日  録 尋ね人はいずこに
  

2012年8月2日(木)

同じことを考える人は大勢いるらしい。猛暑のなか髪の毛があまりにも煩わしくなったので昼前、床屋(1000円カットの店)に行くと椅子をはみ出さんばかりに人が並んでいる。さっぱりしてから、畑仕事をやろうなどと考えていたが断念。後日出直すことにした。

首筋に汗が溜まるので、タオルで長髪を丸め込んだまま、食事をしたり、本を読んだりしていると、NHKの職員がやってきた。受信料の口座振替の手続きをして帰って行った。帰り際には「最近はNHKしか見ないんです」と“事実”を告げたところ「ありがとうございます」と先に言われてしまったので、だいたいテレビを見る時間は極端に少なくなった、という言葉を飲み込んだ。

どうせ暑いのだから、と2時半頃畑に出て、里芋の土寄せをした。そのあとホースを伸ばして水を遣った。実はこれが本当のねらいだった。里芋は水をいっぱい欲しがると聞いているが、里芋でなくても水が恋しいのである。

なかなかやめるタイミングが掴めなかった。道路、庭、車にも水を掛けた。自分のからだにも浴びせてやりたかった。大きな大人の水遊びである。なぜか大学の寮でよく歌った唄(その後「ぼうがつる賛歌」として有名になった)を口笛で吹き鳴らしながら、長い間水と戯れていた。

さらにススキなどで茫々の庭の草刈りをやった。合計一時間半ほどで家の中にはいり、小振りのスイカを二つに割って冷やしてあったので、丸々一個分平らげた。甘さはいまいちだったが、思えば贅沢な“水分補給”である。


2012年8月4日(土)

人間ドックに入ってきた。これまで健康診断すらまともに受けたことがなかったが、アルバイト先の健保に加入した早々に案内が来たので、やってみるか、という気になった。それが3、4ヵ月ほど前のことで、ついにその日がやってきたのである。

6時半に家を出発、後楽園近くのクリニックまで約1時間半かけて出向き、身長・体重測定、視力・聴力の一般検査から、採血、腹部超音波、心電図、胸部X線、胃部X線、血圧まで十数項目を検査してもらった。流れ作業的に進み、所要時間は約1時間半だった。「ドック入り」などという大げさなものではなかった。

ここ2、3年の間に同じ怪我で二回入院し、手術の前に「心電図」を取ってもらっている。いずれも異常波が出ていると検査技師から示唆されていた。担当の医師は何も触れず、手術にも耐えた。今回はこちらから聞かなかったので何のコメントもなかったが、3度目ともなれば怖くなんかない。

「血圧」は、3回計った。1回目に下が99あったので、看護師さんが深呼吸して心を落ち着かせてもう一度計りましょうと言ってくれた。下は80台に改善したが上がとんでもない数字となった。そこで、もう1回とこちらからお願いした。上は小さくならなかった。はじめの数値を記録しておきますね、と彼女は言った。昨年12月の入院中は毎日3回計ってもらっていたがほぼ正常値だったので、怖くない。

発泡剤とバリウムを飲んでから行う「胃部X線」ははじめてだった。あまりにもやんちゃ(支離滅裂)すぎて何を調べようとしているのか疑ったくらいである。

すなわち、 背中を押しつけた回転台が縦になったり横になったりするのはいいとしても、「台の上で3回右回りに回転」と言われたときは一瞬耳を疑った。

「あなたが転がるんです。もっと早く。はいこんどは左回り」「左斜め30度、そのまま、息を止めて」こんな指示が矢継ぎ早に飛んでくる。膝に金具を入れた身には辛い“運動”だったが、終わる頃には吹き出していた。


バリウムを出すために下剤を渡されてすぐに飲んだ。普通8時間後に効いてきます、と書いてあったからだ。飲んだあとで、下の方に「1〜3時間で効く場合もある」とあった。こういうなのが一番困るし、腹も立つ。玉虫色、というやつだ。久しぶりの都心だったが早く帰るように促されているような気がした。さっき台の上で何回も転がったのは冗談ではなかったのか、と思えてきた。

午後2時以降になれば検査結果の説明を受けることができる、と受付で言われたが、どんな結果であれそんなに早く知りたくはないので、断った。

帰りには「オリゴ糖」または「お食事券」のお土産がついてきた。また、一階のラウンジで飲み物やパン、果物をサービスしてくれた。夕べ8時に食べることを禁じられ、朝からは飲み物すら口にできなかった身にはありがたかった。


2012年8月6日(月)

ヒロシマの日。NHKテレビで平和祈念式典の中継を今年ばかりは全篇見た。

市長や首相の言葉よりも、子供のあいさつに感銘を受けた。前者には「実」がない。後者には、未来への「希望」があった。

何年か前(2007年)にもそんな風に思ったことがある。そのときは秋葉市長の「平和宣言」も格調が高く、核世界やアメリカに対して挑戦的だった。それに較べれば今年は早く伝説にしてしまおうとする心が透けて見える。いわば「内向」していると感じられた。もって他山の石としなければならないのだが。


2012年8月8日(水)

稲荷神社社務所完成記念の手ぬぐいがあったので鉢巻きの代わりにして長く伸びすぎた髪を押さえつけて仕事をしていると「おや、手ぬぐいですね、めずらしいですね」と40代の社員に言われた。

調べてみるとわが家でも、タオルは何枚もあるが手ぬぐいは数えるほどしかなかった。「サイボクハム」名の入ったものが2枚、「ふけばふくほど福がくる“ふく猫”てぬぐい」(日本画家・三浦幸子オリジナル)、それと前述の「稲荷神社……」の4枚きりだった。

小さな頃、わが母も含めて女人はみな「あねさかぶり」だった記憶がある。安来節のドジョウすくいも「ほおかぶり」をしている。ともにタオルでは様にならない。手ぬぐいでなければならない。その伝統の手ぬぐいがたったの4枚とは少し幻滅した。すたれゆく日本文化というと大げさにすぎる。祭りには不可欠であり、手染めなども出回っているようだから“伝統”の域に入っているのかも知れない。


2012年8月11日(土)

昨夜遅く配偶者が帰ってきた。成田から21時発の高速バスに乗り、坂戸駅に着いたのはもうすぐ日付が変わる時間だった。今回は恐くてなかなか聞けないことがひとつあった。けさになってやっと「いつ戻るの?」

先々月が3泊4日、先月は2泊3日という慌ただしさだった。先月などはほとんどを娘の引っ越しと発熱の看病に費やしているから、家にはほんの数時間しか滞在していない。近所の人などもこんどは長くいるんでしょうかね、と心配してくれるほどだった。それが今回は来週の土曜日まで、というので、ひとまずほっとする。

数日前 facebook で見覚えのある名前と顔に出合った。最初の2年間同じ寮にいた学生時代の友人だった。向こうも覚えていてくれた。40キロほど離れた県内のH市に住んでいるというので、近く逢う約束をした。

「こんな出逢いを求めて登録したが、2年間誰とも再会せず、だった。100人の友達のほとんどは会社関係。呼び捨てにできる間柄は貴重だから、また付き合おう」と言う。もちろん、異議なし!

昨夜は母校(小学校)の校長先生(高校・大学の後輩)から電話をもらった。いろいろ話してみると、共通の友人・知人の名前が飛び出してきてびっくりした。ほかにも忘れていることがいっぱいありそうだったので、記憶を呼び戻す手がかりを求めて宮崎・日向に電話をした。彼もたしかではなかったが、少なくともボクよりもしっかりしていた。ばかばかしさとなつかしさに挟まれた記憶ではあるのだろうからお盆にふさわしい話題か。

それにしてもこの歳まわりの8月はこんな風が常態化していくのだろうか。


2012年8月12日(日)

朝などはとても涼しくて、立秋過ぎるとさすがだな、と思ったものの日中はやはり暑い。汗がじわりと噴き出て肌にまとわりつく。蒸し暑い。

仕事を終えて駐車場まで歩くいっとき、いまは雑木林と里芋畑の“三富新田の一角”には涼やかな風が吹き抜ける。解き放たれた心の中を吹く風か、といままでは思わないでもなかったが、今日ばかりはほんものの秋風を感じた。空も心なしか高くに見えた。


2012年8月15日(水)

おとといから「3人暮らし」が続いている。もうひとりが帰ってくれば家族全員が揃うことになるのだが、なかなかそうはいかない。みんなが揃うなどは、2009年の正月以来一度もない。家族が一緒にいる期間というのは案外と短いものであると改めて思う。

私小説作家・八木義徳の「家族のいる風景」(福武文庫『家族のいる風景』所収)は義姉の7回忌の法要に親戚が集まるところからはじまる。義姉の「底抜けに善良な」性格から、義兄弟それぞれの家族の来歴を語り、特別養護老人ホームにいる95歳の実母に触れ、義理の叔母の霊視・霊媒(死んだ人を呼び戻す)に及んでいく。「私」は73歳、義理の姪の子供(辰雄)にフェアレディZで最寄り駅まで送ってもらうところで話は終わる。いや、これで終わるわけではない。

「……浦和の叔母さんが、亡くなったあんたのお祖母(ばあ)ちゃんや、秋田のお曾祖父(じい)ちゃんの霊を呼び出して、お祖父ちゃんといろいろお話したのよ」と家内がいった。
「ふーン」
辰雄は鼻から息をもらしただけで、ふいに話を変えた。
「ちょっと遠まわりしてもいいですか」
「それはありがたい。ドライヴだね」と私はいった。

最後の数行を写しながら、車が走っていく道はどんなだろう、と思うのである。未来か過去か、あるいは現在か。いずれとも断定できないような「風景」なのか。


2012年8月18日(土)

午後5時半頃アルバイト先の駐車場から虹が見えた。居合わせた4人みながみな携帯を虹の方に向けた。

何十年も前に義父は、お盆休みが終わって帰るわれら一家に「みんな居なくなってしまう、それが腹立つんだわぁ。」と言った。怨みがましさも嘆きもない。いつもの義父らしい、正直な心情吐露だった。

配偶者はこの日早朝、その義父の介護のために富良野に戻った。駅前で成田行きの高速バスに乗り込むときに「待ってなくていいから。」と言ったが、数分後に出発したバスを車の中から見送ることになった。バスより先には出るに出られない、という心境であった。

かくてまた
ひとり暮らしに戻る。まっすぐ帰る気もしない。そうだ、本屋に寄ろう。かつてのようにじっくり時間をかけて本を探し、また立ち読みを愉しもう。園芸店にも行きたいなぁ。五色石でも敷けば植木鉢も涼しげになるかも知れない。仕事中そんなことを考えていて、虹に出逢ったのである。


2012年8月21日(火)

今年1月、受刑者脱走事件で広島刑務所が頻繁に映し出されるようになったとき、思い出のひとつとしてK君と別れた場面が甦ってきた。学科はちがったがなぜかウマが合い、2〜3年間共に怒り共に絶望した友のひとりである。

塀に沿った道が太田川に突き当たる場所だった。そこにほんのしばらくの間立ち竦んでいた。ふたりとも語るほどのことばをもはや持っていなかった。別れの握手をしたあと、K君はゆるい勾配の道を、塀とは反対方向の右に曲がった。その先には舟入橋がある。K君は橋を渡ってさらに西へと歩いて行ったにちがいない。闇の中に消えていくうしろ姿を見つめてはいたが、見届けたわけではなかった。以来、それっきりになっている。

昨日ふいにまたK君のことを思い出し、google で名前を打ってみた。すると1件ヒットした。その名前は「平成10年度安全優良職長労働大臣顕彰 被顕彰者名簿」に見出された。第一回目の「安全優良職長(セーフティ・マスター)」として顕彰された全国の119名のなかにあったのである。

早速「その人」がいた会社のHPに駆け込んでお問い合わせ欄から照会のメールを出した。出した方はどんなに切実であろうと受け取った会社にはなんの益もない、迷惑なメールだろう。いまはもう引退していることも考えられる。その場合、名簿をひっくり返して、取り次いでくれるだろうか。1日半経ったいま現在返事はない。


《※安全優良職長(セーフティ・マスター)制度はいまも続いているようで、労働省(当時)によると「高い安全意識をもって、適切な安全指導を実践してきた優秀な職長等を顕彰することによってこれらの方々の企業内外における評価を高めるとともに、顕彰された職長等がより幅広く活躍できるよう、研修交流会の開催、安全衛生情報の提供等によりそのネットワーク化を促進し、当該職長等を核とした事業場・地域における安全活動の活性化を図ることを目的として、本制度を創設した」という。労働災害撲滅策のひとつらしい。》


2012年8月23日(木)

食器洗いなどをしながら、いつかその失敗をやらかすのではないか、と危ぶんでいたところ今日ついにやってしまった。内釜を取ったままの炊飯器に研いだお米を入れてしまったのである。目盛りもないはずなのにどんどん水を加えていった。炊飯器の下が水浸しになり、床にも垂れるので、やっと気付いた。1分くらいは怪しみもしなかった。

同時に、いつかやらかすだろうと思いつつ今日がはじめてというのも幸運なことだとも思った。ひとり暮らしというものにはなかなか慣れないものである。

夕べは近くに住む娘が冷凍庫の塩鮭を焼かずに生のまま食べた、というので大騒ぎになった。病院に電話で相談すると「吐き気や頭痛がなければ大丈夫でしょう」と当直の内科医が答えてくれた。2時間くらい経っていたが症状はないようなので一安心したうえで、大いに笑ったものである。

焼いたあとで冷凍しておいてくれたと勘違いしたらしいが、見ればすぐにわかるはず、なによりも美味しくなかっただろう、などとさんざんからかった。

そして今日の自身の失敗だった。人の過ちを笑ってはいけない、ましてや肉親のそれを、と思った。


2012年8月24日(金)

ミンミンゼミ、ツクツクホウシが代わる代わる啼いている。朝8時半現在、もう30度近いが時折入り込んでくる風にほっとするものの、それは束の間のことである。

ふと緑陰ということばが思い浮かんだが、このことばは少なくとも都会では死語になったのではないか。緑陰の読書、なんていうと「アホかいな」と一蹴されそうである。それほどの、連日の猛暑。

アルバイト先に人間ドックの結果が届いていた。すぐに封を切って一枚目の評価票を眺めた。大学の成績表みたいでなつかしかった。もっともこれは子供たちの成績表の記憶である。

「語学を落としておるな」
「1、2年でたくさん(単位を)取っておけば楽なのになぁ」
その都度(自分の学生時代のことは棚に上げて)いろんな感想を持ったはずだった。細部にわたって記憶しているわけではない。

さて肝心のわが身体はD、E(不可・要再検査)が合わせて三つあった。あとはA、B、C(優・良・可、異常なし・または生活を改善しながら経過を見ましょう)だった。

この成績表みたいな評価票を見ただけで実はまだ精読していない。再検査するかどうかはそのあとで決めようと思っている。とりあえず“進級”はできるだろうから。


2012年8月26日(日)

友人からのメールを読みながら小沢昭一(ことし82歳)の「いまや趣味は女房です。」という数年前の発言を思い出していた。

元々こちらが書いた「夫婦というのはつくづくかけがえのない存在だと思えるようになってきました。」(往信)からはじまり、「 ことばに出してくれないとわからない、と家内は言います。それがストレスになり、鬱にもなる。君ももっと労いの言葉をかけてあげるといい。」(返信)などという遣り取りに発展した。(それがテーマではなかったが)

小沢昭一のことばはそこから浮かび上がってきた。現実にはいろんな場面でまだまだぶつかることのみが多くいたわりあうにはほど遠い存在である。

ほんとうの意味で「その心境」にいたるにはもっと歳を経なければならないのだろうが、その連想の中には「日々新しい発見がある稀有の存在」としての配偶者の位置があるはずである。


2012年8月28日(火)

朝と夕方、ホースで庭に水を撒いた。2回とも、撒いても撒いても撒き足りない気がするのだった。

庭にはまだミニトマトの木が3本ばかり残っていた。赤や青の実が何個か付いていた。いくつかの熟れた実にはコガネムシがもぐり込んでいる。なかには数匹がひしめている実もあった。どのコガネムシもほとんど動かない。食べることに必死なのが伝わってきた。そんな実はそのままにして、食べられそうなものを収穫していくと7、8個あった。

この夏もたくさんのトマトを食べた。一日5個ずつとしても、60日間で300個。もっと多い日だと10個食べたこともある。実感、体感としては千個以上にもなるのではないかと思う。この甲虫のようにむしゃぶりついてきた。そんな“トマトの夏”はひと足先に終わってしまう。


2012年8月31日(金)

K君のことを勤務先とおぼしき会社に照会してもう12日が過ぎたが、依然なんの連絡もない。K君の名前は独特の漢字で表記されるので、まずまちがいないだろうという「確信」があった。それだけにずっと返事を待っている。PCモニターの前では現代版「岸壁の母」である。

よほど尋ね方が悪かったのだろうか。それとも、現場がすべての、切った張ったの世界(製造業)では「懐旧に付き合っているヒマはない」ということか。

それは大いにわかるけれど、なかにはこれに付き合ってくれる酔狂な人もいないとはかぎらない。それに望みをつないで、今日もまたメールを開く。

図らずも「尋ね人の月」となった8月もこの日で終わった。40年もの歳月は途轍もなく長いが、過ぎ去ればあっという間であった。したがってそれを埋めるものがきっと身近に在るはずだ、と思うのである。




『過去の日録』へ