日  録 時間への郷愁 


2013年5月2日(木)


朝6時に起きてから2時間の間に何度鼻をかんだだろう。素足の冷える感じがなかなか抜けなかった。そしてまた眠くなってきた。ひと眠りしたあとの10時頃になってやっと心身ともに落ち着いた。気温も14℃に達している。洟水も出なくなった。

お昼前に、自身の用があり、昨夜“帰省”してきた娘に言いつかった買い物もあって、車で外に出た。すると陽射しは汗ばむほどである。北の方では雪が降るという予報だったように思うが、こちらは朝ぼらけの暗鬱な空模様から一転青葉若葉の5月そのものである。これにはちょっとした驚きがあった。半年ぶりくらいに車を洗ったあと、O君からもらった推奨の「沖縄野菜・モーウィ(毛瓜)」と「おもちゃカボチャ(観賞用)」をとりあえずプランターに植えた。

時の首相がTVニュースの画面に現れるとすかさずチャンネルを変える習慣が身についた。見るだに、聞くだに、虫酸が走るというわけである。「政権に漂う反知性主義」と佐藤優氏は言うが、もちろんそれもあるが、憲法や沖縄や靖国参拝や侵略戦争や従軍慰安婦問題、あげくは財政政策、それらすべてに通底する「傲慢と偏見」が生理的に合わないのである。

朝と夜と7時にはNHKにチャンネルを合わせる習慣だったが、このところすぐに切り換えるという新しい習慣が加わった。いっそテレビを見ないことにすればいいのだが、習慣の力はなかなかのものであるのだ。


2013年5月3日(金)

憲法記念日。「96条を変えてから9条を」などという「反知性的」かつ「姑息」な改憲論議がわずらわしい。9条は守らなければならないと思うものである。それはともかく暦はこのあと4連休で真っ赤だがわれには飛び石連休が終わったあとの「4連勤」の初日となる。が、帰りがけに虹を見たから幸先はよい、と思いたい。

コンビニの駐車場に車を停めて虹を眺めると、畑の向こう、赤と白の送電塔に寄り掛かるように立っていた。地平線と積乱雲になる前の暗雲とのあいだの明るみのなかですっくと屹立していた。その勇躍な姿を眼に焼き付けて、ふたたび車を走らせた。


2013年5月5日(日)

1日から滞在していた娘を夕べ遅くにアパートまで、けさ早くには配偶者を成田空港行き高速バス乗り場まで、それぞれ送り届けた。かくてまたひとり暮らしがはじまることとなった。10日ぶりである。どこかなつかしい、が……。

7時前にいったん戻り、ナス、トマトなどの夏野菜とズッキーニに水を遣り、満開のモッコウバラをひと枝剪って玄関先に活けた。また、軒先のつるバラが窓の下に垂れて、隠れるように花を咲かせていたので紐で引っ張って通りからもみえる位置まで持ち上げた。

これらの行動はいずれも、一種の所在なさまたは現実逃避からくるもののように思えた。出かけるまであと1時間半、その間にひと眠りするとか、朝食を摂るとか、いくつかのルーティンがあるが、この朝にかぎっては日常に類することはすべて億劫だったのである。いつもとちがうことをして時間を遣り過ごしていたかった。とはいえ、野菜の苗に水を遣るなどは、これからの日課となるはずのものである。

またまたかくして、なにがケで、なにがハレか、わからなくなってきた。そんな一日だった。


2013年5月6日(月)

ラヴェルの「ボレロ」をBGMにしてワープロに向かっている。なせボレロなのかはわからないが、 同じ旋律が何度も繰り返されることや次第に音が高くなっていくところが心地よくいまのからだにマッチするのだろう。

「ボレロとはスペイン起源の舞踊および舞曲の事。3拍子である」と説明されている。高校の芸術選択科目を音楽にしたことをいまもって悔やんでいる者だが、「名曲の鑑賞」のときだけは楽しかった。これもそうだが、サン=サーンス 「動物の謝肉祭」などもこのときにはじめて知ったはずである。いまは「you tubu」のおかげでいろいろな曲が聴ける。そればかりか音楽を勉強し直すこともできる。どんなに努力しても音痴は一生治らないのかなぁ?


2013年5月7日(火)

朝からやや強い風が吹き募り、土を空中に舞い上がらせていた。3時過ぎ、この頃になっても依然止む気配はなかったが、待ちきれずに畑や庭に水を遣り、ジャガイモの土寄せを行った。キュウリの苗がふたつ根元からしおれていた。このところの朝夕の寒さにやられたのかも知れない。今日明日はまた冬型の気圧配置だという。

一字、一行も浮かばなくてもずっとそこにいろ。日常の些事に逃げていくな、と敢えて自分に言い聞かせている。それほど集中力の散漫な一日だった。


2013年5月9日(木)

ゆうべはカープが久々に勝ったので、本棚から赤い表紙の本を探してみた。

@『現代伝奇集』(大江健三郎、岩波書店、1980年)、A『雪片曲線論』(中沢新一、青土社、1985年)、B『まんだら紀行』(森敦、筑摩書房、昭和61年=1986年)の3冊が見つかった。赤といっても微妙に色合いがちがう。カープの赤に近いのはBで、@は鮮やかな赤、Aはくすんだ赤で紅色に近い。それはともかく、ぱらぱらとページを捲っていった。すると、30年も前に買ったこれらの本にまつわるいくつかの思いがよみがえる。

@は中・短編作品集。そのなかの「『芽むしり仔撃ち』裁判」はつい最近この本以外のところで目にしたように思うが、どこでだったかが思い出せない。そのときは再読とまではいかなかったのでこれを機になどと思う。

Aは「雪片」という言葉に惹かれたのだと思われる。冒頭「土木技術者としての空海・弘法大師」についての記述はいまなお新鮮だが、この本をどこまで理解できたか心許ない。ところで『チベットのモーツアルト』は背表紙だけが赤い。

Bは「弘法大師空海の跡を辿る旅、真言密教の秘奥とは何か」と帯にある。2年ほど前に再読している。中身はとてもむつかしいので、繰り返して読む価値がある。何度読んでもわからないところがいっぱい出てくる。

赤い表紙の3冊はすべてよい本であった。古い本特有の香りがあった。ABの活版などはなつかしくもある。



もぎたてのさやエンドウをもらったのでたっぷり塩を入れて茹で、テーブルにラップをかぶせて置いておいたところ、1時間も経たないうちにアリの知るところとなった。ラップで皿を隙間なくおおっておけばよかったのに、さらりとかぶせるだけにしておいたのが不覚の元だった。何匹かのアリがすでに中に入り込んでいた。砂糖にむらがるアリと言うけれど塩にも目がないのか。あるいは新鮮なマメの芳香に引き寄せられたか。どっちにしろそれだけは許せないとばかりにティッシュで拾って潰した。

体長一ミリの“小さきモノ”に対する怒りにしては尋常でないと思いながらも、列をなすアリは掃除機で吸い取った。去年の記憶が甦ってきた。アリとの闘いの季節がはじまった。茹でたさやエンドウは、負けないぞとばかりにお昼に食べた。長く茹ですぎたきらいはあるが美味しかった。


2013年5月10日(金)

繻子。

『現代伝奇集』にルビなしでこんな漢字が出てきた。金襴緞子の「どんす」ならわかるがこれは読めなかった。もちろん意味もわからない。口惜しいので調べてみると「しゅす」と読み「繻子織の織物。滑らかで光沢がある。」とわかった。

繻子織とは「織物組織の基本形の一つ。5本以上の経糸(たていと)・緯糸(よこいと)を組み合わせて組織し、斜文織と違って経糸・緯糸の交わる部分が連続していないために、平滑で光沢がある。」(広辞苑第6版)とある。

では「斜文織」って? と次々と疑問が重なっていく。この項には「経糸(たていと)・緯糸(よこいと)の交差する部分が斜めの方向に連続して斜線状を表すもの。あやおり。」とある。そこはどうやら「織物の世界」らしい。

その昔取材先で聞いた「捺染(なっせん)」という業界用語(?)があまりにも美しくあれこれ調べたことがなつかしく思い出されたが、いまはただガッタンギッタンと深夜に機を織るつうの姿が浮かぶのみである。

ついでに「緞子」を引いてみると「紋織物の一種。生糸、また経緯(たてよこ)異色の練糸を用いた繻子(しゅす)の表裏組織を用いて文様を織り出した絹織物。室町時代に中国から輸入されたという。」と記載されている。

そして♪きんらんどんすの帯しめながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう……♪ 童謡『花嫁人形』のはじめの一節が頭のなかを去来するのだった。歳を取ったなぁ、と思う瞬間だ。

ところで繻子とはサテンのことだという。これならばよく知っている。小さい頃から見聞きし一度ならず着たこともある生地ではないか。


2013年5月11日(土)

たつきとしての単純作業に携わりながらいろいろなことを考える。大げさに言えば無我の境地になれないそのことがときに煩わしくもあるが、たいがいは楽しいのである。今日は「おそろいのつっかけ」を買おうと思いついた。

ちょっと庭に出たり、畑に行くときに使う履き物である。その類はいまなぜか一足しかない。しかもそのスリッパは甲を覆う部分の片側が半ば切れていてじつに歩きづらい。転けて怪我などをする前に新しいのを買い求めねばならないと思っていたから、どうせならお揃いがいいなぁという考えに及んだのであった。

壊れたかけたものが一足、というところに時の流れを感じてしまったせいもある。あちらこちらにたくさんの履き物が転がっていた時代もたしかにあったのだ。いま目に見えるところにある履き物はスリッパのほかには畑仕事用の長靴2足と運動靴ひとつのみである。もしそこに「おそろいのつっかけ」が加われば張り合いがあるだろう、と仕事中に夢想したわけであった。

目下ひとり暮らしでなければ、明日が「母の日」でなければ、こんな想いは湧かなかった。


2013年5月12日(日)

「母」は留守だけれどわが家にもプレゼントが届いた。「父」が開けてパチリパチリと写真を撮った。メールに添付して配偶者に送るためである。丸い透明カプセルの中に赤いバラがアレンジされた「プリザーブフラワー」は置き場所をあちこちに変えながらこちらもパチリパチリ。どこにおいてもぴたっと収まるだけに、どこに置くか悩むのだった。居間のキャビネットの上に置いて撮った一枚を送り主の息子に送信した。

プリザーブというのは「保存する」という意味があるらしい。数年はこの鮮度が保たれるという。こちらは実母も義母も2011年に相次いで死んでしまった。母たちへの愛しさは永遠である。


2013年5月14日(火)

お昼前に2時間ばかり外出したが、陽射しが強く、暑かった。たぶん30度を超えているだろうと思ったが、その後家の中にいるかぎり真夏の感じはしなかった。むしろ開け放った窓から爽やかな風が入ってくる。鴨居にぶら下げている鉄の南部風鈴がことしはじめて涼やかな音を立てた。

朝、今日は暑くなりそうだというので窓を開けるために二階へ行ったところすでに窓は開いていた。開けたのはいつだったか。一昨日か、一昨昨日(さきおととい)か。あるいはもっと前のことだったろうか。それが思い出せない。いずれにしても閉め忘れたままになっていた。

昨夜戻ると、郵便受けに夕刊が入っていなかった。記憶が正しければこの10年の間に2回だけそんなことがあった。それほど稀なことである。8時過ぎていたが販売所に電話した。誰も出なかったので留守電に用件を録音しておいた。すると1時間ほど経って電話があった。かくして今朝は「朝夕セット」の新聞を手にした。どちらから読むか、一瞬迷った。

図書館からはいまだ連絡がない。先月23日に貸し出しの予約をしたときは他市に貸したその本は5月はじめにも戻ってくるという話だった。ちょうど1週間前待ちきれずにこちらから電話して訊いてみた。まだ戻っていません、戻ったら連絡しますから待っていて下さい、と言われた。こういう利用の仕方ははじめてだが、いささか“待ちくたびれ”の感がある。

夕方になって畑・庭の水遣り。3日前が終日雨だったから土の中はまだいっぱい水を蓄えているはずだ。直射熱でほてった表面を冷ましてやるほどの心遣りにとどめた。沖縄野菜・モーウィ(毛瓜)が10日目にして双葉を出していた。暑さ本番となりぐんぐん育ってくれるだろうか。実を成らせてくれるだろうか。

胸に去来した「24時間の情感」をいくつか書き留めてみた。日常とはかくも退屈なものか、と思う一方で、かけがえのなさも感じてしまう。そういえばもうひとつ、今日は勤め人を長年やってきてはじめて“申請”を出して有給休暇をとった日だった。記念日というと言い過ぎだろうが、ふと思い出した。


2013年5月15日(水)

41年前のこの日沖縄が本土に復帰した。そのときぼくらはまだ23、4の若造だった。その5年前の1967年、学部の入学式で伊藤満学部長がO君を紹介した。本人を立たせて「仲良くしよう」というような意味のことを言った。O君は沖縄からの“留学生”だった。みんなは拍手で迎えた。

その日から5年、いろいろな本も読んだが本当のところは、そして象徴的な意味でぼくはO君を通して沖縄やオキナワのことを知るようになった。その5年の間にぼくらのまわりではさまざまなことが起こった。最後の2年間をほとんど受動的に過ごしたことはいまなお悔やまれるが、あの日ぼくらはどこにいたのだろうか。今度O君たちに逢う夏には、またその頃の話で盛り上がるのかも知れない。

1972年と言えば沖縄出身の若い友人Eightが生まれるずっと前のことだ、と突然思い当たった。41年は、長いのか、短いのか。わからない。


2013年5月16日(木)

庭のあちこちでいまを盛りに花を咲かせる“雑草の名前”はユウゲショウ(夕化粧)とムラサキカタバミ(紫酢漿草)というのであった。ともにうすいピンクに近い紫の花であり、絨毯のように群生しているから華やかである。名前を知ってみるといよいよいとおしくなる。ムラサキカタバミなどは龍眼の木の鉢にまで入り込んでついに花を咲かせた。可憐な花である。こんなところにまでルームシェアかとつい軽口が飛び出した。摘む気にはなれない。


2013年5月18日(土)

先日カタバミと打つと酢漿草と変換されたので、この漢字は「酸漿(ほおずき)」とよく似ていることに気付いた。ネットで調べてみたがふたつの雑草の間に類縁性はなかった。強いて言えば「酢」と「酸」はともに酸っぱさに通じ植物の身体からそんな液が抽出されることだろうか。

ほおずきには、あのアルカドイロが含まれているという。カタバミにそれはないようだが、消炎、解毒、下痢止めなどの作用があると記載されていた。ともに生薬として使われてきたらしいので、「漿」という字はそのことと関係があるのかも知れない。たんなる推測だが。

ところでほおずきと言えば、袋の中の赤い実、なかから種を取り出してすっかり空になった実を口に含んで鳴らす遊びが思い出される。主に女の子がやっていたがたまに挑んでみると種を取り出すときに袋が破れてしまうのが常だった。鳴らすまでには至らなかった。こんなところにも根気と熟練の技が要るのだった。鬼灯とも書くらしい。


2013年5月21日(火)

テレビで映画『しゃべれども しゃべれども』(平山秀幸監督、2007年)をみた。落語家が主人公とくると素通りできない質で、冒頭だけでもと思ってチャンネルを合わせたところつい惹きつけられて最後まで観てしまった。

二つ目が、関西から転校してきたばかりでいまだ友だちに受け入れられない小学生と恋人の言葉に傷ついたまま人に心を開くことができなくなった女性、それに野球解説の下手な元プロ野球選手の3人を相手に落語を教えるという話だった。

3人それぞれの個性も楽しかったし、教えていくなかで落語家自身もひとつ上の芸に到達する(ひと皮向ける)のが、予想できなかったわけではないのに、その場面でついほろりときた。そこに恋の成就も加わって、軽妙さとシリアスさが拮抗してなかなか面白かったのである。

監督の平山秀幸はどこかで聞いた名前だった。はてなんの映画だったか、と首をひねった。思い出す前にネットで調べると、あの『愛を乞うひと』(1998年)を撮った人だとわかった。うんと若い人かと想像していたが1950年生まれと知って少し驚いた。励みにしなければならない。


2013年5月23日(木)

1週間ぶりの休日。待ち遠しく思う気持ちがかつてなく強かった。ぐうたらと過ごすことに決め、朝9時から青山真治監督の『EUREKA (ユリイカ)』(2000年)を見はじめた。北九州の田園風景が抒情ゆたかに描き出される。せりふは極端に少なく、遠景ショットが多用される。画面はカラーではなくモノクロである。それらは、はるけき人生の暗喩のようだ。小さなテレビではなく、劇場のスクリーンで見ればもっと大きな感銘を受けるかも知れない。

青山真治の映画を観るのははじめてである。立教大学の「映画研究会」出身というのでこちらが本職であるのだろう。小説なら雑誌で何作か読んだことがあったが、映画の方がうんといい。それにしても220分、途轍もなく長い映画だった。

夕方になって庭の草むしりをやった。建物の裏手は生い茂った雑草の合間から真っ赤な木苺が見え隠れしていた。ともにばさばさと剪り取っていったが、その数は無数であった。小さな頃、木苺を求めて山の中に分け入ったことがあるが、そのときよりもきれいな形をして、美味しそうな実に思えた。こんなところで再会するなんて、と奇異の感を覚えるが、だからこそ食べる気にはならない。


2013年5月27日(月)

昨夜、遅くなってから、体長10センチほどのムカデがどこからともなく現れた。ゴキブリ、コオロギ、さらにはヤモリなどは幾分馴染みはあるが、これははじめての登場でびっくりした。追いかけ回すとむこうも驚いた風で敷居と本棚の隙間に長いからだをくねらせて入り込んでしまった。

そこに向けてアースジェットを噴射した。すると体長3センチ、背中の甲羅もまだ青い子ムカデが飛び出してきた。この奥に巣でもあったか、とこんどは箒を突っ込んで掃き出しにかかった。ほこりに絡め取られた子ムカデは難なく退治できたが、親ムカデの行方は知れぬままである。

それにしても大量のほこりであった。掃除機を持ち出して浚っていった。こんなにも大きくなったほこりに関心が移ってゆこうとするそのとき、親ムカデが飛び出してきたのだった。思わず箒の先で叩いた。わらの束のせいもあるのだろうが、何度振りおろしても動きは止まらない。ただ走り去る元気はなくしていくようだった。

高校時代、登下校の際に近江富士とされる三上山をよく見上げたものだった。俵藤太秀郷のムカデ退治伝説を知っていたので、山肌を幾重にも取り巻く大ムカデを想像するのが楽しかった。それから何十年も経ったいま大きいとはいえ伝説の比ではないムカデと畳の上で格闘しているのだ。外で遭遇したならばこんな仕打ちをしなくても済んだのにと思った。瀕死のムカデをビニール袋に入れてゴミ箱に捨てた。


2013年5月29日(水)

ズッキーニが一本収穫できた。いわばことしの初物である。油と相性がいいというので炒めた。もっとも、それぐらいの芸当しかできないのだが、食べてみると口の中でとろりと溶けていく感触がたまらない。甘いとか、辛いとか、何らかの味がするわけではないのに、うまいとしか表現できない。食物にも無心の境地があるのかどうか。ちょっとやみつきになりそうだ。

ズッキーニの成長はとても早くてびっくりする。植えて一ヵ月にも経たないうちに初物を口にした。実も人工受粉するとみるみる大きくなっていく。巨大化したズッキーニもちょっとした見物であるのだ。


2013年5月31日(金)

また“広島”にいる夢を見た。場末の小さなアパートに友人が3人集まっている。そこがその街であるという証拠はひとつもないのにそれ以外とは考えられない。まだみんな若い。これからお好み焼きを食べに行こうか、と誰かが提案し、みな賛同するが、繰り出す前に目が覚めてしまった。たったそれだけの夢である。

前の夢では駅の場面が出てきた。あと一泊していこうか、行きたいところもあるから、などと思案している。そのくせこの身は新幹線に乗って東に向かっていた。新幹線などはもう何十年も乗ったことがないのに。時間への郷愁なのか。


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