録 遺品あるいは形見を尋ねる日々


2012年9月1日(土)


窓から入ってくる風がいままでとちがってひんやりとするので空を見上げた。北の空には白い雲の塊りがふんわりと浮いている。高い空だ。雲間に覗く青は夏のものか秋のものか一瞬判断に迷う。

1分ほどのちに左折するとこんどは黒い雲が目の前に現れた。その西の方角に向かって車を走らせていくと、入道雲と思しき黒雲は大きく膨らんでいった。気持ちが逸った。早く黒雲の下に辿り着いて、雨に打たれたいと思った。

約一時間かけて自宅まであと2キロのところまで来ると道路が白く光り、あちこちの道のくぼみには水たまりもできている。コンクリートの上がまだ靄っている。風も冷たい。間に合わなかったが、ついさっきまで本当に降っていたんだと思うと、9月早々少し感動を覚える。


2012年9月3日(月)

数日前、ベッドの上で明け方(だと思う)にふくらはぎがつった。いわゆる「こむらがえり」である。漢字にすると、腓(こむら)、攣(つ)る、となる。ともに興をそそられる字画・字面だ。

それはともかく、発作中はとても痛いが、治まれば何ともなくなるのが、こむらがえりの常識だった。いわば悪夢のようなものである。まさに「ここはヒトのからだに非ず」(「腓」の会意)を実感してきた。

ところが今回は治まったあともしばらく痛かったのである。

仕事に支障が出ると困るので2日目の朝こむら全面に大きな湿布剤を貼った。すると半日と経たないうちに痛みが消えた。そして現(うつつ)にまで出張ってきた「こむらがえり」がある記憶と切り結んだ。

ふつつかな
木魚のしみ
修羅!
極端に言葉(ことば)り
こむらがえりって
木魚のしみ
姉つるむ

同人誌「終章」の3号目に載った長い詩「遙かなる転調ー血壁都市のトッカータ」(日下部みのり)の最後の連である。奥付を見ると「1970年9月4日」となっているから、あの頃からちょうど42年の歳月が流れたということになる。

当時吉増剛造ばりの奔放な想像力が横溢した詩で一目置いていたが、いま読み返してみてもシュールさは変わらない。さらに独特な個性の持ち主だったその友人の風貌も一気に甦ってきた。いまはどうしているだろうか。秋のとば口に立つ9月もきっとまた「尋ね人の時間」を過ごすのだろう。


2012年9月4日(火)

昨夜、およそ20年ぶりくらいにカレーを作ってみた。「ジャワカレー辛口8人分のルウ」が目に付くところにあったので有り合わせの材料を使って半分だけ作った。

カレーだけはこちらの担当という時期が何年かあった。むかし取った杵柄、と胸を張りたいところだが、あの頃とちがって自分だけのための調理だから、「あ、そ」と自答するのみであった。この一年半ほどはカレーと言えばレトルトだった。

さてお味はといえば、美味かった。今夜もカレーだった。残り半分も自分が食べるしかない。二夜かけて4人分を平らげることになった。そしてわかったことはゆうべよりももっと旨くなっていたということだった。


2012年9月6日(木)

学生時代の友人を訪ねて蓮田に行った。逢うのは40数年ぶり(広島以来) だと思っていたところ「卒業して3、4年くらいあとに訪ねているんだよ」と知らされてびっくりした。こちらには記憶のかけらすら残っていなかったからだ。

「近くにカミさんの実家があったのでそこへ行ったときだったのだろう。詳しいいきさつはぼくも覚えていない。君の奥さんは、赤ん坊をあやすのに忙しそうだった」

板橋・赤塚で、生まれたばかりの子供と3人で暮らしていた頃である。六道の辻のすぐそばにあるアパートだった。その道路はたしかに「カミさんの実家」徳丸に通じている。彼の記憶はまずまちがいない。問題はなぜこちらがそれを忘れ果てているかだった。さらに、その後音信が途絶えていたのも不思議であった。

お昼前に友人の家に着いて、それから夕方6時まで、いろんなことを話した。二階の書斎に招かれ、高校生の頃から心酔してきたというバッハを聴かせてもくれた。傍でレクチャーを受けながら、ど素人のボクにも納得することが多くあった。

思い出話はまるで新しい事実を知るように新鮮だった。この40年、どんな風に生きて、どんなことが身近に起こったかも、互いにわがことのように喜び、また悲しむ。空白が一気に埋まる心持ちがした。一方で、来し方のあまりの短さに慄然とする。いい一日だったのは否定しようがないが。


2012年9月9日(日)

合歓の木が今年二度目の花を咲かせているのに気付いた。朝夕の涼しさにつられて部屋の窓を少しずつ大きく開けるようになっていた。今朝は思い切って障子戸とともに全開(といっても半間だが)にした。すると目の高さに花が見えた。

涼しい風が通り抜けて気持ちいいが、現実から遠く離れたような華やぎを持つ花を眺めているとなぜか健忘症を怖れるこころが首をもたげてきた。

今日やらなければならないことなのに、なにか忘れ果てていることがあるのではないか。それは何だろう、としばし考え込むが、思い出すことはできない。元々ないのかも知れない。もしあったら大変だ、という不安が怖れにつながっているのだろう。

もちろん二度咲きの合歓の花にはなんの罪もない。出かける時間は迫っていたが外に出て近くから写真を撮った。いったんなかに戻ったが、出来の悪さに嫌気して、もう一度出て撮った。

この合歓の花、花言葉は「歓喜」であるという。





2012年9月11日(火)

夕方5時前から庭に出て草むしりを始めた。先週途中で力尽きて放りだしていたのでその続きだった。暗くなるまでにはまだ一時間程度あった。ススキ、ヤブカラシ、笹などが足を踏み入れる余地もないほどはびこっている一角へ鍬を振り下ろしていった。むしるというよりも根切りに近い作業である。

早々にヤブ蚊がからだにまとわりついてきた。むき出しの腕を数ヵ所刺された。そのうち背中まで痒くなった。Tシャツの上から刺してきたのである。元気なヤブ蚊ににとって恰好の餌食だったかも知れないが、ボクには清見オレンジの幼木を背の高い草々から救い出すという大切な目的があった。3、4年前に種から芽が出て長らく鉢植えにして家の中で育てていた。今年春になって地面に移し替えたのである。さらに大きく育て! あわよくば実を付けよ! そんな願いがこもっている。

黒井千次の『高く手を振る日』(新潮文庫)は「今は身のまわりに自然に在るものが、少し先でみな行き止まりになってしまう」と感じる70歳を過ぎた主人公が半世紀前のゼミ仲間であり、亡き妻の友人でもある女性と「恋に落ちて行く日々」を描いている。恋のはじまりはトランクの中から発見した一枚の写真であった。「だから(注:数年前友人の葬儀で会っている)写真は、遠い過去から抜け出して来たというより、むしろ現在から少し前を振り返ったように感じられた」と描出される。

この「恋」に何を感じるかは読者にゆだねられているが、ボクは哀愁と希望を感じた。

たとえば、この小説全編を底流で支えているものはぶどうの幼木である。道ばたに落ちていた枝から芽が出、鉢植えにしてきた。この日々のなかで、鉢の中でさらに育った木を主人公は庭の楓の傍に植え替える。何年かあとにはきっと実をつけろよ、との希求が籠められている。近所の子どもらとまた「恋人」と言い交わす、

「てっぽううって パンパンパン」
ふたりの高い声が絡み合って金網の向こうにはじけた。
「もひとつおまけに パンパンパン」

ここにもボクは感動した。清見オレンジとの連想もはたらいた。また、この作者には部屋の中にリンゴをぶら下げて朝夕それを観察していく独身の会社員を主人公にした短編があったことも思い出された。70年代はじめの作品だったと思うがそれにしても、日々萎れてゆくリンゴと大地に根付いていくぶどうの苗木との40年の時を隔てて対峙するとは、作者にも読者にもどこか象徴的である。

「言葉は老いるのか?」(『新潮』メルマガ2012年5月号)こんな反語をまた呟きたくなった。


2012年9月13日(木)

学生時代いっとき弁論部にいた、と明かすとほとんどの友人は奇異の念を覚えるらしい。どうせお目当ての女性がいたのだろう、とからかう友人もいる。たしかに気になる女性はひとりいた。背筋がピーンと伸び、毅然とした顔つきをしていた。都会の美人という感じだった。仲良くなりたいと思ったが、彼女にはすでに恋人がいた。女性の名前は忘れてしまったが、その恋人の彼のことは名前も専攻も出身地も顔もはっきりと覚えている。やはりうらやましかったのだろうか。いやそんなことはどうでもいいのである。

たしかひとつ下だったTさんという女性はひとつのテーマを巡って議論をしているときにも、プライベートな会話中にも、きまって「いびつだわぁ」と締めくくるのでいまなお記憶に残っている。

「不正」を上下に並べてぐいっと圧縮すると「歪」になる。意味も似て非なるものに変容する。彼女はこの言葉をキーワードにして70年代を颯爽と切り抜けてゆこうとしたのではないか。いま思えばけっこう論客で、物事を深く考える人だった。

FMラジオから流れてきた音楽の題名が「いびつな○○」というものだったのでほとんど40年ぶりくらいに彼女のことを思い出した。それが昨日の朝のことで休日の今日、同じ学科だったと思われる友人に照会すると同窓会名簿からTさんらしき人を探し出してくれた。

准教授をしているという大学のホームページには顔写真付きで学歴・職歴・研究論文などが紹介されている。問題は写真であった。他のことは記憶と符合しているが、その写真には当時の面影がないのである。しばらく眺めていると口元あたりに見覚えがあるような気がしてきた。当人か、それとも人ちがいか、それでも5分5分というところであった。思い余って、大学の広報課宛にメールまで出してしまった。

元は「いびつ」という言葉について考えてみたかっただけである。「いま」のTさんをみつけることが目的ではなかった。それなのに、どんどん脱線していく。「再会」できれば僥倖、という心も隠しきれない。

こんなボクはきっと「あなた、意外といびつな人ね」と批評されるにちがいない、と自嘲しつつ、来るか来ないかわからない返事を待っているのである。


2012年9月15日(土)

日中は蒸し暑い。猛暑の日々に飼い慣らされたのか、頭のなかには“いまだ夏”という認識がある。だから、カレンダーを見て今日が9月の半ばと知るといささか愕然となる。それもまたやむなし、か。

夕方配偶者が帰ってきた。ただし、明後日早朝には、富良野に戻らねばならない。文字通り2泊3日である。実質明日一日がこちらでの滞在時間となる。いままでで最短ではないだろうか。落胆していると、来月は妹が代わりを務めてくれるので少し長い、と言う。

「どれくらい?」
「3ヵ月から6ヵ月くらいかな」

この二年滞在期間が最長でも10日間だったのに比べれば、格段の長さである。ほっとはするが、これはこれでこちらに“覚悟”を要求するのである。これまでの生活パターンが変わるからである。これもまた、「日常に飼い慣らされた(?)」せいだろうか。


2012年9月18日(火)

押し入れの中からよれよれになった紙袋を取り出した。なかには『20代の遺品』が入っているはずだった。

中学・高校の卒業記念アルバムは別として、10代の終わりから20代後半にかけての日記や取材メモを書き込んだノート、手紙、さらに自分で編集したと思しきアルバムが出て来た。

まずはじめに手紙を読んで、そのあまりの切なさにガツンときた。広島にひとり残っていた女性からの手紙だった。直訴文に近かった。こんなところに隠しておかざるを得なかった所以だが、40年前のこととはいえ、この切なさの元となる罪に時効はないだろう。何冊かの日記は、もう読み返す気持ちにもならなかった。そこでもっぱら写真を眺めて時を過ごした。

それらの写真の友たちの表情には感じるものが多くあった。みな若かった。元気があった。おそらく希望があった。何枚かを携帯で写し取って当該の友に送った。

その時代に交叉した友人のひとりTさんには数日前にいくつかの曲折を経てついに辿り着くことができた。最初のTさんは、学科と旧姓が同じだったが探しているTさんではなかった。間違われたTさんにはとんだ迷惑だったかも知れないが、40年の歳月に免じて許してもらうことにした。

尋ね人を巡る時間には、懐旧とは異なった情念が渦巻いている。まだまだこの情念は衰えない。

それなのに一方で「遺品」と呼ぶ感覚はTさんの口ぐせに倣えば「歪」であるのかも知れない。

そうだとしても、この言葉を使うことがやめられないのである。手紙も、日記も、ノートも写真も新しい袋に入れてまた押し入れにしまっておくことにした。捨てるにはまだ惜しい。また繙くことも出てこよう。青春に終わりはない、と云々。

『30代の遺品』というのもどこかに存在するはずだが、またの機会に探すことにしよう。


2012年9月20日(木)

今日一日「20代の遺品」に係わって、ついに日記ノートにまで手を伸ばしてしまった。67年から69年にかけての日々、といっても気まぐれな飛び飛びの記述だが、20歳前後のおおよその情景は甦ってきた。

学部の自治会活動(全共闘運動)に思った以上に深く関わっていたことがわかった。クラス仲間と何回も議論している様子も書かれている。佐世保や東京、成田などの集会に参加している。本部建物に籠城もしている。

デモでも(しゃれじゃなく)何度か怖い思いをしていたようだ。森野などという固有名詞が2,3回出てくる。当時の県警の警備課長だった。デモ隊のボクらを徹底して押さえつけようとするので、よほど憎たらしかったのだろう。

しかしこのあたりのことはもはやほとんど記憶には残っていない。「あ、そうか」と醒めた心で読むだけである。日記の文体もどこか空々しくて「実」を感じることができない。

それよりも、そんな一時期を挟んだ「前」と「後」の記録がいまの心に沁みてくる。「前」は恋人と部活のことで躍起になっているし「後」は新しい人間関係を構築しつつ、読書と思索に明け暮れている。相変わらずゲルピンの日々だったようだが、至福というか平穏な日常というか、とにかく読んでいると今の自分につながっていてなつかしかった。

青春って永遠だなぁと思う。


2012年9月21日(金)

記憶の底を浚って懸命に思い出すこと(「思出力-おもいでりょく-」と名付けているが)はとても大きなエネルギーが要る。
「武田さん」をめぐる記憶のなかで経験したことである。浚っても浚っても出てこないものがある。そういうときは前頭葉がキリキリと痛む。当時の日記ノートがあったから、実際に近いと思うが、創作や捏造がないとは言えない。

大崎さんも名前が日記ノートに出ていたのでわりとすんなり浮上してきた。工学部生だった一年先輩のこの人は部のコンパが佳境に入ると必ず安来節を唄ってくれた。あのどじょうすくいの唄である。

食卓を端っこに寄せて踊りまわれる空間を確保しながら、みんなはもう笑いを怺えている。大崎さんは手ぬぐいで頬被りして、笊の代わりにどんぶりを手に畳の上の空気を掬いながら、唄と唄の合間に「チャカポコチャカポコチャカポコ」ということばを連呼するのであった。それが何ともこっけいだった。

この囃子ことばは一般の安来節ではついぞ聞かないから大崎さんの独創だった。いまも思い出すたびに大崎さんの声が耳奥にこだましてくる。

ところで、この「チャカポコ」は稀代の小説家・夢野久作の『ドグラ・マグラ』の「キチガイ地獄外道祭文」に出てくることを昨日はじめて知った。そこを出典としていたとすれば、そんなことをおくびにも出さずにひたすら踊り、唄い、「祭文」を叫んでいた大崎さんは、当時にしてあっぱれな精神性を持っていたことになる。

20数年前に「思い出」を共有した人が今年2月亡くなったことを今日知った。半年以上前のことだが、ボクには突然の訃報である。哀悼の夜となれり。今生の別れは、辛すぎる。


2012年9月25日(火)

短編が仕上がりそうな予感がするので、およそ10年ぶりくらいに、その懸賞小説に応募してみようと思い立った。今月末が締め切りのはずだから今週の2回の休みを使えばなんとかなるのではないかと張り切っていたところ、今朝ネットで応募要領を調べると今年の募集は8月31日で締め切ったと書いてあった。

10年も経てば締め切り日も変わるわけである。こんなのも十年ひと昔と言うのだろうか。

拍子抜けがしたのでテレビで『少年時代』(篠田正浩監督作品、1990年)を見ながら朝のいっときを過ごした。前半は、筋を追うというよりも海や田園風景の美しさ(映像美)に魅了されていた。

後半になって切なくなってきた。戦争が終わって疎開先から東京に帰るまでの最後の場面では、ぽろぽろと涙が流れてきた。「泣き虫少年」の復活となった。エンディングに流れた井上陽水の唄も追い打ちをかける。

ボクがいま考えているのは「青春時代」だが、原作となった柏原兵三『長い道』を読んでみたくなった。


2012年9月27日(木)

お昼すぎになると曇り空の下をひやりとした風が吹くようになった。昨日友人から送られてきた同窓会名簿のコピーを何げなく捲っていると、ときおりふっと記憶を揺さぶる名前に出くわした。

ボクのような者に同窓会などは無縁そのものと思っていたが、遙か昔のこととはいえ、4、5年間同じ場所で同じ空気を吸った仲間たちであることには変わりなく、それらの名前はなつかしく感じられた。

またそこには勤務先や自宅の住所、電話番号などが記載されている。ごく近所の地名が出てくると、よくは知らなかった人でもつい電話などをしてみたくなる。

「おい、オレ、オレだよ、福本! 覚えている? オレはよく覚えているよ。どうしてた?」

こんな出だしが頭のなかを駆け巡るが、実際はかけたりはしない。この名簿は昭和63年ものであるという。いまから四半世紀も前である。あまりにも長い。

代わりに Facebook で検索してみた。するとふたりがヒットした。早速「友達申請とメッセージ」を送った。ひとりのT君からはすぐに「承認」の連絡があった。40年ぶりの「再会」はこんな形が似合っているのか。突き詰めれば「オレオレ詐欺」と変わらないなぁ、と苦笑。


2012年9月29日(土)

二日前だったかこんなメールがボクを嬉しがらせた。

《先日寝る前にふと…
私現在の姓が古屋なのですが赤ちゃんの名前がようやく決まってイニシャルはJFか!
と思ったら…なんとふくもっちぃと同じということに気づきましたよー。
Jって結構珍しいですよね♪》

このあとも数行続くが、ほめられすぎて面映ゆいので引用を控えるが、こんな発想はなかなかユニークだと感じ入った。

メールの主は旅先(イタリア、スイスの演奏旅行中だった)からの絵はがきの末尾に、

「それでは、また、お世話になることがあったらよろしくおねがいします。お世話にならなくてもよろしくおねがいします。」

と書いて寄越した教え子である。清新な心は生来のものだろう。

絵はがきを抽斗から取り出して見ると日付が「99.8.28」となっている。当時彼女は17,8歳の高校生であった。13年経って、まもなく一児の母になろうとしている。

なんという名前に決めたのか興味津々である。生まれたらまた写真つきのメールをくれるだろう。それを愉しみに待とう。


2012年9月30日(日)

昨夜9時過ぎ、かねての尋ね人「武田さん(またはTさん)」から電話をもらった。弁論部で一緒だったひとつ下の女性である。もう覚えてはいないだろうと案じていたが、そうではなかった。

「久闊を叙す……」というタイトルで二週間ほど前に手紙を出していて返事を待ちわびていた。Eメールか手紙かどちらかだとは思ったが電話は予想外だった。旧姓では名乗らなかったけれどボクはその人が誰だかすぐにわかった。彼女も「声はちっとも変わらないものですね」と言った。

ただ今回尋ねまわるきっかけとなった「いびつ=歪」という言葉については覚えていないと言う。「わたしは物事を深く考えない性質だから」とボクの持っている当時の印象とは逆の自己評価を下した。

一方で「家庭教師のバイトを二週間ばかり代わってもらったことがありますよ。千田町のお医者さんの娘さんだった」とボクの全然覚えていないことを記憶している。そんなのはほかにもいっぱいあった。40年ぶりだったがいっとき「時」を忘れて30分も話していた

なつかしい青春の「遺品あるいは形見」ともいうべき人と、またひとり「再会」できた。
まだまだわたしは元気いっぱい、「武田さん」はそう叫んでいるように感じた。「歳をとると、気持ちが自然になって、皆さんよくなりますね」(切り絵作家・百鬼丸の私信)におおいに賛同したボクは、これらの友たちとまた付き合えることがこの上ない僥倖に思えるのだった。ずっと付き合ってくれた畏友たちも含めて、みなさん、よろしく。


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