日  録 待ちどおしいもうひとつの“群来” 

2013年1月1日(火)

津島佑子「ヤマネコ・ドーム」(『群像』1月号)を読み終えた。520枚という長編だったので、覚悟して、つまり、楽しみにしつつ読み始めたが、いつしか終わりを迎えていた。言葉の勢いに引きずり込まれたので長いという感じがしなかった。

「3.11、大震災・原発事故」を起(基)点として、遡ること五十数年の歳月を、錯綜とした時のなかで語り手を替えながら、あたかも「神話」のように語り継いでいく。読み終えた後すぐに冒頭の一章に戻って読み返していた。それは、生の世界を大きな翼で覆っていくような言葉の群れに圧倒されたからだった。

千年に一度といわれる東日本大震災はもちろん神話ではない。また神話にしてはいけないのだろうが、この小説は「文学」は人の歩みとともに生き延びていくのだという希望を感じさせてくれた。

午後遅くになってから、境内で奉納される高倉獅子舞踊りが鶴ヶ島市の無形文化財になっている、近くの日枝神社に初もうで。この一年の、僥倖もふくめた幸せ、を祈ってきた。


2013年1月3日(木)

今年は暦通り火曜と木曜が公休、つまり、元旦と今日が「正月休み」となった。

大晦日も正月もあるものかと働き詰めに働いてきたのは2000年頃から3年前の2010年までで、なんの因果か、この年は1月12日に膝の皿を割る怪我をして入院・手術ということになった。

翌11年は、暮れに死んだ母の葬儀のために帰郷していたので、仕事を始めたのは三が日のあとだった。昨12年は、11月の終わりに反対側の膝に同じ怪我をしたから、このころはまだ療養・リハビリの真っ最中だった。

それらに比べれば今年はなんとも穏やかな正月である。この一年何があるかわからないが、身も心もゆったりとして、来し方を見つめ、行く末を凝視する日々を送りたいと思っている。

そのうえで、今年の抱負だなぁ、などと考えている矢先に、大阪自由大学に常務理事として関わる畏友・安村君から「大阪自由大学通信」(pdf版)が送られてきた。草莽の志、その高さに感じ入り、われにはここにあるような社会性はひとつもないが、その意気だけは共有したいと思った。


2013年1月6日(日)

一通も出さなかったのに何通か届いた年賀状の返事を、今度の休みにはきっと書こう、と思いながら次の休みを待っている。それまであと二日ある。待ち遠しい。三が日のうちの二日を休んだからその仕返しをされているような気分である。バイオリズムというものもたしかにあるようで、いまそれは減退期に入っている。何日かすればすぐに立ち直れる自信はあるが。

今回の芥川賞候補作には75歳の黒田さんの早稲田文学新人賞の受賞作品「abさんご」が入っているという。冒頭部分をWEBで読んでみたが、言葉というものは時とは無関係に不変なところがある、と感じた。


2013年1月7日(月)

今日届いた年賀状の写真に短くない時間見入ってしまった。

学生時代 同じ弁論部にいた一つ下の女性からのものだったが、「私の子供(6人)と孫(8人)とつれあい達です。」と添え書きされている。

乳呑み児から小学生くらいまでの子供がたしかに8人写っている。大人、といってもみんな若いが、本人以外に10人。ということは子供六人のうちふたりはまだ独り身かも知れない。

そんなお節介な詮索をしてみたくなったのは写真を見ただけで「親戚」のような気がしてしまったからである。ルーペを持ち出して眺める始末であった。

これぞ古き良き時代の「日本」ではないだろうかとも思うのである。みんなはつらつとした笑顔で肩を組むようにしてその女性を取り囲んでいる。ここにもいい笑顔がある。その人は私立中・高の現役の先生である。

安倍政権の「きな臭い日本」の対極にある「日本の風景」を見る思いだ。


2013年1月10日(木)

奇妙な、それでいて妙に現実感のある短篇小説をふたつ読んだ。

吉田知子「お供え」(雑誌掲載1991年)と村田喜代子「望潮」(同1997年)である。

「お供え」は、夫を亡くして13年経ったひとり暮らしの女性が得体の知れぬ人たちに「神様」のように祀りあげられていく過程を描き出す。背筋がぞくぞくとするような恐怖を感じた。それは、ああ、あり得る、と思うからであった。

「望潮」(しおまねき)は玄界灘の島(壱岐がモデルだという)で十年前に目撃した光景が語られる。「つの字」の老婆が手製の箱車を押して浜の道に出て通りかかる車にはねられようとするのだった。毎朝カニのようにぞろぞろ這い出てくるからこんなタイトルが付いている。十年後には、そんな話は噂としても残っていないのだったが、これまた切実で、哀情を誘い出される。

ふたつは『川端康成文学賞全作品』に所収されている受賞作品である。この本からいよいよ目を離せなくなって、安岡章太郎「伯父の墓地」(1990年)、開高健「玉、砕ける」(1978年)、大庭みな子「赤い満月」(1995年)、「海にゆらぐ糸」(1888年)と続けて読んだ。

さらに、上田三四二「祝婚」(1987年)をベッドの中で読み終えて(しみじみとして、若い世代に希望を託すいい話であった)、ひと眠りした。

目が覚めて時計を見るともう「5時」になっていた。起き出して、コーヒーを飲みながらパンをかじっているとき、実はまだ2時過ぎであることに気付いた。騙された、と思った。

いい小説は言葉の力で人を騙す。その上で感動もする。騙されてみたいし、騙しても見たい。もう日付は変わっているが、この冬一番の寒気というだけにからだが心底から震えた。


2013年1月12日(土)

上田三四二「祝婚」を再読した。どこかしらからそれをうながすような声が聞こえた、と言うべきだろうか。

題名の由来となるこんな歌が挿入されている。

おしなべて味(あじは)ひふかき人の生(よ)をあゆまんとする今日より君は(かっこ内は原文ではルビ)

続けて引用すると、

《ある高名な歌人が愛弟子に与えた祝婚の歌であった。
ここで結婚は「味ひふかき人の生」と捉えられている。「人の生」は「人の世」で、「生」の時間軸が「世」の空間軸を自覚の中に取入れるとき、人間は一生という時間と世間という空間の交わるところにみずからの位置を見出す。「世」とは古くは男女の仲を言った。「世づく」とか「世を知る」というのは、男女の仲に目覚めることであった。
(中略)
人間とは人と人との間がらだが、その間がらのもっとも微妙なもの、「味ひふかき」ものが夫婦というものではないか。》

高名な歌人とは佐藤佐太郎のことのようだが、披露宴でのスピーチでこの歌を披露したあと、

「お説教をするにはいささか味不足のわれわれ夫婦ですが―」

「私はいま女房を拝んでいます。」
「―怒鳴りながら、ですけれども。」

こんな風に続いていくのである。(地の文は省略)

ここまでが一の山で、さらに二の山(自分の師の短歌)、三の山(三好達治の詩)と展開して、全体として若い生を言祝いでいる。すごい作家の凄い作品だと改めて思い知った。


2013年1月14日(月)

午前10時すぎ、それまでの雨が、みぞれ、さらに雪へと変わった。ちょうど家を出た直後だったが、南に進むにつれて本降りの様相を呈していった。休日のせいで車が少ない分、融けずに雪が路上に積もり、運転にも緊張を強いられた。信号が青に変わって発車しようとすると車体が何度か横滑りした。そのたびにひやりとした。

1時間ほどあとに着いた所沢下富の駐車場は積雪10センチくらいになっていた。初雪が大雪となった。

日録を遡ってみると去年は「初雪、1月20日未明」となっていた。ベッドに横たわったまま、障子の破れ目から雪景色を眺めた、とある。4日後の24日には大雪が降り、首都圏の交通網が麻痺し、大勢の人が怪我をしている。

五木寛之に「去年の雪」という題のエッセイがあったように思うが、あれはどんな内容だったのだろうか。中身を思い出すことはできないが、品格のある文章で人生の機微を綴っていたのにちがいない。

それにしても「こぞ」はいつも哀歓に包まれている。


2013年1月15日(火)

倉田良成さんから新しい詩集『横浜エスキス』が送られてきた。硬質の散文におのおの趣向が凝らされた34篇が集められている。早速なかの一篇「飼い犬」を読んだ。家族と飼い犬にまつわる「私」の来歴は惻々として胸を打った。最後の7行は『カラマーゾフの兄弟』からの引用で終わる。それが絶妙の連携となっている。この一篇に「石もて追われるように、横浜のあちこちを点々としてきただけだ」(あとがき)という思いが凝縮し、この詩集全篇のモチーフを支えていると思った。あとの詩篇を読むのが楽しみである。


2013年1月17日(木)

昨夜から今日にかけての最大の「話題」は芥川賞を受賞した75歳の新人作家・黒田夏子さんのことだろうか。
森敦を越えて「最年長」であることが耳目を引いた。受賞会見では予想通り平穏な文学者らしい言葉が発せられたようだが、

「生きているうちに見つけて下さいまして、本当にありがとうございます。」

というのはなかなかいい感じであった。

思えば一年前、田中愼弥さんの「都知事閣下のために、もらっといてやるか」という発言が世間から面白がられた。

その、当時の都知事・石原慎太郎が「大阪都」という名前について「しょーがねーか」と「了承した」という記事が出ていた。

了承? 誰に対して? 市長の橋下に、というではないか。別の記事によれば、この橋下は「体罰のあった高校の体育科の募集を停止せよ」と言い出しているそうである。

揃いも揃って独裁者気取りであることに、大いに嫌気した。民意が本当にこのような「政治家」を迎え入れているとは信じたくないのだった。


2013年1月19日(土)

“へいいほうはつ”ということばが浮かんだ。漢字では「弊衣蓬髪」と書くのだが、弊衣はともかくわが髪が「ヨモギのように乱れている」からである。長髪は若い頃から馴染んできて(?)きらいではないが、いまや、心地よさと煩わしさとの臨界点に達している。

昨秋から『刈り上げ君』という商品名の散髪機器が放り出されてあった。当時富良野にいた配偶者からの荷物に入っていたのである。これを使ってみようと思ったのはつい2週間ほど前のこと。やる気満々で機器を取り出してみると、肝心の電源装置(アダプター)がなかった。五分に刈り上げてイメージチェンジといくつもりがとんだつまずきの石となった。

言い訳にもならないが以来髪の毛はそのままである。ただずぼらが昂じただけである。毎年1月はこんなものか。


2013年1月21日(月)

“へいいはぼう“(弊衣破帽)というのもあるか、と思ったものである。

このことばからは、伝え聞く旧制高校のバンカラ学生の姿を思い浮かべてしまう。ことに破帽などは、こちらにはかつてもいまも無縁のようだが、バンカラの気風を多少は引きずっている。

それに較べれば 「体育科の募集中止」をめぐる大阪市教委の決定は「反骨」のはの字もない。いや反骨はいらない。理を通す「勇気」さえない。他山の石としなければならない。

とうに日付は変わっていたが、金沢の「福徳せんべい」が一つだけ残っていたので、俵の形をしたそれを割ってみた。中から出てきたのはやっこさんを思わせるような伝統の土人形だった。高さ2センチほどだが、たしかな存在感があるので、ことしの幸せを願って、飾った。

もう下旬にさしかかるが、何回祈願してもバチは当たらんだろう。腹立ちのみが増えていく世であればなおさらに。


2013年1月24日(木)

ほぼ5年ぶりくらいに高島平へ行ってきた。配偶者の年金加算手続きとやらで戸籍謄本が入り用になっていたからである。

結婚したときに新しい戸籍を作ったために本籍地が東京都板橋区になっている。郵送で送ってもらうつもりでいたが、やれ小為替だ、やれ返信用封筒だのと意外と煩わしくてそのままにしていた。そんな折に、このところ「引きこもり」がちな配偶者がめずらしく、いまから取りに行こう、帰りにこどものアパートに寄りたい、などというものだからついその気になったのである。

昼すぎのいっとき、区役所・高島平出張所を車で一回ぐるりと回っただけであるが、たしかに高齢者も多かったが、幼い子供を連れた若いお母さんも少なからず目に付いた。

報道されているような、衰退した団地というような印象はなく、むしろ昔ながらの昼下がりの活気さえ感じた。それに釣られたのか、ちょっと商店街に寄って行こう、と配偶者は言ったほどである。20代の終わりから30代の後半の約10年間となりの四葉町に住んでいたから買い物といえば高島平まで来ていた。そんな30年も前のことを不意に思い出した。もっともボクには、5年前までは週2回仕事のために通いつめたなじみの街である。

陽射しがとてもあたたかい日だった。帰り道を変えたりしながら往復、ざっと100キロにも及ぶドライブとなった。


2013年1月26日(土)

母校の小学校から『創立140周年記念誌 あゆかわ』が送られてきた。学制発布の翌年、明治6年(1873年)3月3日開校というのは平成の大合併後の市内では最も早く、県内でも10番以内の早さだという。

記念誌には「歴代教員と在職期間」「歴代担任教員 学級担任等」の資料が付けられている。在籍していた6年間(昭和30年4月から昭和36年3月)どんな先生がいたか知ることができる。

記憶に残っている(名前から顔が浮かぶ)のはいつも校舎の裏や校庭に出て花の世話をしていた教頭先生、4年と5・6年の担任の先生の3人だった。名前はなんとなく覚えているが顔の浮かばない先生がやはり3人くらいいた。あとはすっぽりと記憶から抜け落ちているが、名前を眺めているうちにまた甦ってくることがあるかも知れない。いい資料であることには変わりがない。

個人情報を意識して氏名だけ掲載の「卒業生名簿」もなかなか「読ませる」ものだった。記録が残っている明治42年(1909年)からの資料だから貴重である。父(大正5年)も母(昭和8年)も、46歳で死んだ腹ちがいの兄(昭和16年)も載っていた。

関連資料に寄ればわが母校は、平成24年度の在籍児童数は28名、卒業生は2名、前年度はそれぞれ26名、1名だったという。まさに存亡の危機に直面した中での『記念誌』の発行である。同窓会長はわが従兄であり、地域振興の一環として「鮎河小学校を守る会」を作って奔走しているのは、誰ひとりとして忘れていない49名の同級生のひとりである。

さらに現在の校長は高校・大学が同じ後輩である。3月で教員生活を終えるという。3年間山あいのふるさとに愛情を注いでくれた。奇しき縁を感じてしまう。こんなときがやってくるとわかっておれば、学生時代もっと優しく接し、先輩らしく面倒を見ておけば良かった、と本気で思う。


2013年1月29日(火)

1月も残すところあと2日になってしまった。庭の枯れ木で動き回るメジロや椋鳥を目にした。時を措かずにそれぞれたった一羽でやってきた。椋鳥などは長いくちばしで枝をつつきまわしなにやらを掴まえたようだった。たいしたものだった。

数時間後にはキジバトの夫婦もやってきた。何もない庭が少し申し訳ないような気がした。節分の前に、豆でも撒いておこうか、と思ったくらいだが、あとひと月もすれば木々も緑におおわれ梅の花が咲き虫たちも動き始めるだろう。敢えて自然にそむくこともない。

友人のブログ『久末です!』によって「群来(くき)る」ということばを知った。北の漁場にニシンの大群が押し寄せ、雄ニシンが出す精子で海が真っ白になる現象をそう呼んできたという。まさに春を呼ぶにふさわしいことばだと感じた。


2013年1月31日(木)

寝転がった状態で足を持ち上げる時に感じたあの痛みはどこへ行ったのだろうかとふと思った。膝の怪我のあと、去年のいまごろはまだリハビリ中で通院もしていた。日録の1月31日の項を読み直すと早く走れるようになりたいと書いてある。いちばんの気がかりはその痛みだったのである。

「持ち上げるとか走るとかのときは筋肉にふだんとちがう負荷がかかるのです。骨のまわりに筋肉がついてくれば、大丈夫です、痛みも消え、走ることもできます」

と言われていたが、痛みはなかなか消えなかった記憶がある。

そんなことも思い出して、このたび試してみると痛みがないのだった。いつからだ? と自分の身体のことなのに不思議な気分だった。

この伝でいけば、気が付けば全力で走っていた、ということになるのかも知れない。つい最近の夢の中で、必死で逃げている場面が出てきたように思う。


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