日  録 小さきものたち  

2012年5月1日(火)

朝近くのホームセンターに走り、肥料のほかにキュウリとトマトの苗を買い、戻るとすぐに植え付けた。畝や鞍はすでに出来上がっている。配偶者が戻っているこの連休の仕事とかねてより思い決めていたのだった。
いよいよ夏野菜の季節がやってくる。作物を毎日のように摘んでは食べていた去年の夏が思い出される。

畑のあと思考は庭へむかった。
清見オレンジの種から思いがけず芽が出て、この2年間で20センチばかりになっていた。ずっと玄関の中に置いていたのでいささかヒョロッとしすぎているきらいはあるが、濃い緑の葉は艶々しく、葉の数もどんどん増えてきた。茎が太くさえなればやがて実を付けるはずだと、半ば期待しながら片隅に移植した。

草をむしりながら庭を這い回っていると、山吹のひこばえが見つかった。最初にあった場所からかなり離れ、正面のモミジの木の下で、いろんな草花が混じりごちゃごちゃしている。これは不遇と、裏手の合歓の木のそば、窓を開ければここから見えるところに移し変えた。

さらに、ふたを開けて覗いたばかりに下水にたまった泥を浚う羽目となった。築40年だから、下水もいかれている。定期的に掃除していかないと水が流れないのである。今回は、半年以上さわっていないことにも気付かされた。

シャワーを浴び終わると午後1時を過ぎていた。驟雨が襲ったのは、午後2時ごろである。清見オレンジや山吹のひこばえにとっては場所が変わって最初の洗礼であるか、と雨足をしばし眺め遣った。元気に育てよ、という天の励ましでもあったろう。


2012年5月2日(水)

ついに、登場。
そんな感じがした。夜帰ってくると長い間玄関に置いていたゴムの木が居間に移っていたのである。
そこのみにみどり満ちて…これが夢だったような気がした。
「いいねぇ」
思わずそう叫ぶと、たった数メートルとはいえ重い鉢をひとりで動かした配偶者は、無言で頷いた。

その大きなゴムの木があった玄関の明かり窓のそばには、丈にして30センチほどのゴムの木が置かれている。居間にやってきたものと比べれば、孫かひ孫ほどに見えるが、いつかくねるように幹を太らせ、濃い緑の葉を繁らせ、堂々と屹立していくのだろうか、と思う。ともあれ、期待も不安もひっくるめて日々の楽しみをくれるわけである。


2012年5月3日(木)

終日雨、ときに激しく降った。夕方外を眺めわたすと、庭にも畑にもいくつか水たまりができていた。コンクリートのうえでは水は溜まらず、ただ流れるだけだから、それはめずらしくも、なつかしい場景に思えた。


2012年5月5日(土)

数日前たい焼き風の鯉のぼり焼きというものを人からいただいた。今日、ネットで検索してみると加須の名物だということがわかった。同市の和菓子屋ではどら焼き風のこいのぼり焼きもあるようだ。

加須(かぞ)市は二十五年前から毎年利根川の河川敷でジャンボこいのぼりを空に上げている。全国的にはそれで有名な埼玉北東部の街である。そのジャンボたるや全長100メートル、重さ350kg、口の直径10mというから壮観である。

もともとこいのぼりの生産が全国一の街だからこれらの発想が出てくるのだった。

埼玉の西南部を主な生活の場にしているので、加須などはほとんど馴染みがないと思っていたが、『地獄は一定すみかぞかし―小説 暁烏敏』を書いて1997年に64歳で亡くなった作家の石和鷹はたしかこのあたりの出身だし、教え子が勤めている会社『wacom』の本社もこの街にある。ペンタブレットで名をなしたこの会社は、ここ十数年、とりわけ彼女が入社してから急成長を遂げている。

美味しい鯉のぼり焼きを食べたおかげでいっそう親近感が湧いてきた。これで贔屓の野球チームが勝てばとてもいい“こどもの日”となったのだが、残念ながら連敗してしまった。


2012年5月6日(日)

北関東(栃木、茨城)で竜巻による大きな被害があったことをカーラジオで聞きながらまだ明るいうちに帰宅した。テレビで映像を見ると、中層のマンションらしき建物がずたずたになっている。つぶされた一軒家の下敷きになった中学生が死んだとも報じられた。

雷に打たれた母子が重体というニュースもあった。昨日は白馬岳で登山者が遭難して何人も亡くなっている。連休中も、天変地異は休んでくれない。

帰宅早々目に入ったのは、わが背丈ほどのプラムの木が横倒しになっている光景だった。近づいてよく見てみると二枝に分かれる根元に大きな裂け目が入っていた。添え木をあてがっていたがヒモが切れている。

茎がまだまだ細い木とはいえ、こんな倒れ方をするのはここにも相当強い風が吹いたということか。すぐに、添え木をもう一本増やして新しいヒモでくくりつけ、裂けた根元をぐるぐる巻きにして補強した。

元通りに立った木を改めて仔細に眺め回すと豆粒ほどの青い実がふたつ見つかった。3年前の5月に苗木を植えて以来、はじめての実だった。このプラム(ソルダム)、「自家不結実性」とやらで近くに同種の木がないと受精できず、実もできない、と聞いていたので興奮した。梅の木の下に植えた甲斐があったということかも知れないが、大きく育つ保証はない。ただ、ひとつ楽しみが増えたような気がするのだった。


2012年5月7日(月)

5:00 起床。携帯のアラームをセットしておいたが、音が鳴る前に目を覚ましていた。ふたりで軽く食事をしてから6時前に出立。もっとも、成田行きの高速バスに乗る配偶者を10キロほど先の川越駅前まで送るのであるから、出立ということばは、すぐこの家に戻ってひとねむりを目論んでいるボクのためのものではない、残念ながら。

駅前の停留場にはすでに20人以上の列ができていた。その脇を駅へ通じる階段めざして少なからぬ人が急ぎ足で駆け抜ける。ほぼ同じ時刻に羽田空港行きも発着するらしく、ほとんどがそちらの方の客だとわかったが、6:20 にして、この活気である。荷物を手にバスの到着を待つ人や行き交う人々の顔や足の動きに目を奪われていた。久しぶりのことである。

かくしてこちらの連休も終わり、ひとり暮らしがまたはじまる。


2012年5月8日(火)

初冬に枯れはじめた葉についにみどりは戻らず、すべて落としたうえで、枝も切った。つまり丸坊主にしたのである。それがようやく暖かくなり始めた一ヵ月ほど前のことである。丸裸になってなお春になれば再生する庭の合歓の木やモミジのように、幹のあちらこちらから新芽が出てくることにすべての望みを託したのだった。

以来玄関の外に出しっぱなしで毎日、いや1日数回、まだかまだかと子細に眺め回してきた。ここ数日はほとんど祈るような気持ちであった。もうダメなのだろうか、と悲観的な思いもちらついたからである。

そして今朝、ついに芽生えを見つけたのである。
先端が少し赤っぽく、根元はキレイな黄みどり色をしている。目を凝らしてやっとわかる程度である。したがって、携帯のカメラでは映し出せないほどの小ささである。一昨日の豆粒ほどのプラムの実といい、5月早々“小さきもの”に縁がある。しかしこれは日毎に大きくなる芽と確信した。

丸坊主の龍眼の木から新芽が出てきたよ、と富良野に戻ったばかりの配偶者にメールで報告した。


2012年5月9日(水)

夜明けの夢の中では、住んでいるのはこの建物だが、その街は二十歳前後の五年間を過ごした広島であるらしい。友人三人が揃って訪ねて来た。年恰好はいまのようにも見えるが、みな少し若いような気もする。こんなに広いんだよ、泊まっていったら、としきりに勧めるが彼らはどうしても帰らねばならない用がある、と言う。

切符は買ってあるの? と訊けば、ああ、と答える。ならば駅まで。せめて見送るよ。
ここでもうひとりが合流する。この友もなぜか広島在住である。
「オレも一緒に駅まで」
「それには及ばないよ」
「いや、しばらく駅へなどは行ったことがないから、見送りがてら、見物したい」と彼が言う。ボクもそっくり同じ思いだった。駅の夢はついこの前にも見た覚えがあった。あのときは新幹線ホームになかなか辿りつけなかったのだ。その駅で合流することにしていったんみなと別れたところで、夢はぷつりと切れた。

この夢は『face book』に登録してみようかとふと思い付いた(していないが)ことと関係があるのかも知れない。


2012年5月10日(木)

午後のいっとき、暗雲立ちこめ、雷鳴もとどろいた。近いのか遠いのかわからないが、音は相当大きかった。すわ、と身構えたものの、こちら(埼玉・日高市)は1時間もすると晴れ間が覗いた。ホッとしたというのが正直な感想である。 6日に竜巻が通過した跡の映像をみると、その一瞬の猛威に慄然とする。逃げようも、ましてや防ぎようもないではないか。こんどばかりは肩すかしを喰ったなど言ってはいけないと思うのだった。

娘の本棚に東野圭吾の『片想い』という本があったので退屈しのぎに読み始めた。するとこれがなかなか面白い。まだ三分の一のところだがぐいぐいと引き込まれる。ことしアメリカのエドガー賞に『容疑者Xの献身』がノミネートされ(受賞は逸した)話題になった推理小説作家の、1999年〜2000年にかけての作品である。もう何年も前にやはりなにげなしに手に取った『白夜行』に“これはすごいなぁ”と感じたことがあった。その再現となるかも知れない。


2012年5月11日(金)

4日前、夕食に麻婆茄子なるものを作ろうと思い立ち、野菜室に残っていた八女JA発『博多なす』を取り出した。そのとき、へたの部分にある棘が右人差し指第一関節に突き刺さった。棘の先5ミリほどが皮膚の中にくい込んでしまった。茄子を収穫するとき幾度も経験しているはずなのに迂闊であった。

早速縫い針を使って取り出しにかかった。まわりの皮膚を破るようにして棘をはじき出すつもりがなかなかうまくいかなかった。右利きなのに左手しか使えないこと(こういうときひとり暮らしは不便である)や、患部(?)が小さすぎてよく見えないせいである。なすの棘だから身体の奥深くに悪さはしないだろう、と中途半端のままにしておいた。

棘は残っていないように見えるが触ると痛いから2日後にもう一度針の先で皮膚を広げてみた。だが、ときに、まだ痛い。

今日になって、シャワーを浴びたあと指先を凝っと眺めてみると、皮膚の下に黒いモノがあるではないか。押せばかすかな痛みが起こる。これぞなすの棘にちがいない。食事よりも先に3回目の縫い針の登場となった。今度こそ手応えがあった。

それにしてもこの“小さな棘”である。4日間奥深くに潜んで、時間とともに表面に再び浮かび上がってきた。このような生理現象は「新陳代謝」ということになるのだろうが、痛みが消えたいまとなれば、張りを失いかけている自分への警鐘であったのかと思われる。

ネギを切る包丁の切っ先が逸れてすんでの所で指を切り落とすところを爪が助けてくれた。足の甲を直撃してくるパレットを咄嗟に避けることができた。この4日間に起こったふたつの危険を遣り過ごして、いま元気。自覚がなかったか、あるいは忘れているだけで、危険はほかにもあったかも知れない。

なすの棘、正確にはその痛みがそれらを未然に防いでくれたと思いたい。


2012年5月14日(月)

結局こういうところに偏執的にこだわっていくということなのだろうか。

ともに「小さきもの」と呼んでいる龍眼の芽生えやプラムの実を一日に何度も眺める。見た目にはほとんど変わっていないのに、うんさっきよりは大きい、と納得する。頭のなかにはすでに大きく成長したすがたが漫画の吹き出しのごとく現れている。

今朝はついに写真(「pictuers」)にそのうちの1枚を格納)を撮った。小さいモノながら鮮明に写っていたので、mixi の頁に公開した。何人かから反響があった。

外に出すことで、こだわりを解き放ち、不安を紛らせているような錯覚に陥る。がしかし、これは楽しみである。日々大きくなっていくことが希望であり、楽しみなのだ。うんと若い頃、たとえば40年前にこんな考えを持つことができただろうか。

ずいぶん遠くまで来たような気がするし、いやまだあの頃に少なくとも精神は踏みとどまっているようでもある。自分探しの謎は依然続く。


2012年5月17日(木)

7日ぶりの休みとなるのでいろいろとやることがたまっていた。日毎に大きくなっていくジャガイモの土寄せ、茫々となっていく庭の草とり。午後になると上空に寒気が入り込んで天気が急変すると予報されていたので、この二つは午前中に片付けておこうと思った。

9時前にはじめて、終わったのが12時前。またたく間に時間が過ぎていったのはいつものことである。土寄せはうまくいったが、庭の草とりは中途半端に終わってしまった。背丈の高いものを植木鋏で地上部分を切るだけにした場所もあったから、いわば虎刈りみたいになってしまった。

その他の用事を済ませ午後5時にはテレビ視聴の態勢に入っていた。100歳の監督・新藤兼人が17年前の1995年に作った映画『午後の遺言状』を見るためである。

見終わって「構造のある物語」ということを考えた。それは、たとえば、冒頭自分の入る棺に釘を打つための楕円形の石を河原で拾う、海に入って心中した親友の老夫婦の棺が海から浮かび上がってくる(棺を担いでいるのは8人ほどの黒衣=くろご)、その石は最後の場面では元の川に投げ返される、という「骨組み」のことである。表現のために考え抜かれた構造を備えているから感動も深く、余韻も大きい。

とりわけ村の習俗「足入れ婚」が再現される場面では背筋がぞくっと震えた。久々に『裸の島』の新藤兼人を感じた。


2012年5月18日(金)

帰り道を変えてみた。といっても右回りか、左回りかのちがいに過ぎない。あるいは、畑の中の蛇行した坂道を上ったり下ったりするか、閑静な住宅街周縁の道を縫うように走るか、の差である。

今日は最近は通らなくなった後者を選んだ。はじめは、何年か前に造成された戸建ての団地に入る。その名も「フラワーヒル」。続いて、もう少し前、おそらく40年近く前に開発されたとおぼしき住宅街の脇をすり抜ける。反対側に小さな雑木林が残っている。

近くの電信柱には「北入曽」と緑色の地名表示板が張ってあった。すると北から南に向かっているのか、と意外な感じがした。と同時に、あ、この辺りだったのか、といまさらの如く気付いた。

家に戻ってその詩集『北入曽』(吉野弘著)を探したが、奥に埋もれてしまって見つけることはできなかった。当時はこの街とは無縁だったが、「北」に惹かれて手に取り、買い求めたはずだった。その記憶だけは戻っていた。


2012年5月21日(月)

6時起床。底に釘で小さな穴を開けた牛乳パックを窓辺の陽射しに当てると、畳の上に欠け始めた小さな太陽が映った。あまりにも小さく、可憐と言えなくもないそのゆらめきに、おもちゃの世界をいじっているような気がする。それでもたしかに太陽は月の影に入り始めていた。

外に出て、観察中の隣人にグラスを借りておりしもリング(金環)になった太陽を見た。ピンホールで映し出したカタチとはちがって、直に見ると迫力がちがう。綺麗だった。そればかりか、あたりは薄暮のようになり、気温も急に下がっていった。神秘のなかに夢を胚胎している現象だった。人みなに公平な、天からの贈り物であったのか。次は18年後の北海道で見られる、ということらしい。


2012年5月22日(火)

空いている椅子に坐り、待ち時間に備えて持ってきた文庫本を広げるや否や名前を呼ばれた。大きな声で返事をして立ち上がろうとした。すると隣に坐っていた老夫婦が先に立って、ボクの前をすたすたと歩いて診察室へと消えていった。

たしかに自分の名前だったが、さては同姓同名? 予約時間ぴったしなんてことは今まで一度もなかったしなぁ、ともう一度坐り直して、まだ手にしたままだった文庫本を広げた。ところが、一字たりとも読む暇なく、再び名前を呼ばれた。扉口でさっきの老夫婦とすれ違った。

こういう場合、間違えたのは老夫婦とボクの双方ということになるのだろう。二回ずつ呼ぶから都合四回フルネームで叫んでくれた看護師には「すみません。さっきの方が先に入って行かれたので」と謝った。妻が患者らしい夫の手を引っ張って、自信満々だったのである。

間違えるほど似通っていたのか、どんな名前か知りたいと思ったのは、家に戻ってだいぶ経って「骨が出来ています。これで一応終わりにしましょうか。また何かあれば」医師の言葉を反芻しているときだった。怪我をしてから約半年、病院通いが終わった日のエピソードとしては、どんなものだろう。


2012年5月24日(木)

気持ちがとても散漫になっている一日だった。何をしてもちぐはぐとはこのことかと思い知った。といっても、例によって極私的なことで書くのは憚られる。そして、めぐり巡って辿り着いた宝くじ売り場にはしばらく顔を見なかった人が窓口に坐っていた。

彼女はボクの名前を知らないが、ボクは彼女の名前を知っていた。10年以上も前に名札の字が独得だったので訊いたのである。日録にも書いた記憶があるので探してみたが見つからなかった。あるいはそんな個人情報は書かなかったのかも知れない。結局名前は思い出せないから、いまは知らないのと同じである。

「今日はなつかしい人にたくさん会います。なんと言われたと思います? 太りましたね、ですよ。ひとりならまだしも、ふたりからも」

気さくに話しかけるので人気があるのだ。加えて、その美しさとハスキーな声がボクにはたまらない魅力で、この人から買うと当たるかも知れないと錯覚してしまう。10年前には隣の駅前の売り場にいて、いつしかいまの「WAKABA WALK」に移動していた。“再会”も偶然だった。お互いにびっくりしたが、本屋もあり、映画館もあり、スーパーもあるので、ついでに立ち寄っては顔を合わせていた。

今年1月、4つの数字を当てたときは真っ先に駈けつけた。しかし彼女はいなかった。その後も数回訪れているが、やはり不在だった。そこで今回、手帳に挟んでおいたよれよれの明細票を見せて報告してしまった。やっと相手に出会えたいう思いが強かったが、彼女にはこんな自慢を聞いても嬉しくも、楽しくもないだろう。それでも「まぁ、すごい!」と喜んでくれた。

元はとれていない、焼け石に水、だとしても、10年に1度の僥倖にはちがいない。それを伝えたかったのかとあと知恵の如くに思った。

出会ってから正確には12年近く経っている。あっという間だった気がする。人が見ればこちらはずいぶん老けたはずだが、彼女は当時と少しも変わっていない。なぜだろう。不思議である。もちろん、前回会ったとき(いつか思い出せないが)よりも太ったなんてこともないのだ。


2012年5月26日(土)

仕事中、飲料の入った箱を次々と開けて中を点検しているときになつかしい匂いを嗅いだような気がした。何だろう? としばし考えるうちにすぐに思い当たった。遠足の前の日、主におやつを詰めて枕元において置いたリュックサック。久しく開けたことのない押し入れから漂ってくる芳しいかおりに似ていた。

寝る前に何回も広げては中身を確かめた記憶も残っている。朝、母手作りの海苔巻き寿司を入れるのである。おそらく小学生の頃だ。一年に数回、観光バスに乗って谷底のような村から街へ出かけていくのだったが、真新しいものでもないのに、いつも同じ匂いがした。

そのリュックの匂いがいきなり甦ってきたのだった。白昼夢みたいなものだろうか。


2012年5月29日(火)

仕事帰りに、体調を崩してしばらく欠勤しているアルバイト仲間の部屋を同僚ふたりと訪ねた。昨日の夜と、この日の朝にもひとりで立ち寄ったが、何度チャイムを鳴らし、ドアをノックしても出てこなかったので、いよいよ心配になったのである。

というのは、一週間前に近くに住む同僚が訪ねた折りには「十日間何も食べていない」と言い、それを受けて、3日前に行った会社の上司の印象は「衰弱著しい」という報せだったからである。

伝え聞くところによると、彼は離婚したあと子供たちとも離れ、目下ひとり暮らしである。来年還暦だそうだからボクよりいくつか若い。所作、物言いに飄然としたところがあり、それがなんとも言えない味わいとなっている、そんな人だ。

三度目の訪問でついに会えた彼は元々小柄だがさらにやせて見え、顔も青白い。が、ちゃんと立っている。話もできる。何かいるモノありますか、と聞くと「しばらく、甘いものを食べていない」と言うので、下のコンビニに走った。

数えてみれば仕事を休んでもう三ヵ月近くにもなるのだった。その間、一度電話で話しているが、ここまで
進退窮まっているとは……。一緒に行った同僚と今後どうするか、あれこれアドバイスめいたことまで口走って帰って来た。近く肉親も来るそうだから、あまり余計な口出しは良くないだろうが、言わずにはおられなかった。こちらは、まわりの人たちに助けられて生き延びているが、彼はそれをせずひとり耐えていたのかも知れない。

家に戻ると郵便受けに宅配便の不在票が入っていた。配偶者からの荷物だった。8時を過ぎているので手にするのは明日以降になるなぁ、と少し落胆していると、突然の激しい雷雨が襲ってきた。

十数分後、雨戸を閉めているときに前の道路に軽ワゴン車が横付けされていることに気付いた。傘を持って玄関から外に出ると、期待した通り再配達の車だった。「雨を遣り過ごそうと待っていたんですが、これじゃダメですね」と外に飛び出し荷物を持ってきてくれた。

「二度も、すみません。
助かりました。ありがとうございます」

雷とともに届くとはなんという運のよさか。雨を少しも気にしない配達人に傘を差し掛けた。荷物の中身もまた時宜に叶ったものだった。そのうちのツナ缶、梅干しなどを早速食べた。



2012年5月31日(木)

6月から始まる韓国ドラマ『朱蒙(チュモン)』を録画しておいてくれないかと配偶者が電話で頼んできた。いまのテレビ(アナログテレビをデジ変換している)になってから、つまりデジ変換の機械が入ってからほぼ7年の間、録画などは一度もやったことがない。その必要もなかった。配偶者は説明書片手に何度かやっていた。それを見ながら、面倒そうだな、よくできるなぁ、などとからかい半分に言ったことがある。

そこで、どうやるんだ? と訊くと、すっかり忘れてしまったと言う。説明書を読むなり、相談センターに訊くなりしてやってよ、とすっかり下駄を預けるのだった。

電話を切った直後には、6月からというからまだ大丈夫、試しながらゆっくり覚えていけばいい、と思った。
しかしすぐあとで、今日が5月の最後の日であることに気付いた。明日から6月だ。

はたして、インターネットで番組表を見ると、明日早朝に全42回のドラマの1回目と2回目が放映されるという。 あわてて、説明書を取り出し、録画予約を試みることになった。もちろんビデオである。こちらもいまや時代おくれとなった感がある。VHSテープなどいまも売っているのだろうか。ともあれ、“アナログ人間”の操作が正しかったかどうかは明日朝に判明する。録れてなければ「ごめん」というしかない。

(この韓国ドラマは7月になっても放映が続き全81回であることがのちに判明した。一つのテープに4回分が録画されるので、VHSテープはざっと20巻必要ということになる。7.8 記)


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