日  録 故地への旅
  

2013年9月2日(月)

人間ドックの結果によると今年は去年よりも身長が0.7センチほど伸びていた。これには驚いた。若い頃は自称170センチ、実際は169センチだった。それが去年は167.6、ことしは168.3だった。指で0.7センチを作ってみると髪の毛の厚さほどのものである。じゅうぶん誤差の範囲内なのだろう。喜びも悲しみもない。ただ、縮む時間という観念に縛られているので、わが身体はいかに、と思うのである。


2013年9月3日(火)

昨日の竜巻(突風)は甥の家の南数百メールのところを東にむかって走り抜けていったようだ。子供たちの通う小学校の真上を通ったがその日は始業式だけで下校したあとだった。それが幸いした。ちょっとした自然の気まぐれ次第では、甥の家も被害に遭っていたかも知れない。

巨大竜巻なんてアメリカの話だろうくらいに思っていたが、もはやのんきに構えてはおられない。

早朝に大阪の姉から見舞いの電話があり、配偶者には東京に住む姪から電話があった。

明海大学病院の待合室ではとなりに坐った人が鳴り出した携帯電話にむかって「あらー、ご無沙汰。心配してくれたのね。ここらあたりは大丈夫なのよ」と話し始めた。それから延々と10分以上にわたって会話が続いたのには閉口したが、あの映像をみれば他人事でなくみな心配するのである。


2013年9月5日(木)

マエケンと言えばいまや広島カープの前田健太投手のことだが、三年ほど前にはもうひとりのマエケンがいた。

大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件において証拠隠滅罪で懲役1年6ヶ月の判決を受けた前田恒彦元検事である。

服役・出所後はfacebookで「元特捜部主任検事のつぶやき」として「論陣」を張っている。「獄中経験もあり、刑事司法の実態や問題点などを独自の視点でつぶやく」(本人自筆の「略歴」より)というが、なにを言っても信頼性に欠けるのはやむを得ないところだろう。この「つぶやき」でわが「マエケン」は何をしたいのだろうか。

今日の朝日新聞、「耕論 巨大与党と特捜部」にその上司だった「元大阪地検特捜部長大坪弘道さん」のインタビュー記事が掲載されていた。

そのインタビュー記事は中身の空疎感たるや甚だしいものがある。「特捜部は独自捜査の旗をおろしてはいけない」と主張しているようだが、説得力に欠ける。

「特捜検事は、優れた取り調べ能力と筋読みのセンス、そしてファイティングスピリットが必要」というが「私が指揮した」という村木厚子元厚生労働省局長の事件はなんだったのか。責任を部下の「マエケン」ひとりに押しつけているとしか思えないのであった。となりの佐藤優氏のインタビューと比べると、質において雲泥の差があった。

スポーツ面に目を転じると「マエケン加速 12勝目 変化球キレキレ 無失点」。うんと爽やかである。


2013年9月8日(日)

目が覚めてから田舎の道が出てきた。出てきたのは記憶のなかの道で、集団登校だった往きの記憶はほとんどない。思い出すのは、三々五々、ぶらぶら歩きの帰り道である。

となりの村にある小学校を出ると、ほどなく人家が切れて、緩い登り坂になっていく。峰を越えてからは長い下り坂になるが両側がうっそうとした杉林で、一気に暗くなるのだった。はるか下は大きな岩がむき出しの渓谷である。林の中の道を谷に下りていく記憶。危険ということばを知らない。

下り坂をおりきると右手に脇道が延びている。小川をさかのぼるように奥へ奥へと続く道である。ここへも寄り道をして、どんどん入っていきたい誘惑を覚える。陽が落ちると道に迷うかも知れないという怖れはない。

しばらく本道を行くと斜面にぽっかりと穴が開いたような沢が右側に見える。そこだけ赤茶色の石ころにおおわれ、わき水も流れている。

その木がまだ生き生きとしていた頃、枝に紐をくくりつけて縊死した人がいる、と誰かが言う。枯れたのはそのせいなんだよ。それでも、手に掬ってわき水を飲むときの至福。

道はだんだん川原と同じ高さになっていく。左手に川が流れる。右手は切り立った崖である。その上に元々の道があった。この道ができるまではそこが隣村との往還に使われていた。明治から大正、昭和のはじめにかけて、みんな崖の上の細い道を通って、隣村へ、さらには町へと出かけた。

帰りが夜になると狐に化かされて、夜明けまで山中をさまよっていた人もいたという。そんな実話は当時すでに真昼の怪談めいていた。肥だめをお風呂と勘違いした、などというエピソードにもぞくっとした。

二キロにも及ぶその道を6年間歩いて行き来したのである。その道で起こった出来事をいまもいくつか覚えているが、いずれものびやかな記憶と結びつく。不思議な感じに打たれる。

その道をもう一度歩いてみたいと思った。が、その道は50数年経ったいまは大きく変わっているはずだから、ないのと同じである。思い出のなかで歩くしかない。うつつの夢は、ついにまぼろしであるのか。


2013年9月10日(火)

午前中、歯医者通いをはじめた配偶者の送り迎え。午後になって、家から約4キロのところにある本屋さん(「よむよむ鶴ヶ島脚折店」)に、新潮はあるか? と訊くと 2分ほど待たされたあとに「在庫を確認して、こちらから電話しますのでお名前と電話番号を教えて下さい」 と言われた。4、5分後に電話がかかってきて「ありません」という報告を受けた。

この店、いままでは文芸誌のなかで「新潮」だけは置いていた。ひと月遅れのものを確かめもせずに買ったこともあるが、もう置かなくなったのかも知れない。確実に置いている大きな店は8キロ離れている。そこまで行く元気は残っていなかった。

その後ブログ「久末です」にて「今日発売の「中央公論」10月号に、不肖久末一男66歳の「仕事と生きがい観」が紹介されている」ことを知った。

読むだけなら図書館がある、とふと気付いて、二キロ先の鶴ヶ島市中央図書館に向かった。そこでまた、コピーだよ、と思いついた。ふたつの雑誌の最新号を手にとりあえずいちばん読みたい記事9ページ分をコピーして帰ってきた。

図書館とか、コピーとか、こんな思いつきも、想像力のうちだろうか。


2013年9月12日(木)

京都伏見稲荷大社の千本鳥居を久しぶりに思い出した。きっかけは「学生が伏見稲荷大社で全裸で撮影した写真などをTwitterに投稿していた」というネット上の記事だった。

そのすぐあとに、件の写真を facebook で見ることができた。「千本鳥居にケンカ売ってきた……」というキャプションが入っていた。うしろを向いた全裸男にはいっさいのモザイクが入っていなかったのでいっそうリアルな映像としてしばし見入ったのだった。

この千本鳥居ではかつて(60年代後半)若い男女の心中縊死事件があった。鴨居に荒縄を吊り下げ、並ぶようにして逝った。足下の土にまみれた紙片には「死の詳細右の通り」とだけ書かれていた。(わが同棲時代に)うす暗いアパートで小さな記事を読んだのだった。その文言によって記憶に刻まれ、深い思い入れもある。いわば伏見稲荷は恣意的な聖地である。

いまは、あまりにも昔のことゆえ、実際に起こった出来事なのかどうか、そんな新聞記事をほんとうに読んだのか、不安になることがある。まぼろしではないか。作り物ではないのか。

10年ほど前にはデータベースを閲覧できた新聞記者のY君に調べてもらったことがあった。「なかったなぁ」という返事だったが、架空の出来事だったとも思えないできた。

何回かその「聖地」を歩いてみたこともあった。いろいろな想像が湧いてきて、言葉にしたいと思い、試みもしたものだった。

時代は下って(あの出来事が事実だったとして)いまや、鳥居の中に全裸の男、である。これは、まぼろしではないようだった。この行為についてあえて論評は避けたいところだが、少なくとも大学側があらたまって「謝罪文を出す」ような問題とは思えないのである。


2013年9月14日(土)

兄の七七日法要のために、越谷へ。甥の家のすぐ近くに2日の竜巻のつめ痕が覗いていた。ひとしきりその話となって、あらためて驚愕した。彼我の差は運としか言いようがない。

甥はわれらが父祖の地から取り寄せたという戸籍謄本を見せてくれた。兄に関わるものとして全部で4通あった。いちばん古いのは筆頭者が嘉永何年か生まれの曾祖父(甥にとっては曾曾祖父)のもので、きれいな楷書で来歴が縦書きで書かれている。

祖父(甥にとっての曾祖父)には子供がたくさんいたこともはじめて知った。父以外に男子は二人いたが一人は戦死(この人が母の先の夫である)、もう一人は病気で亡くなっている。

女子は謄本には七女まで記載されている。ただし思い出せる叔母は4人である。隣村にいたそのうちの一人は、姉が亡くなったあとにその夫の元に嫁いだ、ということも記録されていた。

祖父は小学校2年生くらいのときに死んだ。その間際に枕元に坐って湿らせた脱脂綿で唇を撫でてあげたのをはっきり覚えている。兄がかけつけるのをその名を呼びながら待っていたという記憶もある。

一緒に見ていた大津の姪はそれぞれの連れ合いがどこからきた、どんな人だったか知りたい、という。この昔の謄本にはたしかに「嫁」としてやって来た女性のことは最小限にとどめられている。そのせいもあってなかなか具体像を結ばない。現代の戸籍には配偶者の来歴がかなり詳しく書かれているのと比べるとどうしても時代を感じるのだった。

さて、3通目の父の戸籍になるとぼくと弟の名前も出てくる。父が戦死した弟の妻と新世帯をもってできたはじめての子供がぼくである。戸籍では「長男」になっている。一緒に育った、母の「連れ子」である姉と兄は甥の取り寄せた戸籍には出てこない。正当な相続人であることを証明するための書類だと思われるので、父の「弟の家族」までは不要ということなのだろう。

高校生くらいまでは、何人兄妹? と聞かれると4人の三番目と答えていた。いろいろ説明するのが面倒だったからである。それ以降は、全部合わせると7人になる、と答えるようにしてきた。さらに補足する必要を感じたとき(滅多にないわけだが)には、母系では4人兄姉の次男、 父系では、兄二人、姉ひとり、弟ひとり、戸籍上は長男、と正直に言ってきた。

戸籍謄本には、この150年あまりに生きた先祖たちの、誕生と父母の氏名、結婚した相手などの記録が載っている。たったそれだけのことでも、血のつながりを念頭に読むと、さまざまな想念が湧いてくる。そして消えていく。めずらしいものを、思いがけず見ることができて、わが来歴にもしばし思いを馳せた。


2013年9月16日(月)

大型の台風18号が本州を縦断する勢いであるというので、心してかからねばならない。朝のテレビでは大雨や突風による被害とともに、荒れ狂う各地の模様が報告されている。いつも置いてけぼりの埼玉も今回は無風地帯とはならないようだ。

昼前に大津の姪から返事があった。「こわかった。夫は朝5時から近くの浸水地区へ応援に出かけている」とある。配偶者のもとには、京都にいる姪の義父母がボートで救出された、と妹から写真つきメールが届いていた。

台風から遠く離れたところも大雨の被害にあった。天変は、計り知れない、とつくづく思う。


2013年9月18日(水)

明け方気が付くとタオルケットの上に毛布が一枚掛けられていた。その何時間か前に気配を感じたが、夢かうつつか確かめもせずまた眠ってしまったようだった。気温は15度という。ずいぶんと秋めいてきたものである。

夜になって「毛布賭けてくれたんだね」と訊くと「そうだね」と配偶者は言った。庭には彼岸花が、10本ばかり咲いていた。猛暑だった夏の記憶のようでもあり、また、その夏を忘れ去る花のようでもある。


2013年9月19日(木)

本日は旧暦の8月15日の「中秋」である。この日の月、つまり中秋の名月が毎年満月であるとはかぎらない、ということをはじめて知った。

ことしまでは三年連続満月だったが、次に満月となるのは8年後の2021年という。十五夜といえばどうしてもまんまるお月さんを連想してしまうので、なんだかややこしいことを知ってしまったという気もするが、とりあえず今夜は皓々とした満月を堪能できた。

深更わざわざ外に出て月を見上げるなんて久しぶり(そんな歌があったなぁ)だと思った。


2013年9月22日(日)

同じ市に住む同僚がアケビの実をどっさり仕事先に持ってきてくれた。すでにはじけているのが何個かあったので家に帰って早速そのうちのひとつを食べてみた。うるおいがあり、濃いミルクのような味がした。

実といってもここは種子を包む胎座といわれる。食べるというよりは吸うに近い動作になってしまう。それほどに種子が多い。

小中学生の頃、アケビを食べることは、松茸や栗とともに秋の山遊びの楽しみのひとつだった。淡い紫色の実を見つけると危険を顧みずに木によじ登った。今回もらった実はごつごつしいグレイの皮でおおわれているが、中身はあの頃の味に似ていた。

広辞苑にはアケビという名前は「開け実」の意だと書かれている。漢字では木通・通草などと書く。ところで携帯で打つと「妛」という漢字が候補のなかに現れた。ここで忽然と思い出したのはぼくが育った村と同じ町内の「山女原」(あけびはら)という地名である。ぼくの村と同じような山奥の村である。地図で見るとその村の真下をいま「新名神」が走っている。

山女原とアケビは原義において関係があるのだろうかという疑問を抱いたのであった。そして、そこから同じ中学に通っていた、背が高く、顔が白く、きりっとしたまなざしの女生徒のことを思い出したのである。テニス部のプリンセスだったということまで。


2013年9月23日(月)

一昨日豊島ゆきこさんの歌集 『りんご療法』(砂子屋書房、2009年)が届いた。

ここには37歳から51歳までの14年間(1993年〜2007年)に作られた424首の短歌が収められている。当方の心の琴線にぴりりと触れるのか、思わず身のまわりを眺め回したくなる歌が多い。たとえば、

○ いつもいつも小首傾げてわれを見る十姉妹よとほき記憶伝えよ

○ 漬物石支ふる桶の木の勁さおもふことあり不惑を過ぎて

○ 花梨の実おもく実りぬ産み終へし子宮はいつか眠りに入いらむ

○ 過ぎし日の恋などおもひ緑陰に犬曳きゆけば犬、息みだす

こうやってほんの一部を挙げてみると、日常をただ見るだけでなく、心で濾過し、脳内で見事に咀嚼しているのがわかる。

これは千年の短歌の効果であるとともに、この歌人の誠実な生きる姿勢の賜物であると思った。第一歌集(塔21世紀叢書第137篇)というので、このあとが楽しみになってくる。


2013年9月24日(火)

押し入れから母校の小学校の創立140周年記念誌を取り出してぱらぱらと見入っていると巻末に「鮎河・大河原地区の明治初期までの支配者と地名表記」(参考資料)というのを見つけた。ことしはじめに届いた時にはなぜか見逃していた。

応仁の頃大河原又太郎という男が支配した「大河原」がぼくの育った山村であり、これを書いたのはことし三月まで校長を勤めた金田眞宏君である。彼は高校・大学の後輩である。この縁には驚いたものだった。

こんなユニークな資料がなぜニュース価値があるのかというと、江戸のはじめからこの地は「旗本・譜代の所領地」であったからだ。金田君は「豊かな山林資源と木炭、万が一の場合の尾張への間道(抜け道)として押さえておく必要があったのでは」と推測している。たしかに大河原から武平峠を越えて四日市までは走れば数時間で到着できそうである。

それによると、17世紀は幕府代官が支配し、18世紀から19世紀の前半までは掛川藩(静岡県)や棚倉藩(福島県)の、幕末には川越藩(埼玉県)の、それぞれ飛び地になっていて、明治4年(1871年)まで川越県に属していたという。ぼくは40年近く川越近辺に住み着いているので、これもまた奇しき縁と思った。

金田君は山深い村にある小学校(いまや全校児童数28名の僻地校)がなぜ県下でも一、二をあらそう古さを持つのかを知りたかったのである。これで納得したとかつて言っていた。江戸に近い川越の先見性が影響している、と。


2013年9月26日(木)

朝、配偶者を歯医者に送迎。待つ間に近くのコンビニに入ると、後期の授業が始まってこれから構内に入る学生で大混雑を来していた。レジは長蛇の列。パンやおにぎりの棚はすでに空っぽである。コンビニの消長が激しい昨今ここはわが世の春を謳歌しているなぁ、と感じた。

隣接して二軒のお店がある。ひとつは弁当も売る食堂、もうひとつは食料品店だった。三年前にもこれらはあったがコンビニはなかったような気がする。三つ巴の競争、いずれにも与する謂われはないが、棲み分けがうまくいくといいのにとは思う。受けて立つ二軒はいま「ニッチをさがして」いるにちがいない。その程度に自分のなかにも秋風が吹く。


2013年9月30日(月)

朝アルバイト先に向かう車の中で小さな頃に(小学生の高学年?)養子の話があったことを思い出した。ぼくを養子にしたいと言った人は松坂の人だった。

鎮守の若宮神社の熱心な信者で、月一回くらいの割で参拝に訪れた。釣りの好きな人だった。鮎釣りに何度もついて行ったことがある。ゆっくりとした話振りの穏やかな紳士であった。いつも仁丹の匂いがしていた。ぼくはなついていたと思う。

この神社は各戸の長男が5年間の修行を経て一年間神主を務める風習をいまも引き継いでいる。信者は全国各地に大勢いる。神主を出した家は参拝に訪れる信者さんを食を供したりしてもてなす役目を負っているので、(神を仲立ちにして!)親しくなっていく。父が神主を務めたのはその何年か前だったからその人のことは家族みながよく知っていて、よい印象を持っていた。

ただ、「こどもに欲しい」という話があるとは聞いたが「どうだい、行くかい」などと意向を訊かれた記憶はない。どこかで立ち消えになったのだが、そのいきさつも知らない。

あるいは鮎釣りの合間にその人から直接「わたしのこどもにならないか」と言われたのかなぁという気もしてきた。

いずれにしても、父も母もわれを手放すことはせず、自身もまた家族のもとで育つことを選んだ。9月晦日のこの日に50年以上前のその人を思い出したのは、釣り好きの人とはどういう人間なのかという連想からであった。そしてもしその人を養父として育っていたら、とたわむれに想像してみたのだった。

余談だが、高校生になるともうひとつ遠くの在で何町歩もの田畑を持っている人の家に行かないかという話が舞い込んできた。これはあと継ぎとしての養子である。この話を持ってきた人は米作りは誰かに任せて自分は会社勤めをしていてもいいと先方は言っているそうだ、とも言う。ずいぶんと具体的な記憶である。婿養子ではなかったと思う。このときも家族は勧めはしなかった。

こちらは自分の進路の事で精一杯だった。それでもいま、たられば、と考えるのである。一度きりの人生とは窮屈なものである。欲張りなだけだろうか。





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