2012年12月1日(土)
ついに、ことし最後の月となった。毎年のことながらこの月は“回顧の月”と呼びたくなる。
この一年を振り返ってみると、やはり充実と損壊がこもごもにある。同じように見えても、一昨年や、去年とはまたちがう時間を生きているような気がする。進歩しているなどと無邪気に言えないところは少し悔しいが、少なくとも後退ではないことを 一ヵ月かけて、じっくりと検証したいものである。
一年の反省は師走にあり、などと呟く。一年の計は元旦にあり、へとつなげるために。
2012年12月2日(日)
夜中に急用ができ、車を走らせていると雨が落ちてきた。いまにも雪に変わりそうな気配がした。新聞の予報欄には、「さいたま」のところに雪マークがあったことを思い出した。もし初雪ならば、随分と早いのである。そんな事態になれば摩耗したタイヤは危険だという怖れもどこかへ吹き飛んで期待は高まっていったが、ついに白くはならず、みぞれ、で終わった。
2012年12月4日(火)
広島平和記念資料館メールマガジン・113に「異空間のレンガ建築と家並み」(都市計画プランナー・山下和也さん)と題するコラムが載っていた。「広島市のデルタにポツンと座っている比治山。」という1行からはじまって、そこから旧広島陸軍被服支廠のレンガ建築を望み、やがて、10分ほど歩いてそこに至るという内容である。一部を引用すると、
『細い路地に面してまっすぐ伸びるレンガの壁面は、傾きかけた陽光に照らされ、向かいの低層住宅の陰影と相まって赤がまぶしく、下町の異空間を感じさせる。これだけの長さの直線状のレンガの家並みは、巨大建築の東京駅(まっすぐな建物ではないが)を除けば、少なくとも日本にはないはずだ。
(中略)
ここに多くの少年たちが動員された中で被爆し、臨時救護所となり、復興を支えた歴史があることを忘れてはならない。峠三吉の「倉庫の記録」と内部の広い空間を思い出し、西面の爆風で湾曲した鉄扉を振り向きながら、つるべ落としの夕刻をあとにする。』
このレンガ建築の一角の薫風寮に二年近く住んだことがあった。なつかしくなって航空写真を見てみたが、当然のことながら屋根しか写っていなかった。行ってこの目で見るしかない、という思いに駆られた。
2012年12月6日(木)
ほぼ一日中パソコンに向かっていても、書き加えたのは原稿用紙一枚分(400字)にも満たない。残りの時間は、60枚ほどになったものをはじめから、ときに途中から、繰り返し何度も読み返しては想が湧いてくるのを待つのである。それはまるで宗教的な時間に思えた。つまりかぎりなく“他力本願”に似てしまう。
数日前から、5センチメートル四方の陶製の楯を本体の上に置いている。保険会社の人が何ヵ月も前にくれたものである。そこには相田みつをの筆跡で「いまから/ここから」と書かれている。
画面から目をそらすと目に飛び込んでくる。瞬時に読んでしまう。反芻している。そうか、そうだよな、と納得するから、おかしい。
もともと「いまから/ここから/あしたはあてにならぬから」という詩らしいが、
いっとき有名になった「どじょうがさ/金魚のまねすることねんだよなあ」よりずっといい。
2012年12月8日(土)
ぼくらは、ルネサンス(仏語;Renaissance 直訳すると「再生」)のことを「文芸復興」という日本語訳で覚えてきた世代に属すると思うが、本来はもっと広義の意味があるという。それはとてもよくわかるけれど敢えて文字通りの文芸復興が広い層に浸透していかないものだろうかと夢想している。
11年前、杉浦明平氏の追悼文で川村湊氏が文芸復興の予兆を語っていた(朝日夕刊 2001.3.17)。その七年ほど前には宮内勝典さんは「文芸は必ず復興する」というエッセーを書いた(同 1994.1.28 )。一部を引用すると、
「時代を飛びかう言葉のいきつくところ、最終的な言葉はやはりここ(文芸誌)に印刷されている。(中略)人が苦しみ、悲しみ、思考し、意識し、共感共苦しながら互いにわかりあいたい、もっと深くコミュニケートしたいと願うかぎり終わることはありえない。もっと極端にいえば、私たちの脳や心があるかぎり文学は発生しつづけるだろうし、必要とされるだろう。」
思えば20代の頃は、いろんな小説を読んで人間を学んできたような気がする。実体験と等価な、いやそれ以上の世界がそこには開かれていたのである。生活も哲学も言葉による表現を通して臓腑に沁みていった。
心に沁みる詩のような言葉が復活し、人々の間に流通していけば世の中はもっとよくなるのではないか、と思うのである。それこそ「再生」するのではないだろうか。
2012年12月9日(日)
夫馬基彦さんは『風人通信』の「風人日記」で「まったく、純文学よ、どうなるのか。もう純文学は存在価値がないのだろうか。」(12/9日付)と書いている。
少し前の段では「大学の文芸専攻大学院でちょっと聞いてみたところでも、その種のもの(文芸誌)を読んでいる学生は殆どいなかった。」とも書いておられる。嘆くでも、悲しむでもない筆致だが、最後に冒頭の引用が来る。
文芸復興の最前線にいるのは20代の若者である。そこに希望がある、とボクは思う。
この日発行された「midnight press WEB 4」も、格調高く、文学的香気に満ちている。精読を強いられる。ということは、深く考えさせられるということである。
2012年12月11日(火)
昨日の夕刊で、10日未明に小沢昭一氏が亡くなったことを知った。真っ先に、雑誌の連載インタビューで「いまや、趣味は女房ですよ。」と語っていたことを思い出した。活字になった言葉には含羞と含蓄とが備わっていた。
ラジオ番組「小沢昭一的こころ」は車に乗っているときに偶々出くわせば聞く程度だったが、滅多になかったそんなときは釘付けになった。肉声ももちろんよかったのである。「原日本人としての心」がまたひとつ消えたようで寂しい。
(冒頭の言葉について、この日録でも言及したはずだと思い探してみたが、該当箇所を見つけることはできなかった。10年以上も続けていると記録としての価値も出てくると自画自賛するが、おぼろな記憶が検索するときの唯一の頼りとあっては画餅かな)
2012年12月13日(木)
かつての同僚Tさんから400字詰め原稿用紙17枚に及ぶ手紙が届いた。毎年送ってもらっていた自家製のお米をことしも送ってもらい、そのお礼の手紙に対する返事だった。冒頭部分だけ無断で引用すると、
《松本平の南部も宅地造成で、田畑が急速に減少し、農家の世代交代も上手にはこばず、米作りが年々困難になってきております。
干してある稲穂をスズメがついばむ景色ももうしばらくの事かと、寂しくなります。
幸い、ご近所の少し歳上の世代に、米作りに熱心な方がおり、田植え、脱穀に協力をお願いして収穫が可能になっております。北アルプス山系と筑摩山系の両方から、松本盆地に水が流れ込み、まだ清水が農業用水として豊富に使えるのが安心できる点ではありますが。あと何年かは、毎年、味わっていただけそうです。》
そうか、「水気がふわぁっと口の中に広がる。少し甘やかで、旨い」と感じるのは清水のおかげなのだ、と改めて思った。が、それよりもいまは長大な手紙のことである。
ひとり暮らしの母親の介護のために東京の自宅と松本を行き来するこの何年間かで「ヒトの一生、生命の意味」について何かの形で表現しなければならない、と考えるようになったと書き、たくさんの書物への論評を加えながら思考の跡を辿っている。驚嘆するのはその読書の多さだった。サルトルから京極夏彦まで41冊の書物が並んでいた。(ボクが読んだことがあるのはバスガル=リョサの『緑の家』だけだった!)
それらすべてがTさんのなかでは年来の課題である「自由と規範と善」に結びついていくというのだった。引き続き思考は深められていくのだろうが、印象深かったのは最後に書かれていた加藤周一の漢詩だった。その最後の二行、
為是吟節貪勝境
幾回迷路問樵翁
「幾回か路に迷っても、生あるうちに勝境を貪りたいものです。」
中身もさることながら、原稿を一枚一枚めくりながら、手書きの、いわば肉筆に触れるというのは、なつかしくもあり至福の時でもあるものだと思った。
2012年12月14日(金)
《小説は時代の鏡である、と、わたしはよく言っているが、この作品は、まさしくよく磨かれた鏡だった。作品が告げているのは、われわれを取り包む生の粒子の一つ一つが、ひどく軽いものになってしまった。しかし、逆説的なことだが、その軽さが時代全体の相になってみると、時代の空気が重苦しく、出口のないもののように感ぜられる。この時代を切り拓くためには、思い切ったディオニソス的情熱と行動が必要なのだ、と。
作者は、われわれの思い、感覚、神経の到る処に、意外な、異質の、新しい生の触手を植え付けてくれた。》
これは野間文芸賞を受けた山田詠美の『ジェントルマン』に対する秋山駿(30年生まれ)の選評(『群像』1月号)である。他にも、
《とどまるところのない現代の人間たちの欲望もまた、その倒錯(引用者注:紳士的なふるまいの陰で、妹に対するおぞましい愛情を抱いていたこと)を孕んでいるようにも思える。居心地の悪さは、その“悪”を白熱する傍観者によって暴かれたためかも知れない。(佐伯一麦)》
《平明なことを積み重ねると暗い穴が見えてくる(中略)、そこには共生とか絆とかは存在しない。あやふやなものは無い。感情移入という手法ではなくて、感情移植とでもいう手法で人と物語をつくる。それが作者の強靱さである。(坂上弘)》
『ジェントルマン』を読んではいない(近々読む予定もない)けれど、これらの選評は一作品を超えて“文学の本質”に及んではいないだろうか。つまり、いま信じるに足る文学者たちの、信じるべきことばがここにもある。これでじっくりと、津島佑子「ヤマネコ・ドーム」(長編520枚一挙掲載)に入っていける。
(敬称はすべて省略させてもらいました)
2012年12月18日(火)
7時前に雨戸を開けると畑のうえ一面を白い靄がおおっていた。その向こうにオレンジ色の太陽が覗いている。幽玄な朝景色に少し救われる気がした。
というのは「自民党圧勝」からなかなか立ち直れないからである。この国の「民意」というのはどうなっているのだろうか。自民党や維新の極右政党を「民意」はどんな気持ちで選んだのだろうか。そんな疑問から、いっこうに心が晴れていかなかった。テレビはもとより、新聞も選挙がらみのニュースは読まなくなっていた。
小選挙区制が「民意」を歪めるのかも知れない。「民意」を捏造するのかも知れない。そうとでも思わなければ、三度も放射能の恐怖にさらされた国民の「民意」が「安倍の復帰」「憲法改正」「集団的自衛権の行使」などを選ぶはずがない。
2012年12月19日(水)
冷たくてほどほどに強い北風を受けながら、ことばというのはとても怪しくて、かそけきものだなぁ、と感じた。友人が内田樹の「街場の文体論」に触れて「人に届くのはメタ・メッセージだけ。メタ・メッセージは(本質的に)宛先をもっている」という箇所を引用していたことと関係があるのかも知れない。
ああでもない、こうでもないとほとんど四六時中ことばをいじくっていると、これらのことばを誰に届けたいのだろうか、と不安や疑心に駆られるのである。そこで思ったのは、それこそ発表する「宛」のないモノだから、まずは自分自身へということになるのではないか。とすれば、モチーフがいずこにあるか、いや、そもそも、このことばに動機はあるか、それこそが問われている。
観念の所産としてのことばがいかに虚しいものであるかはわかるが、翻って自分のことばに虚はないのか。ときに、ことばと狎れているようなことはないか。いろいろと反省させられて、また一から読み直し、書き直していかねばならない。それは同時に、自分以外の「宛先」を探す旅でもある。といいのだが。
2012年12月20日(木)
若い頃からの友人二人を訪ねた。午後一時ごろ蓮田の友人宅に着いて、本の話、株の話(こちらは講釈を受けるだけだったが)に興じ、二階でバッハを聞かせてもらった。それが訪問の目的の一つだった。5、600枚近いCDのほとんどがバッハというだけに、解説もなかなか的確だった。大いに満足して、午後6時10キロほど北の鷲宮に向かった。
鷲宮の友人は廃校になった都立高校の図書館から廃棄処分になった本のうち『岩波講座 文学』全10巻と『川端康成文学賞 全作品』をボクのために残しておいてくれていた。連絡を受けたのはもう何ヵ月も前だったが今日ついに取りに行くことができたのだった。
『川端康成文学賞 全作品』(新潮社)には1974年の第一回から1998年の第25回までの全受賞作33篇が収録されている。「百」「兵隊宿」「黙市」「辻火」「中山坂」「じねんじょ」など何度でも読んでみたい短篇がずらりと並んでいる。
鷲宮の友人と逢うのは去年怪我で入院していたときに片道三時間かけて見舞いに来てくれたのでちょうど一年ぶりだった。奥さんともほぼ15年ぶりくらいに逢うことができた。風貌も、その快活さも全然変わっていなかった。楽しいひとときを過ごせた。
大いにインスパイヤーされた“歴訪”の旅となった。二人とも苗字が「は」から始まるH君だとも気付いた。深い意味はないが。
2012年12月22日(土)
昨21日は冬至だった。ゆず湯に入り、食事を終えると早々にベッドにもぐり込んだ。本を片手にしていたが、すぐ眠ってしまったようだ。1時半に目が覚めて、すぐ外を覗いた。まだだ。次に起きたのは5時半、真っ先に外を見るも変化なし。雪を待つ、というタイトルのようなものが頭のなかを去来したが、ホンモノはついに降らなかった。
『川端康成文学賞 全作品』(新潮社)から三浦哲郎「じねんじょ」、津島佑子「黙市」、小川国夫「逸民」を読んだ。凄い、の一言のみであり、自分の書くものがいかに薄っぺらであるかを思い知らされる。表紙の裏に貼り付けられている帯には「あるいは文学に志すひとのためのよい手引きになるかもしれない。(川端香男里)」とある。
それにしてもこの本、図書館に十数年間所蔵されていたのに、一度も読まれた形跡がなかった。しおりの紐が折りたたまれたまま挟まれていたからである。おかげで当方は新本同様の気分で手にすることができているものの、少し複雑である。
2012年12月25日(火)
『川端康成文学賞 全作品』(新潮社)から色川武大「百」と坂上弘「台所」を読んだ。
「百」はあと何年かで百歳を迎える実父のことを書いている。その認識が鋭い。
《私は夜も昼もけじめがつかない、夜昼ばかりでなく自分の主体というものにもけじめを失ったまま、浮遊するように行きている。五十年の間あれこれやってきたことは、ただ伸びひろがって拡散していくばかりで、少しもまとまりがつかない。おそらく父親も似たようなものだろう。八十年も九十年も生きても、まだ途中だというだけでなんのまとまりもつかない日々なのだろう。》
「台所」は八十四歳の母親が描かれる。夫のあとを追うように逝ってしまうまでの三ヵ月、息子は勤め帰りに立ち寄って食事やらの身のまわりの世話をする。
《五十を過ぎてからそろそろ母親の躰を一度触らせてもらおうと思ったことがある。(中略)むしろだれにも知られずに彼女と二人だけになって、躰を洗ってやったりしながら、自分が彼女から生まれてきたということを確かめておきたい。そういう素朴な欲求が浮かんだのである。》
それは実現するがその欲求の背景には、中学生のころ母と一緒に入ったお風呂の記憶があった。推理小説のような味わいのある短篇だった。
文学の芯を洗うようなクリスマス読書体験となった。
2012年12月27日(木)
昼前から庭に出て梅やネズミモチの木の枝切りに精を出す配偶者を尻目にこちらは家の中で、パソコンに向かい、本を読み、ボーノチーズをかじり、などと気ままに過ごしていたところ、ずっと上を向いて作業していたので具合がわるくなった、後片付けを頼みます、と言われてしまった。
仕方がないので、長靴を履いて庭に出た。風はすでに真冬のものでとても冷たいが、陽に当たっているとからだが温まってきて心地よい。切り落とされた枝をさらに細かく刻んでゴミ袋に詰めた。前に切ったモクレンの太い枝も庭に転がっていたのでこちらも小さく切って束ね、まだ収集に来ないのを幸いに本日分のゴミとして出した。それでもまだ陽差しが残っていた。半年ぶりくらいに車まで洗ってしまった。
みやざき特産の「日向夏」が届いた。日向在住の友人は毎年のように送ってくれるので恐縮しながらも、隣家に何個かお裾分けして、配偶者と二人で早速一個ずつ平らげた。何とも言えずさわやかな気分になった。
安倍政権がらみのニュースを見る気がしないので、12時から20時まで一挙放映の『冬のソナタ』を見て過ごした。今日は全20話のうちの最後の6話くらいがあった。最後の3話はけっこう集中してみた。政治ニュースよりうんといいや。
2012年12月30日(日)
仕事を終えて帰宅すると同時に配偶者を乗せて近くのスーパーに出かけた。雨は本降りだった。このところほとんど買い物にも行かなくなっているが、「せめて松一本だけでも買って、今日中に飾っておかなきゃ。一夜飾りになってもいけないし」というので「それは、その通りだ」と納得した。
ゆうべふと、庭に笹竹がいっぱい生えているから正月飾りは手作りにしてみるのも面白いかなぁ、などと考えた。一夜明けて、七夕でもあるまいしやはり竹ではヘンか、と思い直した。松竹梅とは言うけれど、門松だから松が主役なんだろう。そんな思いつきが、配偶者に伝わってしまったのかも知れない。
で、スーパーで見つけたのは神棚に飾るために売られていた「松入り榊」である。松だけ抜いて玄関に立て、榊の束はホーローの容器に入れて神棚へ。
これら一連のことは本来ならば風呂に入ってからだを清浄にしてから行うべきところだったが、夕食の前にあたふたとやってしまった。一夜飾りを避けるためには早いほうがいいだろうという心理が働いたにちがいない。
それにしても一年は早い。明日一日でことしも終わってしまう。
2012年12月31日(月)
年越しのとろろそばを食べ、ワインを飲んですこし酔い、日付が変わるまでには風呂にも入ろうと思っている。そのあと早速初もうでといきたいところだが、おそらく眠ってしまうだろう。すべては、目が覚めてからである。
みなさん、どうかよいお年をお迎え下さい。
来年もよろしくご厚誼のほど、お願い申し上げます。