日  録 過去の“今”を生き直す?  

2012年10月1日(月)

昨夜から未明にかけての風によって、先端に白と赤紫の花を付け始めたコスモスがほとんど横倒しになっていた。プランターなどが飛び散ってはいたがまずはこのコスモスと思い、何本かをヒモで束ねて引っ張り起こした。

前のように屹立とはいかないが天に向かって次々と花を開いていけそうにはなった。伸びに伸びた背丈が仇になったとは思うが、台風ならばいた仕方ない。

これが朝出かける前の作業で、暗くなって戻ってくると、コスモスの群れは満月に照らし出されて悠々と揺れていた。今日から10月。いよいよ秋がやってくる。


2012年10月4日(木)

季節外れの風鈴が軽やかな音を奏でている。

机の抽斗が開きづらいので奥に手を突っ込んだところ赤い表紙の CLEAR FILE がころがり出て来た。

そこには1992年8月12日に亡くなった中上健次に関する新聞や雑誌の追悼記事が集めてあった。それらは割合きれいに整理されているが、以降2002年くらいまでの分が乱雑に挟み込まれていた。そのせいでかなり分厚くなっていたのが閊えの原因のようだった。

切り抜いた記事は黄ばんでいまにも千切れてしまいそうだったが、もうしばらくは保ちそうである。文字はいまよりもかなり小さいうえに、こちらの視力も15、6年経ってかなり弱っているが、まだ十分に読むことができた。興の赴くままについいくつかを読んだ。

「弁論部」の先輩音谷健郎さんの記事があった。「学問の現在〜民俗学の行方」の連載記事(95年)、「ニッポン現場紀行」では早坂曉と広島を、金時鍾と大阪造兵廠跡地を訪ねてそれぞれ「ヒロシマ」「〈同胞〉の生と死」について考察を加えている(96、97年)。98年に初来日した金芝河へのインタビュー記事(全面)も切り抜かれていた(いずれも朝日新聞)。

これらのなかには当時大阪本社にいた安村君が「東京版には載らないので」と言って送ってくれたものもある。物持ちがよいなぁ、と呆れながらどの文章も古びていないことがよかった。たとえば前記の「現場紀行」で早坂曉からこんな言葉を引き出している。

(チェルノブイリの事故以来)過去へ過去へと遠ざかっていたものが、ふわっと先回りして未来の問題となった。/原爆は、未来のものとして受け止めるべきです。」(原文のまま)

その FILE には何枚かの写真も挟んであった。なかに2年前(2010年)に亡くなった寺田博さんと一緒に写ったもの(94年4月)があった。腹の底から響くように出てくる美しい声が甦ってくる。このときの寺田さんよりもいまのボクはいくつか歳上になってしまったと愕然とするが、写真の存在を忘れていただけに、これもまた嬉しい発見だった。


2012年10月9日(火)

朝、顔を洗うために水道水を受けていると掌がじわってあたたまってきた。水温む、という言葉が思わず口を衝いて出た。たしか春の季語のはずだから早すぎる感慨だが、掌が受けた感覚としてはこの通りであった。

季語が絶対的な水の温度であるのに対して、これは相対的な感覚である。どちらに与するか、と聞かれればまちがいなしに後者である。

自分自身との蜜月もいよいよ今日一日かぎりとなった。明日配偶者が帰ってきて、今度は長く滞在するからだ。書きかけのモノに向かいながら、今日中に何とか目途だけはと思う。そんなところは過ぎゆく季節たちを惜しむ感覚と似ている気がした。

(30枚程度の短編だが一応完成させ.ることができた。まだまだ彫琢していくところがあるものの、テーマに上手く乗ることができた。「歪」と「痞え」ということばを発見できたことがよかったのか。こんなポジティブな感慨もこのあと何度も読み返し、直していくうちに裏切られていくのかも知れない。それにしても、「何を書くかよりも、何を書かないかなんだよ。」寺田さんの言葉が身に沁みる。)


2012年10月11日(木)

午前中はあまり楽しくない所用を済ませ、午後になって、手ぬぐいで頬被り・長袖姿の配偶者が、蚊取り線香片手に庭に下りて行こうとしていたので、ではこちらもとパソコンを切って支度にかかった。尻を追いかけたわけではない。今日は草むしりとかねてより決めていたのである

配偶者はかがんで家屋のすぐ近くの草をむしっているが、ボクは奥に分け入ってカエデや柿やサルスベリの木の下の背の高い雑草を花鋏で切っていった。かがめないということもあるが、大技の方がなんとなくかっこいいのである。

やがて道路に大きくはみ出した笹やイラクサや木苺の茎葉が気になり出した。外に出てチョキチョキやっているとヤブ蚊の群れが追いかけてきた。露出した肌はそこしかないから顔のまわりを飛び回っている。

目に見えない素早さだからほとんど気配である。額に留まったと感じた瞬間汚れた手も気にせずぱしっとはたく。耳にブーンと羽音が聞こえると素早く手を持って行く。しかし、そうやって退治できるのはほんの一部である。

宝くじが当たらないかなぁ、とか、幼馴染みの照日と一緒に田舎に帰らせる、というのはどうかなどと書きかけのモノ(前半と後半、結末は何年も前にできていたが、途中の展開で難渋していた90枚ほどの小説)のアイデアを考えながら
公道に散らかった葉を竹ぼうきで片付けているときも蚊は顔にまとわりついてきた。
午後3時から4時というのは蚊が(人の血を求めて)一番活動する時間帯なのだろうか。

「いやぁすごい、すごい蚊だ」とわめきながら庭に戻るとすでにシャワーを浴びてすっきりした顔の配偶者が上がり框でボクを見下ろしていた。労に報いるために出迎えてくれたのだろう、と得意に思った。シャワーの前に鏡を見ると二つのほっぺたと額が真っ赤に腫れている。

「この赤の腫れ物は勲章のごときものか」

再び見せようかと思ったが、一笑に付されるのがオチだろうと思い直した。


2012年10月13日(土)

日本画家の三浦幸子さんから手紙が届いていた。といっても、展示会の「オープニングパーティ」の招待状だったので、肉筆は「お元気でしょうか」の一行だけである。

その日時は差し障りがあって行けないなぁ、と思いつつ場所を見ると汐留・電通ビルの47F「BICE」とある。そのイタリアレストランのギャラリーに常設展示されるらしい。「今回の展示は長年描いている猫と/静かに続けているヴェネチアンマスク、樹木のテーマの作品群からの自選展である」とリーフレットにあった。

三年前の三月、「絵本『注文の多い料理店』の原画と猫展」をやっているというので、『ギャラリー&カフェ 山猫軒』(金・土・日・祝日のみ開店)に行ったことがあった。この店は、越生梅林を過ぎたあたりから、左に逸れて、対向車とすれ違うこともできないほどの道を2キロ近く登ったところにあった。渓谷と山の斜面の間の、文字通りの山道だった。少し先には飯盛峠や正丸峠がある。秩父の山ふところになるのだった。都会から離れたアーティスト夫婦が20年ほど前にはじめたお店で、外見は農家風、中は二階までの吹き抜け、太く頑丈そうな梁と何本もの棟木がむき出しになっている。入り口付近では槇ストーブが赤々と燃えていた。

そして此度のカレッタ汐留内の高層レストランである。時空を駆け抜ける彼女らしいや、と大いに感嘆する。


2012年10月15日(月)

最近特に関心をそそられる話題と言えば「iPS細胞」である。山中教授が発見した6年前から大いに感嘆しながらニュースを追いかけてきた。科学ニュースの中でも一等わかりやすかったからだ。たとえば「リセット」などはいまや現代人になくなてはならないことばである。それが先端科学の中で使われるのだからうれしい。

数ヵ月前からゴムの葉を水に差しておいたところ付け根からたくさんの根が出て来た。根の出て来た葉は計4枚あったが、そのうちの3枚を鉢植えにしてみた。どういう風に茎が出て、立派なゴムの木に育つのか、見届けたい。これぞ、植物の「iPS?」

(写真は、まだ鉢植えしていない葉。少し見づらいですが、葉柄からたくさんの根が出ている。)





2012年10月16日(火)

金木犀が満開となって芳しい香りが漂っている。いよいよ秋、と感じる。佐伯一麦さんの「木を接ぐ日々/二百字集」 によれば仙台では今月始めの台風の頃に匂ったという。ここでは約2週間おくれの芳香である。

玄関脇に隣家の金木犀が立っている。高さ5メートル以上の木で、金網越しにわが家の方に迫り出している。ゆうべはその隣家のたくさんの花からの匂いに酔い、今日は小振りながら道路に面して屹っと立っているわが家の金木犀からの匂いを満喫した。この木は長男の小学入学の記念樹だから、ほぼ30年ものである。四ツ葉、鶴ヶ島、そしてここ駒寺野と三ヵ所を転々としてきたが、匂いはいつも変わらない。

この芳香、鼻先から入り込んでからだの芯まで届いてくる。からだがふいに軽くなる気がするのである。


2012年10月18日(木)

ほこりだらけの『狂ひ凧』(梅崎春生、1963年刊)を本棚から引っ張り出して読んだ。

この本は22、3歳の頃アルバイト先の丸善広島支店の「読書部」から辞める直前に借りた本である。

そこでは2年近く働いた記憶がある。新刊書も含めて売り場にある本すべてをレジに持って行けば何日間か借りて持ち帰ることができた。いわば図書館代わりであった。おおらかなものである。そのうえ「読書部」があって社員向けに本の貸し出しを行っていた。社員みんな、本が大好きだったのである。

この一冊がいまなお手元にあるのは、記念に貰っちゃえ、とばかりにわざと返さなかったからである。以降40年間持ち続けている。背表紙はもとより表紙などもいまや紙魚跡だらけで、すっかり黄ばんでいるが、本文はまだまだ十分に読める。

ということで再読した。

車がぶつかったために標識柱のパイプが折れて、丸い標識とともに凧のように12、3メートルもの中空に舞い上がり、道路をわざと敬遠して畠中の道を歩いていた女を直撃する。このとき、

「女は足から膝、膝から胴に力を抜いて、黒い土の上にくづ折れた。」

スローモーション映像のように鮮やかに情景が思い浮かぶ。これが「表現」というものかと唸らされた。

「私」と友人の「榮介」、それと戦争中中国奥地の蒙古で自殺した双子の弟「城介」をめぐって物語は展開する。この冒頭の標識柱の事故はずっと最後まで利いていくが、なによりもなめらかな文体で生存の奥へ奥へと連れて行って、考えさせてくれる。小説の骨格、つまり「構造」というのはこういうことかと思った。

贓物本で堪能した雨の日の一日。丸善広島支店のおかげである。


2012年10月20日(土)

持ち歩くバッグを変えてみた。いろいろなものを整理している配偶者が、たくさんの古いバッグを手にしていたのでそのうちの一つに目を付けた。聞けば高校生のときの息子のものだという。一応洗ってくれたので、乾くのを待ってこの日から使い始めたというわけである。

これまで持っていたのはどうやら女性用だったらしい。あまり異和感はなかったが、大きさも倍くらいの男物に切り替えて少し得意な感じになった。

バッグにかぎらず、歳下の者が使っていたものをゆずり受けることをお上がりと言うそうだが、ボクの場合見渡せば衣類を中心に結構あるのだ。喜ぶべきことなんだろうな、屹度。


2012年10月23日(火)

このところ、5時前後には目が覚めてしまうので、すぐにパソコンのスイッチを入れ、主にワープロにむかうのが習慣となった。

7時すぎの朝食を挟んでだいたい9時頃まで、ああでもない、こうでもないとキーボードをいじっている。捗るときもそうでないときもあるが、いずれにしても時間はあっという間に過ぎていく。それが心地よい。

新人賞の受賞コメントで「出勤前の数時間、こつこつと(女房子供がまだ寝ている間に)書き継いできた作品です」などの言葉を何度か読んだことがあるが、その清々しさがついに分かるようになった。いまごろ気付いたのである。迂闊なことである。

ところで、この歳になればどうしても過去の「時代」と向き合うことになるが、たまに意外な発見をして嬉しくなる。今日なども「なぜこんなにも時と時とが隔たっていくのだろう」という文章を書いたあとに、この二つの「時」は、つながっていたものがだんだん切れていくのか、それとももともと離れていたものが反対方向に遠くへ、遠くへと流されていくことなのか、どちらだろうと考え込んでしまった。

言葉が引き出してくれた疑問に自らはまっていくのもまた心地よいことである。

今も昔も時間性の扱い方にはずいぶん苦労する。いまを生きている身が過去の「いま」を生き直そうとするのだから当然のことかも知れない。あるとき、そんな悩みを話すと「そんなのはね、いま、いま、いまでどんどん押していけばいいんだよ」と寺田さんは即座に言い切った。その意味するところをやっと実践できたような気がする。 (約100枚、一応仕上がった。まあ、退屈せずに何とか読み通せる。)


2012年10月24日(水)

さし木から育ったゴムの木と昨日仕上げた原稿の入った封筒を車の座席に放り込んで朝7時半に家を出た。

まずは国立へ。マンションの位置はgoogleの地図であらかじめ調べておいたが、ついこの前までアルバイト先があった街なので土地勘はある。一度も迷うことなく2時間後に意匠の素敵なマンションの前に着いて、玄関先に降りてきた Yuki にゴムの木を手渡した。

Yuki と逢うのは昨年五月の結婚式以来だったが、久しぶりという気はしなかった。SNSでのやりとりのせいだろうけれど、元気はつらつ、えくぼを作って笑う「本物」はまた格別だった。続いて所沢の仕事先に移動しなくてはならないので、立ち話もほどほどにして別れた。

一橋大学の塀に沿ったまっすぐの道を大通りに向かって走っていった。彼女はマンションの前の道にずっと立って見送ってくれているのがバックミラー越しに見えた。「佐川男子的」の冥利に尽きる、というところだった。かねての約束を果たせてほっとした。

JPの女性職員は封筒をはかりに乗せて「これはかなり重いのでこのままだと580円かかります」と言った。

「レターパックですと、厚さ3センチまでなので、350円ですが、どうなさいますか。あて先などを書き直す手間はかかりますが」
「それなら、レターパック、です」

ほんとうは「そのままでいいよ」という方が粋だったのにとあとで悔やんだ。原稿の「中身」がその重さと拮抗するだけのものか俄に自信がなくなったせいもあった。

午後8時家に戻ると、封筒の送り先だったミッドナイト・プレスの岡田さんから封書が届いていた。先の短編について丁寧な感想や鋭い批評が書かれていて、その夜のうちに何度も何度も読み返した。ありがたい文章だった。また新しいものを書き続けていこうという気になった。


2012年10月29日(月)

2年前の暮れに死んだ母は、二人目の子供が生まれたときに上の子の世話をするために上京し何日間か滞在していった。35年前のそのときこんな忠告をした。

「今月足りなかった分は来月には2倍、再来月には4倍、その次は8倍となっていくから注意しないと」

この単純な数字のマジックが本当の意味でわかったのはここ10年くらいである。なんと的確な戒めだったか、と不如意続きの身にはこたえた。「母」というのは賢い者だと思う。自分の産んだ子供がどんな躓きをするかを知っているという意味でも。

その数年前、アパートに一ヵ月ほど居候させてくれたとなり村の幼なじみは、車で家まで送り届けてくれた時に母と会い、「頭のいいお母さんだなぁ」とその印象を話した。ついでにそんなことも思い出した。

幼なじみの妹は小学生の頃ボクのことが好きだと公言していた。渡り廊下ですれちがうと目を伏せ、ほんのりと頬を赤らめたりした。

兄のそばに住んでいたのでこの頃十数年ぶりに再会してなつかしい気持ちに駆られた。魅力的な女性になっていた。何よりも聡明な顔つきだった。その後何回か逢ったが、やがて住む場所が遠く離れ逢う機会もなくなっていった。

それから20年くらい経って高校のクラス会に出るとK君が「女房がよろしく言っています」とボクを驚かせた。幼なじみの妹はK君の奥さんになっていたのである。

去年の秋、K君に電話した。熱海でのクラス会に出席するように誘うのが目的だった。その日前後に地域の行事が重なり、それを取り仕切る立場にあるというので結局K君は来られなかった。幼なじみの妹の様子を聞くことも叶わず残念だった。奥さんとして、母親として、きっと賢いにちがいないと推量するのみであった。

ときに「時」は矢のような早さで行き過ぎる。


2012年10月30日(火)

「あの木はマンゴーですか」
旧知の保険会社の人は入ってくるなり言った。
「いえ、龍眼です」
「あら、マンゴーとそっくりですね」

沖縄の「美ら海水族館」近く、生まれ育った彼女の家にはマンゴーの木が十数本植えられているそうである。その木はなかなか実を付けないのだが、「なつかしさから」こちらで買って食べたマンゴーの種を4つの鉢に植えておいたところそのうちの3つから芽が出て「こんなに育ったんです。それとそっくりなので」と両掌を上下に広げて30センチほどの幅を作った。

ネットで調べてみると葉の付き方はちがうが、長楕円形の形はよく似ている。苗木の様子はたしかにそっくりである。

マンゴーもインドあたりが原産というから寒さに弱いかと思われ、

「この木は、冬の間は中に入れておくのです。そろそろ入れなければならないのです」
「私もそうします」
「大きく育つといいですね」

朝の気温はついに10度を切るようになった。


2012年10月31日(水)

10月が終わる。長い日々だった。

この月に「過去の“今”を生き直す?」というタイトルを付けてみた。過去を掘り起こして書く生活は当分続きそうな気がするが、このタイトルは比喩か修辞であり、ほんとうはいまを生き延びていきたいのである。


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