日  録 兄逝き、曾姪孫と対面す。 

2013年7月2日(火)

半夏生。かすかに色づいたトマトを待ちかねたようにとった。2、3種類あわせて5個だった。いずれもミニトマト。冷蔵庫に放り込んだ直後にひとつだけすぐに取り出して食べた。待ちきれなかったのである。その後の昼食ですべて平らげた。甘くて美味しい初トマト。

鈴生りの実はこのあと次々と赤くなって食べ頃をむかえるはずだ。嬉しい反面、ことしもひとりでは食べきれないだろうなぁ、と心配のタネでもある。罰当たりな悩みである。



かねて疑問に思っていた「甥や姪の子供」さらには「甥や姪の孫」の呼び名をネットで調べたところ、それぞれ「姪孫(てっそん)・又甥(またおい)・又姪(まためい)」「曾姪孫(そうてっそん)」と呼ぶことがわかった。

さらに甥や姪の孫のこどもは「玄姪孫(げんてっそん)」、その子は「来姪孫(らいてっそん)」と呼ばれる。「曾・玄・来」は孫、ひ孫、玄孫(やしゃご)、来孫(らいそん)などと直系親族にも使われている。

姉の子供が生まれたとき、母の祖母はまだ生きていて「やしゃごだ、やしゃごだ」と親戚の者らが喜んでいたのを思い出す。それほど珍しかったのである。いまもむかしも長生きはやはり美徳であるが、来孫となると5世もくだることとなり、生きてお目にかかることはまずないだろう。

ぼくには、その「来孫」と同じ5親等の「曾姪孫」が最近一人生まれた。一歳にも満たないその子が、数日前、姪と姪の子供と一緒に入院中の兄を見舞ってくれた、という。ぼくはまだだが、兄は一足早く曾姪孫に逢ったのである。

血のつながりに思いを馳せているとなぜか「減るんでなし、増えるんじゃから」という中上健次の小説の一節が浮かんでくる。小説の題名は忘れたが身籠もった未婚の娘に、母か祖母か「オリュウのオバ」が言い聞かせる場面だったように思う。


2013年7月3日(水)

朝、ピンポン球くらいの大きさのプラムがひとつ、枝の下の方にぶら下がっているのに気付いた。形も色もまだまだ冴えないが、苗木を植えて4、5年経つが、はじめての実である。感激した。

つい先日大分に住む学生時代の友人がフェイスブックで紹介していた「すもも」はピンクの色つやも濃く、大きくて、それはそれはりっぱなものだった。聞けば樹齢20年、と言う。

「実が色づくと野鳥が啄みにやってきます。人間用に20個ほど袋がけしました。7月に入ると収穫です。」

とコメントされていた。そんな日がこの木にもやってくるのかなぁ?


2013年7月4日(木)

朝、半年前に書き終えていた短いモノを読み直した。そのときはそうでもなかったのにいまとなれば欠陥だらけだった。削りに削ってもっと主題を鮮明にしよう、などと考えながら手を加えていった。2回読み終えたところで根が尽きた。時を措いて、何日もかけて読み直していくしかないのだろう。

本を手にあちこちへ移動しながら、ぐだぐだと過ごす休日である。ひとりっ切りになると時間は悠然と過ぎていく。ときに緩慢。庭に下りてはプラムの実を、玄関先で3日前に鉢に植え替えたたゴムの挿し木を眺め、それぞれ健在であることを確認する。人との関わりはメール一通のみで午後も遅くなっていた。予報の雷も鳴りそうもないなぁとぼんやりと思っていると突然携帯電話が鳴った。このときばかりは喜んで飛びついた。か細い女性の声だった。

「あ、あの、○○さんですよね」
「よく聞き取れませんが、どちら様?」
「あのー、あれー、ひょっとしたら、○○さんではないのですか?」
「どちらにおかけですか」
「あー、すみません。ごめんなさい」

とこんな調子で、長々とまちがい電話と話しこんでしまった。これもひとえに無聊のなせる技、いやその声のせいでもあるか。


2013年7月6日(土)

明日の七夕が誕生日ということもあって、息子の「母子健康手帳」(東京都板橋区発行)を取り出してみた。

表紙を捲ると1ページ目に「子の保護者」の欄があり名前、本籍地、現住所などを自分で書き込んでいる。誕生の5ヵ月前に手帳が交付されているからすぐに書き込んだものと思われる。筆跡は変わらないものだなぁと思いながら眺めていると母と父の年齢が同じ28歳になっている。これはあきらかにまちがいである。生年月日は合っている。

こんなまちがいをなぜしたのか、どうして気付かなかったのか、不思議の念に駆られた。記録だからいまさら訂正しない方がいいだろうとそのままにして数字の羅列を斜め読みして先を急いだ。「出産の状態」というページに行き着いて生まれた時間を確認した。午後7時50分。実はこれが知りたかったのである。ちなみに分娩所要時間は18時間とある。男には知る由もない長さだ。自分の文章から「産みの苦しみ」という言葉が消えた所以でもある。

またそこには一枚のはがきが挟み込まれていた。区役所からの三歳児健診の通知であった。ふと宛名書きを見ると「本間順次 殿」となっている。よくぞ無事に届いたものだと思うが、どうすれば「福本」が「本間」になるのか。ほんまに不思議つづきの「母子健康手帳」だった。


2013年7月7日(日)

自生の笹が剪れども剪れどもひょっこりと顔を出す。地中の竹の根は際限がないようで思わぬところからも生えてくる。今年は特に本数が多いように思う。ふだんはそのうちの、ほどよい一本を残しておいて短冊をつりさげるのが慣わしだが、今年はしなかった。七夕の夜、空が晴れて天の川が見られるのは久々のように思うが、こういう年にかぎって失念するなんて、まったくどうかしている。

猛暑日となったこの日、夜もなかなか気温が下がらなかった。JANIS JOPLIN の「サマータイム」などを聞きながらベッドに横たわった。星に願いを届ける短冊の代わりになったかも知れない。


2013年7月9日(火)

昨日にもまして猛々しい暑さである。

居間の西の窓下には寝転がるのに恰好のソファが置いてある。ついこの前まではそこで休息を兼ねて夕陽を浴びるのがひとりぼっちの休日の楽しみだった。ところが今日ばかりは寄りつく気にもならないうえに、ブラインドを閉じたままにして過ごした。

たった4、5ヵ月でこの変わり様である。過ぎゆくときの早さを実感する暇もない。からだが慣れるのにはもう少しかかりそうである。畏るべし。


2013年7月11日(木)

Sさんはここ何日も、5時には畑に出て作業に没頭している。それを開け放った窓からぼくは眺めてきた。8時を過ぎて仕事に出かける時もまだ畑にいるので「精が出ますね」と車の中から声を掛ける。

今日もSさんは畑に出ていた。ぼくは仕事がない日なのでそわそわとしはじめ、半ズボンに長靴姿で6時前には畑に出た。となりの区画にいるSさんに「この時間は幾分過ごしやすいですが、連日、よく頑張りますね」と言うと「昨日はあとで具合が悪くなりましたよ。ずっと寝ていました」と話してくれた。奥さんによると「やり始めると完璧にやらないと収まらない性質」で「つい無理をする」のらしい。Sさんはぼくよりも10歳くらい年長だと聞いている。

さっそくひと畝だけ残していたジャガイモ掘り(さやかという品種。北アカリとワセシロはすでに掘り出し済み)に取り掛かった。モグラの如く手で掘ったあと、とんでもないところに隠れているかも知れないのでスコップで掘り返し、大きさも形もほどよい二十数個を収穫した。この間約1時間、他の人たちも続々と畑に入ってきたが、Sさんはじめそれらの人を尻目に早々に切り上げた。ひと仕事終えた、など言えば顰蹙を買いそうな気がするが、それは実感だった。



午後3時、モニターの温度表示は35度である。じっとしていても汗がだらだらと流れだす。こういう時にもう1台あればクーラーのある部屋に置いておいてそこで作業ができるのに、と思う。いっそ居間の食卓の上にパソコン移すかな? どうせひとりだし、と思う。しかしそれもこの暑さのなかでは億劫なことである。いつの間にか表示が38度になっている。いま起き出してちょうど12時間経った午後5時である。


2013年7月12日(金)

午後7時前、家に辿り着くとまるでサウナ風呂のような(陳腐な比喩だが)“熱さ”である。まず居間とその続きの間の窓をすべて開け放って外の空気を入れる。風はほとんどないが多少なりとも温度が下がっていくように感じる。それでも熱さは治まらない。

クーラーを入れ、しばらくあとですべての窓を閉める。その後30分ばかりクーラーの前でぼんやりと坐っていた。それでも、なかなか涼しくならない。汗が次から次へと流れてくる。涼しくならないのは皮膚に付着したこの汗のせいかとも思い、シャワーを浴びてみる。

戻ってから、もう少し温度を下げてみようとリモコンを手にして驚いた(大げさだが)。運転の表示を示す小さな窓を覗くと「ドライモード」になっているではないか。これは湿気を取り除くための動作であって、空気を冷たくしてはくれない。案の定「冷房モード」に切り替えるとそれまでとは全然ちがう冷たい空気が流れてきた。

一昨日あたりからこれだったのだ。思い当たることがいくつかある。効きが悪いので、フィルターの汚れも懸念したし、長年使っているからついに故障? とも思った。そのいずれでもなく、エアコンも効かないほどの猛暑ということで自身に納得させていた。

「適切に冷房を使って」という熱中症予防の呼びかけを思い出した。それ以前にこちらは熱さボケを起こしていたわけである。このニュースに唯一関心を持つにちがいない富良野の配偶者に早速報告した。

2013年7月14日(日)

家から6キロも走ったところで、クーラー停めたかな? という疑問に突如として囚われた。

少し涼んでいこう、と出かける十数分前に点けたが、消すためにリモコンを触った覚えがない。持ち物や戸締まりの点検、それとちょうど入ってきたメールの返信にかまけて、忘れたにちがいない。

ことが先日話題にしたクーラーであるだけに10時間も空運転させておくわけにはいかない。迷わずにUターンした。こういう場合往々にして「実は消していたんだ」というオチになるのだが、予想通り作動していた。

時間にして2、30分のロスとなった。出勤時間に間に合わせるために急いでいるとしばらくして「玄関の鍵、かけたかな?」という不安が兆した。こんなのは際限がないぞと自嘲しながら、クーラーとちがってこちらは、かりに開けっ放しでも心配に及ばない。盗られるものがない、というより、この家は泥棒も端から狙わないだろう。それに三方が公道に囲まれているから近所の人が見守ってくれるはずである。もう戻ったりはしない。

さて、同じ道を3回も通るのは癪なので滅多に走らない有料道路につながる道路に入った。橋の前後300メートルほどの区間を通るのに150円がかかった。おかげでロスタイムの三分の二は挽回でき、遅刻はしなかった。若い同僚にその話をすると「10時間の電気料金と150円ではどっちが高いの?」と逆に聞かれてしまった。「そりゃ、電気代だよ。節電のご時世でもあるしな。いや、そんなことよりも、誰もいない部屋で不測の事態が起こったら事だしな」と答えた。まちがってはいなかっただろう、と思う。


2013年7月16日(火)

幾分すごしやくなったこの夜、居間の西側の窓からくっきりと月が見えた。上弦の月よりも多少メタボな半月である。新聞の暦欄には月齢8.8とあった。

その月を眺める少し前に、国立の塾に勤めていたときの教え子を突然思い出して、ショートメールを送った。「カッパ」などというあだ名を付けてくれたことにより記憶に深く刻まれている生徒だった。いろいろなあだ名のなかでは、ヨン様にちなんだジュン様以来のお気に入りだった。いまや前頭部がカッパのようになってきたが、それはさておき、

「三年生の夏を悔いのないようにすごしてください。たったそれだけが言いたくてメールしました」と書いたのである。

すぐに「え? うちら高校一年生だよね笑笑。でもメール頂けて嬉しいです」との返事があった。

膝の怪我で入院したのが一昨年(2011年)の暮れ近くで、以来通えなくなって辞めている。あのとき彼女たちは中学2年生だった。去年、つまり2012年が中学三年生である。するとことし2013年はたしかに高校生である。このように少し冷静に、指折り数えていけばわかったのに、感覚に頼りすぎたために「一年間」が丸々吹っ飛んでしまった。

「え? 失礼しました。(中略)ではあらためて、青春を謳歌して下さい」と第2信を送った。

時があまりにも早く過ぎ去るようになったので、これからは浦島太郎状態を警戒しなければならない。


2013年7月18日(木)

猛暑が戻ってきた一日だった。よりによってこんな日にと苦笑しつつ庭の草むしりを思い立った。お昼前のほんの1時間ほどだったが、汗がだらだらと流れ落ちる。大きな藪蚊が顔や腕のまわりにたかってくる。耳元で羽音が響くと土の汚れも気にせずに手で顔面を叩いて追い払った。それでも何ヵ所か刺された。

東側に移植していた清見オレンジの苗が枯れているのを発見。実生の木だがこの4年で50センチほどの背丈になっていた。それが葉はなく茎も茶色くなっていた。ただよく見ると根元はまだ青く、何ミリかの小さい緑の芽が吹き出している。再生可能と見立て、西側のもっと日当たりのよい場所に移した。

その近くにはことしはじめてたったひとつの実を付けたプラムの木がある。2週間前はまだ青かったのにいまやオレンジ色に色づいている。毎日何回か眺めては、無事だ、と安堵してきた。まだだよな、もっと赤くなってからだよな、と言い聞かせ、鳥にとられる前に、地面に落ちる前に、屹度食べようと改めて思った。

草むしりはいつしか収穫への皮算用に変わっていた。この庭には、鈴生りのミニトマトも、食べ頃を迎えている朱姫(あけひめ)という品種のミニカボチャも成っている。これらはもちろん“とらぬタヌキの何とか”ではない。紫陽花の、まだ生き生きとした一輪を見つけ、剪って、活けた。これもリアルな収穫である。


2013年7月20日(土)

健康診断のために新宿の「健診プラザ」へ。採血、超音波、身体測定、視力・聴力と流れ作業的に検査は進んでいった。心電図をとるところでは「もっと楽にして下さい、肩の力を抜いて下さい」と何度か言われてしまった。過去何回か悪い徴候が指摘されているので無意識のうちに身体が強ばっていたのだろう。記憶というのはおそろしい。

血圧はやはり高かった。診察室でお医者さんに再度測定してもらったが結果は変わらない。その女医さんは「このあとのバリウム検査は止めておきましょう」と結論を下した。人間ドックの中で最大の“山場”はこれだった。どろどろのバリウムを飲んで、台の上で身体を上に下にと回転させながらX線をあてていく検査である。去年はじめて経験した。

わけを聞くと「検査中に血圧がぐんと上がる人がたまにいますので、大事をとりましょう。またの機会にどこかで」と仰る。ああ、ドクターストップがかかった、と思う。拍子抜けがしたのは、過酷な検査への期待があったからだろうか。倒錯した心情であった。そして、いよいよ降圧の手だてを講じねばならないか、とも思い知った。

そのあと久々の新宿をぶらついていると、紀伊國屋書店の前で山本太郎の街頭演説がはじまるところにでくわした。30分ほどだったが、暑さを忘れて最後まで聞き入ってしまった。原発汚染、TPP、労働問題について共感できる部分が多かった。ことに「労働と資本の対立」を実感的に語るところは、胸にジーンとくるものがあった。このとき一時的に血圧はぐーんと上がったのではないだろうか。


2013年7月22日(月)

昨日は出勤の途上参院選の投票のために公民館に立ち寄った。午前8時過ぎだった。さぞやごった返していることだろうと覚悟して行ったが、場内には自分も含めて3人しかいない。こんなはずではないのに、と少々落胆した。三宅洋平と社民党の川上某に一票を投じた。二人とも落選。それは仕方ないとしても、「自民大勝」という結果は怖気をふるうものである。「国防軍→徴兵制→戦争辞さず」の日本になっていくと思うと、「安倍」の顔が鬼に見える。豆で追い払うのではなく、おびき寄せて、図に乗らせてしまった。いいのだろうか。

そんな中で山本太郎の当選は希望である。三宅洋平も落選したものの、比例区個人としては破格の票(17万票)を得たようだった。こちらも希望と言っていいのではないか。


2013年7月23日(火)

夕方になって驟雨。遠雷も聞こえた。気温が24℃へと一気に下がった。クーラーを止めて、4つの窓を開けると東側の窓辺に吊り下げている風鈴がカラカラと鳴り響いた。

そうだ、朱姫(ミニカボチャ)を食べよう、と思い立った。ミカンほどの大きさ、色もだいだい色であるが、ちがうのはその固さであった。ナイフに力を込めて、8つほどに切った。ジャガイモと一緒に煮立てるとほどなく軟らかくなった。

味噌汁の具にしたわけだが、甘くて旨い。ほかの調理法によってまたちがう味わい方ができるはずだった。何かの味に似ていると思うが、出てこない。この方面の想像力がないというのは悲しいことである。

ところで ゆうべは、茄子とピーマンを味噌で炒めて食べた。ミニトマトだけは毎日何個かずつ食べているが、キュウリをはじめ、採れたての野菜がどんどん溜まっていく。夏のベジタリアンを以て任じているが、それでも追いつかない。これも想像力の問題か。「キュウリは塩もみ」「茄子は炒め」などとワンパターンであるからいけないのだ。ジャガイモにしても3つの調理法しか持ち合わせていない。


2013年7月27日(土)

いろいろな出来事に気が滅入ったり、気が張ったりを日々繰り返している。それでは、いつまでたっても、いくつになっても、好々爺にはなれそうにはない気がしてきた。

そんな感慨とは別に、4、5日過ぎてもいっこうに返事がないので、「何らかの事故で届かなかったかも」と心配になり、もう一度同じメールを送る。それでも返事がない。たいした用件ではないから、と思いつつも、気にかかって仕方がなかった。メールの届かない外国の地を逍遙しているのかな? はっきりとした意志を持った気丈な彼女なら大いにあり得る。そうだきっとそうにちがいない、おとなしく待てばよかった、などと反省と納得をしてさらに数日が経った。

はじめのメール送信から10日後についに返事が来た。仕事が忙しくて、帰りが毎日終電の日々だったという。働き盛りの年齢になって、社内でも枢要な立場にいるのだからさもありなん、とわだかまりがほどける心地となった。と同時に、つまらん用事で煩わせてしまったと再度反省。

また、その彼女よりも10歳ほど若い教え子は、SNSのメッセージ機能を使って去年10月に出したメールに対して今日未明返事をくれた。実に9ヵ月が経っている。どこかに消えて(宇宙の果てで藻屑と化す、そんなイメージだが)ついに相手には届かない手紙だったかとほとんど諦めていた。


冒頭 「いま読みました。返事が遅くなり申し訳ありません」とあり、それに続く近況も含めて、異和なく腑に落ちていった。時の隔たりを感じなかったということである。

それにしても、このご時世で9ヵ月もの間ずっとインターネットの網の目に引っかかって、読んでくれるのを待っていた、と思うと、電子メールもある意味ではけなげなものである。9ヵ月後に見つけて読んで返事をくれた教え子はもっともっとけなげであったというべきだろうか。


2013年7月29日(月)

きのうの朝、兄が死んだ。15ほど歳の離れた異母兄だった。2年前の夏に間質性肺炎で入院して以来、気管切開、人口呼吸器、いろう、と身体を賭してたたかってきたが、ついに力尽きた感がある。

知らせを受けてすぐに駆け付けると、ちょうど病院から戻ったばかりで、長い闘病を感じさせないほどのやすらかな顔で横たわっていた。死んでもしばらくは聞こえるといわれているので耳元で名前を呼び、闘病をねぎらった。

入院早々から話すことができなくなったのがずっと不憫だった。それでも病院に見舞うたびに、帰りには「ありがとう。またな」と口を合わせ、手を振ってくれた。去年の夏すぎからこの年の正月まで5ヵ月間自宅で過ごした。家に帰ることが本人の望みだった。それだけに、孫に囲まれた日々は大きな救いであり、希望だっただろう。直前の転院のときには、帰りたいと駄々をこねなかった、いま思えば覚悟みたいなものがあったのかなぁ、と同居の甥は言った。

なにかと頼りにしてきた柱がまたひとつ倒れた。自身がそんな柱になれないだけに喪失感は深い。


2013年7月31日(水)


お通夜・葬儀のために越谷へ。小さい頃から父母と兄姉弟の6人で一つ屋根の下で暮らしてきた。いつからか、誰に教えられたわけでもないのに、兄と姉は父がちがうと知るようになった。いわゆる母系となるのだろうが、かつてもいまも「ぼくの家族」である。

おもやと呼んでいた本家は腹ちがいの長兄が継いでいた。数百メートル離れた「ぼくの家族」の家はしんや(新家?)と呼ばれていた。

28日に死んだ次兄はぼくの学齢前にはすでに東京に出て働いていた。二人の兄の間にいた姉は近くの町に嫁いでいて、おりおりに三人の子供を連れて戻ってきた。たいして年のちがわない甥や姪に当たるその子供とおもやの中や外を走り回って遊んだことをよく覚えている。彼らがやってくるのが楽しみだった。

次兄も盆や正月にはきまって帰ってきた。何日か前には電話で「お土産、何が欲しいか?」と聞いてきた。グローブやバットや模型飛行機をねだった記憶がある。

長兄は40年ほど前に父よりも先に死に、姉も十年前に亡くなった。次兄の死で父系の兄姉はすべてこの世から去ってしまった。それがいっそう無念である。

お昼過ぎに越谷に着くと、その姉の子がすでに着いていた。娘と一歳になったばかりの赤ちゃんも一緒だった。姉には曾孫(ひまご)に当たる。ぼくには姪の孫だから「曾姪孫(そうてっそん)」となる。にこにこと笑いかけるその子をだきながら、粛々と時代は流れゆく、と感じざるを得なかった。


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