録 長者の森へ


2012年7月1日(日)


夏至から数えて11日目の今日から5日間を半夏生と呼ぶ、とネットの記述にあった。昔は田植えの目安だったという。ドクダミ科の薬草片白草(別名ハンゲショウ)の葉が半分白くなる頃で、それが途中まで化粧をしかけた様に見えることから半化粧とも言うらしい。命名の妙と粋に感服する。

この朝、赤いチャージランプは10キロを過ぎても消えなかった。いよいよ焼きが回ったか、と悪い想像を巡らせていると17キロのところで消えた。夕刻、エンジンを掛けてもこんどは赤いランプが点かない。故障以来20日間のなかではじめてのことだった。霊異ででもあろうか。

そんなことを考えて無事家に帰り着くと、倉田良成さんから『グラベア樹林篇』が届いていた。

18の詩は、それぞれが30行程度の本篇とその約2倍の解題からなっている。奥付には詩集と刻印されているが、解題はもとより本篇も散文を装っている。型破りの詩集というべきである。守備範囲が広くて深いこの詩人の意業(意楽!)に寄り添ってみようかという気になる。


2012年7月3日(火)

昼前に畑に出て里芋の土寄せを行った。となりの畑ではすでにSさん夫妻がそろって働いていた。刺激を受けて、何日かぶりにジャガイモを掘ってみる気になった。

いつ降り出してもおかしくない雨もよいの空である。が、そのときは濡れるまでよ、とつい大様な気持ちになった。

シャベルも使うがほとんど素手なので湿った土は予想以上に固かった。深いところに一つだけ離れて埋まっているイモもある。土の中にトンネルを作るモグラの手を想像しわが手を励ました。とまぁそんな風に、ゆっくりと、愉しみながらだったので、残っていたふた畝半のうち、今日掘ったのはたったの半畝分だけとなった。

それでも 大振りの『十勝こがね』が50個ばかり収穫できた。土を落とすとすべすべの肌ざわりであり、カタチも温和そうである。“金色の石ころ”とでも呼びたいくらいの気品を感じさせる。

2時間の畑仕事の間に、着信が4件、メールが1件、いずれも家族。用件の見当は付いていたので折り返し電話した。しかし、娘とは何回掛け直してもつながらず、配偶者には「いま手が離せない。あとで」と言われてしまった。すると、急ぎの用件ではないのか?

肩すかしを喰らった気分のままに、シャワーを浴びた。

ひとりでいると、ときに所在がなくなり、碌でもないことが起こる。自分が“ろくでなし”に思えたりする。


2012年7月5日(木)

午後も遅くなって、ジャガイモの残った畝を掘りはじめ、20数株全部を掘り終えた。今日のは『北あかり』という品種で、でこぼこしていて、不揃いであるが、どのイモにもピンクの点がいくつか付いている。そこがなんとも可憐な感じがするのである。

ノンストップで作業を続けた。額と首筋を汗がしたたり落ち、鼻水も一緒に出てくるが拭うことができなかった。よほど途中でやめようと挫けそうになったが、その都度思い直した。また、モノを独り占めにして人に分けないこと(あるいは自分勝手な振る舞いだったか)に対して「まじめなことをするな」と注意された小さい頃のことを思い出していた。

遠くで雷の音がずっとしていた。途中、並びの畑に出ていたKさんがカボチャを、その奥さんが大きなキュウリとインゲン豆をたくさん持ってきてくれた。朝からの頭痛もいつしか熄んでいた。約2時間の作業も、あっという間だった。

夕食は、これらのもらった野菜(カボチャを除く)と、わが畑の初茄子・初ピーマンなど、豪勢なものとなった。


2012年7月7日(土)

帰り際、アルバイト先でコピー機の上の壁一面に貼ってある物故者一覧表を眺めていた。コピーが長くかかりそうだったので何人かの項を読んでみた。この会社での活躍の様子が短い言葉で顕彰されている。すると、「……コーヒー事業部に移って大活躍するも昭和63年病気にて出直し。」という風にどの人も最後は必ず 「……出直し。」という言葉で終わっているのである。

一瞬奇異な感じがしたもののこれはもしかして? と家に戻って調べるとはたして天理教では「死ぬこと」を「出直し」と呼んでいることがわかった。はじめて知った。

そしてこの言葉は、復活や生まれ変わり(転生・輪廻)にも通じているようで、これなら何度「出直し」てもいいと思った。もっとも「ポア」(という言葉)だけはいまなおおぞましさがつきまとっていて、なじめない。


2012年7月8日(日)

夜、障子戸を開けると、ガラス窓にヤモリが張り付いていた。正確にはそのむこうに網戸が入っているのでヤモリはベージュの腹をこちらに向けて4本の足で網目にしがみついているのである。ひどく無警戒に見える。さぁ、なんとでもしろ、煮るなり焼くなり揚げるなり、と言っているようにも思える。ヤモリにしてみれば家の中を覗く(守る?)ためにはこんな恰好しかできないわけだが、納得するのに少し時間がかかった。

ヤモリの背中には合歓の木の閉じた葉が剣先となって突き刺さっている。その向こうに咲いたばかりのうす紫の花が部屋から漏れる明かりに浮かび上がった。窓を開けると風が入ってきて、風鈴は鳴る、が、ヤモリはこそとも動かなかった。


2012年7月9日(月)

車の運転中にふと思い出したことばが「チョベリバ」だった。

声には出さず何度か口の中で呟いて運転していた。とても大切なことばのようだから、是非ともその意味と用例を突き止めねばならない。しかし、なかなか戻ってこなった。何ヵ月か前に「チェキラ」ということばが突然脳裏に甦ったことがある。これも記憶の底の澱を浚っていくうちに辿り着いた。れっきとした英語の口語的表現だった。

教育テレビの番組名? ちがうなぁ。あれは『しゃべり場』だったか、などと思案するうちに十数分後、やはり突然に合点してしまった。「超ベリーバッド」の略であったのだ。

あとで調べると1996年頃、主に女子高生の間で流行ったことば、とある。当時中学生あたりから何回か直接聞いたことはあったが、自分から使うことはなかった。それが忽然と甦ってきたのだから、びっくりである。参ったなぁ、と思った。

やけくそになって、これのアントは流通しなかったのだろうか、と考えてみた。さしずめ「チョベリグ」となるのだが、残念ながら記憶にはなかった。15、6年前から、世相全体がネガティブな方へと転換しはじめたということだろうか。


2012年7月10日(火)

おくればせの紫陽花もこのところの暑さのせいか近くで見ると花びらが萎れている。遅く開花した分、日々成長する下草に煽られるように、見事咲ききったと言うべきだろう。咲かない夏が何年も続くことがあった紫陽花だから、よけい愛おしい。





2012年7月12日(木)

昨夜遅く二階に上がって窓を開けると風がビュンビュンと唸り声を立てていた。

今日は、夜来のその南風が小さな台風のように吹き募り、ときおり雨も混ざった。個人的にはいくつかの負の要因が蒸し暑さに発酵してしまうのか、昨夜からずっと苛立つ気分を押さえることができない。

この日家にある冷蔵庫をわが車でこんど引っ越す娘のアパートに運び入れる手筈になっていた。当の娘は、なんですぐにキレるんだよ、と電話のむこうで仰天する始末である。彼女にしてみれば一種の災難だったろう。

自分でも、これではならじ、と反省し、辿り着いたのがゴムの木を鉢に植え替えることだった。2ヵ月ばかり前に切った枝と葉をいくつか水の中に入れておいたところたくさんの根を出したのである。

そろそろ土の中へ、とかねて思いつつなかなか実行できずにいた。いい機会だと思った。午後4時頃、風はあったが雨は小止みになっていた。庭の土にバーミュキュライトを混ぜた鉢を二つ作り、枝と葉を一本ずつ植えた。

これはHPの表紙にあるゴムの木の“こども”である。表紙の木は4年前の夏に、当時高島平に住んでいた宮内さんからもらったものである。塾の仕事が終わった夜半に、今日冷蔵庫を運んだ同じ車に積んでこの地まで持ち帰ってきた。

また25年以上も前の教え子から face book にメッセージが届いたのも昨夜のことだった。その塾に勤め始めたばかりの頃から4、5年間担当した思い入れのある生徒だったから、現在の活躍ぶりも含めて、嬉しかった。こんな再会は稀有なことだ。

何事にも、どんなモノにも来歴はある、などと改めて思うと、いらいらした気分も吹き飛んでいった。癒しの鉢植えとなったのかも知 れないが、もとを糾せば“いらつく”歳でもあるまい、と苦笑す。


2012年7月13日(金)

九州地方に大きな被害をもたらしている大雨、その原因はやはり“湿舌現象”であると報じられた。

「九州に停滞していた梅雨前線に向けて南西から湿った暖気が次々に流れ込み前線の活動を活発化させている」というのだ。梅雨末期の典型的な現象、とも書かれている。その結果7月11日までの30日間に降った雨は宮崎県日向市で平年比330パーセントの1172.5ミリを記録」(いずれも朝日新聞)した。まだ大雨は続くようだから、これ以上被害が拡大しないことを祈るのみである。

舌のカタチをした暖気団が梅雨前線を舐めるようにして刺激する。被害はごめんだけれども、湿舌とは言い得て妙である。

だいたい気象用語には気をそそられる表現が多い。

ネットの辞典から目に留まったものをあげてみると、風花、寒露、極光、薫風、啓蟄、黄砂、穀雨、小ぬか雨、催花雨、地吹雪、雪庇、筍梅雨(知らないものがいっぱいあるが)……と切りがない。なかには快感帯というのもあった。説明には暑さも寒さも感じない温度域、とある。これは、天気の場面では一度も聞いたことがない。ちと首を傾げる。そんなのありか、と思うからである。

ともあれ自然と言葉(表語文字である漢字)の相性のよさに感嘆する。


2012年7月15日(日)

ほぼ片付いた娘の新しいアパートに夕方立ち寄って、やればできてしまうものだなぁ、とため息をついた。

昨日朝から夜遅くまでかけて、おりしも前日に帰って来た配偶者と娘とボクの三人で、引っ越しを敢行したのである。レンタカーを借りて、計3往復した。最初はほとんどなかったのにこの二年で荷物は相当増えている。

今日ほどではなかったが蒸し暑い一日だった。どちらも二階なので、重いものはふたりがかりで、段ボールは一つずつ抱えて階段をそろりそろりと下り、また上った。汗が流れ、やたら喉が渇いた。業者に頼めばよかったと後悔する暇もなく働いたのである。

年老いた親たちはピンピンしているのにその夜から娘は熱を出したので、明日早朝には富良野にまた戻らねばならない配偶者は朝から付きっ切りで看護していた。

そして発熱とはおよそ関係のない冒頭の感想である。次はもう無理だわ、というのが配偶者の返答だった。


2012年7月17日(火)

朝8時半時点でパソコンモニターの温度表示は28℃。じっとしていても汗が次から次へと出てくる。椅子の上に右足をよいしょと持ち上げて坐り込んだところで、「あぐらをかく」ことを田舎では「いたびらをかく」と言ったなぁ、と思い出した。

頭のなかが涼しくなるような話題ではなかったが、ネットで調べてみると、奈良の方言で「おたびらをかく」というのが見つかった。遠い先祖たちは吉野の山からその鈴鹿の山奥に移住してきたと聞いた記憶があるから、なんとなく納得した。「お」が「い」に変化したということだろう。

鹿児島の方言ではおしりのことを「しいたびら」というらしいが、“あぐら”と関係があるのだろうか。

ともあれ、 夕立が来る前に庭の草むしりを、と思っているがこの暑さでできるかどうか、あやうい。


2012年7月18日(水)

昨日と同じ時間、パソコンモニターの温度表示は27℃だった。

ゆうべは、夜中に何度か起きて、エアコンを30分タイマーにセットして寝るということを繰り返した。夕方、やっと庭に出て草をむしる気になった。夕立がやってくるまでに、と思ったが、雷は遠くで数回響いたが、ついに雨は降らなかった。

夜7時に帰宅して早速シャワーを、と風呂場に入ると、隅っこに守宮がうずくまっていた。コオロギも一匹飛び跳ねていたが、それは放っておいた。かねてから窓にへばり付いた姿を、つまりその腹を撮ろうとねらっていたからである。想定外の遭遇となったが、素手はさすがにはばかられ、コンビニのビニール袋に入ってもらった。とりあえずパチリ。

あどけない顔をしている。こういうのを、つぶらな瞳、と言うのだろう。こちらを見詰めているが警戒する風は少しもない。もう一枚撮ってから、玄関から袋ごと外へ逃がした。

これからもよろしく!


2012年7月19日(木)

夕立が来る前に、畑に水遣り。こんな“矛盾”を実行することとなった。

南の空一帯には黒雲が湧き出ていた。いまにも来そうな感じである。期待する一方で、もし来なければ、と案じて如雨露を振り回すのである。現に、西の空の一角には青空が覗き始めている。山の向こう側は秩父である。まったく気まぐれだ。

その1時間後(午後6時頃)風が出て来た。クーラーを止めて、4ヵ所の窓を開けると、部屋の中を風が通り抜ける。少し涼しく感じられる。雨は、まだ来ない。

結果として、水遣りは干天の慈雨となったのか。


2012年7月21日(土)

やはり記録しておかなければならないだろう。

午前10時半頃、 交叉点を右折しようとした途端にエンジンが止まってしまった。昨日の夜も帰り道で一度も赤いチャージランプが消えなかった。今日も約24キロ地点のここまで消えなかった。ついに充電不足を起こしてしまったのである。かすかな希望を持ち、消えることを期待しつつ車を走らせていた自分の考えの甘さを思い知らされた。

止まったところは交叉点のど真ん中である。さてどうするか。携帯片手に車を降りて、すぐうしろの車にだけ事情を告げ、近くの交番に行った。警官はいなかったので、備え付けの電話機で故障の旨を伝えると、

「パトカーを差し向けるから、あなたは安全な場所に待避していて下さい」

早くも渋滞の長い列ができていた。目的地のアルバイト先まであと700メートルというところだった。

警官ふたりに押してもらって近くのコンビニの駐車場に移動できたのは約15分後。それからJAFがくるのを待つこと30分。止まってから1時間30分後には仕事先の駐車場に車を運ぶことができた。

移動の足として使っているので、このあともいくつかの関門はあるが、まずは一件落着した。

とんだハプニングだった、と呟いてすぐに否定した。偶然ではなくて、起こるべくして起こったことではないか。一方でこのことをひそかに期待していたのではないの? などと悪魔のささやきも聞こえてくる。

自業自得ということばはこういうときのためにあるのか。恥ずかしさのあまり公言したくないとしても、書き留めねばならないと思った所以である。


2012年7月23日(月)

“足としての車”がない身となったが、昨日はふたりの同僚に送迎してもらった。今日は「配達帰りに駅前で拾っていきます、センター長の許可ももらっています」と出掛けに同僚から電話があった。近くの駅までは事情を知っている隣人が車を出してくれた。4、5キロを歩く覚悟でいたところをいくつもの好意に甘えて楽々な出勤となる。一転して猛暑の一日になったから、大いに助かった。

その車も急転直下、部品交換を終えて水曜日朝に戻ってくることになった。そうなると現金なもので、いったんは断念しその旨連絡もした木曜日からの「合宿」へと気持ちは動く。夜畏友3人にメールした。優柔不断さはいまも変わらず、と呆れているかも知れない。

去年8月には伊那谷で3人が遊ぶというので、圏央道・中央高速にのって駆けつけたのだった。

今年は長者の森だという。ここからだと、秩父を経由して群馬・長野県境のぶどう峠を越えて行くと、総距離110キロ、3時間40分の行程である。

地図の上では、この峠はつづら折りも極まった感じでくねくねしている。標高も相当高いにちがいないが、車さえあれば、関西・名古屋から来る彼らよりもこちらの方がはるかに便利である。そういう場所を選んでくれたのかも知れない。ならばなおさら、である。ひとりドライブはもったいないようなルートだが、行くぞ。


2012年7月24日(火)

正面の庭、普段は車を停めているところだけ草が際立って茫々である。明日になれば車が戻って来てまた隠れてしまうので、いまのうちに長いものだけでもむしっておこうと思い立った。

まだまだ暑かった夕刻から作業を開始した。花ばさみで地上部分の茎を切り落とし、そのあとで鍬で根を掘り起こすという段取りを立てた。腰を屈めて花鋏を使うから、すぐに腰が痛くなった。伸ばして、叩いて、のんびりとした動作で進めていた。今日一日の余興のような気分だった。

ところが、ふと飽きて、花鋏を手に裏手に回ってみて仰天した。合歓の木は伸び放題で二階の窓まで枝が達している。それはまだ予測できたことだったが、ススキがかなり広い範囲に群生していて、背も高く、草原なみの風景である。ススキだけではなく、つる性の植物も、背の高くなる雑草も生い茂っている。

それから約2時間、猛然と働いた。柵の中は虎刈りながら、何とか人の住む館らしくなった。道路に出て柵からはみ出した枝葉を切り落とした。

当初の目的から大きく逸れる作業となった。こんなはずではなかった、と思わないでもなかった。

最後に道路に散らかった枝葉を片付けていると蝉の幼虫が柵の向こうからポロリと落ちてきた。

羽化する場所を探してでもいたのだろうか。掌に乗せて庭の中に運び、コスモスやトマトの葉に預けた。蝉の幼虫なんて本当に久しぶりだったので写真を撮っておくためであるが、幼虫はすぐに土の上に下りていった。

汗の中の収穫、一服の清涼、とでも言い得ようか。木の幹にしがみつき、夜何時間か掛けて羽化するというが無事飛び立つことができただろうか。


2012年7月28日(土)

26日大きめのおにぎり2個を作り、早く着きすぎるかも知れないが9時前には「長者の森」へ向けて出発した。ともに不測の事態に備えてのことだった。なにしろ、埼玉・群馬・長野、それぞれの県境となる峻厳な山々を越えるのである。

案の定、峠付近では勾配が急になり、幅員が極端に狭くなった。一台がやっと通れる程度の広さである。あちこちに落石注意の警告板もある。これでも国道か、と呪いながらハンドルやブレーキ操作にいそがしかった。もっとも山の中では、出合った車は数台だけだった。

最後は群馬・長野県境のぶどう峠である。標高2000メートル近くあるはずだった。こちらは県道だが、つづら折りも半端ではなかった。峠からの見晴らしはすばらしかった。車を停め記念に写真でもと思い立ってドアを開けるとスズメバチと見紛う大きさのアブの大群に車が包囲されていた。あわてて中に入った。黄色い車を巨大な花と勘違いしたのだろうか。

そのぶどう峠を1000メートルほど下ったところに「長者の森」はあった。順調に走り何時間も早く着いたので、“お楽しみマップ”片手に散策した。カラマツ、スギ、白樺林のなかにロッジが一つと6人~10人用のコテージが18棟、ほかにもテニスコートやオートキャンプ場、ローラーすべり台、アスレチック遊具といった子供向けの施設もあった。いずれも森の中に隠されていて道路からは全容が見えないのだった。

そんななかに斜面に平行に建てられた巨大なあずま屋風の建物があった。斜面に平行ということは約20度くらい傾いているということである。興味を覚えて近くに立つとからだがくらくらしはじめた。立って歩くことができない。中に入るとそれはいっそうひどくなった。平衡感覚が失われて、すがりつくモノがないと倒れてしまいそうだった。

奇妙な体験だったので、近くで草を刈っていた人に話すと、

「元々迷路の一部だったんだけど、迷路がなくなったときあの建物だけそこに移したのさ。子供たちは喜んでいるよ」

という。身体の反応の説明にはなっていなかったが、三半規管がいかれるのは、垂直に立つべきものがそうでないことによる一種の錯誤なのだろうかと思った。もちろん当てずっぽだが。


ほかにコテージを利用している人はいないようだった。森の中に隠れている風もなかったので、この夜この森には正真正銘われら4人だけという気がした。道路上、といっても山道だが、そこで炭火のバーベキュー装置を据えて取り囲んだ。肉も野菜も酒も旨かった。7時前からはじめて、ぽつりと雨が落ちてきたので中に入ったときすで12時を過ぎていた。それからまた1時間。あっという間に時が過ぎていった。去年の伊那谷に次いで、よいひとときを持つことができた。

翌27日は小諸の懐古園を散策したあと、もう一泊する3人と途中で別れた。往きには通らなかった十石峠を経て、つまり国道299号をひたすら進んで、秩父往還に出るつもりだった。日が高いうちに通過したかった。分岐点で車の中から手を振りあったことが運転しながら繰り返し甦ってきた。なごりが尽きなかった。「初恋」や「惜別の唄」の、覚えているほんの一部が口を衝いて出るが、それもこれも、元気でいてまたきっと逢おう、という験(しるし)のように思えた。

帰宅すると郵便物の中に小学校の同窓会会報があった。一学級4~5人、全校生徒28人、来年度以降は入学者が1名ずつとなり、5年後に全生徒は20名を切る、正に存亡の危機にあるのがわが母校である。

いまその校長を勤めているのは、高校、大学が同じ三年後輩の男である。大学のある街で何回か逢ったことがあり、彼もボクがこの学区の一番の山奥の出身だということを知っていたみたいだった。

今度の会報に寄稿された文章によると「赴任3年目になり、教員生活最後の年度」となるという。そこで今日、奇縁であることと、ボクが言うのもヘンだが感謝の気持ちを伝えたくて手紙を書いた。こんな気持ちになるのははじめてだった。これも「長者の森」の余韻である。


2012年7月30日(月)

夕方仕事を終えて外に出ると風があり、ずいぶん涼しく感じられた。お、これでなくっちゃ。

昼間どんなに暑くともこれで救われる気がする。そのときの記憶を頼りに、夜になってあちらこちらの窓を開け放ってみたが、風の通る気配はなかった。この日だけでなく、このところの猛暑日は風がない夜だった。窓を閉めて、クーラーをつけて、やっと浅い眠りに入る。

「夕涼み」も死語か?


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