日  録 「あんたのことで夢を見た」   

 
2012年11月1日(木)

午後サツマイモを掘った。畝を厚くおおいつくす蔓葉を取り払ってみると、8茎のうちの半分は根元で切れていた。それなのにこれだけの葉が成長したということは……。

イヤな予感を抱きながら、手で掘り、シャベル、スコップとつないでいったが、収穫は大きいイモひとつだけで、あとは直径1センチくらいの細長いものが数個だった。養分がほとんど蔓葉に回ってイモを作らなかったようである。

蔓葉はゴミ袋5つ分もあった。片付けながら、この芋づると葉っぱを小さい頃に食べた記憶がある、と思った。見た目はきゃらぶきのようだった覚えはあるが、味までは思い出せない。3つの袋はゴミ置き場においてすぐに収集車が持って行ったが、あと2袋は庭においたままである。ここから選りすぐって調理してみるのも一策である。もっとも自分は出来ないのであるが。
 

2012年11月3日(土)

ちょうど一年前、日向のM夫妻と新宿で逢った。そのときの情景をなつかしく思い起こしながら、早くも一年か、と感慨に浸った。この一年は変哲のない日々のようでいて、気持ちはずっと張り詰めていたからそうとも言い切れない、などと種々考えるのである。

ことに最近は、古くからの友人たちとの再会・交歓になつかしさ以上のものを感じている。そこから“いま”を見つめ直すことが、大きな課題である。そのきっかけになったという意味でもM夫妻と再会した11月3日は「時の記念日」である。

一方で、血を分けた娘から「死ぬ死ぬ詐欺」という言葉を引き出すことにもなった。死にたい、と叫び立てるたびに小心者の親としては命が縮まる思いがするのだが、自ら詐欺と言う以上はそれがウソであると自覚している。

このときばかりは、ひとり大笑いしたものである。人間には生と死がつきまとうから、「死ぬ死ぬ詐欺」とは畢竟「生きる意志のひとつ」ではないか、大いにけっこう。こちらも死ぬまで付き合ってやるよ、と心の中で呟いた。


2012年11月6日(火)

2004年1月31日の日記から。題して「銀の涙」、そして今日の題は「重要なエピソード」。

《1月も今日で終わりである。小学6年生数名が明日の入学試験を前に最後の調整をしたいというので昼過ぎから夜7時頃まで付き合っていた。けっして易しくはない問題に真剣に立ち向かっている。軽口もほとんど飛び出さず、こちらの提示するメニューを黙々とこなす。その集中力たるや11歳そこそこの子供のものとは思えない。

眺め回しながら、そういえばみな、4、5年生の時は自分からはほとんど話さない、無口でシャイな子たちだったなぁ、と感慨に耽っていた。ここまで成長したならばもう得点なんかどうでもいいという気にさえなった。

ところが、最後のレッスンをする頃にひとりが涙ぐんでいるのを見てしまったのである。もちろん気にはなったが、気付いていない振りをしながらレッスンを続けた。かすれ声だが受け答えはしっかりしている。

緊張と不安が昂まってつい泣けてきたというところだろうかと推測した。涙はいったん止まったようだったが、目に潤みを残したまま片づけを終えいざ退出の段になって再び溢れ出てきた。

いざ荒海へ、という思いもあるにちがいない。やはり合格しなければ報われまい。十二の春に銀の涙を、と強く願った。》

このとき涙ぐんでいた児童はあのときから8年が経ったいま早大生になっていた。Facebook 上で偶然彼女のページを見つけたあとに、この子には何か重要なエピソードがあったはずだと半日考えて「あの涙だ」と思い当たった。武者震いのような、こういう涙ははじめてだった。

30年余の生業の中では、ほかにもいろいろな涙に出逢い、自分でも泣いた記憶はあるが、こちらの最後の授業を惜しんでくれる涙は一度もなかった。『チップス先生さようなら』というわけにはいかなかったのである。


2012年11月8日(木)

自転車で2回(合計走行距離4.5キロ)外出したのみで、あとはパソコンをつけっ放しにして「原稿」に向かっていた。ずっと考えていると、何時間か経ってふっとアイデアが浮かんでくることがあるのでそれに期待した。

しかし、 そんな僥倖は、ついにおとずれなかった。いままでの分を読み返すだけで前には進まない。想像力というものがいかにも枯れ果てていることを実感したものだった。

仕方がないので、合間合間に、題名と結末についてあれこれと考えをめぐらせていた。題名を変えると結末も変わる、つまり主題が変わる。ということは、これはいまだ海のものとも山のものともつかぬ、ということか。

さらに、友人のブログ『久末です』に30年ほど前一緒にやっていた同人誌『兆』についての記述があったので、そこで触れられていた彼の詩「猫の名前」を読み返した。全6号のすべての表紙を版画家の隈部滋子さんが担当してくれたが、この詩の掲載されている第2号は、断崖絶壁を飛ぶ裸の男ふたり(実は同じ絵)が描かれていて、当時から大いに刺激を受けたものの一つであった。

ついでに他の号もぱらぱらと捲りながら時を過ごした。これはこれで僥倖であると言えまいか。


2012年11月9日(金)

北風の吹く、寒い一日だった。まだ木枯らしとまではいかないのだろうか。

帰宅してから11時頃また外出する必要があって、帰りがけに近くの24時間スタンドで灯油を買った。午前2時を過ぎていた。早速ストーブをつけてみた。体がほぐされていって、気持ちよかった。


2012年11月11日(日)

ここ一ヵ月ほど、「雨乞い踊り」について、想像をめぐらせている。全国、いや全世界のどこにでもありそうに思われるので、10年くらい前に、民俗関係の本や県の地誌などを参照にして自分なりの「雨乞い踊り」というものを創ってみた。

「鬼」に扮した「村人」が神社の境内にこしらえられた10メートルほどの高さのやぐらの上、真新しい畳の敷かれた桟敷(いわば結界)で全身全霊を清める。そのあと境内で両足を交互に上げ下げしながらめちゃくちゃに踊りまくる。踊りを促すものは鉦や太鼓の響きである。踊る鬼は感極まって地面に頭から突っ込むようなことをも繰り返す。

「水を下さい」という願いは農民には切実である。一方で、自然の節理を変えることでもあるので、この矛盾を踊ることになる「村人の鬼」はある意味で人身御供ではないか、と発想した。

ここまではなかなか良くできたと自画自賛しているが、そのあとが続かない。中世、近世の一大イベントが「現在=いま」に絡んでいかなくては話は面白くならないからだ。

そんな折りも折り 《リフレ論 危うい「雨乞いの踊り」》 という記事(11/11 朝日新聞「波聞風問」)を見つけた。見出しに関わる部分は次のようである。

《政治家や学者に「リフレ論」が台頭している。日本銀行はもっとお金をばらまけ、それで人為的にインフレを起こせば、デフレから抜け出し景気は良くなる、という考え方である。

日銀はすでに、あふれんばかりのお金を市場に流す量的緩和政策を採用しているがデフレ脱却の効果は見えない。そのことからもリフレの効果はかなりあやしいと推量できる。それでもリフレ派は、「お金のばらまき方が足りないからだ」という。

その論理は「雨乞い」に似ている。効き目があるのか、ないのか分からない。でも、もっと拝み続け踊り続けよ、さすればいずれ雨は降るかも、という信仰なのだ。》

ここでは、雨水=お金として使われているのである。お金をばらまけば景気が浮揚する(筆者の編集委員はこのことを疑問視している)というのが「雨乞い信仰」と似ているというのである。

「雨乞い踊り」を夢想するボクはもっと他の比喩はなかったのかと鼻白む思いがした。水が大地を潤さなければ収穫はままならず、みんな餓え死にしなければならない。それほど、雨乞いは切実で、命がけであったはずだ。

業界紙にいた20代後半の頃、広報誌担当の女子行員のインタビュー記事で「卒論が天乞い信仰の才媛である」と書いたところすぐに抗議の電話をもらった。

「天じゃなくて雨ですよ」

いまだにこのことが忘れられないのは、やはり自然への畏怖の念が強いからである。そしていまなお「雨=天」の呪縛から自由になれない。

午前3時半を過ぎた。ついさっきまで降っていた大雨も止んだようである。


2012年11月12日(月)

昨日の夜、折りたたまれた敷き布団の上に替えのシーツなどが置かれたままになっていたので寝る直前に自分でメーキングした。朝になって「そういえば、そのままにしてすっかり忘れていたけど、どうした?」配偶者が訊いてきた。「自分でやりましたよ」と最近は慣れているのであまり無愛想になるでもなく答えた。

すると今夜のベッドはきちんと整っているばかりか、“きんきらりん”であった。茶色の掛け布団の上に、縦横およそ2メートルの正方形、毛糸織りのこたつ掛けがかけられている。緑の亀甲枠が100個もあってその中はピンクや黄色や青の6つの弁を持つ花の模様である。

「えらく華やかだなぁ」と叫ぶと、
「独身時代に戻してあげるよ」
と言うのであった。

40年以上前にある女性が手で編んだものである。いまだにここにあることも、こうやって実用に供されることも、ともにこの世のことではないような気がした。ほんものの夢を見る前に、それ自体が夢のようであるのだった。 びっくりした。


2012年11月17日(土)

昨日、仕事か終わる頃、頭が痛くなってきた。冷やされた倉庫内で約1時間、ヒマを持て余していたせいもあるのかと思った。車の運転中も痛みは止まず、鼻水も出てくる。帰宅して食事を済ますとすぐに布団にもぐり込んだ。それが午後の8時過ぎで、目が覚めたのは午前4時。ウソのように痛みは消えていた。

思えば気ぜわしい1週間だった。普段休みの火曜日に仕事をし、前後の月、水は娘のアパートへ深夜出かけることになった。運転手役とはいえ、心身共に楽ではなかった。木曜日は、夕方用事を入れていた。片道1時間の場所を往復した。

同じ木曜日、となりのTさんの家で昼食をごちそうになった。毎年主催してくれる“収穫祭”の代わりに、もうひと組の夫妻とともに招かれたのだった。野菜作り、生まれ育った街のことや世相のことなどを中心に、話が弾みあっという間に4時間が過ぎていた。夕方用事を入れていたことを悔やんだ(庄内の酒・垂珠がもっと飲めたのに!)ほどに、この週随一の楽しいひとときだった。


2012年11月20日(火)

この春に卒業したあとも引き続き就活中の教え子から、
「研修先の会社から、 働いていて最も辛かったこと、大変だったこと、またそれをどう乗り越えたか、こんな課題が出ました。教えて下さい」
というメールが来た。

先人の経験を知り、それを書き留めることによって自らの訓戒とせよ、というのだろうと合点して承知した。ところが、一夜明けてもそういう場面はいっこうに思い出されてこないのであった。小学生からせいぜい高校生くらいまでの「生徒」相手の仕事が長かったから、こちらはある意味で「能天気」だった。楽しい思い出は子供らと同じだけ共有しているくせに、これから社会に出る人に受け継がれてしかるべきほどの経験を持ち合わせていないことを改めて思い知り、そのことを恥じた。

それでも、長い間生きてきたのだからなにかあるかも知れない。今夜までには何とかエピソードを掬いだして返事しようと思っている。

この課題について助言を求めていた蓮田の花岡君から夜遅くになって400字詰め原稿用紙5枚にも及ぶ体験談が寄せられた。グローバルなIT企業で32年間働いてきただけあって説得力のある組織論、人材論になっていた。ボクの方からもつたない体験を書き送ったが「良好な人間関係」を築くことが良い仕事をするための不可欠の前提ということでは彼と同意見だった。

その教え子(女性)は「さいたま市の就職支援事業」を委託されている「マンパワー」の派遣社員24名のひとりである。ネットで調べると2ヵ月の研修のあと3ヵ月の現場実習を経て、市内のどこかの企業に就職するという。10月から始まっているので来年3月からは晴れて正社員ということになるのだろう。がんばって欲しい。


朝、富良野に戻る配偶者を川越に送ったあとは一日中家の中にいた。家事については何もする気にならなかった。今回は20日以上滞在していたので、その手順もすっかり忘れ果てた、というところである。
1週間もすればまた戻ってくる予定なのでほどよいひとり暮らしの日々となるか。「原稿」を投函前に最終チェックした。


2012年11月22日(木)

午後のいっとき、近くのホームセンターに用事ができて庭に出てふと二階を見上げると、窓辺近くの樋にカラスが一羽留まっていた。珍しい光景だったのでしばらく観察していた。

正面のネズミモチの木の茂みに冬になると必ず庭に遊びに来る仲のよい山鳩夫婦が巣を作ろうとしていた時それを追い払ったのはカラスだった。畑の作物をついばむのも、そこにフンを落とすのもカラスである。

いま留まっているあたりには、かつては雀の巣があったはずである。いまもあるかも知れない。カラスの存念をおもんばかって少し危惧を感じた。

作業用の手袋や植木鉢に敷くための軽石などを買って戻ってくると、物干し竿につるし柿が吊されていた。去年は朝起き抜けに気付いて、嬉しいやら、びっくりするやらであったのを思い出した。今年はカラスを見たあとだった。隣家のTさんによるサプライズだが、ああ風物詩、と感じ入った。


2012年11月25日(日)

寒い朝だった。モニター上の温度を見ると2℃と表示されていてびっくりした。午前3時、外はまだまっ暗である。そのままずっと起きていることになったが温度は2℃のままだった。

暖房のない部屋なので居間のエアコンをオンにしてこちらに温風を送り込むようにしたがそれにも限界があった。着込んでいてもぶるぶる震えた。猛暑の記憶もあっという間に消し飛んでいく。あとで、山のむこうの秩父地方の最低気温が−1℃だったことを知った。

夜遅くになってかつての同僚Tさんからお米が届いた。退職後はお母さんの介護のために、実家の松本と自宅の八王子を行ったり来たりする生活を続けている。

丸山健二の本などに触発されて自分流の作庭を愉しみ、杜甫に近い心境でいると去年の手紙に書いてあった。その松本で自らが作ったお米である。5、6年来毎年送ってくれるのでことしも楽しみに待っていた。飛びつくようにして炊いて、食べた。ああ、この味だと思い出した。水気がふわぁっと口の中に広がる。少し甘やかで、旨いお米である。

いま書き継いでいる小説がほんの少し動き出してきた。結末のアイデアはもうできている。過去のことを思い出し、現在との通底路を見出していくのが書く動機となっている。

「ぐっと○○を包み込むようにして世界が広がっていく。これが小説だよ」

九段坂上の喫茶店で寺田さんは言った。ずっと前のことだから○○の部分はどうしても思い出せないが、高村薫のことが話題にのぼっていたのはたしかである。

「○○を包み込むように世界を広げる」を心がけているがまだまだその域には遠い。としても、こんなにも書く意欲が湧いてくるのはずっと厚誼を保ってくれるたくさんの友たちのおかげだと改めて思った。目下ひとり暮らしなので、この部屋の中に居間のストーブを持ち込んだ。


2012年11月27日(火)

最近家の中にいて、ひとりなのに音や声を聞くことが多くなった。ラジオを消したあとに人の声が残っている。外で何かの物音がする。深夜か夜明け、こんな時間にいるはずのない人が話しているようでもある。聞き耳を立てると音は消えていく。さながらフェイドアウトである。

ほとんどが幻聴だとわかっているが、つい耳を澄ますクセがついた。

すると昼の物音も奇妙に聞こえてくるようになった。すべて閉め切った部屋にいるから余計そう感じるのかも知れない。

今日なども、どーんどーんと壁を叩くような音が響いてくるので、ガス屋さんがボンベの交換にでも来たかと最初は思ってそのままにしておいたが、何分かおきに同じ音が聞こえるのでヘンだと思った。何の音だろう、と思うだけで外に出て確かめるようなことはしないが、もしこれが幻聴だったら、大変なことだ。

ひとり暮らしの功罪の一つか。あさってからは、また二人になる。

転けて右膝の皿を割った日からちょうど一年。膝蓋骨という言葉も、久しぶりに思い出した。去年はこのあと10日間ばかり入院生活を送ったのだったが、こんなに寒かっただろうか。


2012年11月29日(木)

朝起きて畑を見ると、一面真っ白だった。何時間かあとにはそれぞれの借りた畑でたくさんの人が作業をしていた。耕して、畝を作り、苗を植えている。初霜が降りた冬の朝、それはやがて春を呼ぶ機縁であるかのような風景にしばし眺め入った。

夕刊で目にした扇田昭彦の劇評「心に迫る悲劇と喜劇の共存…こまつ座・ホリプロ 日の浦姫物語」(朝日新聞)に触発されて井上ひさしのこの戯曲を初出誌で読んだ。

扇田は「蜷川幸雄の新演出により、悲劇性と笑いが共存する見応えのある舞台となって復活した。(中略)34年前の初演では、この笑いの部分がうまく弾けなかった。」と書いている。

再読の印象もまた(舞台と活字のちがいはあれ)強烈だったので嬉しかった。黄ばんだ紙の上から立ち上がってくるのは物語の底深い癒しの力だった。

終わりの方で、こんな一節。

帝(白河帝) 飯借(ままかり)の酢漬は口実で、本当は夢占いをお願いに上がったのです。
御姉君 まあ、不思議な暗合だこと。やはり姉と弟なのね。でも帝の夢はいったいどのような……・。
帝 西の海です。海の向こうに赤い夕日が沈んでいく。これが夢の冒頭。
御姉君 私の夢もそう。同じはじまり。

夜、姉に電話。一年ぶりくらいに声を聞いた。「あんたのことで夢を見たところだった」という。「いい夢か」と聞くと「そりゃ、そうや。多少、肉親の欲目があるけどな」

これもまた、不思議な暗合か。



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