日  録 生き生きと生きる

2014年1月7日(火)

新しい年になって今日はもう人日の節句・七草がゆである。

福岡在住4年目となる息子の招待を受けて、3日から5日まで福岡へ行ってきた。こんな遠くへの旅は十何年ぶりのことである。

修学旅行を含めて4度目の九州、「よかとこ」だと改めて思う。各地にいる学生時代の友人たちと会う時間はとれなかったが、代わりに何人かと電話で話した。すぐ近くに来ているというのでつい声が弾んだ。

別府での一夜、夜景を見ながら話した友などは「また、そのうち会えるじゃろう」と言ってくれた。同感だった。

住みやすそうな福岡の街や人情、さらには旅の昂揚に、戻ってからもいましばらくは心地良いカルチャーショックが続く。新年の出だしとして上々だ。


2014年1月10日(金)

65歳の誕生日だった。赤いちゃんちゃんこを着た父をみなで祝った記憶はあるが、それから5年後の、同い年の父の姿は消えている。逆算してみればぼくの結婚のために上京したとき父は73になっていた。その後は足を痛めて、10年ほどあとに84歳で死ぬまで歩くのに不自由していた。

父と同じだけ生きるとすればあと20年近くある。前期高齢者の仲間入りをしたわけだが、精神的にはもちろん、身体的にもちっともそんな気がしない。それが団塊の世代の通例だと誰かが言っていた。傲りと矜持の間を揺れる世代らしいと思うが、こちらも例に漏れないわけである。

今日は昼頃から日付が変わる深夜にかけて、fb や mixi でたくさんのお祝いの言葉をもらった。こんなことははじめてであった。「若さに挑戦」しよう、いくつになっても「誕生日が楽しみ」であるように精進しよう、と思った。


2014年1月14日(火)

朝5時発の成田空港行き高速バスに乗る配偶者を最寄りの駅前まで送ったあといったん自宅に戻り、数時間後にはほぼ同じ道を通ってK病院へ行った。

夏から続く高血圧の診察だったが、記録がいまや飛び飛びになった「血圧手帳」をめくりながらお医者さんは「不安定ですね。理想の値に近づけるために薬を増やしましょう」と言った。

先回はたしか増量、こんどは1種類2錠分増えて一回に服用するのが3錠となった。朝夕に分けますか、朝だけ一回がいいですか、と訊かれたので「できれば一回」と希望した。ふと「無駄な抵抗」をしているという気分になった。

そのせいかどうか、血液検査結果のFb値に赤い線を二重に引いて「貧血気味ですね。念のために、便検査をしますか」と言われたときは「はい」と素直に答えてしまった。

あとで調べると、10月・13.4、11月・13.2、そして今日12.9と、基準値の下限13.5から少しずつ遠ざかっている。からだ内部に深刻な原因が存在する、というところまではいかないのだろうが、こうやって病気が造られていくのか、と思えば高齢者はやはりタイヘンである。

となりに坐った婦人から「 あなたは一回りほど若く見えるわね。健康そうな顔色をしてらっしゃるけど、なんの病気?」といきなり訊かれた。「高血圧です。去年の夏に人間ドックで……」などと答えると、

「あら、みんなそうよね。私なんか正月に救急車で救急医療センターに運ばれて、破裂した動脈瘤の手術をしましたよ。それにしても待たされるわね」

この日病院は混み合っていたが、ほとんどの人はぼくより歳上である。高齢化社会を実見する思いだった。もちろん他人事ではない。


2014年1月20日(月)

固有名詞を忘れてしまうことが多くなったのにこのごろは戸波恵之介、伊藤虎丸というふたつの名前が頭から離れない。いずれも実名であり、ふたりともそれぞれ高校と大学の先生であった。

戸波先生には高校のときに世界史を習った。ちゃきちゃきの江戸っ子、早稲田を出てすぐに赴任したようだった。そのはじめての授業で細長い黒板いっぱいに年表を書いて歴史の学び方を説いたように思う。雑談が面白かったが、

「自動車メーカーのマツダは、ゾロアスター教のアフラマズダに由来する。MAZDA と書く所以だよ。名付けた創業者の松田さんは偉かったね。先見の明だよ」

当時なにが先見の明か知る由もなかったが、歯に衣着せぬ語り口とともに50年近い間ずっと覚えてきたのである。以来ずっと早稲田びいきである。

伊藤先生は中国近現代文学、とりわけ魯迅の研究者として著名である。授業を受けたことはなかったが、寮生十数人を前に大学生とは何者かを自身の体験とともに、こちらも江戸弁で話してくれた。文字通り膝をつき合わせての講義は鮮烈だった。つまり中身が腑に落ちたということだったろう。

ああ、この寒空にあってなお忘れ得ぬ人たちだと思う。


2014年1月22日(水)

午後3時半頃、娘と配偶者(富良野在住)からそれぞれ電話やメールがあった。仕事中で電話には出られなかったが、メールには大意、駅前の駐輪場から車に乗せて運んだ自転車はひと様のものだった、すぐに返さねば、とある。

自転車を回収したのが18日の土曜日夕刻だったからもう5日も経っている。その間乗る機会がなく気付かなかったのである。これは一大事。持ち主の落胆や怒りは如何ばかりか計り知れない。このままだとりっぱな「自転車泥棒」になってしまう。

早退を申し出て、すぐに110番をした。事情を話すと、管轄の警察署、ついで駅前の交番から電話が入った。指示された通り自転車を積んで駐輪場に向かった。元の場所に降ろして、何枚か写真をとり、わが家の娘の自転車も防犯登録番号から持ち主確認をしこちらの写真もとった。さながら実況見分のようだった。

自転車が同じ型のうえに色も全く同じである。5日前、積み込むときの決め手にしたのはハンドルの向こうブレーキひもの交叉するあたりに取り付けている黄色い反射板だった。立ち会った警官は「こりゃ、そっくりだ。まちがうのも無理ないね」と呟いてくれたが、元は、こういう自転車は娘のものにちがいないという思い込みだったかも知れない。。

その自転車をまた車に積み込んで交番まで運んだ。そこで「上申書」や「保管依頼書」「所有権放棄書」を書いた。上申書は始末書みたいなもので、警官がまちがった経緯とお詫びの言葉を下書きをしてくれ、それを書き写した。所有権放棄というのは「一度持ち帰ったから、所有権が発生するのだ」という。これは意外だった。

すべて終わったのが午後7時半、大失態、4時間の顛末だった。交番を出るときに「ご苦労様でした。駐輪場のあなたの自転車は早々に運んで下さいね。盗まれたりしたら大変ですから」と言われた。皮肉なんかではなかった。こんな間抜けな事案に付き合わされた警官こそいい迷惑だったろう。


2014年1月30日(木)

奥泉光『神器〜軍艦「橿原」殺人事件』(新潮社)と雫井脩介『火の粉』(幻冬舎文庫)を続けて読んだ。前者は漢字が多く改行も少ない「純文学」、後者はプロットの意外性が重視される「ミステリー小説」である。ついのめり込んで、合計2000ページを読み継いでいった。

読み終えて、表現も主題もまったくちがうふたつの小説をなぜ面白いと感じたのだろうか、と自問した。そしてあれこれ作品評的にあげつらうことはできるけれど、面白さを裏付けているのは、著者と読者であるこちらの、それぞれの想像力が共鳴していたことではないかと思い当たった。ああ予想通りきたな、とか、おおこうくるか、とか、驚いたり笑ったりの連続だったような気がする。

のめり込むとは稀有な体験、と改めて反芻した。生き生きと生きているとは、こういうことであるのだろうか。


2014年1月31日(金)

寒かった1月が終わる。やっと、なのか、もう、なのかわからない。いままでは、1月はだらだらと過ぎていく、と思っていた。いつまでたっても終わらない1月であった。それは「やっと終わる」という感慨をもたらしていたのである。

今年の1月は福岡にも行き、たくさんの人から誕生日祝いももらい、浮き浮きとして過ごした。いつになく寒かったが、冬なのだから当たり前だ、と張り切っていた。その終わりに臨むと、だから、もう、となるのだろう。

日中の春のような陽気は、やはりいいものである。


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