日  録 胸に手をあてて

2013年6月1日(土)

ことしはじめて半袖のTシャツを着て仕事に出かけた。しばらくして“衣替え”ということばが口を衝いて出た。

ここ何年間かは人が言うのを聞いた記憶がないし、自分でも使わなくなっていた。学校とか、会社とかの組織に所属して居れば自ずとそんな習慣(決まりごと)に敏感になるのだろうが、いまやそういう場所とは無縁である。そのうえ、気まぐれな天候に振り回されて、個人的にも節目というものを見失っている。

今日のTシャツだってタンスの抽斗を開けたところ真っ先に目に飛び込んできたから着てみたのである。うぐいす色が気に入った。少々大き目なのは、いわゆる“お上がり”だからである。

さぁ夏服だ、もう冬服だなぁ、かつてはある種の感動を覚えたものだった。季節限定の霜降りの学生服なども、着られる日が待ち遠しかったものである。あれは兄のお下がりだったか。いまは昔の、少年時代の話である。


2013年6月2日(日)

先週の休日、借りていた本を返すために市立図書館へ行った。莫言の『白檀の刑』上・下2冊は全部読み通せなかった。のめり込むような題材でなかったせいもあるが、返却期限の2週間があっという間に過ぎた気がする。

その図書館には入り口にリサイクルコーナーというのがあった。閲覧室から、さらに書庫からも放り出され、廃棄処分(?)になった本が50冊ほど並べられ、「自由にお持ち帰り、どうかご活用下さい」と貼り紙がある。これならば返却日を気にせずに読めるなぁ、返しに来なくてもいいのがなによりもありがたい、と思うのだった。漁る姿はまるで「せどり(掘り出し物を転売して利ざやを稼ぐ人)」のものであった。

かくて『浮橋』(岩橋邦枝)『仮の約束』(多田尋子)『夢の方位』(辻章)『茶色い戦争』(笠原淳)の4冊を持ち帰った。いずれも90年代の前半に刊行された本である。どの作者にも格別の親愛感を覚える。作品のほとんどは雑誌などで一度読んでいるはずだが、もう記憶にはないだろう。気ままに、愉しみながら読み進めようと思った。


2013年6月4日(火)

『midnightpress WEB版 no.6』には「2013年 夏の詩 十一篇」が組まれている。川田絢音、谷川俊太郎、アルチュール・ランボオ、中原中也、伊藤静雄、蒲原有明、清水哲夫、松浦寿輝、山本かずこ、西脇順三郎、久谷雉の11人の詩人(敬称略)の夏、あるいは八月、海、または渓流(たにがは)などにまつわる詩が掲載されている。秀逸な、あるいは刺激的なアンソロジーと直感し、とりあえずその8ページ分を印刷して座右に置くことにした。

それのみならず、20人の友人・知人あてに送った。重い添付ファイルで申し訳なかったが、どうしても読んで欲しかった。送信して一時間後に、経済学者井上智洋の「なぜ我々は有用性を測られる存在なのか? 」を丁寧に読んだ、との返信があった。さらに同時刻に、近くに住む友人は自身のブログ(「久末です」)に取り上げてくれていた。「アンソロジー」について、こう書いている。

《これらの作品を「一瞬」読むだけで時空は「永遠」に広がるだろう。日常に追われて、思い出すこともなかったsomethingを「お中元」でいただいた。》

しばらく音信がなかった学生時代の友人は、「ついに編集委員の肩書きをもらいました。新聞記者としてスタートしたので、記者として会社生活の最後を締めくくりたいという願いが叶えられました」と近況が書き添えられていた。これはいわば“余禄”みたいなものだったが、このWEB版、いよいよ冴えわたってきたと確信した。


2013年6月6日(木)

梅雨入りしたというのに、空は曇っていても雨が降ってこない。ラジオのニュースは天気予報を報じたあとにきまって「農作物の管理に十分ご注意下さい。」と告げる。そのたびに、畑の野菜たちに水を遣らなければ、と思う。今日もそんな一日である。

昨日などは6時半に家に帰り着いてそれから薄暮のなかで水遣りをした。休日だった一昨日は朝と夕方の二回行った。水遣りといってもキュウリ・トマト・なす・ピーマンなどの夏野菜の畑と、ゴーヤー・モーウィ(毛瓜)・お化けカボチャの植わる庭に、容量2リットルの如雨露を満杯にして一、二回撒くだけである。天からの恵みにくらべれば、スズメの涙、いや、このところ姿は見えないが鳴き声だけがどこからともなく聞こえてくるウグイスの涙と言いたいところである。

水遣りの日課も、雨さえ降ればパスできるのに、とつい怨み節の元になる。今日も、夕立も通り雨も来る気配がないので、タンクに水を汲んで外に出る時間が迫ってきた。休日だけれど、一回だけの水遣りになる。


2013年6月8日(土)

岩橋邦枝の『浮橋』(1992年、講談社)は「幻火」「連奏」など自伝的な5篇の連作から成っているが、表題作「浮橋」がもっとも面白かった。

学生作家として華々しくデビューした主人公が処女作の映画化に際してその脚本を手がけたかなり年長のシナリオ作家と、何年かあとになって交歓を重ねたある一時期を振り返る。

その時期主人公は週刊誌の記者などをして糊口をしのいでいる。小説から遠ざかっている主人公にシナリオ作家は「データ原稿もいいが、自分の原稿を書きなさい」と勧める。そして250枚の原稿を仕上げて、編集部に持ち込むが「没」になって戻って来る。その原稿を自身も読んだシナリオ作家は「編集長だって、きみに期待して、持ち込み原稿を早速読んでくれたんでしょう。へこたれないで、また書いて持っていきなさいよ。僕にできることは何でも応援するから、ね」と言う。すると主人公は「ぼんやりと頷く」のである。

小説の現在はその三十年後、シナリオ作家の四十九日忌をきのう済ませた、と記される。

《もう疾うに思い出す機会も絶えていた相良哲郎が、忘却の底から浮かび上がり優しいまなざしを向けてきた。彼の妻の自殺未遂の出来事が起きたあと、小峰が使者をつとめて慌ただしく三回ほど会った二人の場面が、もう感情を生き返らせようのない絵姿で彼女の脳裡にちらついた。七十三歳なった病人の相良の姿は想像できない。できないままにしておきたかった。》

感動あるいは感銘の原点にあるものは作者の眼を思わせる透き通った感覚だろう。そこに読者として自分の思いを投影できたとき、あぁよかった、救われた、と思う。香り立つような文章の力もさりながら、そのとき、作者が書かないですませた部分が行間からにじみ出てくるような気がするのである。

この作者とは『まえだ』で一度行き合わせたことがあった。「あ、女慎太郎」と思わず呟くと「古いことを知っているのね」とやんわりといなされた。今回それがとんでもなく酷い“愛称”であることを改めて思い知らされることになった。作品としてもおそらく人間としても、岩橋邦枝と石原慎太郎とでは似て非なるものである。20年以上前のさかしらな自分のあの発語がいまもって悔やまれてならない。


2013年6月11日(火)

日本列島にむかって北上する台風3号の湿った暖気によって梅雨前線が活発化しているという。気象庁によると、これまでの記録的少雨から一転、東日本太平洋側では広い範囲で大雨になる恐れがある。この台風の影響は16日まで続くというが、これまでのところは(当地では)ぱらぱらと思い出したように降るのみで、乾いた土がほんのりと湿る程度であった。

そんななか、置き薬の担当者が清算と補充にやってきた。この人とも長いつきあいである。30年近くになるのではないだろうか。若い頃の義父を思い起こさせるおっとりとした立ち居振る舞いで毎回有益な話をしていってくれる。今回は胃薬がすべてなくなっていたのでそこからカルシウムの話になった。

「この胃薬は生薬でできています。熊の胆と同じで、化学薬品のように胃酸のはたらきを弱くしないのです。胃酸はカルシウムの吸収にとても重要です」

「牛乳もいいのですが、体外に出ていくのも早いので、ご主人(いつもぼくのことをこう呼んできた)の場合は、小松菜などの緑葉野菜、キュウリ、納豆などをたくさん食べるといいでしょう」

さらに「気になるカルシウムの事。」という記事が載っている小冊子を置いていってくれた。

早速精読すると「カルシウムは、細胞を動かすスイッチ」とか「『目には目を、歯には歯を』というように、骨から溶け出して溢れたカルシウムを減らすには、カルシウムを摂ることです」とか「日中よく体を動かした日には、早めに横になって骨休めをすることが肝要」などの表現が横溢している。

気象のことと身体のこと、いまやこのふたつに“文学”が息づいていると思うのであった。薬箱にはくだんの胃薬が先回の倍の4箱も入っていた。


2013年6月13日(木)

ときおり小止みとなるものの、終日雨。西の方では猛暑日だというが、こちらは気温も低く半袖では保たない。降る雨を眺めながら朝には、高麗神社にお詣りに行こう、などと考えていた。よりによってこんな日に、よほど天の邪鬼だ、と自問自答を重ねていると、まったく唐突に辻原登を読みたいと思うようになった。行き先を図書館に変更して『父、断章』を借りてきた。

発行されたのはちょうど1年ほど前の、比較的新しい本である。早速「父、断章」(発表2001年)と「母、断章」(同2006年)を読んだ。題名通り亡くなった父と母についてのエピソードが綴られている。

最後の数行はそれぞれ、

《もう三十年近くたった。その間に、私は、一度だけ、死んだ父にたすけを求めて、泣きながら祈ったことがある。そしてその祈りは聞きとどけられた。》

《「人魚やて?」と私に身体をくっつけながら川に向かって身を乗り出した。/弟が叫んだ。/「あれ、お母ちゃんや! きれいやなあ」/素裸の母が泳いでいた。水の中で、自在に、光りかがやきながら。/三十二、三歳の母である。》

虚であれ実であれ、 『翔べ麒麟』や『花はさくら木』や『円朝芝居噺 夫婦幽霊』で大いにカタルシスを味わった身は、この作者の張り巡らせた網の目に絡めとられたかったのである。そしてその通りになって、ほっとする。


2013年6月16日(日)

ひとり暮らしにとって一大関心事は食事である。今夜何を食べるかに思い悩まない日はない。ひとり暮らし歴の長い友人は一年ほど前に「三度三度食べようなどと思わない方がいいよ。腹が空けばその都度、くらいに思っているのがちょうどいい」と教えてくれた。なかなかその境地には達することができないという意味でも、これは極意だなぁ、といつも思い出しては感心する。

この日も、面倒だからコンビニの弁当で済ますか、いや二日前に買ったあじの干物が残っていたからそれを焼くか、そのためにはご飯を炊かねばならないが、などと種々考えながら帰ってきた。すると郵便受けに佐川急便の「不在連絡票」が入っていた。息子からの荷物というのでピンときた。いま戻ってきた道を逆に辿って七キロ先の営業所に取りに出かけた。

荷物は「特選うなぎセット」。悩みは氷解した。そのうちのひとつ蒲焼きを炊きたてのご飯に載せて食べた。息子よ、ナイスプレゼントだった。

コンビニには寄ったが弁当を買わなかったのは、虫の知らせだったか、と例によってあと知恵。


2013年6月18日(火)

庭のなかでは、ここは草原かと錯覚するほどに日毎、コスモスがものすごい勢いで繁茂して、カボチャやモーウィやミニトマトをおおい隠すまでになった。蒸し暑かった午後、せめてそれらのまわりだけはと、花鋏で切ったり、手で抜いたりした。これがコスモスでなければもっと早くにやっていたのだが、ついに背に腹はかえられない成り行きとなった。

昨秋、咲き乱れるコスモスを切り花にして何度か玄関に飾った。「花の旗」などと自身に言い聞かせてひとつの悲しみに捧げたほどだった。その記憶があったから、席巻の様子には気付いていたが、手を出しかねていたのである。

ウィキペディアによると、原産地はメキシコの高原地帯で、18世紀末にスペインのマドリード(ここでコスモス=宇宙と名付けられたらしい)へ、さらに明治20年頃日本に渡来した、という。帰化植物だったことをはじめて知った。「秋桜」はいまやれっきとした季語である。ついでに花言葉は「少女の純真」「真心」と書かれていた。

(後日譚:この日の夜に1ヶ月半ぶりに帰ってきた配偶者にこの話をすると、踏みつけたりしない場所へと私が移しておいたのよ、と言うではないか。抜いた茎の一部は翌日別の一角に植え替えられていた。叱られはしなかったが、面目のないことではあった。)


2013年6月21日(金)

夏至。目覚めるともう動かなくなっているのではないかと怖れるほどに、このところ首の骨が痛む。激痛が走るというのではないが、じわりと痛い。

「首が回らなくなる」というのは現実味のある比喩だが、これはリアルそのものである。20年来の宿痾・掌蹠膿疱症がついに憎悪期に入るかと怖れつつ、夏に向かうにつれていつもこんな風であったかも知れない、秋が来て冬になれば治まるとも思うのである。

放置して(病院や薬と縁を切って)から何十年も経った。よくはならない代わりに、ひどく悪くもならない。同病を克服した「奈美悦子」は骨の痛みによってベッドから起き上がれなかったというから相当の重症だったのだろう。それに較べればこちらなどは軽いものだと高を括っているようなところがあった。これまでは丸一日も遣り過ごせば痛みもなにも吹っ飛んでいったのである。

今回は痛みの周期が少し長い気がする。こちらが年をとる分この宿痾も相応にくたびれていくのであればよいが、逆だと困る。文字通り老骨に鞭打たれる心地がするからである。


2013年6月23日(日)

食卓に出された果物の名前が出てこなかった。見覚えはある。果物付きの朝食などは久しくなかったのでびっくりしたのかも知れない。あれでもない、これでもないとしばし(2、3分)考えたあとに、思い出した。ほっとした。枇杷だった。

ドングリを一回り大きくしただけの小振りな実。食後、薄い皮を向いて口に入れると果肉がとろけるようにして舌になじんでいった。甘みはなかった。昔もこんなものだったろうか。近所の人からもらったものだという。庭に枇杷の木が植わっているのだろうか。なつかしいような、うらやましいような気がした。


2013年6月25日(火)

黒井千次に「日記遊び」(『嘘吐き』所収)という短篇がある。「あなたは日記をつけていますか」というアンケートが「日記探究所」から舞い込むところから始まる。

「生まれて初めて日記を付けたのは何歳の時だったか」
「日記は幾日続いたか」
「日記に嘘を書いたことがあるか」
「意志に反して他人に日記を読まれた体験を持つか」
「日記を焼いたことがあるか」

などなど、「息もつかせぬ質問が畳み掛けて来」て、それは「取調べ」「詮議」(フランス語「アンケート」の本来の意味に含まれるらしい)の趣が強かった、と書き出される。

「返事を出す出さぬは別として、そこにどんな回答の像が出現するか眺めてみたい」という誘惑から「私」はトランクの鍵を開けて古い日記を引っ張り出す。最後の旧制中学生だった15歳から30歳くらいまでの日記がノートから転写される。

「人生に転機はなかったけれど、生活になら転機はあった。」

そんな一節を包み込んで、60余年の人生を振り返るのである。22年前の作品(初出『海燕』1991年1月号)だがいまなお精彩を放っている。改めて読んでみて、心当たりや身につまされることがいくつかあって、はっとする。去年の夏には、偶然からだったが、学生の時の古いノートを引っ張り出したことを思い出した。そして、何年にもわたって「NECのパソコン98」に打ち込んでいた日記はどこに消えてしまったのだろう、と悩み始めた。90年代の貴重な記録だったのに、と惜しまれた。ノートとちがってこれはもう絶望的に回復不能である。

記録は記憶とはちがうからまた一から思い出さねばならないのだろうか。それは憂鬱な反面、楽しい作業であるのかも知れない。


2013年6月27日(木)

庭の南瓜に、やっと雌花を見つけた。

雄花は次々と花開くのに肝心の雌花がない、と落胆しながら毎日眺めていたところ、前日の夕方、網に絡んで伸びた枝先に根元のふくらんだ雌花が屹立していたのである。このときは花の扉は閉じていたが、次の日の早朝に開花した。すぐ庭に飛び降りて、たくさんの雄花のなかから元気そうなの(?)をひとつ取って雌花にたっぷりと施した。

本来は飛ぶ虫がやることをわが手がやっていると思うと結界を越えていくようなおののきがあった。雄花の中にもぐりこんでいたアリたちはこの際役に立たないわけである。受粉したあと雌花はすぐに弁を閉じたようだった。

これほどにも雌花が少ないとは少し驚きであった。この茎にとっては初めての着果である。つるをかき分けて雌花を探す日々が、真剣であっただけにいっそうこっけいな感じで甦った。そういえば見つけたときの昂揚感は尋常でなかったわけである。


2013年6月29日(土)

ベッドにもぐり込んでから眠るまでの間に、両手・両腕の置き場所について考えた。

身体の両脇に添える。いわばベッド上の直立不動。

両手を組んで後頭部に当てる。手の甲は枕に沈んでいる。沈思黙考の姿勢。

さらに両手を重ねて胸に添える。手の重みがかすかに感じられる。これは、祈りか、贖罪か、どちらかだろう。

それぞれを代わる代わる試みるが、これら三つは正統的な姿勢で、起きるまでそのままの状態でいられるはずはない。実際は、本人の知らないいろいろな動きをしているのだろう。それを知りたいが知ってどうする? とりあえず“胸に手をあてて”眠りに就いた。


2013年6月30日(日)

風呂に入っても、布団に入っても、お祖母ちゃんは「ごくらく、ごくらく」と呟いていた、と幼なじみが教えてくれた。尾張一宮のアパートに転がり込んで一ヵ月ほど居候生活を送っていたときのことである。

真似るように自分も呟いて眠りに入る。その都度、「これがおばあちゃんの口ぐせだったんだよ」と教えてくれた。こんなことを呟きながら眠る23歳の男はかつてもいまもいないだろうから、かれの照れかくしの弁解はよくわかった。彼はあのときもあの歳で本気でそれは「ごくらく」だと思っていたにちがいない。

このところ夜中に何度も目が覚める。さっきからまだ1時間くらいしか経っていないのか、とがっかりすることが多い。その眠りは深いのか、浅いのかわからないが、時が悠然としているのだけは感じる。おばあちゃんの、そして彼の口ぐせになったことばを思い出したのもこのことと関係があるのかも知れない。

ぼくの眠りはごくらくに近づいているのだろうか。ひるがえって現実世界は時の経つのが早い。今年も半分が終わってしまった。


過去の「日録」へ