日  録 弥縫の日々


2012年3月1日(木)

未明からの大雪で2月のうるう日が終わった。
その昨日は雪の降り続く中を車を駆って仕事に出かけた。普段の1.5倍の時間をかけて25キロ先の勤務地に無事到着したが、緊張の連続だった。信号が変わってアクセルを踏み込むとタイヤが空回りして、車体が横すべりした。何回もそんな経験をし、急ブレーキ同様、急発進も雪道にはあぶないことをやっと学習した。

いよいよ3月。今日はきのうと打って変わった暖かさだと予報が言い募っていて大いに期待したが、さほどでもない。家の中ではストーブを焚かなければならなかった。陽射しがなかったせいもあろうが、肩すかしを喰った恰好だ。また、明日は雨だという。
庭の梅はこの冬の寒さ、早春の気まぐれに閉口したのか堅く蕾を閉じたままである。

ひと枝を折って兄の病室に持って行こうと思いついた。そこで開けば、ちょうどいいのだ。無粋とは言われまい。


2012年3月3日(土) 
     
朝、陽射しが戻っていた。昨日とは様変わりである。ゆうべ、肩胛骨あたりがあまりにも疼くので10時前にはベッドに横たわって眠ってしまった。その痛みも、7時前の起床時には已んでいた。3、40年来の宿痾とはいえ、この痛みは腹立たしいかぎりだ。思い出したように炎上する。れっきとした病名はあるが原因は杳としてわからない。治療の手だてがないということである。いやどこぞにあるとも聞くが、それとてオールマイティではないようだ。

いまどきは桃の節句などという言い方は流行らないのかも知れない。ひな祭り、と言う方がぴんと来る。去年に続いてひな人形を飾らなかった。理由は押し入れから出す人がいないからである。

夕方、飾られる側の娘からめずらしく電話があり、家にある○○を持ってきてほしい、ついでにお菓子も、種類はなんでもいい、とねだられた。もっとも、ひな祭りの今日ではなく明日持ってこい、と言うのだった。


2012年3月5日(月)

外はうっすらと雪化粧。啓蟄とはいえ寒い朝である。

機種変更をしてから携帯にメールがとんと来なくなった。おそらく気のせいだろう。われらの「メール」は久闊を詫び近況を認める「手紙」みたいなものだからである。それでも、昨夜遅く若い友人から「雪が降り/膝の調子が/心配です。」という嬉しいメールが入っていた。この場合の雪は1日未明の雪のことである。この朝の雪を予見するようなものだったと言えようか。

メールに気付いたときすでに日付が変わっていたが、すぐさま近況を交えて返信した。


2012年3月7日(水)

申京淑の『母をお願い』(集英社文庫)は英訳の題を『Please Look After Mom』というらしい。

ソウル駅でその夫(父親)とはぐれた母は以来杳として行方がわからなくなった。ソウル在住の子供たちは懸命の捜索をするが9ヵ月を過ぎても手がかりすら掴めない。

しかし、この小説の主眼は探索行にあるのではなく「母とは何か」という問いかけにあり、母なるものをめぐって、章ごとに長女・長男・夫、さらに鳥になって空を飛ぶ母自身の視点から「母」の思い出や生き様が語り継がれていく。

どの章(視点)でも感情移入を強いられ、なつかしくさえあったというのが感想である。長女・長男の視点から語られる「母」はわが少年期から思春期にかけての実母やまわりにいたさまざまな母たちを思い出させた。また、夫が語る「かみさん」は、いまとなれば糟糠の妻をも連想させた。

個を語り普遍に至る恰好のテキストといえるかも知れない。


2012年3月8日(木)

先週の金曜日に蕾をつけた梅の枝を兄の病室に活けておいたところ、昨夕仕事帰りに立ち寄ると満開になっていた。家の中に差してある枝も、庭のホンモノの木も、まだまだ花開く風ではないのに。

実は、菜の花でも持って行って一緒に差してこよう(花を添えよう!)と思っていたのであった。なぜか黄色い花への郷愁に駆られた。まだ少し早いが、花屋さんにならあるかも知れないと考えていた。結局、探す時間もなく病室に入ったが、満開の梅を見てほっとした。小振りな白い花弁がたくましく思えた。

今朝、ゴミ出しの折りに畑を見ると、青梗菜(ちんげんさい)が大きく伸びて枝先の花がいままさに開こうとしている。ふた枝を手で切りとった。

「葉は硬くてもう食べられませんが、開く前の蕾のところは茹でてわさび醤油をつけて食べると美味しいですよ」と通りかかったTさんが教えてくれた。
「ああ、菜の花のおひたしみたいに、ですか」
「そうです」

玄関と居間に飾り、茹でた蕾は遅い昼食に供した。見てよし、食べてよし。菜の花の季節はこれからである。




2012年3月9日(金)

目覚めが日毎に早くなっている。今朝などは5時過ぎには布団から出て、着替えを済ませた。春眠暁を覚えず、どころではない。外は冷たい雨であった。終日降り続き、気温は時間とともに下がっていった印象がある。夜にはもう“冬”である。

そして水が冷たい。


2012年3月10日(土)

先月の熱海での同級会のとき記念の湯飲み(フリーカップ)をもらってきた。信楽在住の二人が協同して作ったものを持ってきてくれたのである。一人が土を捏ねて、もう一人が自前の窯で焼いたのだという。赤茶けた地色にねずみ色の釉薬がアクセントされた、信楽焼らしい焼き物である。これにはみなが揃ってよろこび、感動した。



釜で焼く役目を引き受けたO君がこんなことを話してくれた。

それは、細首の返し部分がぽろりと落ちてしまったいわば失敗作だったが、大きな花瓶にはじめて挑戦した時の作品だったから、報告を兼ねて恩師(ナベさん)の家に持って行った。そのあと「ちょうど君が来たから、あの花瓶をあげたぞ」という連絡があった。30年近い前のことになるがこちらにも記憶が甦ってきた。「あいつらが作りよったんだよ。記念に持って帰れ」確かそう言われ、喜んでもらってきたのだった。いま、玄関のゴムの木のわきに佇んでいる花瓶(表紙の写真)である。

どんなものにも来歴はある。あれも記念、これも記念、である。


2012年3月13日(火)

休日。朝2時間ほど二階の窓辺に寝転がって本を読んだ。あまりにも陽射しが温かそうだったから、つい上った。

BGMはインターFMの生放送(ピーター・バラカン)、本は澤地久枝『密約-外務省機密漏洩事件』(中公文庫)。日曜日のテレビドラマ『運命の人』(山崎豊子原作)に触発されて2日前から読み継いできた。偶然本棚で見つけたが配偶者が買い求めた本(たぶん)である。

30年前の本だから紙が黄ばんでいる。おまけに活字も小さい。実に読みづらいが、朝陽にかざすと活字が物理的に立ち上がってくるようで、すいすい読み進むことができた。これは僥倖だった。

さらによかったのは読了して中身が今なお古びていないと感じたことである。国家権力、検察権力の恐ろしさとともに、「ひそかに情を通じ」の文言に操られてしまうような精神構造から自由ではないことを思い知った。これは戒めである。

著者はこう書いている。

《密約を結び、しかも国会と国民を欺き通し、すりかえのために一組の男女をあばいた政治の責任へ問題を差し戻そうとしつこく努力してきた。しかし、現実を見れば、それはなんと遠くかすんでしまったのだろうか。》

《蓮見さんも西山さんも無罪になり、それぞれ心に傷は残しながら新しい人生を生きていく─。そして政府によって投げられた「情を通じ」云々のブーメランを、こちらが逆に投げ返して、「それが事の本質にとってどんな意味があるのか」とはね返せるようであったら、「民主主義」は、確実な手応えのあるひとつの実績を残したであろう。》 


2012年3月15日(木)

梅の花がまだ開かない。毎朝見上げては、蕾のままもいいものだ、それなりの風情はあるなどと負け惜しみみたいなことを思うようになっていた。それでもあと少し経てば咲くのだろうか、白い部分がふっくらとしてきた。

今日は終日強い風が吹き、夕方になると冬さながらの北風になった。が、春は春。数日前から庭には黄色いクロッカスの群生が見られるようになり、朝には閉じていた花弁も日中には大きく開いていた。

久々に味噌汁でも作ろうと思い立ち人参の袋を覗くとどの人参からも長い葉が突き出ていた。袋の口から入る光と外気の温度に反応したにちがいない。根元数センチを切り落として水を張った皿に活けてみた。名付けて“人参の春”。




2012年3月17日(土)

16日未明「吉本隆明」が亡くなった。その日の朝のニュースで知って驚いた。
整理のつかない本棚から氏の著作を取り出してはぱらぱらと眺めている。どの本もよく理解して読んだという保証はないが、40年以上にわたって刺激を受けてきたのはまちがいない。

『空虚としての主題』は一年間の文芸時評をまとめた本だった。あちこちに鉛筆の書き込みや傍線がある。なつかしいものに出会う、と感じた。これは30年前の本である。

文芸雑誌『作品』に5回、休刊のあとには7回分がガリ版刷りで発行されている。ガリ版刷りなどというのも、氏の思想の一端のようで、なつかしい。その版を封筒から取り出してみると、いまもって色あせていない。十分に読めるのである。


2012年3月20日(火)

朝、あまりの陽気に誘われて、真正面の庭一平方メートルばかりの一角を鍬で掘り起こし、二つの畝らしきものを作った。そこに数日前名古屋のO君から送られてきた約20個の「ツタンカーメンの豆」の種を蒔いた。

土をいじろうという気になったのは、今年になってはじめてであった。土にへばりつくようである雑草をより分けながら、ときに素手で土をかき回したり、寄せたりした。一丁前に土まみれにはなったが、ふと足元を見るとサンダル履きである。まだ本腰は入らないわけであった。

O君によるとこの豆は「エンドウ豆の一種で、あおむらさきの鞘だ。豆自体はグリーンだが豆ご飯にするとごはんが1日あとに色がついて赤飯風になる」らしい。ネットで調べるとルーツはツタンカーメンの陵墓から発見された種という説がある。“やがて赤飯になる”などという“霊異”も、さもありなんであるのか。

畑では去年の秋に芽生えたエンドウ豆が、ことのほか寒かった冬を経ていよいよたくましく育っている。同じ仲間ならば植え時期としては遅きに失したかも知れないが、なんとか芽を出し、花を咲かせて欲しい。不思議の豆が収穫できますように、ツタンカーメン様!


2012年3月21日(水)

昨夕、富良野に戻った配偶者が旭川空港の“雪景色”を送ってきた。無事着陸できるか、成田に引き返すか、それとも新千歳かというほどの大雪だったらしい。北の春はまだまだであるのか

夜遅くなってから、たまっていた新聞の切り抜きをクリアーブックに整理し始めた。去年から今年にかけてのものが中心であったが、抽斗から出てきた1994年から1999年にかけての4枚の切り抜きも一緒にファイルした。これらは全体が黄変し、端っこはぼろぼろとはがれそうだったが、透明ビニールの中に挟み込むとしゃきっとした。二十年近い歳月を感じさせない。もちろん中身も、である。

ここ一年の分は日付順にファイルしようと思った。日付のないものは推測しながらだったから、出したりいれたりを繰り返す羽目になる。気が付くと日付が変わって今日になっていた。それからさらに1時間、ファイルした切り抜きをビニール越しに読み継いでいった。


2012年3月22日(木)

日中は16、7℃になるという予報だったのでよほど期待したが、家の中にいるとかえって寒かった。温度計はたしかに12℃から14℃を示していたが、期待が大きかった分落胆もしたのかも知れない。

そんな体感とは関係なく、ミニ柘榴の種を鉢に蒔いた。干涸らびてしまった一昨年の実から取り出した種である。去年、植えた場所が悪かったせいで実がなる前に木が消えてしまったのである。

再生を念じて、清見オレンジの鉢のとなりに置いた。これも贈られたオレンジの種から芽を出したもので4年目くらいになる。いま高さ20センチにまで伸びて、庭に植え替えられる時期を待っている。

さらに、もう5時を過ぎていたが、一枚分の障子紙と糊が見つかったので、懸案の張り替えに突入した。自分の部屋の庭に面した窓の障子戸だが、ところどころ破れたまま何年も放置してきた。障子戸の手前にレースのカーテンを掛けて隠してきた。

ベッドがすぐ傍に横たわっているので障子戸を外すことに難渋し、張り替える場所の確保に苦労した。何年か前もこうだったとすぐに思い出した。それらを乗り越えて1時間後、竹の透かし模様の入った新しい紙になった障子戸が出来上がった。ただしあとの一枚は、破れた2か所だけを新しい紙で手当てするにとどまった。これを弥縫というのだろうなぁ、とふと思った。

明日はほぼ終日氷雨だというではないか。


2012年3月24日(土)

肌寒い朝だったが、日中はほどほどに暖かかった。といっても主に飲料を置いている倉庫のなかにいるから冷房が利いている。いつもは外気を感じないのだが、今日ばかりは動いていて汗をかいた。あ、外は暖かいのかな、と思った次第である。庭の梅も、近所の梅林も満開になった。やっと、である。

庭から蕗の薹を探し出してきたのは一週間前の配偶者であった。残っていないかと、真似て探し回ってみたがなかった。その代わり青梗菜のつぼみと葉を食事に添えることを覚えた。

この夜は味噌汁に入れるつもりで葉や茎を切り刻んでいてついつぼみの群生(菜の花)をバサリとやってしまった。食卓にはコーヒーカップに入れた菜の花の束が飾られている。日とともに開いていく様を愉しんでいた身がなんということをと一瞬どきっとした。


2012年3月26日(月)

午前八時現在モニターの気温表示は−1℃である。これで本当に3月下旬なのか、と驚く。そういえば目は覚めたものの電気アンカを抱きしめたまま一時間近く起き上がれなかった。


2012年3月27日(火)

4週間ぶりの診察日だった。レントゲンを撮ってお医者さんの所見を伺うのは緊張するがたのしみでもある。

「順調ですね」
「ありがとうございます」
「リハビリは?」
「週一回、通ってきています。今日もこれからです」

「なんか、不都合なことありますか」
「足を水平にして持ち上げるとき、割った皿のところが痛いんです」
先回も訴えたことをまた言ってみた。ボールや道ばたの看板を蹴るわけではないので、日常生活の中では差し障りはない。トレーニングのために足を持ちあげるときに痛くなる。リハビリの先生や職場の人の意見を総合して膝のまわりの筋肉が衰えているせいではないかと見当をつけていた。

しかし原因に立ち入らず、
「あ、そう。次は3週間後に撮ってみましょうか」
とのみお医者さんは答えた。

そのあと、骨のまわりの筋肉をつけるためにどんな訓練をすればいいか、明日で定年退職するというリハビリのO先生に聞いた。(O先生には両膝ともお世話になったことになる)

「 くるぶしに力を入れて伸ばし、5つ数える間そのままの状態でいる。それを繰り返すことですな。くるぶしの上から反対の足で負荷をかけるともっといい」
と教えてくれた。

言われた通りやってみると、これが半端でなく痛いのである。日常的に続けるべきだろうか、怺えてでも。


2012年3月29日(木)

おだやかな陽気に誘われて龍眼の木を外に出した。枯れかけた葉と一部の枝を落とし、根元の土を掘り起こして、昼前から陽のかげる頃まで玄関の外に置いておいた。この木にとっては5ヵ月ぶりの直射日光である。

昨年の12月、約2週間の入院を終えて帰ってくるとほとんどの葉が萎れていたのだった。それまでは毎日行っていた水遣りをしなかったせいかと思われるが、その後がことのほかに寒かっただけについに元通りには成らなかった。ここは太陽の力に再生を賭けるしかない。と思いつつ根元近くの幹を仔細に観察すると黄土色の芽が数個顔を出している。まだまだ小さく、大きな葉に育つかどうか危ういが、これは希望である。

また、自転車で周囲約2キロを走り回った。膝のまわりの筋肉をつけるために「あぁ、自転車もいいですね」と言われていたからだ。右ペダルを踏み込むときのかすかな痛みに妙な実感、存在感が伴ってくる。陽の光りは優しげであり、少し冷たいくらいの風は背筋をしゃきっとさせる。

さらに、エンドウ豆の植わった畝の4隅に立てた棒に、つるが絡まるためのヒモを張り巡らせた。ぐるりと一周させ、上へ上へとあげていく。はすかいにもかける。豆の成長に合わせて作ればいいと言われていたが、今日のような日には、つい気が逸ってしまう。

裸虫にも春が来た。


2012年3月30日(金)

西の空に「金星・三日月・木星」が縦一列しかも等間隔に並んだのは26日の夕刻だった。玄関口に立つと道路を隔てた向こう正面の二軒の家と家との間から西の空が見えるので、鍵を手にしたまましばらく見上げていた。そこのみに皓皓とした霊気が漂っているようで、粛然となった。
宇宙のいたずらと地上の人のささやかな営み。

二ヵ月先の5月21日朝には金環日食が見られるということをあるメルマガによって思い出させられた。
というのは、去年たまたまこの日が誕生日のNにメールを送り、来年の誕生日にはすごい天体ショーが見られるそうだ、と書いた。そのことも実は忘れていたのだった。

あれからもう一年が経つ。人の営みは儚いというべきか。時の過ぎゆく、その早さにも愕然とする。


2012年3月31日(土)

朝、配偶者から保谷に住む従弟が亡くなったという報せが届いた。老舗のゼネコンに勤めていて、勤め先の近くで銭湯建設の現場にいるというので一度訪ねてみようと思ったことがあった。7、8年も前のことになる。結局訪ねはしなかったが、傍を通りかかると『現場責任者』の欄に彼の名前があり、なぜか納得していた覚えがある。

高尾山に登っているときに心筋梗塞をおこしたという。 61歳である。無念の死であるにちがいない。


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