日  録 泣き虫の唄
 
 

2012年2月1日(水)

夕べは鶏肉がふた切れほど残っていたので、白菜、人参、里芋、大根、豆腐を切り刻んでひとつ鍋で煮た。麺類用のかつおだしがあったのでこれも入れ、時々味見しながらみりん、砂糖、醤油を加えていった。醤油味がきついと砂糖、甘すぎると醤油と、どんどん加えていくからつい味が濃くなる。素材に助けられて美味しく食べられたが、途中から喉が渇きっぱなしである。水をたくさん飲んだ。

また、いつものことながら量が多くなる。食べられる分だけ作ればいいのに、なぜこんなに多くなるのか不思議である。深層に重要な動機が隠されているのかも知れない。

今朝も食べて、まだ残る。捨てることなどできるはずもなく、夜は、この残りにご飯を入れて「おじや」だなどと思いつつ仕事に出かけた。

夜実際にそのようにして食べた。24時間この料理が持ったと思うと感慨深い。新しい月になったというのに、締まらない話題となった。

ところでおじやの語源は何だろうかと疑問を持った。小さい頃から田舎ではおじやと呼んでいた。けっして雑炊とは言わなかった。
インターネットで調べてみると、スペイン語で鍋を意味する「オジャ」からきているとの説があった。カステラの類だというのである。もうひとつ、「じやじや」(煮るときの音か)から転じたという説も書かれている。“語源は不明”に帰着するが、米が主食の日本では、スペインを俟たなくても昔からこんな食べ方はあっただろうから、後者に与したい。これもまた、締まらない話題である。


2012年2月3日(金)

昨日リハビリのために病院へ行ったあと、返却のために図書館へ行った。返すためにここまで来るのが面倒だからもう借りないでおこうと思ったものの、辻原登の『翔べ麒麟』と『許されざる者』をつい借りてしまった。前者は奥付を見ると14、5年前に書かれたもので、当時読むことができなかった。その記憶が甦ってきたせいではじめの気持ちが変わったのである。

重厚な単行本なので布団の中で読むには骨が折れる。それに、何人もの人が借り出しているようでかなりくたびれている。それはまだ許せるが、お菓子のかけらがページに挟まっていたのにはぎょっとした。コーヒーの染みらしきものもある。

もちろん楽しく読み進めているが、いまや文庫にもなっているようなので、それにすればよかった。


2012年2月4日(土)

日中、やや寒さが遠のいたようだ。
というのは、エアコンをつけて一定の温度に保っている倉庫の中にいる身には実感が乏しかったからである。
外から帰ってくる人が「汗ばむくらいだ」と報告するのを聞いてうらやましかった。午後4時過ぎに西に傾いた太陽の光を浴びる機会があってはじめてその暖かさがわかった。
夜は相変わらず寒かっただけに十分体感できなかったのは残念であった。

暖房をフル稼働させたままソファでうたた寝をしてしまった。


2012年2月7日(火)

昨日の昼前からぽちぽちと降り出した雨が、今日の朝から本降りとなっていた。久々の雨の一日である。

その朝になって、玄関の扉の鍵が一晩中かかっていなかったことに気付いた。
思い出すことがあった。 夕べ戻ってきたときいったん習慣のように内鍵のつまみ回した。が、すぐにそのことを忘れて、再びつまみを回した。かけたのか、開けたのか、そのときもはっきりしなかったのである。確かめれば済むことなのになぜかそうしなかった。ああ、やはり二回目は余計だったのだと思った。

この家の玄関の扉は、外からだと左に回すとかかり、右に回すと開く。

「日によって、逆になるね、この鍵」と配偶者が言ったことがある。2年ほど前のことだったから、それまで6年間ずっとそう信じていたようだった。昨日は左回し、今日は右回しで開ける(開けてきた)というのである。

「昔ながらのシリンダーキーだよ。そんな高級な芸当ができるわけがない」
と“啓蒙”しながらも、「開けるときには右回し」がそういう錯覚を生むのかも知れない。面白い発想だ、他人事ではないなぁと思ったものである。

ところで内鍵のつまみは「横にするか縦にするか」である。どちらがかかった状態か、ここにこうしているかぎり思い出せない。大げさに言えばこれは「日常の死角」であり、かけ忘れを生んだ原因であるのだろう。

午後6時半、モニター上の気温は8℃を示している。2日前の「氷点下」とは大ちがいである。


2012年2月10日(金)

携帯電話のディスプレイが壊れた先月末あたりからスパム(迷惑)メール(出会い系?)が入り始めた。夕べ10時頃に電源を切って朝入れてみると18通。「大量のメールがいやなら退会を」となにやら怪しげなサイトに誘導しようとする。我慢も限界で、ついにアドレスを変更してしまった。

これから“メル友”にその旨を連絡しなければならない。みんなに手数をかけることを避けるためにもその都度、半開きのまま不自由しながら削除してきたのに。

それにしてもなぜメールアドレスが知られてしまったのだろうか。ねらいが判然としないなかで手口は見えてきたが、そのことだけは依然謎である。


2012年2月13日(月)

件の携帯電話、あれほど大量に送りつけられてきた迷惑メールは一切来なくなり安穏な日々に戻れたと思ったが今度は小さな諍いが昂じた末に名義人(娘)が勝手に“紛失”の手続きをしてしまった。それが昨日の夜のことで、以来電話もメールも受信できないことになった。

携帯電話は他の道具と同じでいったん使い始めると手放せなくなるものらしい。その間に連絡をくれる人がいればと考えると申し訳ない気持ちになり、使えないと思うだけで不安な気持ちにも駆られてしまう。これを依存症というのか、道具に振り回されるというのか、はっきりとわからないが、おかしなサガではある。

同じ論法で言えば、なければないで、何日かすればまたその状態に慣れてしまうものかも知れない。がしかし、今日9時になるのを待って「カスタマーズセンター」に電話した。通じないことの不安が大きすぎた。

「紛失した携帯電話が見つかって今手元にあるのですね」
元々紛失などしていない、とは言わなかった。名義人の親であることの確認のために3つの質問を受けただけですんなり受信拒否は解除された。電話で埒があかなければ最寄りのお店に出向いてでも再開を果たすつもりでいたから拍子抜けであった。

携帯電話にはこの日1件のメールと2件の電話があった。そのうちのひとつは甥からだった。予定通り兄が無事転院を済ませたという連絡だった。新しい病院はこちらの職場から数キロと離れていない。早速仕事が終わったあと、寄ってみた。リハビリ中心の療養になるらしい。それほどの快復ぶりに安心した。仕事帰りにいつでも立ち寄れるのも嬉しい。

ところで、こういう連絡が入るからないと困るのだ、と思ったものである。


2012年2月15日(水)

配偶者は早朝成田空港行きのバスに乗り、引き続き介護のために富良野に戻った。滞在の6日間一刻たりとも心安らかなときはなかったと推察できる。ドメスチックな瘧りがたまっていたのだから家族で担うしかない。この日旭川は吹雪の予報が出ていた。こんどは無事着陸できるかどうかを心配しながらの旅となった。寒波の再々来というが人生も似たものだなぁ。


2012年2月16日(木)

寒さがぶり返してきた。昼過ぎ外に出ると、いまにも雪が降り出しそうな大気の匂い、風の冷たさだった。ディスプレイのこわれた携帯を取り替え(機種変更)に走り、戻ってから灯油を買いに、また走った。


2012年2月20日(月)

19日夕、版画家のKさんの自宅を訪ねた。ここ数年、老齢の母親と二人で住んでいるので外出ができないと聞いていた。ならばこちらから行けばいいと思い立った。熱海での前日からの同級会を終えたあと横浜のKさん宅をめざした。

遠い昔に逢ったきりだが、顔を見た途端につい昨日にも逢っていたような近しさを覚えてしまう。20代の後半に知り合って、一緒に同人雑誌を出した(表紙を描いてもらった)仲間であり、いわば同志であった。その後彼女はアメリカに何年間か滞在して版画の勉強をした。帰国して2年後くらいに自宅近くで個展を開いたとき車で駆けつけた記憶がある。それしも20年近く前のことである。逢うのはそれ以来かも知れない。そのとき目の前のお母さんとも顔を合わせているはずだった。

「もっと大勢でいらっしゃるかと思っていましたわ」

宏大なお屋敷の、天井の高い応接間で、93歳になったばかりだというお母さんが開口一番に言われた。その後3時間あまり、上品で、チャーミングな話しぶりに引き込まれていった。バスケットボールの選手だった女学校時代のことなどは繰り返し出てきた。そこには自らの青春への哀惜すら感じられた。同級会を経てきたボクにも同じ感情が流れていった。だから余計に魅せられたのかも知れない。

母娘がそれこそ何十年ぶりかで二六時中一つ屋根の下にいる。母屋のとなりに新築した二階建てのアトリエにこもる時間もとれない生活だとKさんは言う。不平や不満のたぐいではないようだった。自分にいまの“立ち位置”を確認し、誰かに話さずにはいられないという風だった。Kさんにかきらず我らの世代は多少なりともそんな理屈っぽさを秘めている。

お母さんには「今度はもっとたくさん連れてきます」と言って辞去した。

国道との交叉点まで送ってくれたKさんは、
「死なないでよぉ」
とまわりをはばかることなく叫び、走り始めた車に伴走して手を振っていた。
高校の同級生たちも素敵だったが、日常と闘うKさんは最高だった。また、逢おう。


2012年2月22日(水)

日中少し暖かくなってきて、この冬の寒さのほどを思い知った。ひとつの気がかりは龍眼の木が春の訪れとともに葉の緑をとりもどしてくれるかどうかである。
去年の11月頃から玄関に入れて寒さを避けていた。その月の末に入院して、16日ぶりに戻ってくるとほとんどの葉が萎れていた。それまでは毎日遣っていた水が途絶えたせいか、と思った。液体の活力剤を注入したが元気は戻らず、日に日に葉は黄ばんできていまにま落ちそうになっている。よほど寒さが堪えたのだろうか。

それでも救いは、いくつかの枝はピーンと水平に伸び緑の葉を保っていることだ。ことさらに春が待ち遠しいのは、その再生に希望を託すからである。


2012年2月23日(木)

休日。リハビリ通院のあと家を挟んでちょうど反対側にある市立図書館へ本の返却に行く。蔵書整理のために休館中だったので返却だけをして新たに借りなくて済んだ。が、こうなると申京淑(シン ギョンスク)の『母をお願い』をどうしても手に入れたくなった。

図書館のとなりのTSUTAYAに立ち寄るもなかった。文庫新刊なのになぜないの? ここは“市随一の本屋”なのに、と愚痴のひとつも言いたくなる。雨足はいよいよ激しくなっていた。久しぶりの本降りの気配。ひとまず家に戻った。

旧街道で茶房を開く同級生から18日の同級会の時の写真が届いていた。何度も写真に見入り、「もうけがないどころか、茶房は女房に任せて週何回かはパートで働きに出ている。それでも十数年つぶれずに続いているから、たいしたものだろう」と自嘲気味に言い放った彼の顔を思い浮かべながらお礼のメールを送り、写真に写っていた千葉在住の同級生にもメールを送った。

それでも休日の、ひとりだけの一日は所在がない。今村昌平の『にあんちゃん』(BSプレミアム)が終わった午後3時ごろ雨が止み、晴れ間が覗いてきた。再び病院近くの本屋まで車を走らせた。さすがにそこには一冊だけ置いてあった。これで退屈せずに済む。


2012年2月26日(日)

ちょうど一週間前熱海で、西に帰る同級生と握手をしながら不覚にも涙が出てきた。彼らのほとんどは20数年ぶりに逢ったのである。このあとの20年、いや10年後でもいい、お互いの姿をもう想像することができなかった。このいまの瞬間がかけがえのないものに思えてきた。ありがたかった。それがおそらく落涙の原因だろう。

これまでにボクは別れに際して2度泣いたことがある。義弟が若くして死んだ11年前、先に帰るボクを見送りに出てくれた義母の前で不意に泣けてきたのだった。前日の葬儀の場で義母は棺に縋って泣き叫んだ。狂乱していた。抱きかかえて義母を支えていたのはボクだった。
最愛の息子を亡くした義母に不憫なものを感じた。心の片隅には今生の別れになるかも知れないという哀しい思いもあった。実際、去年8月に亡くなった義母とはこの世にて逢うことが叶わなかった。

それから数年後、慶事で田舎に帰ったのに、いざ離れる段になって母の顔を見つつ泣いてしまった。こういう時いつもは先に泣き出す母が「男のくせに泣いたらあかん」とたしなめていたが、車を走らせながらしばらく涙は止まなかった。もう逢えないかも知れないと思った末の涙だった。母は一昨年の暮れに死んだが、その前の年の8月に再び逢うことができ、あのときが今生の別れとはならなかった。

最近涙もろくなった、それはきっと歳のせいだろうと思っていたが、こんな記憶を探っていると昔から泣き虫だったのだと思い当たる。学齢前は評判の悪ガキだったのに、学校に行き出してから途端に泣き虫になった、といわれてきたが、これは自身の記憶の中にはない。忌避しているのかも知れないが。


2012年2月28日(火)

昨夕は仕事が終わったあと兄のいる病院に立ち寄った。先週金曜日に見舞った折りは、訴えたいことが何かあるようだったのですぐに筆談用のメモ用紙を差し出すと「ナニモシナイデ/○○○」と書いた。最後の文字が読めないが、看護の面で不満が募っているのだろうと推察した。
担当の看護師に不機嫌の理由を話し、今後はよろしくとお願いして帰った。そのあと甥にも電話で報告しておいた。昨夕はその甥がすでに来ていて、兄の機嫌もよかった。病気の快復は大いに見られる。こもごも励まして一緒に退出した。

今日は自身の診察日だった。帰りの道すがらカーラジオからは若山牧水のふるさと(宮崎・日向・東郷町)からの中継番組が流れてきた。牧水の出身小学校での作歌教室、短歌甲子園などの話題に触れたあと、牧水記念館からのトークショーであった。当地に住む友人のM-さんがなつかしくなって、つい電話せざるを得なかった。あぁ、聞いている最中だよ、とM-さんは言った。

やがて話題は畑作のこととなった。宮崎ではもうジャガイモを植えたという。一年の巡りは早い、とお互い感じ入った。そして不意に野菜が食べたいと思った。頭に浮かんできたのは、畑の中に4本だけ残っている大根だった。ずっと気がかりだった。

電話を終えたあと畑に下りて、そのうちの2本を抜いてきた。土の中から掘り出したばかりの里芋と一緒に煮てみた。博多の「茅の舎だし」を使って、醤油、砂糖、みりんを加えていくうちに、いつものようにどんどん味が濃くなっていった。せっかくの「高級だし」も役不足かも知れない。やけくそのようにゆで卵も入れ、ついでに豆腐も入れた。

同じ釜の飯を食ったとも言えるM-さんだからはこちらの性格を知り抜いていて、そういう成り行きを懸念したのかすぐに「おでん」と「ふろふき大根」のレシピを送ってくれた。この「日向仕立て」は近日中に試み、きっと成功させるつもりである。


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