日   録 「火気」の本性は炎上?

2013年3月2日(土)

このホームページも開設して丸12年を迎えた。日録の最初は「2001年3月1日」であり、自分なりのマニフェストとして「見えざる記憶」を書いた日付は「2001.3.3」とある。ひとりよがりなことで恐縮だが、「12th. anniversary」と言いたいのである。

その年の1月1日、いよいよ新世紀を迎えるというのに、その夜明けを待たずに長く闘病中だった義弟が逝った。札幌の大学を出たあと東京で鍼灸を学び、義父の鍼灸院で一緒に診療をはじめてから20年も経っていなかった。技が磨かれ、患者さんからの信頼も厚くなり、いよいよこれからというときの死であった。なんでこんな辛い仕打ちが襲いかかるのか。理不尽であり、無念であった。怒りと悲しみが極まるほどの記憶を引き摺ったまま、ホームページを始めたような気がする。

当時52歳になったばかりである。少しばかり日記を読み返してみるかぎり、感性・表現に大きな変化は認められない。10年ひと昔というけれど、ここではあてはまらないように思われた。時代に寄り添ってみたいと思った当時のままである。(言い換えればいまや時代遅れ、ということか?)

これが30代の時に20代を、さらに40代で30代を振り返ればまたちがったのかも知れない。しかしそれはもう経験できない。想像すらできなくなっている。これは恐ろしいことである。そこで、せめて再現できないかと踏ん張っている、それがHPの現在ではないだろうか。

明日はひな祭り。すべての女性に「おめでとう」と言いたい。そんなドン・ファン(Don Juan)的な気分は10年前にはたしか起きなかったものかも知れない。


2013年3月3日(日)

春近しといえども、夜と朝はまだまだ寒い。深更、1時半頃だったが、あまりの寒さに目が覚めた。火花が散った電気あんかはもう使えないので、湯たんぽをいれようと思い立った。ポットでお湯を沸かし、プラスチック製の容器に熱湯を注いだ。そのままの状態で毛布と毛布の間に投げ入れ、同じ熱湯を使ったコーヒーを飲んでから再びベッドへ。ようやっと安穏な眠りがやってくるような予感を抱いた。その通りになった。


2013年3月5日(火)

広辞苑・第六版によれば「ふ・る【振る・震る】」という動詞には合計19の意味(用例)があるという。大別すると、

[一]本来は、物をゆり動かして活力を呼びおこす呪術的行為。その信仰の衰えとともに、単に物理的な振動を与える意となる。

[二]物が生命力を発揮して、生き生きと小きざみに動く意。

のふたつとなり、[一]は15の、[二]は4つの項目に分けられている。机上の第三版では(13)にまとめられていたのが、(13)向きを移し変える。「針路を東南に―・る」「わき目も―・らず働く」と(14)大きく動かして移す。「飛車を―・る」の二つに分けられていた。

今回辞書を引くきっかけは「ふる」という日常語が漢字では「振る」でいいのかどうかを知りたかったことである。(6)の項にこうあった。

(6)嫌って相手にしない。はねつける。源氏物語(夕顔)「あやしう人に似ぬ心強さにても―・りはなれぬるかな」。遊子方言(1770年刊行の洒落本)「あいらが―・られずば、―・らるる者はあるまいぢやないか」。「恋人に―・られる」

ちなみに[二]には「波が立つ」「風が吹く」「大地などがゆれ動く」ときの用例が出ている。そういえば、かつて「なゐふる」というタイトルの地震関係の機関誌が定期的に送られてきたことがあった。「なゐ」は「大地」の古語、「ふる」はこの場合「震る」である、という。

広辞苑に戻れば、「ふ」が濁って「ぶ」になると「そのふりをする。」「きどる。虚勢をはる。」という意味に変わっていく。ことばの奥行きと生き様を思い知らされる。


2013年3月7日(木)

7時前に雨戸を開け、30分ほどあとにはゴミ袋を二つ出しはしたものの、何となくからだが重い。心臓がぱくぱくと鼓動をはやめ、頭も痛いような気がした。

春の陽気になったのに風邪を引くなどは考えられないことなのでおそらく心因性のものだろうと思いつつ再びベッドにはいった。寝つかれず、落ち着かず、出たり入ったりを繰り返した。最後は居間のソファーに辿り着いてそこで眠ったようだった。目が覚めると12時近くになっていた。

きのうの朝6時前に家を出て、配偶者は富良野に戻った。今回は3ヵ月以上に及ぶ「長期滞在」だった。やるべきことがあるとはいえ、ひとり暮らしに慣れるまでにはまたしばらく時間がかかりそうである。虚脱めいた気分がずっとわだかまっていたのだろうか。

その数十分後、佐伯一麦さんからの返信メールを読んだ。「近況かたがた」と添え書きがあって、新聞の連載エッセイ(第112回、2月22日付)「月を見上げて〜 二人の編集者を偲ぶ会〜」(PDFファイル)が添付されていた。滋味溢れる内容と心に沁みる文章に昨夜来のからだの重さ・だるさがやっと消えていった。よし、(生活に)とりかかるか、という気にもなった。


2013年3月9日(土)

はるか昔のことをふと思い出すことがある。そのとき、記憶の底、そこがかりに深い海底だとすれば(地震速報のようだが)、まさに泥を浚うようにして海面まで浮上してきたような奇特な感じがするのである。たいがいは取るに足らぬことながら、「あのときあの場所でこんなことをした」という経験(人生のひとこま)だと思えば捨てがたく、よくぞ残っていたと感謝したくなる。

ただし、その記憶が事実だったかどうかは自分ではわからない。長い年月を経て、地層がずれたり曲がったりするように記憶も変容する。思い込みも加わる。いまや固定した記憶の元の姿を再現することはできない。真実は薮の中である。

昨日ひとつ年下の寮生仲間から届いたメールの末尾にこうあった。

《日本の晴朗な大気も危険信号です。どうかお気を付け下さい。
不肖かつ不遜(今はそういうことはありません)だった後輩より。》

この友人とは四十数年間逢ったことはない。別の畏友と同じ会社にいたのでときおり消息は聞いていた。その縁で昨夏こちらから電話を掛けてしばらく話した。それ以来交流は復活したが、まだ逢ってはいない。

それにしても、《不遜(今はそういうことはありません)》のところではつい笑ってしまった。不遜といえばかつてはみんな例外なくそうだった。こちらなどはいまもそんな悪弊を引き摺って生きているようなものである。それに反して、大きな会社の重役になった彼はもうそんなことはないのだろう、と納得した。なんと鋭敏な自己認識だと思った。逢ってみたい。逢って当時の記憶の数々を摺り合わせてみたい。そんな気になった。


2013年3月12日(火)

13くらい年少の人から「ふける」という言葉を久々に聞いて新鮮な感じがした。耽る、老ける、更ける、蒸ける、などというのでなく、ひらがなで表記される「ふける」である。

広辞苑には(1)逃げる。行方がわからなくなる。駆落ちする。(2)退屈する。(3)花札用語、とある。

ネットで調べると1980年代に流行した若者言葉とあった。江戸時代にも流行ったことばのようである。ぼくが若者だった1970年代にも、流行っていたかどうかは記憶にないが仲間うちではよく使っていたような気がする。

どこそこへふけこむ、などという用例が思い出される。すると漢字は「耽る」に近いのか、と思うが。


2013年3月13日(水)

路上で燃えさかる火炎瓶を指してうんと若い頃に「火は傲り、火は昂ぶり。」と書いた。手前味噌ながら、気に入っているフレーズのひとつである。

ほかに「哺乳類は悲しすぎる」というのもあるけれど、これらを思いついた時代もはるか彼方か、などと感傷にひたる日々を送っていたところ、今年になって火にまつわる経験を二度もしてしまった。電気あんかから火花が散って思わず跳ね起きたことはすでにこの日記に書いたが、4日前には野菜炒めを作っているときフライパンに火が飛び込んで大きな炎が立ち上がった。

咄嗟にそばにあった鍋のふたをかぶせると炎は鎮まった。事なきを得たわけだが、あとで思えば、炎の柱は頭の高さを優に越えていた。上方の、油がこびりついた換気扇カバーに引火しておれば、築40年の木造建物ゆえに、手に負えないくらいの炎に包まれただろう。しばらくあとには怖じ気で背筋がふるえた。

「若書き」ということばがあるが、あとで読み返すと、感心したり、愧じ入ったりと振幅の幅も大きくなる。「火は傲り、火は昂ぶり。」などはさしあたり、こんどの“危機一髪”を招き寄せた遠い因縁だろうか。それとも、わが罪と罰であろうか。


2013年3月14日(木)

昨夜から骨が痛む。かつては肩か首の骨だったが、いまは肩の下に突き出ている鎖骨がキリキリと痛むのである。気温の大きな変化とも関係ない(たぶん)、ましてや比喩でもないので厄介だ。

それにしても冬に戻ったように寒い一日だった。この地は期待した雨に見放され、午後になって陽射しも射さず、庭の小さな畑に水を遣らねばならなかった。

こんな一日を慰めてくれるものは満開の白梅とオレンジに近い黄色のクロッカス。クロッカスはあちこち地面から突き出てけなげである。


2013年3月16日(土)

気温はかなり高くなって春らしい一日だった。相変わらず骨が痛む。早く比喩としての表現に昇華して欲しいと他力本願・神頼みのような時間を過ごした。骨は痛んでも、文字を打ったり、ものを考えたりはできるので、自分でも驚くほど精が出たのである。

もう一息だ、などと自身をむち打ちながら想像力の壁に挑んでは跳ね返されているようなものだが、それが喜びでないこともない。めずらしい野菜の種を送ってくれた友人に「まぁ、遺書のようなものだね」と返信した。なにげなく書いたその言葉にまた縛られるのはわかっているがそう言わずにはいられなかった。

ともあれ、夕方の一刻、小さな畑に水を遣るために外に出ただけで、あとはパソコンの前と居間を行ったり来たりしていた。


2013年3月19日(火)

学生時代の友人のことで思い出したことがある。彼が間借りしていた部屋のことである。移って間もなく「遊びに来いよ」というので出かけた。

その部屋に通じる特別の階段が建物の外についていた。途中踊り場が1ヵ所あるものの、ほぼ3階分の長さの階段が天に向かうがごとく一気に延びている。町の名前はもう思い出せないが流川などの繁華街から歩いて十分かそこらの距離だった。はじめて行ったその日も繁華街をブラブラしたあとだったので、もう真夜中に近い時間になっていた。

その部屋は三角の梁がむき出しになっていた。立って歩き回ることができなかった。あぐらをかいていても頭のてっぺんが窮屈な感じがした。そこでは寝転がっているのがいちばん楽な姿勢だった。ホンモノの屋根裏部屋だったのである。
「よくみつけたな」
「親戚の家の持ち物だよ」
そんな他愛ない会話もいまやなつかしい。

彼との思い出がつねに手枕で寝そべって向かい合っていた記憶につながるのはその屋根裏部屋のせいにちがいない。四十数年前、刑務所の塀の途切れるあたりで別れたきりになっているが、いまごろどうしているだろうか。ああ、いとしの金井君、である。


2013年3月21日(木)

学生の頃二度ばかり招待されて蜜柑狩りに行った島の名前を「下蒲刈島」と覚えていて、その思い出をメールに書いて畏友Y君に送っておいたところ「それは上蒲刈島が正しい」と今日の返信メールにあった。

あのとき実家が所有するミカン山にY君を除く何人かを招待してくれた女性がY君の奥さんだから、あきらかにぼくの記憶がまちがっているのである。

Y君はさらに「下は本州に近く、上はもっと沖の方、四国に近い方である。川で言うところの上流、下流を想像してもらえばいい」と書いていた。呉から連絡船に乗って30分程度で島に着くと、いきなりミカン畑が迫ってきた。つづら折りの坂道をほんの少し登るともう海は眼下の眺めとなる。島すべてがミカン山であった。そのほとんどが奥さんの実家の所有になるというのはあとで知ったことである。

Y君が愛すべき畏友である所以は続けてこんなことも教えてくれるからである。

《上とか下とかは昔から地名にはない。島名を言うときのみ。すなわち川の「上流」は「下流」よりも「僻地」と言うに等しい。地名権者(そんなものがあるのだ)は経済的・文化的・交通量的に勝った住民である。ちなみに女房の実家の大字名は「向(むかい)」。誰の「向側」だったかと言えば「下蒲刈の三ノ瀬」であり、ここは福島正則の時代から江戸期全編を通じ経済力もあり、人口も多かった。》

まだまだ蘊蓄、慧眼ぶりは続いているが、これだけで十分に「眼から鱗」だった。


2013年3月24日(日)

花冷えのする一日だった。それにつられたのかこちらの気持ちもぐんぐんと冷えていくようだった。ひとつ、ふたつと心配のタネが重なって、ズバっとした解決策がないだけに、すぐに袋小路に入ってしまう。そこはまるで氷室のようであるのだった。

まったくちょっと寒くなると哲学的になる。なにかが足りない、決定的ななにかが。かつて寺田さんからも指摘され、長い間自分でも感じ続けてきたが、それが何であるのかぼんやりと見えてきた矢先である。それは「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」という言葉を想起させる。

どれもこれも身から出た錆であるので、ここは心機一転、どこかに希望を探っていかなければならない。


2013年3月26日(火)

朝小雨のなかをゴミ出しに出るとブロック塀の下から芽を出した雪柳が白い花を咲かせていた。その昨日も前日に続き花冷えの一日だった。ここで花と言えばついサクラを連想するが、同じバラ科の雪柳もそのまわりをゴージャスな気分にさせる花のひとつである。路傍の塀の下、コンクリートを突き破るように成長した実生の木は、たくましくもあった。そのエネルギーが欲しいと思った。



昨夜の雨から一転、朝から晴れわたった今日、ジャガイモを植え付けた。差配のほとんどをとなりのTさん夫妻がやってくれた。こちらは畝を作っただけである。たった三つなのに、冷たい風に打たれながら鍬をふるっていると息も切れ切れになった。雨水の沁みた土は固く締まり、重かったせいもある。滋養がいっぱいのように思え、早くも収穫が楽しみになった。


2013年3月28日(木)

ひとりで暮らしていると使った食器がつい溜まってしまい、洗うぞ、と自分を奮い立たせないと行動を起こせない。洗濯物は放り込んでおけば機械が勝手に洗ってくれるし、干す作業はラジオで音楽などを聴きながらできるので気晴らしになる。

それに較べると食器洗いは相応に集中力が要求される。やり始めればすぐにも片付くのに貴重な(?)時間を取られるような気がしてなかなか着手できない。でもやらなければならない。このジレンマから、食器を使わない、つまりごはんを食べないことが一番、という結論を引き出してしまう。これを本末転倒、あるいは屁理屈とも言うのだろうなぁと呟きながら、パン生活に移行していったりする。

思えば昨日の朝お米を食べたあとはずっとパンだった。いくつ食べたのだろうかと思い出してみると、全部で9個だった。アルバイト先で合間合間に3つ。帰宅してから夕食代わりに2個、夜食に2個、朝食に2個。大半はいわゆる惣菜パンである。ひとり暮らしを案じる義妹が千葉でベーカリーをやっている親友に定期的に送るよう依頼してくれているのである。今回のように届いたばかりの時は、食器洗いの事情にも強迫されて、ついパン頼みの生活になってしまう。

それでも今朝は起きると同時に、溜まっていた食器を洗った。ついでにお米を研いでお昼には食べられるようにセットした。並行して一週間ぶりの洗濯もした。ドメスティックな一日の始まりだった。

昨夜から未明にかけて『雨月物語』(溝口健二監督)と『TATOO(刺青)あり』(高橋伴明監督作品)を日本映画専門チャンネルで観た。途中で寝てしまわなかったのは、ついに惹き込まれてしまったからである。上田秋成の怪異な夢と、刺青男の飛んだ夢は約200年の時空を隔ててみごとに同調していた。どちらにも「厄介だが、かけがえのない日常」が張り付いているのである。

こちらのつつましい一日も似たようなものだろうか。夢を紡ぐという意味においても。


2013年3月29日(金)

納得や同意するときのことば「なるほど」を「なるへそ」と言い換えることがいっとき流行ったことをふと思い出した。「なるへそ、なるへそ」と連呼することもあった。もっぱら子供の時に使った、大人になってからは子供に対して使った(受けをねらって)が、なぜへそなんだろうか、と思う。そんな疑問をネットで調べてみると、答えらしいものがみつかった。

「臍(ほぞ)を噛む」の「ほぞ」から「へそ」になったのかと一応考えてみたが、その『日本語俗語辞書』には次のように書かれていた。

『ヘソ』とは体の腹部にあるくぼんだ部分以外に物の中央にある高い部分やくぼんだ部分を意味する。『ほど』は漢字で『火床』と書くと、いろりの中心のくぼんだ部分を意味する。つまり、『ほど(火床)』は『ヘソ』であるため、「なるほど」をなるへそと言い換えたとされている。なるへそは「なるほど」と意味は同じだが、ふざけた言い回しであるため、目上への使用は避けたい。

語源が「火床」とは意外だった。着想には感心するが、「がってん」とはいかなかった。


2013年3月30日(土)

ここ数日、朝夕鏡に映る顔が赤い。もう春だと喜んでいたのに「戻り冬」の日が続いたりするからそのせいだろうと思っていた。ところが、群ようこの「ゆるい生活」(『一冊の本』4月号)の中にこんな記述を見つけてドキリとした。

《「五行の配当表」というものによると、黄色は胃の具合の悪いときに出る色になっている。ちなみに青は肝臓、赤は心臓、白は肺、黒は腎臓になる。先生(漢方医)によると町を歩いている人の顔色を眺めていると、黄黒い人がとても多いといっていた。
先生から顔が黄色いといわれたときは、必ず食べ過ぎていた。》

そこで『神々の誕生〜易・五行と日本の神々〜』(吉野裕子著・岩波書店同時代ライブラリー)をぱらぱらとめくってみた。

木火土金水の「五気」が互いに「相生・相剋して輪廻」し「万象がこの五気に還元される」というのがこの五行思想の教義であるらしい。

「赤」が配当されている気はなにかと見れば「火気」であった。配当表には「方角は南」「季節は夏」「五常は礼」「五味は苦」などと延々列記される。もとより深い理解は届かないが、たしかに「五臓は心」とある。著者によれば「火気の本性は炎上。上へ行くもの、上昇として捉えられている」という。

三度ばかりも心電図検査で引っかかった身であってみれば、そうか「炎上ねぇ」と複雑な気持ちであった。自覚症状はないから、心してかかれ、ということだろう。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」である。



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