「えらい」と「こわい」の間に


2014年4月2日(水)

一夜明けて、きのう一日何をして過ごしたかを思い出している。

急に思い立ち開館時間に合わせて図書館へ行った。前の晩(未明)に大声で怒鳴り合った同居人の娘を駅まで送った。肉親だから宵越しのケンカは様にならない。むこうもそう心得ているようだが、一度だけふとした拍子に蒸し返すから「まだ言うか、たわけ者」と信長のような台詞を発した。お互いそれっきりで終わった。

夕方になって庭に出てスコップで土を掘り返した。その一角にいずれ夏野菜を植える心づもりである。花もいいか、などと思った。次いで、近くのスーパーへ。まだ陽射しが暖かかったので自転車にした。買い物を終えると風が出てきた。冷たい風だった。たった十数分でこんなにも変わるものかと思う。

夜はテレビにて野球観戦。3時間半を、ときに熱中して観た。

思い返せば、現実感のともなわない一日だった。シャレみたいだが、嘘のような一日、4月1日。

いよいよ読書だと『渡良瀬』『まぼろしの夏 その他』『原稿零枚日記』を机の上に揃えた頃には、抗しがたい眠気が襲ってきた。

それを引き摺っている今日、普通の日常にはやく下りていかねば。


2014年4月4日(木)

日の出が5時25分、その少し前には目が覚め、そろそろと活動をはじめていると、目の前が突如明るくなった。夜来の雨を引き摺っているはずだったのにと、北東に面した窓の障子戸を開けるといきなり陽が差し込んできた。この場所でのこんな直截な陽射しは久々だった。日の出の位置が北寄りに日々移っているのだった。

しばらく障子戸は開けっ放しにして、昨日もしたのにまた洗濯をはじめた。たったいま脱ぎ捨てたパジャマと枕カバーをきれいにしたかったからである。

干す段には太陽は隠れ、ふたたび雨もよいの空になっていた。3年前の夏になくなった義母のことを思った。あんなに豊かだった知恵はどこで育まれたのだろうかと常々不思議だったが、そのカギは家事にあるのではないかと合点した。家事にいそしむと知恵がつく、これは真実ではないだろうか。このぼくにして、洗濯物の干し方が上手になったのだから。


2014年4月5日(土)

俳優の蟹江敬三さんが先月末に亡くなっていたことがゆうべ報じられた。69歳だという。他人事のような気がしないのは、主に身内から顔が似ていると言われることがあったからだ。くぼんだ眼窩や、ほお骨が張りだしているところは、自分でも似ているかなぁ、と思ってきた。

その彼がずっと昔に出ていたミステリードラマはいまだに配偶者などが話題にする。うろ覚えだが、殺人事件の犯人と疑われる彼の役所は、ピー缶(たばこの銘柄ピースが50本入った青い缶)を傍らに置いて売れない小説を書いている文学青年くずれだった。

あなたがモデルじゃないのかと思ってしまう、と配偶者は言うのだった。ぼくもそのドラマを一緒に見ていて気恥ずかしさを覚えた。当時ピー缶を持ち歩いていたし、いまよりもせっせと小説を書いていた、もちろんほとんど売れなかった。

そんなこともあって、何となくファンの心持ちでテレビ越しに見てきた。ご冥福をお祈りします。


2014年4月6日(日)

風の噂に「快勝」と訊いてはいたが、他の一切の情報を遮蔽して野球の中継録画放送(「カープ」 vs 「DeNA」)を見ようと思った。22時30分開始だから、3時間の試合だとすれば終わりは日付が変わる未明ごろである。そこまで起きていられるかどうかが問題だった。

21時過ぎた頃からあちこちチャンネルをいじっていると『大地の子』(NHK 1995年、全7話)にぶち当たり、つい寄り道をする羽目になった。連続放送というやつで、この日は3回分までやっていた。

第1部の途中からみはじめて、第3部が終わったのは23時45分である。陸一心が江月梅と出逢って結婚するまでの場面ではぽろぽろと涙が出てきた。人が人を好きになる機縁を見事に描出していたように思ったからである。月梅の笑顔や泣き顔にはかつてどこかで見た(あるいは見たかった)なつかしさを呼び醒まされた。

ようやっと野球放送に切り替えるとゲームは7回まで進んでいた。マエケンがまだ投げていた。うたた寝もせずその後ゲームセットまで観戦した。結果を知ってはいてもちょっぴりワクワクした。

ヒーローインタビューが行われているころ、もう午前1時を過ぎていたが、仕事仲間との飲み会を終えて娘が帰ってきた。青白い顔で鼻の頭だけが赤く、身体はぶるぶると震えている。電話すれば迎えに行ってやったのに、根性あるな、と思わずねぎらった。この夜真冬に戻ったような寒さのなか、4㎞に及ぶ道のりを自転車をこいできたのだった。


2014年4月7日(月)

アルバイト先に出入りする運送会社に「新人」が入った。まだ20代と思しき大きな男である。ヌーボーとそびえ立っているようにみえるので早速「大仏さん」というあだ名をもらったが、実際の仕事ぶりは風貌以上にテキパキとしている。これは好印象であった。本名は門田と書いて「もんでん」と読むという。

「広島の出身?」ぼくは訊いた。

半ば当てずっぽ、残りは学生時代に出逢った女の子のことを思い出していた。

彼女の名前は「門田美保」だった。ファーストネームはまちがいないが姓が「もんでん」だったかどうかはもう思い出せない。「かどた」でも「もんた」でもなかったから、ひょっとしたら「もんでん」かも知れないと思っただけである。彼女は呉出身だった。小柄で、かわいい顔をしていたが、ポレミックで芯の強いところのある女性(当時の典型)だったから、いまも記憶に残っている。ちょっぴり好きだった。

「福山です」
「じゃぁ、カープ? ぼくはファンだよ」
「野球はあんまし、興味ないっす」

「大仏さん」は答えた。若者のことばだなぁ、となぜか感心した。


2014年4月8日(火)

この日がお釈迦様の誕生日だなんていまどき誰も言わなくなった。

小さな頃は家族そろってお寺さんに詣った。境内に仏像が出され、その前で一杯のあま茶をいただいた。釈尊に見立てた仏像の前でのむあま茶は格別に旨かった。その記憶はいまに残っている。当時は、お茶に砂糖を加えたものかなどとのんきに思っていたが、はるか昔のことになってしまったいまは、そんなことであの甘さが出るわけはないと信じるようになった。

坂戸の永源寺では5月5日に「釈尊降誕祭」通称「花祭り」が行われる。ここでは「あま茶」は飲むのではなく御仏の像にかけるそうである。その方が一般的と言われているが、田舎ではなぜ、お詣りする人たちに振る舞ったのだろう。同時にそんな疑問も湧いてきた。

33年ほど前にその花祭りに行き逢って露店でつるバラの苗を買った。以来2回の引っ越しを経ていまも2ヵ所に植わっている。なお健在、と言いたいが挿し木が根付いたほうがどうも怪しい。いつもなら出てくる新芽が出ていないのである。

この冬の寒さにやられたか。希望はまだ捨てていないが、どうか御仏のご加護を、と呟かざるを得ない。


2014年4月10日(木)

『渡良瀬』に「和田芳恵の墓」を訪ねるシーンが出てきた。『暗い流れ』は読んでいないが『一葉の日記』は文庫で読んだ。ごく最近では川端康成文学賞を受けた「雪女」を読んでいる。

古河市にあるというその墓を「文学者掃苔録図書館」はどんな風に記述しているか気になって覗いて見た。生前に「寂」と自ら揮毫した石碑の写真の下に「接木の台」の一節が引用され、その下に管理人によるコメントが続く。勘所を押さえたいい文章だと思う。

未知のHP管理人に宛てて「御礼」のメールを送るとほどなくして返事が届いた。そこにはこう書かれていた。

《 誰かの何かを聞きたいのです。/細々とつづけてきて早19年になろうとしていますが、「文学者掃苔録」がここまでこられたのも誰かがいつも声を掛けてくださったからだと思って感謝しております。お心やすめの時、また、お訪ねいただければ幸いと存じます。/大塚英良》

19年か。この営為は尊いと思った。無償の愛にかぎりなく近い。


2014年4月11日(金)

通勤の往き来に、満開の菜の花畑を何度か目にして戻ってみると食卓に菜の花のおひたしが出ていた。ちょっと苦みがあって舌にとろりとなじむ。二日続きで肌寒い夜だったが、黄色い花弁の乱舞がまぶたに浮かんできた。春まっ盛りの感覚は上々だ。


2014年4月15日(火)

佐伯一麦さんの『渡良瀬』(岩波書店)には熟練配電盤工の「一本張り」というのが出てくる。それがどういう技術なのか本当のところはわからないが、美しい幾何模様のようであることから「人生は一筆書きのごとし」と敷衍されるとついに納得してしまった。つまり、おおいに考えさせられたということでもあった。

読了後、前後の文脈をもう一度確かめたくて該当個所を探していた。そんな表現があったのかどうか不安になりつつも、何度もページを捲った。なかなか見つからず、そのうち探すのを諦めた。

この小説は昭和最後の秋から平成に変わる翌年の3月までの、妻と3人の子供を抱えた28歳の主人公の日常が活写されている。時の流れはたった半年間なのに人生を大きく包み込むような惻々とした感動を呼び醒まされる。人への優しい思いに溢れていて、あたたかい気持ちにもなれる。

20年ほど前雑誌『海燕』に連載中も欠かさず読んでいたが、時を隔てて完結したものを読むことができるよろこびは、なつかしさ以上の感慨をもたらしてくれた。すると、「一筆書きのごとし」というのは作品の底を流れる主題として見えてきたのだった。



辻原登『冬の旅』で濫觴(らんしょう)という言葉にはじめて触れた。調べると、

《揚子江のような大河も源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないという「荀子」子道にみえる孔子の言葉から》物事の起こり。始まり。起源。「私(わたくし)小説の―と目される作品」(大辞林)

と説明されていた。さかずきをうかべるほどの細流、とはまたまたすごい比喩だ。



通院日。血液検査で何度か「貧血」(Fb値が基準値をわずかに下回る)を指摘されておこなう羽目になった便検の結果を聞くことも目的だった。大腸とか膵臓とかに腫瘍がないかどうかを調べてもらったわけだが、こちらは陰性、血液の腫瘍マーカーとやらもセーフだった。ホッとした。今回50日分の薬を処方してもらい、しばらく病院に行かなくて済むのも嬉しいと思うが、薬局で1時間以上も待たされたのにはまいった。


2014年4月18日(金)


auの迷惑メールフィルターに引っかかったメールの標題は「ヘリコプター搭乗初体験」。差出人は学生時代からの友人である。

なぜ今回フィルターに引っかかったのかわからない(迷惑メールかどうかの判定はauにお任せ。したがって、こういうときのためにその都度お知らせがやってくる。あわててログインして当該メールを「救出」した(放っておくと14日経つと自動的に削除される)。

メールを読んでビックリした。六甲山にひとりで登り下山中に道を見失いやむを得ず救助を要請、神戸市消防局航空機動隊「救難ヘリ」に助けられたというのである。迫真の文章なので本人には無断だが抜粋しておく。事後承諾でいいだろう。まず、なぜ遭難状態となったかについての件りは、

《初めてのコースを経験したく六甲下山に向かい解説書の「林道出合い」をアテにしたが肝心の「林道出合い」がなく、真っ黒で巨大な壁のコンクリート堰堤底地に出くわした。地図では川の左岸上方にコースの赤い実線あり、それに至らんと沢を越えて登りだしたが踏跡も林道も何もない。暗い森が続くのみ。やむなくまた沢へ下り元の細道を捜したが見失う。尾根伝いにひたすら登ったが最期は全面に巨岩、左右は深い谷となり一人で登ったり下りたりすること共に不能。新たな脱出口を探す気力が失せた。/16時頃、落日が目前と考え早々と諦め、覚悟して救助依頼のTEL発信を開始した次第。》

次に「危機管理センター」からのいくつかの指示(現在位置から移動してはならない、ヘリの姿が見えたら両腕を上に挙げて「Y字型」を取る、「鏡」があればヘリに向けて反射させ合図して、など)があり、30分後に「ヘリの爆音が表六甲方向から聞こえだした」という。

以下が救出劇の顛末である。少し長いが引用すると、

《「今あなたの姿をヘリが視認しました。救助隊員が降下します。その位置を動かないこと」
その場所は周囲が樹高20メータの松や広葉樹でそれらの枝が上空を塞いでおり、ロープ・ホイスト装置での降下不能。降下隊員は距離100メータ下方の上空に障害物のない涸沢にロープで降下、小生の位置まであえぎながら登ってきた。柿色のツナギにヘルメット・その他で重装備の若い隊員が2名。ヘルメットに「神戸市消防局航空救命士」の文字あり。距離100メータ下った涸沢で小生を吊り上げ準備、ヘリが上空50メータでホバーリング。強風で土、枯葉が舞い上がった。隊員1名が小生を補助して上昇、ヘリ内部へ引きずり込まれた。この間、約30分。ヘリ内部の振動は激しい。追ってもう1名が吊り上げられ「記念碑台広場」着陸。消防車・救急車が待機していた。隊員たちが駆け寄り、恥かしかったよ。野次馬はいなかった。》

と綴っている。

4時間半後、無事自宅に着いて、早速神戸市消防本部へ「反省・お詫び・お礼」状を書いたという。次の日の続報のメールでは朝刊の新聞記事「県内の山岳遭難者過去最悪にー 25年137人死者11人ー目立つ中高年」を紹介していた。「六甲山系の遭難が65人で最多」らしい。六甲と言えば「裏庭」という感覚があるが侮れないものであるのだ。

ともあれ、無事で何よりとホッと胸をなで下ろす。


2014年4月19日(土)

午後4時頃、洗面所の鏡で自分の顔を見るととても赤い。さっき食べたパンの中にアルコールが入っていたのではと一瞬思いを巡らせるがそんなことがあろうはずがない。前にも久しぶりに逢った友人から「ずいぶん赤いね」と指摘された。好調カープに肖って赤くなるのだ、といっそしゃれのめしてみたいところだが、このときばかりは少し気になった。「赤は心臓」と漢方では言うらしいのだ。

帰宅後「顔、赤くなったと思わないか」と配偶者に訊ねると「別に」という返事。あまりの素っ気なさを反省するかのように、

「ほっぺの赤い子が昔はいっぱいいたでしょ? 冬は北風、夏は南風の洗礼をそれぞれに受けて赤くなった。それは健康の証しだったように思うわ。それじゃないの?」

「そうか、今夜は肌寒いが、いまや春真っ最中。紅顔の美少年、という言い回しもあるからな。天草四郎時貞、なんてサイコーかもな」

配偶者は苦笑するのみでもう何も言わなかった。降圧のために飲んでいる薬の効能書きを取り出してみると、そこには副作用の第1番目に「顔が赤くなる」と書いてあった。これだ、と確信するが、もしそうならばどうすればいいのだろう。顔が赤くなることは服用を中止しなければならないほどの「重大な副作用」だろうか。間接的に心臓を労るはずの薬が「心臓の赤」を出すというのも変である。

こんどお医者さんに聞いてみよう。次の診察日まで覚えていれば、であるが。


2014年4月20日(日)

朝になるときまって自身に呟く、今日は何曜日? すぐに気付いて、車は空いているか、仕事は忙しいだろうか、などと思案している。今朝などはこのおきまりのパターンに嫌気が差した。日曜日、冬の朝のような寒さであることに驚かされたことも一因か。前後何日かは雨もよいである(らしい)が、これだと「穀雨」も真っ青である。


2014年4月21日(月)

草野球をしていた。ピッチャーだった。ホームベースもはっきりとは見えない薄暮のようであった。夏みかんの皮を投げていた。びしびしときまっていくと思った。

バッターボックスに選手が立ったので「ボール」交換を要求した。中身の方を、と言った。皮の下のワタがところどころ残っているが綺麗に剥けていた。ほぼ完璧な球形である。大きく振りかぶって投げた。

ミカン球はあらぬ方に飛んで立ち上がったキャッチャーも捕れない。2球目、3球目もホームベースを大きく逸れた。ひとつもストライクが入らないままに降板というシナリオが頭に浮かんだ。そうなればこの試合には二度と出られない。焦ったが、4球目を投げる前後に目が覚めた。その後はわからない。

締まらない夢である。キャッチャーやバッターは本当にいたのか。ひとり相撲(野球?)ではないか。夏みかんと言えばソフトボールほどの大きさ、しかも、なぜ皮をむいた夏みかんだったのだろうか。醒めたあとの思いには救いはあるが。


2014年4月24日(木)

川越アトレへ。といってもお抱え運転手としてである。配偶者が買い物している間は6Fのイケダ書店で立ち読みと決め込んだ。前に来たとき(2、3年も経つような気がする)にくらべると、この本屋さんもそうだが他のすべての店の雰囲気が随分と変わっていた。高校生も含めて若い女性客が多い。

ただ、売り場面積も狭くなって、時間のせいか閑散としている本屋さんでは品の良いおばあさんふたりと行き逢った。ひとりは腰が曲がっていて、通りすがりにPOP広告を倒していった。

よくみればそれは村上春樹の新刊『女のいない男たち』の宣伝だった。その短編集には「中頓別町では云々」でいっとき騒然となった「ドライブ・マイ・カー」も入っている。実はこの作品をきのう初出誌(『文藝春秋』2013年12月号)で読んだばかりだった。

その町出身の「専属(お抱え)運転手」の若い女性が窓から「火のついた煙草をそのまま窓の外に弾いて」捨てるのは東京の路上である。その行為を傍観して「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなんだろう」と主人公の「性格俳優」は呟くのである。

話題になったときは「そんなことに目くじらを立てるなんて」と思っていたが読んでみると主題とはまったく関わりのないひと言、つまり政治家ならぬ「作家」の「失言」のように思えた。

単行本では改編されている、と聞いたが立ち読みで確かめることはしなかった。わが雇い主が呼びに来るまで長谷川郁夫の本に熱中していたからだ。


2014年4月25日(金)

図書館で借りた3冊の本のひとつには中ほどに異物が挟まっていた。なんの染みだろうと指先ではじいてみると動いたのである。仔細に見れば散髪のあとに散らばる3㎜から5㎜程度の髪の切りクズとわかった。そのあと何ページにもわたって髪の毛の破片が挟まっていた。あまり気持ちいいものではない。ページを捲る気力も萎えていった。『戦国時代の業師列伝』などという本だったが、安国寺恵瓊、前田慶次だけで読むのをやめた。腹は立ったが、次に読む人のことを考えて美しく読まなければいけない、という教訓を得た。

その図書館から電話があった。「この前返された本に、かわいい目をした豹の付いた革製のしおりが挟まっていたのですが、あなたのものですか」というのである。Eight からもらった大事なしおりをつけたまま返してしまったのであった。「保管しておきます。こんどいらしたときにカウンターでいってください」何度もお礼を述べる仕儀となった。ちなみに栞の飾りは豹ではなく、キャッツである。


2014年4月26日(土)

朝からからだがふわふわとして、起居定まらぬ感じだった。寝不足特有の現象と自己診断しているが、いつもは“労働”しているうちに地に足が着いてくる。

とうに元に戻っていた帰り道、あういうときなんと表現すればいいのだろう、という疑問にぶつかった。小さい頃母は「えらい、えらい」とよく言っていた。その頃は「からだがいうことを利かない」なんてことはなかったせいだろうが、それ以降もそのことばを使った覚えはない。

「つかれた」とか「しんどい」とかでは微妙なところが言い表せない。「えらい」なら少しは近いかといまなら思うが、50年ぶりとなると使うのがためらわれる。気恥ずかしいのである。北海道出身の配偶者は起き抜けなどに両腕をうえにいっぱい伸ばして「こわい、こわい」と叫ぶことがよくある。

ひとのことばはしっくりくるのに、自分のことばがない。これは生来の性癖かも知れない。


2014年4月28日(月)

庭先のモッコウバラが次々と花を開いている。黄色の、八重咲きである。咲くほどに伸びきった枝はしなって、地面に触れるばかりとなる。

毎年の秋、花が終わったあと枝先が縦横に伸びていく。もったいないと思いながらもつい剪定していた。次の春に咲く小振りで可憐なこの花には無体な仕打ちであったろうか。

モッコウは予想通り「木香」と当てられるようだ。もうひとつの楽しみ、軒先のつるバラは、いまだ芽が出てこない。心配である。



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