いたむ鎖骨


2014年3月3日(月)

もう3月。今日は桃の節句。一昨日、義妹の娘(姪っ子)から内祝の品が送られてきた。そこには、昨年末に誕生した赤ちゃんの写真とメッセージが添えられ、「名前は遙太郎(はるたろう)です」とあった。

義妹を送りがてらこの家を旦那と一緒に訪ねてくれたときのことを思い出しながらはがきを書いた。あれはもう5、6年も前のことではなかっただろうか。今回、待望の第一子誕生となったわけである。

それにしてもいい名前だ。ゆかりの人の赤ちゃんの名前「康太朗」「穣太郎」のときにも感じたが、元気・勇気が湧いてくるのである。


2014年3月4日(火)

「まだ寒いなぁ」とぶるぶる震えていたら、夜半近くなって急に寒さがゆるむようだった。気温が少し上がったかと思い、所用のために外に出ると雨が降っていた。ぬれてもいい春雨と早合点したが十数分後には本降りの様相を呈してきた。


2014年3月6日(木)

高橋和巳『わが解体』をぱらぱらと拾い読みしているとき、こんな一節にでくわした。

「ちょうど胆嚢の裏側にあたる大腸に潰瘍があって、神経を過度に使うと腸もねじれる心身相関作用で、中国の詩人がしばしば悲哀の表現として用いる<断腸>の状態に私ははまり込んでいた」(1970年9月発表「三度目の敗北」より)

これは発覚したばかりの病と闘いながら、わが身を賭して関わってきた全共闘運動の「終焉」を見届ける一文に挿入されている。

高橋和巳はその一年後の1971年5月に結腸ガンのために39歳の若さで亡くなってしまうが、その言葉の群れはあのときのぼくら(敢えて複数形)の胸奥にすとんすとんと小気味よく落ちていったように思う。

あれから45年経って、この最後のエッセイを読み返していると一歩も二歩も退いたところで感慨にひたっている自身の姿が見える。それは不思議な感覚だが、中身(情況)は疾うに息絶えているのに言葉は今なお寿命を保っているということであるのだろうか。とすればうれしい再読である。

さて今度は古井由吉の『楽天記』だ。これは、あれから20年後の歴とした小説である。もちろん地続きである。
(ともに蓮田の友人宅から持ち来たった本である)


2014年3月7日(金)

春の足音が聞こえてきたというのに、今冬はじめて湯たんぽを入れた。

この時期になってかね、と自分でツッコミも入れたくなる。それまでは、布団にもぐり込んでしばらくはつめたい思いをするが、さぶいさぶいと呟きながらからだを慣らしていった。明け方に起き出してエアコンの真下のソファに鞍替えしたことはあった。それも二度くらいのものであった。

ゆうべの寒さはひとしおだった。春間近ゆえに余計からだに堪えた。しかし湯たんぽという発想は、天の邪鬼のものかも知れない。ほんとうの冬には必死でこらえたくせに、ここで使わなければ次の冬を待たねばならないのが癪の種だった。かっこよく言えば、はじめで最後の湯たんぽ、である。

それにしても、おかげで心地良い睡眠だった。今日も冬型の気圧配置だというから、もう一度湯たんぽの夜だな。


2014年3月8日(土)

三夜連続の湯たんぽの夜となった。三月も半ばになろうというのに最低気温は零下2、3℃である。気が付くと、足元の湯たんぽを胸のあたりまで引き上げて抱きかかえるようにしている。湯たんぽをくるんでいたバスタオルははがれ、もはやむき出しになっている。抱えるには適さないだいだい色の扁平物体であるが、温もりは十分に残っていた。

ことしほど電気のブレーカーが落ちた年はない。こちらも学習を重ね、電子レンジとエアコンを同時に使わないなど細心の注意を払っているが、それでも突然落ちてしまう。最近はなぜ? と思わないときはない。この夜も、そうだった。

疑問とともに、何かあたらしい器具を使ったかと原因を考えた。そして、前回の事例と思い合わせてついに思い至ったのである。ストーブ(ファンヒーター)ではないか、と。科学的な根拠はないが、点火時、瞬間的に相当の電力を使うにちがいない。

この夜、突然電気が消える夢を見た。また落ちたか、と鼻白みながら、容量を超えるほどの電気は使っていないのにヘンだなぁ、と思う。夢の中では布団に入っているのである。これは停電というやつかも知れない、と思い直していた。

まぁ、のんきなものである。この冬、電気料金が2倍以上に膨らんでいるというのに。


2014年3月9日(日)

朝、窓辺に立つと陽射しのあたたかさにしばしほっとする。夜は湯たんぽ、朝は太陽、いずれも、借景ならで借暖だなぁと思う。

この日「3.9」は語呂を合わせれば「thank you」 なのでNHKを中心としたマスメディアでもしきりに取り上げていた。

日本語の中で好きなことばのひとつが、実は「ありがとう」だと改めて思い知った。若い一時期すんなりと口を衝いて出ることがなくなったように思うが、いまはなんの抵抗もなく言うことができる。うんと小さな頃は「おおきに!」ということばを何度も何度も聞いてきたし、自身も言っていたことにも思い至る。

高校の同級会の案内が届いた。3年9組だったので仲間内では「三九会」と呼んでいる。湯たんぽにも太陽にも、同級生にも、ありがとう、と言いたい気分だ。


2014年3月11日(火)

宮内喜美子さんから『宮内喜美子展 怪獣ルネサンス』の案内が届いた。もう10年ほど前になるが高島平の自宅で怪獣のオブジェを見せてもらったことがあった。掌に乗るくらいの大きさの、小さな可愛い怪獣だった。ついにその名を冠した展覧会になったのかなぁと門外漢なりに思った。

宮内さんは展覧会(4.7~4.12)の行われる「ギャラリー悠玄」のHPにこんな文を寄せている。

《パステル画を描き、粘土オブジェを作りながら、無意識の奥深くを手さぐりし、美しさの追求と「破綻をきたすこと」の葛藤のなかで、「笑い」をみつけてきました。/(中略)/ 「破綻」は私にとって「救い」なのです。私たちが「負のイメージ」と思っているものを逆転させ、「肯定する」アイコンがつくれたらと、制作をつづけています。

  わたしのなかのなにかに
  気づきたい
  あなたのなかのなにかに気づいて
  わらって
  そして解き放たれてほしい》

これを読むと30年間の格闘がきわめてまっとうであることについ襟を正す。期間中「作者による詩の朗読会」もあるという。


2014年3月13日(木)

小山田浩子「穴」を初出誌で読んだ。同窓ということで少し興味が湧いたからで、なんの予断もなかった。他の作品を読んだこともなかった。ただ、リアリズムで、人情の機微をうがつような作風をなんとなく期待していた。せっかく広島の街に住んでいるのだから、と勝手な思い込みをしていた。

実際は人間存在の不条理に迫る、カフカを連想させるような作品だった。改行の少ない文章は饒舌そのもので勢いがある。田舎の田園風景も目の前にふわりと浮かぶようで楽しい。次の作品も読んでみたくなった。

本筋からずれるがこんな一節に感応した。

《姑はそう言って肩をすくめ、またからから笑った。本当にかんらかんらと音がする笑い声だった》

40数年前広島で、人が笑うことを喜び、そのことを「あの人がかんらかんらと笑ったよ」と何度も言うのを聞いた。ごく身近にいたその女性の、ほとんど口ぐせのような言い草を思い出したからである。


2014年3月15日(土)

夜、ガラスのコップに右手を突っ込んで底を洗っているとき、こういう場面では必ずしも必要でない力(りき)が入ったのか、真ん中辺りからコップが割れてしまった。前にも2、3度そんなことがあったので、コップが割れること自体には驚かないが、その拍子に砕けたガラスの切っ先が人差し指の根元の肉を削いだのである。

縦横1センチにわたって厚さ3ミリほどの皮膚が捲れかえっていた。血がどんどん噴き出し掌一面が真っ赤になる。富良野にいる配偶者に、血が止まらないがどうすればいいか、と訊ねると、病院に行くしかないでしょ、と言う。

K病院に電話で問い合わせると、今夜は内科の先生しかいないので治療ができない、他の病院を当たってくれませんか、近くではS市民病院、少し遠いですが埼玉医大病院とか、と言われた。そしてこの頃になるとティッシュで押さえつけていた傷口から血が流れなくなっていた。代わりにじわじわとした痛みが起こり、その痛みでかえって気持ちは落ち着くようだった。

赤い血に興奮しすぎたのかも知れなかった。すると病院はちと大げさすぎるように思え、消毒薬と包帯を買うために近くのドラッグストアに行くことにした。

店主の薬剤師は「消毒はしない方がいいですよ。これが一番いいんです」と防水・防菌のバンドエイド・キズパワーパッド(ジョンソン・エンド・ジョンソン社製、80ミリ×50ミリの大きさのものが3枚入って980円)を勧めてくれた。

「はがれてひらひらしている皮膚が、ちょっと気になりますが。まぁ、上から押さえつけるように貼ればいいでしょう」

貼ってみると傷口が赤く透けて見えるがなかなか快適である。伸縮も自由で痛みもない。おさわがせのお詫びをかねて、貼る前と後を写真に撮って配偶者に送った。もはや何の返事もなかった。


2014年3月17日(月)

昨夜、呼び子笛をプレゼントされた。がれきの下敷きになったときはこれを吹くんだよ、家にいる間はずっと首にぶら下げていなければならないのだよ、と送り主の娘は言う。

ウィキペディアによれば「共鳴胴の中にコルクやストローでできた軽い玉を入れた笛。音はきわめて甲高く、単音の連続である「ピー」ではなく「ピリピリピリ…」と短いサイクルで音調が変化する性質を持つ」とある。

たしかに、そっと吹いてみるだけでけたたましい音が立ち上がる予感がする。夜中に「訓練」というわけにはいかないので、そのまま首にぶら下げて過ごした。2、3日は「持つ」がそのうち置き場所さえ忘れてしまうなぁとこぼすと、そんなことになれば、誰も助けに来てくれないよ、とたしなめられる。

けさになって、外でそういう事態に遭遇することもあるわけだ、とショルダーバッグの紐にくくりつけて出かけた。さすがに首にぶら下げるのはいかにも大仰な気がした。

帰り道、片側二車線のバイパスを走っていると真正面から皓皓とヘッドライトを点けた車がこちらに向かってくる。何が起こっているのか一瞬わからなかった。逆送だ、と気付いたとき彼我の差は10メートルくらいのものだった。思わずクラクションを鳴らしていた。こちらにはよけるヒマはなかったが、対向車はさしかかった交叉点を左折して本来の道に戻っていた。すんでのところで正面衝突となるところだった。

あとから恐怖心が追いかけてきた。そして反省した。気付くのが遅すぎる、と。瞬時自分が道をまちがえたのではないか、と思った。それも、いかん。カバンに付けている呼び子笛のことを思い出すのは、もう少しあとだった。


2014年3月18日(火)

この前はいつだったろうかと思いながらカレーを作った。あれこれ生活の痕跡を調べてみると3日の夜だと判明した。つまり15日ぶりである。その間隔は長いのか短いのか適切なのかわからないが、ルウは前回の残り半分を使った。ほぼ同じ味となった。あたりまえのことである。

そのあと食器を洗ったがガラスのコップを手にすると背筋にしびれが走った。4日前に割れたコップの破片で肉がはがれたときの記憶が甦ってくるのだった。

傷口を守るためもあってゴム手袋をはめていたが、それでも再現におびえるような心持ちとなった。これがトラウマというものだろうか。そういうことに対して鈍感なわれは、すくなくともその原形だろうと思うのだった。

しかし、あと1週間もして傷口が癒える頃にはその恐怖心もすっかり消えてしまうはずだから、トラウマとは呼べないのかも。


2014年3月20日(木)

外出したついでに図書館に立ち寄った。事前にネットで「蔵書検索」をすると佐伯一麦さんの『光の闇』が開架棚にあるとわかったからだ。この作家の新刊本はいつも出払っていて、おまけに予約が何人かあり、なかなか辿りつけないからこれは稀有のことだった。

ほかに『新潮』と『群像』のバックナンバーを借りた。それぞれ、2013年2月号、2014年3月号でお目当ては黒川創「暗殺者たち」と小池昌代「たまもの」。ともに「長篇(一挙掲載)280枚」と惹句されているがこれは偶然の一致である。

その夜 Twitter を眺めていると、異なるふたりが『群像』2014年3月号の別々の記事について感想をツイートしていた。月遅れで読んでいる人もいるのかと驚き、たいした興味もなかったがそれらの記事(ひとつは小樽に移住した云々のエッセー、もうひとつは皇室についての論考)をさっと読んだりした。

どこにでも偶然が待ち構えていて面白いと思った。そして、おはぎが食べたいと唐突に思った。明日は彼岸の中日である。


2014年3月23日(日)

洗い物中割れたコップの破片で肉を削いでから1週間が経った。朝、キズパワーパッドを貼りかえるときに子細に眺めてみると、ドラッグストアの店主が危惧した「厚さ3ミリのはがれてひらひらしていた皮膚」は白く変色していた。

おそるおそるめくり返してみるとすーととれた。下にはこんもりと盛り上がった赤い丘ができていた。これが新しい皮膚になるのだろうかと思うとなんとなくうれしくなった。

たった1週間でほとんど直ったも同然である。この間貼りかえたキズパワーパッドは5枚である。1枚平均1.4日。この「商品」については何人かの経験者からお墨付きをもらっていたが、その通り、よく利く。

何年か前、配偶者が包丁を使う深夜の仕事中に指先を深く切って戻ってきたことがあった。病院にも行かず、自分で手当てしながら、仕事も家事もいつも通りにこなしていた。

こたびもこちらの傷を報告する電話で「わたしのときよりも、ひどいの?」と訊いてきたから自身の中にもその記憶はいまなおつよく生きているのだろう。完治するまでに一ヵ月近くかかったのではないだろうか。あのときもっと親身になってあげればよかったと反省しきり、である。



帰りの車中、FM放送で中島みゆきの『わかれうた』を聴いた。偶然だったが、ずいぶん久しぶりだったので、嬉しかった。


2014年3月25日(火)

鬱勃(うつぼつ)ということばがそれこそうつぼつと浮かんできた。小池昌代「たまもの」(『群像』3月号)を読んでいた。人体、とりわけ肉やいくつかの穴に寄り添うことばはあられもなくて美しいとは思えなかったが、表現として美しいものがあちこちに見られたからだ。

〈世の中には妙に懐かしさを覚える「かたち」がある。(中略)それから、産道=参道=山道を通り、、圧倒的な光を浴びた。眼が開けられなかった。(改行)自分の心など見つめるべきではない。見るべきものは、窓の外の光だ。ごらんなさい、あの光を。思い出してごらんなさい、あなたが最初に浴びた光を。〉

広辞苑によれば鬱勃とは、「胸中に満ちた意気が、まさに外にあふれようとするさま。」とある。原義としては「雲などの盛んに起こるさま。また、草木が盛んに茂るさま。」とも説明されているので、いまや思い出や記憶のなかにのみ生き続ける「青春」にこそ似つかわしいことばであるのだろう。

ニュースなどでは65歳以上の「高齢者」と枕詞ならぬ尾詞(?)が付くようになって「日の移ろい」もどことなく剣呑になってきた身でありながら、なおよく生きなければ、と思ったのである。


2014年3月27日(木)

「拘束を続けることは耐え難いほど正義に反する」(袴田事件再審開始)

この表現は一報で聞いて胸にきた。やがて頭にきた。自白が「強要」され、証拠が「捏造」され、挙げ句の果ての48年である。これらはとてつもなく重いではないか。「正義」を踏みにじってきたのはいったい誰なのか? と逆に問いたくなった。

大であれ、小であれ、まったく権力というものはいい気なものだと思う。いまさらこんな表現で正義面をされても困るわけである。


2014年3月29日(土)
 

ここ一ヵ月ほどは鎖骨が痛む。30年来の宿痾のためとわかっているが、秋から冬にかけてはほとんど痛まず、春めいてくると、ときに激痛となる。ここ数年は、何の根拠もないが、気温との相関を否定できない、と思うようになった。痛み自体は長く続くわけではないので、その数分を怺えて、治まるのを待つというありさまになっている。

ウィキペディアによると、

《「ヒトの鎖骨は、胸骨と肩胛骨を連結する事で肩構造を支持し、また各種筋肉の起始基盤として機能する。鎖骨がないといわゆる抱きつく所作(前脚を内側に曲げ保持すること)が困難で鎖骨のない動物は木登りができないことから、早期に草原に進出した動物は長距離移動に適応して鎖骨が退化し、長期間森林に生息した動物には鎖骨が残っているのではないかと考えられている。」》

とあり、すっかり納得した。

さらに、

《「鎖骨」という名称は、古代中国で脱走を防ぐために囚人の体に穴を空けて鎖を通した場所がこの部位であったことに由来する。》

などと物騒な説明もある。これにはぞっとしたが、また、

《ヒトの鎖骨は、人体の中で最も折れ易い骨である。そこで、「肩に横方向から加わる衝撃を吸収するための、クラッシャブルゾーンの役割を果たしているのではないか。」という仮説が提唱されている。》

クラッシャブルゾーンとはわざと折れやすく壊れ易くすることによって本体の大事な部分を守る装置のことらしい。すると痛みがここにとどまるのは何か大きな意味があるような気がしてくる。気温との関係は、依然不明だが。


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