通りになるので、それで凌いでいる」

彼の場合は修理に出していまは旧に復しているという。こちらは娘の名義になっているので、同伴するか委任状がないと、直すこともできない。いずれはと思うものの、当面はできるだけ長くこの状態で使わねばならない。

そこで早速彼が教えてくれた「半開き法」なるものを試してみた。
ゆっくりと開いて、30度くらいになったところで中を覗くと、ちゃんとディスプレイが機能しているではないか。

隙間から指を差し入れて、あちこちを触ってみた。電話帳から呼び出して、メールを打つことも、電話を掛けることも可能である。
ただし、隙間はたったの30度だから、メールを打つときは骨が折れる。それに、仕草が怪しい。


2012年1月24日(火)

今日一日のニュースは積雪に惑う人々を映して飽くことがなかった。滑って転ける人や雪の坂道をたたらを踏むように歩く人を見るとこちらは両膝あたりの皮膚が粟立ってくる。

ピザを配達中のバイクが転んでまわりにいた人がわーと助けに駆け寄る場面があった。重そうなバイクを起こしてあげたうちの一人が運転席に坐った配達人に「大丈夫?」と訊く。すると「膝を打った」と答える。「病院に行った方がいいですよ。救急車呼びましょうか」

ニュース映像のなかのこんな実際の会話にどきっとする。幸い大過なかったようで、再びバイクを運転して去った。一安心である。

また、倒れたバイクを助けに行こうとして転んだ人も映し出されていた。この人は尻餅をついた。膝でなくてよかった。

一方で、咄嗟に人助けに動く人を見ると、背筋がぞくっと震える。これまで自分は人を助けること少なく、助けられることのみ多かったと思う。多くの人に感謝し、これではいかんと反省もした。そんな“積雪の一日”だった。


2012年1月26日(木)

なかなかにハードな一日だった。といっても、リハビリのために病院へ行き、その足で市役所、郵便局を巡り、いったん自宅に戻ったものの、用事を思い出してまた川越に出かけ……戻ってゆっくりできたのは、外がうっすらと暗くなる頃だった。いずれもドメスティックな用件ばかりである。日常の些細な用事は済ませればホッとするが、何かを果たしたという昂揚感からはほど遠かった。後始末みたいなところがあるから、心身の消耗はそこらあたりから来るのだろうか。

それにしても夜と朝の寒さは尋常でない。


2012年1月27日(金)

五時に目が覚めたが、布団から抜け出すことができない。小さな電気あんかを腹にだかえてエビのように背を丸める。ラジオの音は聞こえるが集中して耳を澄ますことも、読みさしの本を手に取る気力も湧かない。朝陽が昇るようになってやっと立ち上がることができる。

「今冬一番の冷え込み」を毎朝更新している。そんななかで日中の陽射しが暖かいのは救われる。春遠からじと感じさせる。


2012年1月29日(日)

いよいよ一月も終わる。北海道で最低気温−27℃を記録したというニュースを聞いた次の日に「富良野は連日−18℃」との報告を受けた。こちらも、ここ数日は−6℃である。列島が寒気にすっぽりおおわれているらしいが、こんなに寒い一月は経験がない。

日中も気温は上がらず、北風が吹いてとても寒かった。日だまりもこの日ばかりは効果を発揮しなかった。


2012年1月31日(火)

リハビリと3週間ぶりの診察。前の日、二メートルの高さから不用意にパレットを降ろしたとき右膝に衝撃が走った。そこのみに、不自然な力が加わった。いやな感じがした。
その後家に帰っても皮膚のすぐ下がヒリヒリとする。気のせいだと思えば思うほど痛みが増していく。無理したんじゃない? などとドクターストップでも宣告された日には……おおごとだと思った。風呂を沸かして、からだを暖め、しきりにもみほぐした。
が、杞憂だった。レントゲン写真を見ながら医師は「順調だね」と言ってくれた。「ちょうど(手術後)二ヵ月だね。こんどは二週間後に撮ってみましょうか」

そのとき、足早に歩けるようになりたい、正座もしたい、と思った。


過去の日録へ